■調査 Experiment

 国道42号と滝原へ向かう道の分岐.何気ない枝分かれだが,実は後者がかつての幹線道であったりする.昭和39年に水越トンネルが完成するまではここを直進して井関,下津木を抜け,鹿瀬洞を通って日高町に至るルート(今日の和歌山県道21号〜176号)が国道であり近代初期の熊野街道だった.鹿瀬洞の完成は明治38年.さらにそれ以前はどうだったかというと,水越峠を越えて由良に出,由良洞隧道を経由するものだった.由良洞は県道を由良に誘致する目的で建設され,実際その任を果たしたわけだが,明治22年に完成してから鹿瀬洞が完成するまでのごくわずかな期間だけの栄華だったようだ.ちなみに熊野古道として知られる道はちょうど両者の中間点にある鹿瀬峠(大峠とも呼ばれる).石畳道も残るという古風ゆかしい峠道なる由.この区間は現代に至るまでに都合3度の変遷をしているわけだ.

 右手を流れているのは町の名前の由来でもある広川.いまの県道は最初の集落・井関をバイパスして広川の右岸伝いに走ってゆく.すぐに湯浅御坊道路の高架を潜る.振り返れば山の斜面を斜め一直線に横切っていく現国道.途切れることなく車が登って行くのを第三者視点で傍観する.自転車では決して登りたくない道だ.
 井関以降はしばらく民家らしい民家を見ることができなくなり,かわりに対岸に小さな民家がぽつぽつと点在するようになる.古い道は恐らく井関の先ですぐに広川を渡っていたのだろう.他に見どころもなく,使い古されたアスファルトのラインにただ案内されて,新在家,塚野原と小集落を渡ってゆく.何度も橋で川渡りする,直線的な道型である.

 おっと,いけない,一つだけ旧街道の残り香があったのだった.新在家〜塚野原間の右岸の道が旧道だ.ちょうど2つの集落の中央あたりにお不動様が立っていた.今でも参る方がいるらしく,新しい花が供えられていたのが印象に残っている.道はアスファルト敷きの車道とはいえ草に覆われつつあって,この不動様のためだけに存続しているかのような態だった.

 次にさしかかる木津で,近代の熊野街道は右に折れて行く.木津は谷の出合にできた猫の額ほどの広さの平地.しかし小学校もあれば郵便局もあり−−−簡易とつくものの立派な一戸建ての局舎だ−−−,集落内にはひっそり旧橋も残されていたりする.難所の麓の集落として賑わった時期があるのだろう.県道の通りに面した家はことごとくガラスの引き戸で,かつては商店街みたような活気のあるものだったのではないかと想像されたが,それも全く生気を失って,時経るに任せてうらぶれている.通り過ぎるだけの旅人の目にも寂しく映る光景である.

 滝原へ向かう道は小学校の前を通っていく.集落の外れから道はどんどん山の上へ.人工物が一切無い谷.遠くに見えていた対岸が今いる側の斜面と合わさった地点に瀧原洞.光景は単調だがちょっとした秘境気分を味わえた.


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