レンコン町・竹田を行く

■背景 Background

 私の生まれ育った大分県は,実はトンネルの国だったことを,つい最近になって知った.「日本土木史・大正〜昭和15年編」に,昭和11年3月時点での各都道府県の道路トンネル箇所数が記されている.府県道に165,町村道に106,計271という数字は,二位の千葉県(250)を抜いて全国一の数である.

 そんな大分県のなかでも特に,トンネルの多い町として知られるのが豊後竹田市だ.30万年前から9万年前にかけて4度噴火した阿蘇山の熔岩と火山灰の堆積地層,そしてそれらが川によって侵食されてできた,山と谷と川しかない町.ほぼ唯一の平地と言っても過言ではない竹田市中心街へは,東西南北いずれの方角からもトンネルをくぐらなければ到達できない.実際にこの地を訪れてみれば,「竹田の四十八谷」「蓮根町竹田」という言葉が単なる揶揄ではないことを知るだろう.

 豊後竹田市の前身である岡藩は,文禄2年(1593),中川秀成が播磨国三木から移封されて成立した.稲葉川と白滝川に挟まれた天然の要害に岡城を築き,そこからやや西に離れて城下町竹田が作られている.藩はこの地形を最大限に生かすため,商業地を竹田城下に絞り込んだうえ,道のための貫堀(トンネル)を作ることを禁じていた───灌漑用水路には数多くの貫堀があり,その技術の蓄積があったにも関わらず───.それが明治になって禁が解かれると,堰を切ったように次々と道路隧道が作られた.その多くは,長い間峠越えを強いられてきた町の人々による,自発的なものであったという.

 竹田市には今も数多くの隧道が残る.多くは改修を受けて当時の姿を留めていないが,手つかずのものもないわけではない.また,いつ作られたかも不明な名も無き隧道も,数多く埋もれている.本報告書ではそういった旧隧道を中心に報告していく予定である.但し,更新頻度はこれまで以上に低くなるはず.

久戸谷隧道
明治7年〜20年頃竣工/人道
片ヶ瀬隧道
明治12年竣工/人道
小田無第三隧道(柄々のトンネル)
明治20年以降/人・馬車道


 

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