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来満峠 (らいまんとうげ)

【標高】610m?
【行政】秋田県鹿角市〜青森県三戸郡田子町
【経緯度】北緯:40°14′17″/東経:140°58′00″ (?)
【水系】米代川水系安久谷川〜馬淵川水系
【二万五千図】四角岳:NK-54-24-3-2 弘前3号-2
【五万図】花輪:NK-54-24-3 弘前3号
【ツーリングマップル】東北 P92 1-F(1-G?)・N

 分水嶺ノート、TM、地形図には載っていないが、地名索引と全日本道路地図には載っている。豊中図書館のえらい古い地名事典(実は有名な吉田東伍の地名辞典)にこんな記述があった。

『今、大湯村不老倉の東半里を頂界とし、陸奥三戸郡三戸駅を去る十里。八戸糠部と、能代比内との交通は、専之に由る、標高六百三十米突。
北奥道中記、来満は、三戸領関村より二里二十丁にして、山中宿に至る、其間、毛文字を鹿角郡の堺とす。山中宿は、只一軒家にて、往来の助として、官より建置かる、此より柴峠、明神峠等を経て、三百六十丁にして大湯場なり。峠の北に来満岳あり(標高九百六十米突)。南には四角岳あり。正しく中央分水脈にあたれり。』[増補大日本地名辞書:第七巻 奥羽・P977]

 無明舎出版の「東北の峠」によれば、この峠を越える道は三戸鹿角街道と呼ばれていたようだ。これは八戸城下から三戸を経て来満峠を越え、鹿角の毛馬内(秋田県鹿角市)に至る街道で、これも区間や藩によって呼び名が変わり、「三戸鹿角街道」という名前は便宜的につけられたものであろう。南北朝時代の前後から歴史上に現れてくるが、江戸時代以降は尾去沢銅山の銅を運ぶ道としてさかんに使われるようになった。以下は来満峠についての「東北の街道」の記述である。

 来満街道の峠は、十和田湖に近い鹿角盆地大湯川の支流阿久谷川をさかのぼり(注:地形図では安久谷川)、奥羽山脈北部を越えるもので、古い時代から来満越えと言われていた。分水界の山々は来満山と呼ばれ、そこには北から大柴峠、来満峠、不老倉峠と三つの峠があった(注:大柴峠については山名として地形図に表記あり)。
 鹿角通りの毛馬内と三戸を結ぶ来満街道の本道は大柴峠を越しており、来満峠はその枝道で、山越えの距離としては最短であった。藩政期、鹿角と田子はともに盛岡藩領であり、来満街道は藩内の主要道とされていた。鹿角市大湯四ノ岱から阿久谷川を二・五キロほどさかのぼり、折戸で北東へ上る来満主街道と分かれ阿久谷川をそのまま詰める。下長沢、上長沢、先達沢の各支流を左右に見ながらセンナ沢出合に達すると、そこは南奥にある旧不老倉鉱山全盛のころの鉱山町跡で、右の谷が不老倉鉱山、左のセンナ沢筋が来満峠への道である。
 (中略)
 来満峠への道はセンナ沢上部の鞍部を目指すのだが、周辺はネマガリダケの密生がひどく、鹿角市公民館の歴史探訪でどうにか刈り払いがなされている。標高六一一メートルの来満峠を越すと本街道と合流する御番所のあった夏坂(田子町)に出る。
 上の記述を参考に地形図を見てみたが、秋田側はかろうじて道を推測できるものの、宮城側は全くもって不明である。標高611mという記述がかなりのヒントになりそうだが、県の歴史街道調査報告書があるそうなので、それを入手するのがいちばん確実だろう。一度は行ってみたい所である。(な)

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■関連リンク

・GLN(GREEN & LUCKY NET)のデータベースより:
来満街道
他にも鹿角周辺の民話や伝承も多く収録(一つ上のディレクトリに)。この際半角が云々言うのは野暮ってもんだろう
・国土地理院地形図閲覧システム:来満峠
・国土地理院『うぉっ地図』:四角岳 峠はもう少し北のほう?
・国土交通省空中写真:CTO-76-2-C6A-20, 21, 22 / CTO-76-2-C7A-20, 21
峠名覚書


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