浦代隧道(多久市〜隧道)


■調査 Experiment

 先に畑野浦隧道を訪れていた報告者は,南の蒲江町の側から米水津村入りした.国道388号の畑野浦トンネルへの登りの途中から,近年できた尾浦トンネル・天水トンネルを抜けて向かう.ふるさと林道の一環であるこの道は,鋭く尖ったリアス式の崎の中腹をぐんぐんと登ってゆく道で,入り江の町並みと湾に浮かぶ小島,かなたにかすむ対岸の半島の眺めを楽しむことができる.車のことしか考慮されていない急勾配には閉口したが,こうやってよそ見をしながら登れるのは自転車の特権といっていい.空の公園と名付けられた休憩スペースのあるピークを過ぎれば,米水津湾が一望の下.そうしてこの展望が,米水津村の全てである.

 浦代隧道への登りは,対岸に見えている浦代浦から始まる.小さな漁村集落をいくつもつないで浦代浦へ.海でない側は急角度で立ち上がる山.そちらへ向かう平坦な道は100mほどで終わり,残りは畳々たる山道である.

 鶴見町への分岐─昭和56年竣工の鶴御崎トンネル─を過ぎたところに小さな橋.昭和38年10月成という米水津橋だ.以前はこの左手に橋がかかっていたらしく,コンクリートの橋脚とそれに続く旧道も残っていた.隧道の竣工が明治の頃だから,架かっていた橋もその頃のものだったろう.

 地形図によるとこの辺りから旧道が始まるはずだったが.それらしい道が見付からず.一旦トンネルを越えて佐伯側からのアプローチに切替える.右手に真新しいコンクリート法面を見ながら登ること500mほどで浦代トンネル.昭和42年2月竣工の,至ってそっけないコンクリートトンネルである.それでもふるさと林道が完成するまで,米水津村への道はこれしかなかったのだから侮るわけにはいかない.米水津の人々にとって,これほど重要なトンネルはなかったはずである(無論,それ以前には浦代隧道がその役を担っていた訳だが).

 佐伯市側に出て,2つ目のカーブの辺りに道を見つける.軽トラックが一台入れば窒息してしまいそうな,小さな小さな切り通しで分岐している.その奥に続く道も1車線幅がせいぜいで,草木の覆った姿からは車の往来があったことなど微塵も感じられない.

 谷の奥で折り返したところから,ようやく車道らしくなってくる.この幅なら車もすれ違えるだろう.海に近く標高が低いせいだろうか,1月だというのに辺りの木々が青々としていたのが印象深い.海辺の冬は意外に精気に満ちていることを,この峠道は教えてくれた.

 ところが,斜面をトラバースしていく道はその次の谷奥で潰えていた.谷を渡る小さな橋が崩れ落ち,ただのコンクリート塊となり果てていたのだ.これを乗り越えると,次の谷は杉林.薄暗くなった風景の奥で,軽く左に曲がれば浦代隧道に到着する.

 

 

 

 

 隧道は意外に大きく,横幅・高さともに5m近くある.扁額はなく,笠石とアーチ環だけの質素なポータル.米水津村に初めて車を導いた功績も,浦代トンネルができるまでに経験したであろうさまざまなエピソードも語ってはくれない.無口なものである.

 

 

 

 

 アーチに用いられている石は凝灰岩.迫石の鋭く研がれたエッジは今日でも健在だ.一方で縁以外の表面はノミ跡をわざと残してある.この石を見て感じた「懐かしさ」は,いったい何だろう.このような仕上げの石を,幼い頃にどこかで見たような気がする.神社の石段だったか,校庭の垣根であったか.

 隧道の前にはお地蔵様と大山祇尊を奉る祠.後者には「奉納 明治四十三年十月竣工」とあり,隧道完成に合わせて奉られたことがわかる.山の神を奉る海の民,という構図を思ってちょっと面白かったが,海山が一体となったリアス式海岸のここらでは,至極当然のことなのかも知れない.



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