行政:大阪府能勢町 標高:580m
1/25000地形図:福住(京都及大阪10号‐4) 調査:1999年8月他


■調査 Experiment

 鋭い方はもうお気付きかと思うが,「はらがたわ峠」という名称は少々心許ないものである.

「はらいがたわ 1/5万には「はらいがたわ峠」、エアリアマップには「はらいがため峠」、能勢町のパンフレットによると「はらがたわ」。諸説紛々だが、山のタワんだ所を乢(タワ)といい、「タワ」を「コエル」「タワゴエ」から、「トーゲ」となったという説がある。乢の他、屹、嵶も峠と同じ意味で使われるらしい。タワという言葉自体に、峠という意味が含まれている。それ故、ここではタイトルに「はらいがたわ」を採用した。今はR173の一部で全面舗装されて、北から南への下りは豪快だが、昔は、摂丹街道と呼ばれた道。昔話も数々ある。峠の100mほど北にわき水あり。」(OUCC機関紙「銀輪」:1978年度版より)

 報告者たる私は,新道に作られたトンネルが「はらがたわトンネル」であることと,昭文社の「山と高原の地図・北摂の山々」の記載に倣って「はらがたわ峠」と呼んでいる.ともかくこの峠は旧国道173号の最高所(標高580m)であり,また数ある北摂の峠の中でも車が越え得る最高所の峠である.


 広く細長い能勢町山辺の谷が尽きる辺り,新道が新砂原橋で右岸に移る直前からはらがたわ峠の旧道は始まる.この地点には明治43年に建てられた『丹州街道』の道路元標がある.丹州街道という名称は明治時代の道路制度によるもの(府県道としての路線名称)で,それ以前は能勢街道や池田村道などと呼ばれていた.ややこしいことに明治の道路制度では別路線が能勢街道と名付けられたうえ,池田木部から一庫出合橋までが共用区間であったり,明治の中期後記で路線経由地が変更されたりしているため,両者を混同しやすい.そのうえ冒頭の引用にある「摂丹街道」という名称も丹州街道以降に使われていた.この辺りの路線変遷はいつか整理しなければと思う.
 


 

 

 

 昭和39年架橋の砂原橋を渡り,比較的新しい住宅地の前を通って行く.道はセンターラインありの2車線道,車はほとんど通らないから,この幅を独り占めして自由に登って行ける.のんびり辺りを観察しながら登れば一箇所だけ残っている173号の看板も見つけられるだろう.

 


 

 

 新道バイパスの陸橋を潜った辺りで急激に登る.道路脇の谷を埋め立てて要塞の如き砂防ダムが作られつつあるのだ.これはバイパスが完成した1990年以降に作られたものであって,以前の道はずっと川底近くを通っていた.報告者が初めて登った時から旧道だったこの峠道,確かその時は川沿い道を通れたと思うのだが.それがこうして変化していくとは思ってもいなかった───何しろ忘れられた旧道だから───.自分も確実に齢を重ねている,その証拠を突き付けられたような寂漠感を感じたものだ.もちろんそれは,この旧峠道をin situで親しんだ人々が新道完成に対して感じたであろうものに比べれば,微々たるものだろうけれども.


 ダム脇を抜けると再び緩やかな道になる.いくつかの小さな橋───ガードレールが欄干がわりになっている癖に立派な銘板が貼られていたりする───を越えて,トンネル直前からの脇道が合流してくる.この分岐から先が,旧国道はらがたわ峠道の真骨頂だ.

 

 

 

 

 ガードレールのない1.5車線幅.日陰の路面は苔蒸しつつある.くっと登って右手に折れれば待ち構えるつづら折れ.狭いながらも緩やかな山腹を最大限に利用し,短いスパンで幾重にもつづらを折って続いている.見上げれば木々の隙間を縫うガードレールが2〜3段分,春先など草木の薄い時期には壮観な光景だが,あまりに壮観でうまく写真に収めることができないのが残念だ.無理矢理撮ってみたが御覧の通りのキッチュな情報にしかならぬ.やはり実際に赴いて体験するのが一番だろう.

 

 

 峠は大きな切通し.峠そのものは先のつづら折れに比べてインパクトに欠けるが,古い"CAUTION"の看板がなかなかいい味を出している.余裕があればこの切通しの上にも登ってみたい.切通しの上はほぼ平らな雑木林で,一面に落葉が積もる中を獣道のような道跡が無数に走っている.参考資料によると峠は明治22〜25年の改修で5間掘り下げられたとあるから,この平地がほぼ旧峠の高さに相当する.昔はまさに峠一帯だけが平坦だったわけで,だから「原が乢」だったのである.あるいはこの無数の踏み跡の一つが旧峠道だったのかも知れぬ.

 

 現役の頃から何度もこの峠に登っている報告者だが,つい最近になって,上述の旧国道──昭和4年に作られ,38年に国道に昇格した───の他に,明治中頃に作られた車道が残っていることを知った.それは峠直下の谷(つづら折れのある谷の西隣)を伝っていくものだ.峠側の合流は昭和の道路工事で失われているが,ガードレールを乗り越えて杉林の斜面を下って行くとそれに遭遇することができる.不法投棄のゴミが谷一面に散乱していて目も当てられない状態だが,道それ自体は幅2間ほどもあろうか.意外と広くしっかりしたものである.ガードレールを上に見やりつつ進むと,それが見えなくなった頃からゴミも姿を消して,純粋に旧い車道の感触を楽しむことができるようになる.辺り一帯は静かな杉林である.

 一箇所だけ,大きな沢を渡る箇所がある.報告者が訪れた時には道に沿って大きな杉が倒れていた.崩れかけた石組も残っていて,ここに小さな橋が架かっていたようだ.橋のたもとだった所には当時の水準点も遺されている.もちろんこの標は,現在の地形図からは抹消されている.


 この沢に沿ってさらに谷底へ下れば,明治の車道以前の峠道に出ることもできる.丁度この辺りは杉が立ち並ぶ広場になっていて,広場の端に妙見様(不動明王)を奉った石祠.かつてはヒダル神として祭られていたという.人が通らなくなって久しいこの地,妙見様も空腹なのに違いない.報告者が訪ねた時にはあお向けに倒れてござった.
 報告者は長いサイクリスト生活で何度もハンガーノックを経験した.それだけに,昔日の人々がヒダル神を信じ恐れた気持ちがよく解る.賽銭代わりにおにぎりを一つ供えて,旧車道へ戻る.

 車道はこの後さらに往時の雰囲気を取り戻して下へ下へと続いていく.雑草や倒木がなければ信州権兵衛峠の峠道にも通じる貫禄だ.道端にはかつての電信柱と思える切り株も見受けられる.最終的にこの道は旧国道のトンネルへの分岐の直前に出てくる(右写真・正面の広場の左手に旧道).この合流点には正面の谷に砂防ダムが作られているので,下から登ろうとするならこれを目印にするといいだろう.

 

 

 

 峠から北側は一直線の下り.下り鼻に水場があり,ここでよく咽を潤したものだ.道の両側には能勢の田園風景にそぐわない洋風住宅やロッジ風喫茶店が並んでおり,その間を50downほどでたちまち天王に下りついてしまう.逆にこちら側から登ったときは,まっすぐ上方に見えている峠までのラストスパートが少々苦しい.

■考察 Discussion

 というほどでないが,はらがたわ峠の変遷をまとめてみると以下のようになる.

  • 明治中頃まで 頂上から谷川に沿って通行
  • 明治19年(1886)丹州街道開路
  • 明治22年〜25年(1889〜92) 道路改修
  • 大正9年(1920)府道福住池田線に指定さる
  • 昭和4年(1929)新道建設
  • 昭和38年(1963)国道173号昇格
  • 昭和58年(1983)はらがたわトンネルから天王の能勢辻まで開通
  • 平成2年(1990)山辺一里松からトンネルまで開通,新道全通

 次頁で報告する天王峠のバイパスは昭和63年に完成しており,はらがたわ峠が最も最後まで残った道であったようだ.

■参考文献 References

  • 塩田豪一氏,『能勢の峠道』,詩画工房(1995)
  • 松波成行氏,『日本の道』の「道路法令集」

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