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こだわりの分水嶺


分水"例"-4.旗返峠の土塁跡?

周辺の地図

 九州は大分県の三国峠。西南戦争の際、官軍と薩軍がこの峠を挟んで激しく争ったことは有名だが、ここから南西に2km程の所にある旗返峠もまた戦場になったことはあまり知られていない。分水嶺辞典本文の三国峠の項にも挙げたが、この戦争を記した書物、「征西戦記稿」に、次のような記述がある。

「六月十七日、午前二時中央佐武中尉の部下川野辺軍曹および伍長二名兵卒十四名を選抜し、潜進三国峠の正面第一の賊塁に突入せしめ銃剣を以て其の十二名を殪し尋て第二第三、賊塁の背面を射撃す。彼れ蒼黄塁を棄て走る。是の時他の一中隊も亦左翼の賊塁に迫る。彼れ支る能はず。三国の諸塁悉く陥る。旗返の賊も亦走る。是において三道斉く進み、三国旗返の険を奪ひ、遂に小野市に至る時なほ午前七時なり」

 私はこの旗返峠に二度登っている。初めての時はトンネルが通行不能なのを知らずに南から行き、道なき道を登って峰を越えた。二回目は上のような知識を得、地形図を携えて登ってみた。自分が一回目に越えた道が本当に峠だったのか確信が持てなかったからだ。
 峰に上がって200mほどの範囲を調べて歩いたが、一回目に下った場所以外に道らしきものがなかった。峠のような切り通しもなく、やはりここで良かったのかと思いつつ、引き返している途中、何気なく土手を踏み越えた。

土塁?三重側の谷を向いている

 よく見ると、その土手は馬蹄形とでも言うべき丸みを帯びて、峰の一角をとりまいていた。縁から底までは50cmもなく、木や草が生えているものの、直径5mほどの円を描いているのがはっきりわかる。縁からは三重側の谷を見下ろせる。峰の頂きに自然にできたとは思えない形であった。思うにこれは西南戦争の際に作られた土塁ではないか。官軍は三重側から攻め上がった。守る薩軍は、これを防ぐために三重側を向いた土塁を築いたはずだ。土塁にしては少々低いと思われるが、百数十年の歳月が経っているのだから、風化が進んだと考えられなくもない。

 そうはいうものの、これを立証する明確な手段がないのである。残念なことに。


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