津坂隧道(考察・参考文献)


 先にこの隧道の歴史───とそれを知るに至った経緯───を記してみたい.津坂隧道のことを初めて教えてくれたのは,阪大サイクリング部の機関誌「銀輪」1978年度版であった.ここでは麓にある古刹・天沢寺の名を借りて「天沢寺のトンネル」として紹介されている.夏に行くと涼しくていいという話を受けて,報告者は何度か足を運んだ.ただし当時の報告者は「えらく低いトンネルだな」程度にしか考えていなかった.

 現存最古級という付加価値を教えて下さったのは大教大OBの矢野氏である.メールで出典も教えていただいている筈なのだが,何しろ大学在学中のことであったから,当時のメールは残されていない.惜しいことをしたものと思う.

 明治14年という竣工年と愛称「くろまんぷ」を知ったのは,猪名川町が2001年に発行した「まんがで見る猪名川の歴史」であった.子ども向けにやさしく噛み砕かれた内容ではあったが,受けた衝撃は言葉で言い表せない(この本で杤原隧道「あかまんぷ」のことも知ったのである).すぐさま猪名川町史の近代編を読んでみるが,そこからは何も得られなかった.

 最終的に,猪名川町の教育委員会の方の手を煩わせることとなった.一週間がかりで調べて下さり,「猪名川の歴史」にあることのほか,柏原村の福井伊之助という人物が工事費1175円で請け負っていることを教えていただいた.また,猪名川町の広報紙に掲載された記事も送っていただいた.これによれば,固い岩盤と所どころにある軟岩の崩壊に悩まされた難工事であったそうだ.工費の不足は柏原の人達が私財を投げ打ち,完成させたという.

 文献資料から得られた情報は以上である.そうして,報告者が最も知りたいと思うポータルの築造年は不明なままである.どうにかして「石ポータル=明治14年竣工」を証明する理論を組み立ててみたいのだが,なかなかそううまくはいかない.

 林田側の道路の下に残る石製暗渠.これは大きな手がかりになるはずである.道路の下にあるということは,道が作られたのと合わせて築かれたと考えて良いだろう(谷を迂回する道がなかったことは確認している).そうして隧道ポータルのつなぎに使われているのと同じコンクリートが使われていることから,暗渠と石ポータルがほぼ同じ時期に作られたことは言える.が,暗渠の規模がやや大き過ぎるのが引っかかるのである.明治14年という,車もまだ一般的でなかった頃に,これほど頑丈な暗渠(暗渠そのものというより,それが支える道)を作る必要があったかどうか.
 また,1175円という比較的安価で工事が請け負われていることも注目せねばなるまい.次表は明治年間に行われた隧道工事で,工費のわかっている例である.(煉瓦隧道はこの際比較にならないかも知れないが,参考までに)

鐘ヶ坂隧道明治16年石・煉瓦ポータル+煉瓦・素掘り約260m約4万5000円
旧長野隧道明治18年石ポータル+石巻き約220m10万5776円
旧池田隧道明治19年煉瓦ポータル+煉瓦巻き約80m約2万円
浦代隧道明治42年石ポータル+素掘り(一部石巻き)約216m1万1598円
小野尻隧道明治42年石ポータル+煉瓦約230m5万8000円

 これからすると,1175円という金額はあまりにも安い.しかも工事は難渋して追加資金が必要になったという.そんな中で,石ポータルや石暗渠を築く余裕があっただろうか.素材が手近な場所で手に入ったとしても,だ.
 

 いろいろ考えているうちに,請け負い人・福井伊之助氏について知りたくなった報告者は,隧道と暗渠を調査した足で柏原に向かった.実に4年ぶりの大野山である.再訪してみて気づいたのは,棚田や家屋の土台などにふんだんに石組みが使われていること.隧道で見たのと同じ,青みがかった礫石も,ここで会うことができた.もしやと思って田畑を巡ってみたものの,林田で見たような大きな暗渠はさすがに見当たらない.ただ一軒の民家の石垣に,梁を渡す恰好の穴───その家の前にある田に面して開いている───を見付けただけであった.思い切ってその家を尋ねてみようかとも思ったが,ふと我に返れば,尋ねなければならぬ太義名分を持ち合わせていない.突然押しかけて「明治の頃に住んでいた福井伊之助氏をご存知ですか」と切り出す訳にも行かぬ.そんなこんなで,何も聞かずに帰ってきてしまった.粉雪が降りしきる中,というのも躊躇させた一因といえば一因である.

 まだまだ精進が足りないようである.


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