旧道倶樂部活動報告書・久戸谷隧道

久戸谷隧道(内部)


 最初に気づくのは,入り口から5mほどの所に「水場」が設えられていることだ.左側の壁に50cmくらいの凹みがあり,さらにそれを掘り下げて,水が溜められている.掬って飲みたくなるほどに透き通った水だ.ちょうどこの辺りで地質が変化し隧道壁に亀裂が入っているため,水が染みてくるらしい.それをうまく利用したもののようである.峠道にある水場ほど有り難く印象に残るものだが,ここのように,隧道内に水場がある所など,もちろん初めてだ.

 

 

 

 導坑跡は奥にゆくにつれて下がっていき,10mほどで本坑天井と同じ高さになる.その傾斜をさらに奥まで伸ばしていくと,延長線が床につく辺りに導坑の切り羽───掘削の最前線の面を切り羽という───が残っている.写真では見づらいが,坑口の天井で見たのと同じ幅,同じ高さの四角い平面に,そこだけ細かなノミ跡が残っている.
 さらに,この切り羽跡の対角線上,右手側壁の天井にも,同様の切り羽跡が残っている.これは市街側から掘削した導坑のものだ.面白いことにこの切り羽は,終端から50cmほどの間が(竹田市街から見て)右手へくくっと曲がっている.それはまるで,上角側から掘る鑿の音に気づいて,慌てて方向修正しようとしたかのよう.恐らく導坑の貫通は,竹田側から見て右下隅,もしくは上角から見て右上隅であっただろう.ただ両方の切り羽は隧道方向に数mほど行き違っており,切り羽同士で貫通したのではなく,導坑の天井か床かにぶかって,ようやく貫通したものと思える.

 普通なら導坑の切り羽が「残る」ことなどあり得ないのだが,上下左右に大きく行き違ってしまったうえ,前後にも行き違ってしまったために,偶然削り残されたのだ.この2つの切り羽がある近辺は,ここだけが異様に広くなっている.  


 この貫通点を過ぎると,道は下り勾配の度合いを深める.そして突如として現れるコンクリート巻.つい近年に補修されたものだ.これについては別に考察の項で述べたい.このコンクリ巻きから来た方角を振り返ると,さきほどの天井の切り羽が正面に見える(ランタンを置いている真上).


 コンクリ巻を抜けると,坑道壁はいつの間にか礫岩の壁になっている.天井も手が届く高さとなって,その天井や側壁には円筒形の掘削跡がそこかしこに残っている.これは長鑿と呼ばれる道具で掘った跡.長鑿で岩盤に穴を開け,そこに火薬を詰めて発破したのである.報告者は実物の長鑿を見たことはないが,医療用の長ノミというのがあるそうで,その画像から推測するに中空になった千枚通しの巨大版といった感じのもののようだ.長鑿の跡は1本30〜50cmにも渡り,相当に大きな道具であったことは疑われない.それにしても長鑿の切れ味は凄まじい.含まれている礫をものともせず,まるでスイカにストローを突き刺したかのように,スッパリとくり抜かれている.
 なお,資料によると県下の隧道工事で火薬の使用が認められるのはこの久戸谷隧道が最古だという.火薬といっても当時はいわゆる黒色火薬のような弱いものしかなかったから,爆破するというより,表面を薄くはがしていくような感じだったに違いない.

 無数に残る長鑿跡は,いずれも竹田市街側を向いている.何でもないことのようだが,実に理に叶っている.人間は,上に向かって掘ったり槌を振るったりするのは困難なもの.勾配の高い側から低い側に向けて掘れば,天井の切り広げをするにも,水平に近い角度に打ち込めば済むことになる.そうして発破し,落とした岩屑は,竹田市側へひきずり下ろせばいい.
 一方,斜め下に向かって掘っていった上角側の導坑は,大変な作業であったと思われる.切り羽からの石屑を,重力に逆らって上まで運び上げねばならなかったはずだからである.坑口から切り羽までの距離を比べると明らかに上角側のほうが短く,もし───報告者の推測通り───両側から同時に掘削を開始したのだとしたら,この導坑跡の長さの違いはそれだけ上角側が困難だったことの証左になるだろう.  

 竹田市街に近づくにつれ,天井はややアーチ型になってくる.天井の中央には浅い凹みがあって,これが市街側の導坑の跡のようだ(特に坑口付近はそれが顕著である).この跡を上角側へ伸ばしていけば,さきほどのコンクリート巻を通して切り羽跡まで直線が引ける.導坑そのものはかなりの精度で真直ぐ穿たれていたようだ.



 引き返して,改めて竹田側の坑口を探す.坑口は現トンネルの右手上,ほとんど接するかのような位置にあった.隧道前は小さな広場になっており,広場の端には何かの神様も祭られている.


→Next(作成中)

レンコン町・竹田を行く

総覧へ戻る