春日野隧道-その2(隧道〜武生側旧道)


 改めて春日野隧道.左右に長い翼壁を持ち,その壁と,両脇から伸びる土手によってトンネル前の広場が形成されている.実に剛健な印象を与え,まるでローマのコロシアムか何かのようだ.明治19年12月の日付が刻まれた銘板には,金ヶ崎隧道でも対面した源慶永の筆になる「賛化阜財」.トンネルの開通で人々の懐が豊かになるように,という願いが込められた一筆だ.そして金ヶ崎阿曽と同じく釣鐘形の石アーチ.内部は煉瓦積みであって,ピラスターもある構造が金ケ崎隧道と酷似しているが,ポータルの石肌はむしろ阿曽隧道似である.
 開通当初はよほど人々を驚かせたのであろう,この隧道を見るためだけに峠道を行き来した人も多かったと河野村史にはある.小学生の見学遠足もあったほどで,「マンプ」と愛称され長く人々の誇りであった.そんな隧道も今は昔,隧道手前に土壁とガードレールによるバリケードが築かれてあって,土敷きの内部にいくつもの水たまりができている.その脇から水が染み出して,広場一帯を湿らせている.

 
 
 


 隧道側壁から天井にかけてを覆う煉瓦は,自由奔放に曲がっていたり,表面が粗いものが混じっていたり,明らかにずれを補正するための異なる寸法のものがあったりして,お世辞にも端正流麗とは言い難い.しかしかえって手仕事の温かみが感じられる.サイズは220〜225×53,4mmで,これは金ケ崎とほぼ同サイズ.煉瓦の列は美しい直線を描いているが,その基礎になっている石組みはどこかいびつだ.そういえばポータルの石組も直線的な布積みではなく,かといって乱れ積んでいる訳でもなく,意匠的な作為がありそうなないような積み方になっている.不思議な積み方である.

 

 出口は枝打ちされた杉の枝や土砂が横いっぱいに詰められていて,30mほどの水たまりになっている.これは靴を脱いでいかないと渡れそうに無い.こちらから見るとコンクリートの白い染みや漏水跡に広がる苔の緑が覆っているのがよく解る.透き通る水の底でうごめいているイモリ,朽ちる寸前の透き通った落葉がとても印象的であった.

 

 

 

 武生側のポータルを改めて見てみると,向かって左のピラスターが崩れ落ち,跡方しかない.そうしてその後ろがパックリと口を開けている.帯石の一つが今にも落ちて来そうな不安定さで宙ぶらりんだ.これは酷い.隧道内部のポータル裏側も,拳が入りそうな位に開いた亀裂が天井を一周している.こういうひびを見るにつけ,ピラスターが単なる飾りではないことを思わされるのだが,そのピラスターすら崩壊しているという所にこの隧道の末路が見えている.もう長くは持たないだろう.

 武生側の道も,河野側と同様のべちょべちょ道だ.スピードは出るが泥跳ねでずいぶん汚れてしまう.10分ほどで左手に分岐.これは県道205号に出るための道で,本来の旧国道はこのまま直進し武生に向かっていた.しかし,目の前のその道にも通行止看板があり,かつ「がけ崩れのため」「当分の間」などと恐ろしげなことが書かれている(但し「林業関係者は除く」ともあり,通れるのかそうでないのかよくわからない).これが旧国道8号なのは確かだが,この時の報告者はあまり時間がないこともあって,大人しく左折することにした.
 この辻には南無阿弥陀仏とだけ彫られた石碑と道標にもなっているらしい碑,小さな地蔵堂が仲良く並んで建っている.左折する道も古くからの峠道だったのだろう.県道に出てトンネルを抜ければ,武生の平野部まで何事もなく降下していく.


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