杤原隧道(考察・参考文献)
■考察 Discussion
杤原隧道のすぐそばには,明治14年竣工の津坂隧道がある.杤原隧道はその約30年後,標高を下げた川沿いに作られた.猪名川町教育委員会の方にいただいた資料によれば,単に交通の便が求められたからというだけではなく,軍事道路としての意味合いもあったようである.
隧道が建設された明治末期は,1905年の日露戦争(明治38年)による混乱が一息つき,さらなる軍備拡張を図っていた時期だ.その計画の一環として明治40年,大阪歩兵第八連隊のなかに歩兵第七〇連隊が編成され,翌年には連隊の駐屯地が篠山に新築された.将兵約1000人が移り,ここに軍都・篠山が誕生する.猪名川沿いの道は,大阪の本部隊と篠山の駐屯地を最短距離で結ぶ路線として整備され,そして杤原隧道が作られたのだった.恐らく古坂峠・西峠もこの時期に改修を受けているのだろう.後に大正9年,旧道路法によって路線は県道85号・篠山伊丹線に指定されている.昭和11年には篠山から尼崎に向かう県道3号になり,今日の12号・川西篠山線に至っている. これまで何度も使ってきたように,隧道は「あかまんぷ」と愛称された.すでにあった津坂隧道が素掘りの薄暗いトンネルであった───ために「暗(くろ)まんぷ」と呼ばれた───のに対し,杤原隧道は煉瓦積みの近代的なトンネルであったので「明(あか)まんぷ」と呼ばれたという.当時の地形図を見ても正しく東西を向いているし,冒頭に引用した写真から察しても,さぞかし明るいトンネルであったはずである.
その「あかまんぷ」が役目を終え,土の中に埋められたのは,今から20〜30年前のことという.現在の切通しができて不要になり,土を詰めて塞いだと,近くに住む方に伺った.痛んでいて使えなくなったという訳ではないらしい.「あかまんぷ」という愛称はもちろん,万世大路の苅安隧道のように取り壊したりせず,その横を切り通しにしたという所にも,隧道への愛着具合いが感じられるというものではないか. 記憶せよ諸氏,そして,記録せよインターネット.猪名川町の片隅に,明治の煉瓦隧道の埋もれて在りしことを.
■参考文献 References
■謝辞 Acknowledgement 資料を提供下さった猪名川町教育委員会の方に感謝.確かにありました. |
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