治田峠(峠〜青原)






















 看板に落書された「縦走記念」云々の文字にうすら寒さを感じながら,古いmotivationに従って,治田(青原)に向けて下る.竜ヶ岳,藤原岳への登山道としてよく利用されていることもあってか,こちら側の道のほうが比較的進みやすい.深い森のなか,茨側側の峠直下と同じような塹壕状の道が,かなりの距離に渡って続いている.1スパンの大きなつづらと深いえぐれ方に「雪が降ったらボブスレーができそうだな」と安直に思ってしまったが,やはり他に例えようがなさそうだ.積もった落葉の下には岩が多く,太いタイヤのMTBでないと乗って下ることは難しい.また下るにつれてジグザグ度が増していき,岩根も露わな純正登山道の箇所も現れる.ボブスレーどころではない.


 かなりの標高差をこの塹壕道で消化し,行く手の森が切れて明るく見え始めるころ,小さなほこらが視界に入ってくる.御名は中尾地蔵.ここから道の様子が一変するため,「中尾」という呼び名はまさにぴったりである.落書きだらけのその姿が忍びなかったが,証拠写真のつもりで撮ってみた.それにしてもニホンジンは,なんでこんなにも落書が好きなのだろう.

 2度ほど大きくつづらを切って,ようやく太陽の下へ.ここから先は谷の斜面をトラバースする形に変わる.が,谷底は見えないくらいに深く,対岸の斜面は遠く大きい.相変わらずの山深さである.緩やかな傾斜となった足元の道は,確かにそこにあるのだが,太陽のお蔭で元気に育った雑草がそれを隠している.また,道そのものの凹凸が激しいため,踏み外さないように気を付けなければならない.左手に深い谷を見ながら,時には草原を渡り,時には沢を越え,押し担ぎはどこまでも続く.

 話は変わる.江戸時代,この付近は大きな鉱山であった.web上でも閲覧することのできる三重県教育文化会館の「会館のたより」1981年7月号の記事によれば,治田鉱山は伊勢国唯一の銀銅山であり,江戸時代初期に主に銀の産出で繁栄したという.元禄以降は銅に中心が移ったが,これも産出高で秋田・南部・別子に次ぐ屈指の銅山であった.この詳細は,むろん調査から帰ってから知ったことだが,少なくとも単なる道でないことは現地でも知ることが可能だ.林に囲まれた小さな草はらを何度か渡って行くと,日之岡稲荷という小さな祠と朱塗りも鮮やかな鳥居が待っている.かなりの賑わいであったらしいことも,そこにある看板が教えてくれる.一帯の杉林を見回せば,そう言われれば建物があってもおかしくない広さの「空隙」.さらに道を進めば,小さいながらも隧道が残っていたりして,当時の繁盛ぶりが伺えるというものだ.茨川の人々の治田峠越えも,決して苦ばかりではなかったろうと思われたことであった.


 この鉱山跡を抜けると,山中にしては極めて広い河原に出る.パッと開ける視界が新鮮だ.河原を川下に向かって縦断し,サコによって寸断されるところで対岸へ.川とつかず離れずで道は下って行く.最後の最後,滝のそばの岩崖を鎖でへつらなければならないが,これも変化の一つとくらいに考えなければ,旧道倶樂部はやっていけない.車道に出れば,青川集落はすぐである.


白瀬峠考察  

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