|行政:福井県敦賀市標高:20m
1/25000地形図:杉津(岐阜14号-4)調査:2004年11月

■調査 Experiment

 鞠山トンネルを抜ければ,恐らく多くのサイクリスト・ライダーに馴染みのある交差点に出る.新日本海フェリー乗り場への道が交差する十字路だ.道の向こうに青い海も見え出し,否応なく気分が高揚する.とはいえもちろん,今回の行く先は直進.旧国道最大の難所であったであろう海岸沿いの道を北上しなければならない.

 鞠山・赤崎と漁村を過ぎる.左手には海を挟んで敦賀半島の遠景.半島を横切る馬背峠もよく見える.松ケ崎には昭和のはじめの銘のある南無阿弥陀仏の句碑.全体に,敦賀〜河野にかけての沿道にはこうした石碑が多く見られるようだ.

 

 

 松ケ崎のカーブを曲がれば,弓なりになった海岸線の先に海から直接立ち上がる巨大な岩崖が見える.それが阿曽隧道のある黒崎だ.江良,五幡,挙野と小邑を抜け,軽く登ってロックシェードの中を進めば,小さなプレハブ小屋が建っている旧道も目に入って来る.

 しかしながら,その旧道へ岐れるのがやや困難であったりする.ロックシェードの奥に現国道のトンネルがあり,そのトンネルのつけ根から道は分岐するものの.側壁に開けられた侵入口は車の横幅程度しかない.その上ゲートが置かれてあって,車やバイクでは入れる,あるいは入る気になるものではない.こういう時ほど,自転車であることが有難く感じられる瞬間はない.


 ゲートから崖伝いに小さな道が伸びている.入口がああなので草が茂りっぱなし状態だ.カーブの頂点にプレハブ小屋があり,そこを過ぎて右手に折れると,ほとんど90度に近い角度でそそり立つ岩崖が正面に見え.そこで道が途切れているかような錯覚を受ける.あれっと思って近付けば,崖の手前で右に折れて,すき間に挟まるようにして阿曽隧道が出迎えてくれる.


 

 

 阿曽隧道.資料によれば明治9年竣工.石ポータルを持つ道路用隧道としては現存最古のものである(但し,このポータルが明治9年製であることには疑いを入れる余地がある.詳細は「考察」参照).たいへんコンパクトかつ簡素なもので,装飾といえる装飾はなく,敷いて挙げるならアーチの要石と帯石が機能的な美しさを有しているだけだ.アーチの形は金ヶ崎隧道と同じ釣鐘型だが,内部は素掘りとなっている.


 ポータルから続く石巻きは3mほどで途切れる.それより内部は荒々しい素彫りの岩肌.その向こうの出口から,赤い鉄柱のロックシェードと,その中を疾走する自動車が見えている.隧道の延長は50m弱しかない.

 改めて石巻きを見てみよう.材質は白い御影石で.隧道内部側で30×30cm位の正方形.それを31列積んでアーチを形成している.なめらかに仕上げられた表面が殊の他きれいだ.金ヶ崎隧道や,後に訪れる春日野隧道も石組みポータルだが,表面は自然石風に仕上げてあって,この阿曽隧道のようななめらかさはない.石の切り揃え方や目地の仕上げも丁寧になされていて,いかにも職人仕事といった風情がある.

 鋭く露出した素掘りの岩肌を潜って反対側へ.南口もそうであったが,こちらのポータルにも扁額はない.そして,南口に輪をかけたような凄まじい絶壁の上だ.崖の面に対して真横に近い角度で掘り抜き,そこに石組みをしているものだから,右手の柱などは海側の斜面と一体化していて,柱の角度で海に落ち込んでいる.こんな崖ぎりぎりにあるせいだろう,こちら側の石組みにはアーチを一周する亀裂が入っていた.やがては崩れて,海の藻屑となってしまうに違いない.惜しいものだが補修の方法すら思い浮かばない.

 さて,北側は先述したように目の前がロックシェード.そうしてロックシェードの中へ入る道は一切ない.まさに「どうしろというのだ」状態だ.クロスされた鉄骨の△の隙間のから自転車を引っ張り出すか.幅30cmもない足場を水平移動してロックシェード入口に向かわなければならぬ.報告者は前者を取ったが,いずれにせよこの隧道を通り抜けられるのは今,自転車か徒歩者しかいない.

 なお,ロックシェードの一角には南無阿弥陀仏を大きく彫った石碑が立っている.これもやはり明治期の新道建設に関わる遺構である.明治19年9月の銘があり.福島宅次郎,高山彦三郎,橘大右衛門,田中為造の4人の名前と末尾に「車道開鑿罹災人」とある.やはりこの断崖で命を落したのだろうか.さまざまな場面を思い描きながら,報告者は寸分の黙祷を捧げた.そうしている背後を大型トラックが豪音を立てて駆け抜けていく.この喧しさでは浮かばれないような気もするし,自分の手がけた仕事の行く末を見届けられるのも悪くないかも知れぬ,などとも思ってみる.


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