行政:大分県豊後竹田市標高:190m
|1/25000地形図:竹田(大分11号‐4)調査:2005年5月


■背景 Background

 久戸谷隧道は,竹田に残る明治期の隧道のなかで最も古く,竣工は明治7年頃とされている.また当時の姿をよく留めており,随所に残る掘削工事の痕跡を一つひとつたどっていくと,非常に興味深い.それぞれ個々に説明しないと解りづらいと思われるので,本報告書では,調査と考察を同時に進めることにしよう.

■調査・考察 Experiment & Discussion

 久戸谷は竹田市街の東端.検察庁と裁判所に挟まれた通りを南に向かえば,狭く細長い谷が南に向かって伸びている.両脇に民家が並ぶ緩やかな坂をゆるゆると登っていくと,すぐにそそり立つ”壁”にぶつかる.竹田市街を取り巻く山の一つだ.与謝野晶子は竹田市を「フライパンの底のよう」と評したそうだが,その例えに倣うなら,そんなフライパンの縁を貫く穴の一つが久戸谷隧道といえる.

 

 

 

 

 現在の車道は,旧隧道から10mほど低いところを抜けている.コンクリート巻のこの隧道は昭和48年竣工であるが,実は明治20年に作られた馬車道隧道を改修して広げたもの.だから実際は,久戸谷隧道が幹線として利用されていたのはわずか10数年くらいだったことになる.但し新隧道が完成した後も,隧道南側の字上角の人々によって盛んに利用されていたようである.

いったん抜けて,南側から旧隧道に向かう.トンネルを抜けてすぐ,左手に上がっていく舗装道.急傾斜のそれを登れば,ぐるっと回って車道トンネルの上に出る.旧隧道はこのトンネルのほぼ真上にある.

 民家の物置小屋の脇を入れば,竹藪に包まれた旧久戸谷隧道.向かって左上に凸部がある,ちょっと不可思議な形状をした坑口である.


 資料によれば,左上の凸は導坑跡であるという.念のために付記すると,導坑は隧道掘削にあたって最初に掘られる小さなトンネル.それを切り広げて所定の大きさにする訳である.久戸谷隧道の本坑は導坑の左壁に接する形で,掘り下げ気味に広げられていった格好だ.こちら側の坑口は竹田市街の側よりも高い位置にあり,そのため導坑跡も竹田側へ傾斜する形になっている.ただ余りにも傾け過ぎたため,勾配を緩和する目的でーーー見た目の奇妙さなど度外視してーーー低い位置に本坑が作られたと見える.横幅は2m前後しかなく,馬車が通れなかったことも,短期間に第二の隧道が穿たれた理由だろう.

 では,中に入ってみよう.


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