旧長野隧道(大山田村側-1)


■調査 Experimet

 報告者が初めて長野隧道を訪れた時は東側から登っている.今回は西側の伊賀上野駅を発し,市街を通って大山田村へ向かう国道163号に乗った.駅前に真っ直ぐ伸びる道がそれだが,馬鹿正直に辿ると上野城跡の台地にあがってまた下ることになる.市街観光を目的としなければ東側に迂回していった方が良いかも知れない.ただし前記のルートなら,伊賀街道のランドマークであった「車坂」を通ることができる.伊勢方面から来た道が上野城下に入るための,最後の一登りである.
 峠への残りの行程は大山田村下阿波の辺りまでほぼフラット.たいへん快適である.大山田村役場のある盆地,川北の集落,そして下阿波と,大小の盆地をするするとつないで行く.下阿波に入ってからは集落内に坂が現れるようになって,子延の「さるびのの森」への分岐の向こう,坂の両脇にひしめくひとかたまりの民家を抜ければ,あとは峠まで,杉の林に囲まれた静かな静かな山あい道である.

 峰越えの長野峠は,松尾芭蕉が「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげなり」の句を詠んだことで重み付けされることが多い.「奥のほそ道」の行脚を終えた芭蕉翁が故郷へ戻る時にこの峠を越え,山中で冒頭の句を詠んだとされる.のちに句集の発句として使われ,そこから「猿蓑」という名前が生まれたことも,また周知のことであろう.伊賀越への分岐を少しく過ぎた所に,芭蕉を慕う江戸期の俳人が建てたという「猿蓑塚」もある.昭和の終わり頃に建てられた真新しい碑ばかり目立つが,その後ろにある自然岩がいわゆる猿蓑塚だ.


 

 

 この猿蓑塚からさらに500m程登ったところで,現国道は旧道と分離する.「従是旧長野峠道」と彫られた石柱が旧道倶樂部を誘うが,ここは取り敢えず,現長野隧道まで登ろう.旧道だけを目標としていると,思わぬ見落としがあるものである.

 

 


 

 例えばこの峠のように,現峠の脇に小さな駐車スペース(ふもとの看板によれば「上阿波休憩所」)が設けられ,1つの石碑が建っていたりする.旧道に置かれていた金石が新道建設に伴って移されることがしばしばあるのだ.「道路開鑿紀念碑」と彫られたそれは旧隧道の完成記念碑であり,「明治十六年十一月十日起工 明治十八年六月十五日竣工」,そして若干名の顕彰者の名前を,この石碑は教えてくれる.建之は明治20年という.
 とは言い乍ら,ここにあるのはそればかりで,碑が指し示す隧道がどこにあるのかは解らない仕掛けになっている.旧隧道が現存することを知らなければ,碑文と目の前の国道トンネルから,旧隧道を拡幅したものが現長野隧道であるかのような早とちりを生じかねない.かつての報告者のように.


 旧道探索に入る.隧道の完成は明治18年だから,道が跡方もなく消失してしまっていることは考えにくい.ある程度の道巾を残しつつ廃道化しているという姿までが許容範囲であろう.碑の裏側には浅広の谷が伸びていて,そこへ向かう踏み分け道があったりなどするが,これは上記の理由から候補より除外される.この駐車スペースの下方20mほどのところに分岐があったが,左手の山の斜面を急角度で登って行く地道で,まことに作業林道ライクな道であった.明治期の道ならもっと緩くて然るべきであると一度は除外したが,候補として再浮上させなければならない.

 周囲の山を見上げてみる.谷底から斜面を見上げて道を発見するのはかなり難しいが,杉や桧の林のように見通しのきく斜面では道を発見できる場合がある.単純な斜面ならば,杉の植えられている間隔が上に向かって等差級列的であるが,道が存在するとその秩序が破れる.また杉の根が見えている所と見えていない所とがあれば,その間に道が挟間っている可能性が高い.ただし,杉山によっては山の斜面を棚田状に均して(時には石垣を設けて)そこに植えることもあり,その棚と道とを見紛うことがある.
 今回は谷の右岸に杉林の不整合があるのを発見でき,横一直線に伸びていることも確認できたため,道の可能性が非常に高い.先程の分岐とも符合するため,調査の価値ありと判断して突入する.初めの急勾配を登り切れば,意外に巾広で,ゆるやかにトラバースしていく地道.どうやら正解のようだ.


 だがそれは,現隧道の真上に来たあたりで消えてしまう.車道巾の先にあるのは簡易人道橋が2本.どちらも砂防ダムを越えるために付けられたものらしい.その人道橋を目線で追えば,現隧道の真上にあたる小尾根に,小さな鳥居と祠が見える.道らしきものはそこまでである.

 

 

 

 とりあえず,人道を渡って祠に接近しよう.として,ふっと視線をダムに向けた時.


 

 

 



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