|行政:豊後竹田市片ヶ瀬〜滑瀬標高:-m
|1/25000地形図:竹田(大分11号‐1)調査:2005年5月


■背景 Background

 片ヶ瀬隧道は岡城の対岸,片ヶ瀬の台地から白滝川(大野川)のほとりへ下るために作られたものである.本来,台地なら隧道など使わずにへりをつたって下れば良さそうなものだが,それでも隧道が必要であったあたりに「竹田四十八谷」と呼ばれる所以がある.例えていうならばテーブルにかけられたテーブルクロスのしわのように,微細な谷がいくつも取り巻いていて,その一つを貫通するために隧道が必要だったわけだ.

 竣工は明治12年.文献にある旧隧道のうち,当時の姿を留めている貴重な例の一つ.そうして地形図には記載されていない.旧道倶樂部の感性が試される場面である.

■調査 Experiment

 東側から.国道502号から旧小田無隧道へ向かう道を,隧道方向へ折れずに直進すれば,片ヶ瀬の台地へと向かう道になる.1車線ぎりぎりの幅の,ぐねぐねうねる急勾配道である.序の口は林に囲まれていて,まさかこの先に台地が待っていようとは思えない.まるでどこかの林道を登っているかのようである.

 そんな錯覚も,谷の斜面の上部に至る頃にはうち解けてしまう.小尾根を一つ乗り越えると突如として水田が現れる.尾根の上にできた僅かなスペースを切り開いて作ったものだ.さりげなく民家もあったりして,その背景は空.かなたの山腹にも民家が点在しているのが手に取るようにわかる.これが,竹田なのである.


 勾配が緩やかになって,切り通しになった道を抜ける.台地の端に至ったことを知るが.ここら辺はまだ,民家が軒を並べていて,視界がパッと開けるというものではない.もう少し進んで右手の家並びが途切れるあたりから,台地にいることが実感できるようになる.一段高くなった畑の土手の連なり.見渡すばかりの畑.その末端は地平線を描いて空と接している.規模は敵わないにしても「ミニ北海道」くらいは呼んでもいいだろうと思わせる風景である.

 さて,この辺から少々考えなければならぬ.片ヶ瀬隧道はどこにあるのか.誰か人がいたら尋ねてみようと思いつつ,そのまま車道を進んだが,不思議と誰一人会わない.このまま行くと台地を下ってしまう.右手はずっと畑が広がっていて,恐らくこの畑の奥に目指す隧道があるはずなのだが,そっちへ向かう道はいずれも農道ダートである.畑の端には古式ゆかしい土地神様の碑.

 誰にも会わないままに,台地の中央にある下片ヶ瀬についた.道路の脇に巨大な石碑があって,退避場のようになっている.大きな圃場整備の記念と顕彰碑に並んで,墓石のような小さな石碑が一つ.休憩がてらに立ち寄ってみると,それが実は,重要参考人であったりするのだ.

「大分県西部有川曰滑瀬是為□□(大野?)直入両郡界而□(河?)岸官道□(頗?)為険絶夏熱冬寒行人莫不以為患建議者某等憂之與賛成者廿餘人共謀間新道其傍荒原連亘数百歩□□以板橋片瀬嶺提燈谷□穿岸腹隧道洞然以殺其険・・・」

 文献でも触れられていなかった,片ヶ瀬隧道開通記念碑だったのである.碑文は続く.工事に際しては縣廟より若干の寄付を受け,また当地の富民はこぞって資金提供した.工事は明治十一年三月に始まり翌年五月に完成.こう締めくくる.

「すでに四年が過ぎたいま,その顛末を後世の人々が忘れることを恐れ,石にきざむ. 明治十五年第二月 八田龍撰並書」

 こういうものを見るにつけ,石の持つ力はすごいものだと思う.紙に書かれた文章はいつ散逸してしまうか解らぬし,そもそも報告者のような一介の旅人が,それがどこにあるかを把握することなどできようか? こうして石に刻み建てていてくれたおかげで,報告者は歴史の一史実を知ることができたのだ.好太王碑ほどの価値はないにせよ,永久に残り続けてほしい一石である.

 顛末はわかった.しかし,道は解らないままだ.民家の前を通る道は,この石碑群のあたりでクランクし,さらに先へ向かう.クランクの角の延長線上にも道があるが,これは畑を横切っていく農道だ.ここに碑があるということは,この場所が何かの隘路だとは思うのだが,農道をたどるのは少々心許ない.古くからの道であればその脇に民家があっても良さそうなものだ.

 ということで,このまましばらく舗装車道を辿ってみることにする.地図を開くと,この台地の西端に「鞍ヶ田尾」なる字があり,そこにいくつかの民家が見えた.この辺りで聞いてみるか.

 引続き畑を右手に見ながら進む.すぐに十字路.正面の道は見えている範囲ですでに下り始めており,これ以上進むと台地を下ってしまう.右手の道───これも農道風の未舗装道だが───に沿っていくつかの民家が建っている.取るべき道は右である.

 

 

 

 と,その前に,十字路の南側に大きな石碑を発見.行ってみると「道路碑」と刻まれていた.土台も含めた高さは2m強,かなり立派なものである.裏に回れば広い碑面の上の方に,わずかに文章が刻まれている.竹田町から小富士村,上緒方村に通じる道の改修を記念するものであって,今までたどってきたこの道のことらしい.上片ヶ瀬中村の三十五戸が発起し,昭和二年三月十八日着工,ここから滑瀬橋までの延長600間,工費や土地代金など七千円余りを投じて二年十月三十日に完成した,とある.片ヶ瀬隧道の代わりにつけられた道なのだ.ということは,昭和2年までは現役の道だったということか.

 

 

 十字路を右して民家の横を行く.いかにもそれらしくなく,いつ民家の庭で行き止まりになってもおかしくないような雰囲気が漂っている.しかし,旧道倶樂部の勘はこっちだと言う.行くしかあるまい.

 

 

 左手の2,3の民家を過ぎると,軽く折れて,両側を民家に囲まれた.その先で集落は終わる.結局誰にも会わないままだが,とりあえず行ってみよう.正面は畑の土手,これに沿って左に回り込んでゆけば,道は2手に別れた.

 最初は左をとってみたが,これは外れだった.畑の外れで台地の縁となり,登山道みたような細い地道で下へ下っていた.下の方には車道のアスファルトも見える.民家の近道だったようだ.引き返して分岐を右へ.これも畑の果てに至り,ぐんぐんと下っていってしまうが,何かが呼んでいるような気がする.周囲は完全なる谷.さっきの碑も「岸に洞して」と書いてあったから,台地の側面に隧道があるはずだ.

 下方に廃屋が見えた.ハンドルを握り締めて,荒れた道をそこまで下る.そうして左を向いたとき.

・・・ええい,習え右だ.

 

 

 

 

 

 

「片ヶ瀬,
キタ━━(゚∀゚)━━ッ!!」


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レンコン町・竹田を行く

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