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権兵衛峠 (ごんべえとうげ)

【標高】・1523m
【行政】長野県木曽郡楢川村〜上箕輪郡南箕輪村(飛地)
【経緯度】北緯:35°52′20″/東経:137°51′25″
【水系】信濃川水系奈良井川(栃洞沢)〜天竜川水系北沢川
【二万五千図】宮ノ越:NJ-53-6-4-4 高山4号-4
【五万図】伊那:NJ-53-1-1 飯田1号 \ S53編
【ツーリングマップル】中部北陸 P65 4-A

 国道361号・権兵衛街道の峠。車道とは別に登山道の峠が残っている。2002年現在、延長4000m余りの大トンネルを掘削中。残り1200mほど。

『権兵衛峠は、権兵衛街道中の難所で、元禄九年までは鍋掛峠と呼ばれていた。木曾谷宮之越村神谷の牛行司(牛方たちの親方)の古畑権兵衛なる人がこの街道を開いてから、その功を記念して、街道を権兵衛街道、鍋掛峠を権兵衛峠と呼ぶようになったものである。』[伊藤桂一:『峠を歩く』より]

■編集者のコメント

 峠付近の地形は緩やかなはずなのに、西側は何故か急勾配区間が多い。とりあえず最後まで2車線で頑張ってみました、てな感じで、無理のあるカーブばかりで道的にも美しくない。そのまま車道ピークまで行って、そこから旧峠へ向かう。途中の尾根からは伊那谷を挟んで八が岳の大展望。
 旧峠にはさまざまな歌碑と並んで分水嶺の碑。平成4年の銘で比較的新しいが、この峠にあることは初めて知った。そしてきれいに整えられた水場。手水鉢からとくとくと流れ出る水は分水嶺を東へ流れ北沢川の源流となっているようだ。
 そのそばにある解説看板によれば、駒ヶ岳の西麓(つまり日本海側)から伊那谷(太平洋側)へ水を引いた水路が明治の頃に作られたのだという。それまで伊那谷の中条、上戸の集落は灌漑用水の不足に悩まされており、その西を流れる北沢川も、水利権を持たなかった彼らにとっては手の届かぬ存在であった。そこで明治の初めに考えられたのが上記の人工分水だ。松本谷の村々と協議し、水を引く許可が得られたのが明治6年。手作業手弁当で工事に当たり、奈良井側の最上流から水を引く水路を完成させたのが明治9年。今は駒ヶ岳登山道になっているその水路跡をたどっていくと、5分ほどのところにその名残である「水枡」が復元されている。畳一畳分くらいの大きさで深さは10cmほど、木で設えられたその枠に山から流れてきた水を引き入れる。ここに入った分だけを北沢川へ流し、あふれたものはそのまま奈良井の谷に戻した。さらに北沢川の下流にも同じ大きさの水枡を設置し、上で引き落とした分だけをここで取水したわけである。言ってみればNTTが設置した電話線をY!BBで利用しIP電話をかけるようなものだ。全然違うか。
 さて、峠道に戻る。西側はすぐそこに舗装が見えており、さっき登ってきた車道の途中から登ってこれたことを知る。伊那への下りは姥神峠ほどではないにしろ快適に乗っていける。峠の谷をジグザグとつづらを折って高度を下げ、左となりの谷との尾根を往復し、最終的にこちらへ移る。道の付け方は複雑だが今でも牛馬が通れそうな幅広道で、特に谷上のトラバースは権兵衛街道のハイライトといってもいい見事な風格がある。国道へ出るあたりはやや急で荒れているかな。全体として90%、フラットハンドルのMTBだったら95%の乗車率といったところ。(2002.7.:ながとみ)

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■関連リンク

・国土地理院地形図閲覧システム:権兵衛峠 
・国土地理院『うぉっ地図』:権兵衛峠 
・国土交通省空中写真:CCB-76-11-C5-12, 13, 14 / CCB-76-11-C6-12, 13, 14, 15
・こだわりの分水嶺:分水界特異点
・旧道倶樂部活動報告書総覧:権兵衛街道


権兵衛峠
 権兵衛峠。左に見えるのが水場の屋根。峠道は左右に越え、正面の斜面には歌碑が点在する。(な)

権兵衛峠
 峠の分水嶺碑。(な)

水井跡
 かつての水路は今は登山道に。その痕跡がわずかなへこみとなって残っている。(な)

水井跡
 左に見えるのが水桝。正面の斜面からは今も水がほとばしっている。(な)

峠道
 東側峠道はこのような感じで続く。(な)

峠道
 谷を移ってトラバースになる地点。こんなに道幅がある!(な)


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