|行政:福井県敦賀市標高:30m
|1/25000地形図:敦賀(岐阜15号‐3)調査:2004年11月

■調査 Experiment

 滋賀県から中央分水嶺を越え福井県入りした国道8号は,あと少しで日本海という所で真東に折れ,武生へと向かう.その道が敦賀市内から初めて山坂を越える地点にあったのが金ヶ崎隧道である.「日本の近代土木遺産」によれば明治19年竣工の煉瓦隧道であり,同16年竣工の鐘ヶ坂隧道に次ぐ現存最古級の道路用煉瓦隧道である.

 地形図に記載されてはいないが,敦賀側のアプローチは至って楽だ.隧道は現国道金ケ崎トンネルのほぼ真上,地形図に記された大きな崖の南端に位置していて,敦賀港駅付近から登っていくことができる.あるいは報告者のように,現国道脇の細い踏み分け道を担ぎ上げてもよい.

 敦賀側の隧道ポータルはよく保存されている.冠木門タイプの石ポータルは向かって左がやや欠損しているが致命的なものではなく,また鐘ヶ坂隧道のように苔蒸している訳でもなく,ただちには明治中期に造られたとは思えないような容貌でそこに建っている.独特なアーチの形状は馬蹄型と言えなくもないが,池田隧道の如きΩ型の正確な馬蹄型ではなく,むしろラグビーボールを半分にしたような楕円アーチだ.とりあえずは「釣鐘型」とでも呼んでおこう.入口には金網がしてあって,向かって右手の壁沿いに大きな導水管が通っている.向こうの敦賀セメント工場につながっているのである.

 扁額を見上げる.さりげない書体で吉祥洞とあり,その左に縦書きで「明治十九年十一月 山縣有朋書」.彼が第一次伊藤博文内閣で内務大臣と農商務大臣を兼務していた頃のものだ.

 隧道内部は煉瓦巻き+石組みの基部.煉瓦はすべて長手積みになっている.煉瓦の寸法は225mm×53mm前後で,お世辞にも綺麗とは言い難い造り───ただしその色の鮮やかさは特筆に値する───に目地の荒さも目立つが,煉瓦そのものが大きく割れていたり,煉瓦巻きに損傷があったりすることはない.

 

 内部は土敷きのままで,アーチが尖っているためか,意外に広く感じられる.奥に入ると東側の壁に退避壕のような小アーチが3箇所.奥行きは40cmほど,巾90cm高さ150cmで,退避壕的なものと考えるにはやや小さいように思う.別の用途があったのだろうか.ここで煉瓦の小口方向の寸法を計ってみると110mm前後.厚さはずいぶんまちまちだ.

 

 側壁の高さ2m位の所には金具が朽ち残っている.錆びついてしまっていて何だったのか解らないが,ネジ山らしい凹凸と針金の束のようなものが見えている.隧道全般に渡って等間隔についていること,隧道の両の側にあるところを見ると,灯火関係の何かではなかったかと思う.電線だったらわざわざ両側につける必要はないだろう.ちょうどこの足元を通っている導水管が片側だけに通されているように.


 反対側の出口はやや土砂が積もっており,その向こうは藪.さらにその向こうから,甲高いエンジン音が響いてくる.こちらもやはり現国道のトンネルの真上に出てくるのだ.扁額には「金崎隧道 明治十九年十一月 正二位源慶永書」.源慶永は春日野隧道にもその筆が残る,福井藩最後の藩主である.

 こちらは金網がない分楽だが,隧道口から先の道が消えかかっていて,導水管に沿う踏み分け道だけが頼り.山側からの落石を雑草が覆っていて,それにけつまづきながら抜ける.100mほどで土の道.トラックに踏み締められた泥っぽい道で,工場内の一角のような気配がする.その予想通り,さっきの導水管は2つの貯水槽につながっていて,そこへ向かうためのトラック道に出て来るのであった.そのまま道を辿って行くと,√8に面した敦賀セメント工場正門の30mほど手前へ.振り返れば金ヶ崎隧道は鋭く深く切れ込んだ谷の奥である.
 この先の国道にある鞠山トンネルは昭和34年9月竣工.旧国道は敦賀セメントの工場の中を通っていたようだ.


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