鹿|行政:滋賀県甲賀市〜三重県亀山市標高:400m
|1/25000地形図:長浜(岐阜12号-4)調査:2005年2月


■背景 Background

 国道1号のハイライトの一つであった鈴鹿隧道.大正13年に完成し,長く使われた後に改築された.改築時に以前のデザインを復元踏襲したことで,土木遺産的な見地からもよく知られた隧道である.
 報告者はまだ訪れたことがないが,鈴鹿隧道についての情報はさまざまなメディアで豊富に手に入る.事前調査という意味で,この隧道のことを一度まとめておきたい.

■調査 Research

鈴鹿隧道東口(「本邦道路隧道輯覽」より引用)

 「本邦道路隧道輯覽」によれば,隧道は大正11年6月20日に着工,3年の工期を経て13年7月20日に完成している.完成直後の写真もいくつか残されている.例えば滋賀県甲賀地域振興局建設管理部のページに掲載されているのは滋賀側の坑口だ.また,「本邦道路隧道輯覽」や日本土木史,甲賀郡志にあるのは東口である三重側のポータル.左写真は「本邦道路隧道輯覽」から引用した三重側ポータルの写真である.

 当時の鈴鹿隧道はコンクリート製ポータルにコンクリートブロック巻の隧道で,立派なピラスターを持ち,頂部には3つに割れた幾何学的な意匠───ゴシック風の三つ鉾と形容される───が施されていた.そしてポータル前面には下見板張り風の装飾.迫石は凸面をもつルスチカ仕上げの石で,罵蹄形アーチを成していた.
鈴鹿隧道坑門図
(「本邦道路隧道輯覽」より引用)

 前述の写真を見る限りでは,東西の坑口とも同じ三つ鉾ピラスターであったようだ.だが,不思議なことが一つある.「本邦道路隧道輯覽」の坑口図(左)には,この三鉾が描かれていないのである.オベリスクを縦に圧縮したような四角錐の石が上に載っていて,これはむしろ滋賀県高島市(旧マキノ町)の百瀬川隧道のピラスターに近い.百瀬川隧道は幅の狭い繊細な下見板張り風の装飾がある点も酷似しており,違うのは三鉾装飾の有無と,百瀬川隧道には4本のピラスターがつけられていることだけである.この本がどういう経緯で作られたのか───例えば実際の設計図をもとに坑門図が描き直されたのか,どの段階の設計図が引用されたのかなど───は,今となっては知る術もないが,何かを暗示するような興味深い事実である.なお百瀬川隧道の竣工は大正14年.着工の時期は不明だが,恐らく鈴鹿隧道が作られている最中かほぼ同時期のことであろうと思う.

 

 鈴鹿隧道に似た意匠を持つのは百瀬川隧道だけではない.鈴鹿隧道の特徴の一つである三つ鉾ピラスターが,三重県の別の場所に作られている.熊野市の西,国道169号旧道の高尾谷隧道だ.竣工年は昭和7年とやや下がるが,下見板風装飾+三鉾ピラスターをもち,鈴鹿隧道と瓜2つなのである.

 それだけではなく,三鉾ピラスターをもつ隧道は,ほぼ同じ時期に,遠く離れた愛媛県にも造られている.それも,3つもだ.

俵津隧道坑門正面図
(「本邦道路隧道輯覽」より引用)
高研隧道坑門図・坑門断面図
(「本邦道路隧道輯覽」より引用)

 一つは愛媛県西予市の俵津隧道で,「本邦道路隧道輯覽」によれば起工大正12年1月,竣工は大正15年の11月.鈴鹿隧道とほぼ同じ時期に作られていることになる.
 また,日吉村と高知県梼原町の境にある高研隧道にも三つ鉾が.大正15年10月着工,昭和3年竣工で,これは石組のピラスター上部に石製?のピラスターが載っている.三つ鉾の形状はやや異なるようだ.

土屋隧道
(「本邦道路隧道輯覽」より引用)
土屋隧道坑門図
(「本邦道路隧道輯覽」より引用)

 さらに「本邦道路隧道輯覽」によると,土屋隧道(愛媛県野村町〜広見町)にもこの三鉾がつけられていたようなのである(巻頭に土屋隧道の写真もあるが,丁度鉾の部分で切れているためわかりづらい.現在の土屋隧道は改修されている模様).起工は大正14年の末.竣工はかなり遅れて昭和の12年となっている.

 県内の隧道の類似性はともかく,遠く離れた2つの県で,ほぼ同じ時期に同じ意匠が現れていることは大変珍しい.「日本の近代土木遺産」でもわざわざ類似性を指摘しているほどである.背景には設計にたずさわった人物───恐らく上級の土木技師(技手)か道路技師(技手)───の移動があったのだろうとされているが,そもそも誰が鈴鹿隧道を設計したのか不明であり,どのような経緯で伝わったのかは全くの謎のままだ.

 手がかりになる資料の一つに,昭和3年刊の「滋賀縣史」があげられる.これによれば,鈴鹿隧道の建設は三重県が大きく関与していたようである.

「鈴鹿峠改修は三重縣と連帶工事で、施設の便宜上同縣に委囑した。工費金二十三萬二千百十三圓内金十三萬三千九百十五圓國庫輔助五十四萬千五百九十六圓三重縣金九萬八千百九十八圓本縣負擔で、大正九年度より同十四年度までの繼續事業である。その改修區域は舊道の總延長千三百十五間五分幅三間半、工費間當り金三百圓で、内本縣地域二百四十九間四分その百四十七間四分は道路、百二間は兩縣に跨る隧道の本縣所屬で隧道全長百三十五間高十七尺幅二十四尺である。此隧道は海拔千百七十五尺に在つて三重縣側より昇り平均勾配1/91、本縣側の降り平均勾配1/75改修道路の最急勾配は三重縣側より昇り11/15降り本縣側で1/30である。隧道工事は十二年十一月峻功、工費延長一尺四百二十圓強の割合である。」(滋賀縣史 最近世 四・P289〜290)

 他方,「日本土木史」や「本邦道路隧道輯覽」などにはコンクリートブロックのみ三重県が直轄で製造したとあるので,ここでいう「施設」とは三重県がコンクリートブロック製造施設を有していたことを示すものかも知れない.あるいは単純に隧道が三重県都市部に近かったことを指すか.三重県側の資料は「三重県の近代化遺産調査報告書」の部分抜粋しか当たれていず,詳細は不明である.

 またこの中で「隧道工事は十二年十一月竣功」とあるが,これは「本邦道路隧道輯覽」の竣工年月日と齟齬するものである(「滋賀県土木百年年表」は「滋賀縣史」を出典としている).昭和8年に発行された土木学会誌第19巻第7号の彙報でも十二年となっており,本当のところはどうなのであろう.

 とはいえ,いずれにしても鈴鹿隧道は極めて草創期の部類に入るコンクリート隧道であったことに変わりはない.現在確認されている道路用コンクリート隧道は,東京都の本村隧道(大正12・13年頃?)が最古である.鉄道用でも大正6年の鋸山隧道がある次は13年まで待たねばならぬ.意匠の卓越性ばかりでなく,コンクリート巻トンネルの建設技術という意味でも,全国的な模範になったことだろう.

■考察 Discussion

 三つ鉾ピラスターが鈴鹿隧道発祥であるとなってくると,今度は冒頭で記した「本邦道路隧道輯覽」の図に三つ鉾が描かれていない件が気になってくる.設計当初は,実は三つ鉾を載せるつもりではなかったのではないか.それに,考えてみれば意匠的には優れているが,なぜ「三つ鉾」にする必要があったのだろう.そんなことを考えているうちに,一つの試論ができた.

 ここからは全くの空想である.最初は百瀬川隧道に三つ鉾を載せるつもりであったのではないか,というものだ.
 三つ又の鉾でまず思い浮かぶのは,ギリシア神話の海の神・ポセイドンである.古くは淡海と呼ばれ海に見立てられた琵琶湖,そこに注ぐ百瀬川を土工で克服するために,隧道の設計者は海の神の力=三つ又をデザインに採り入れようとしたのではないか.それが何かのきっかけで───恐らく意匠的に優れているところが買われて───鈴鹿隧道で使われることになり.百瀬川隧道は普通のピラスターになった,と.
 ゴシック風のデフォルメは,この頃の建築界の流行に関連があるかも知れない.大正11年にはゴシック建築として名高い東大安田講堂が完成している.学内の建築科の教授陣が総出で設計したというから,一大事業であったのは間違いないだろう.それが鈴鹿隧道の三つ鉾デフォルメに影響したのではなかろうか.  

 とは言い乍ら,三つ鉾=ポセイドンとするのは少々無理があるかも知れぬ.三鉾それ自体は日本の神も持っているし,地方によっては山の神の持ち物としている所もあるようだ.だから山の門───特にここは鈴鹿の関───を護るための意匠であったとも取れる.ただ下見板張り風の装飾とピラスターとの組合せは,イメージ的によその国の神殿に近いような気がする.

 結局は,空想としてほおっておくのが一番良さそうだ.ふだん何気なく過ぎているトンネルも,突き詰めていくとこんな空想もできて面白い,という例にでもなればいい.

■参考文献 References

  • 『滋賀県土木百年年表』,滋賀県土木部,昭和48年(1973)
  • 本邦道路隧道輯覽』,内務省土木試験所,昭和16年(1941)/リンクは土木学会図書館デジタルアーカイブス 『東紀州ほっとねっと くまどこ;新着情報』,特定非営利活動法人 東紀州ITコミュニティ
  • 『甲賀地域の土木遺産;鈴鹿トンネル』,甲賀地域振興局建設管理部
  • 『滋賀縣史』,滋賀県,昭和3年(1928)
  • 『日本土木史 大正元年〜昭和15年』,日本土木史編集委員会,土木学会,昭和57年(1982年)


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