行政:山形県米沢市〜福島県福島市標高:885m
|1/25000地形図:栗子山(福島9号-4)調査:2002年8月


■背景 Background

 福島県福島市を起点とし、東北の3県を縦に貫いて秋田県秋田市に至る国道13号。交通の要として早くから整備されていたこの路線の中でも、奥羽山脈を越える福島〜米沢間ほど地形的制約の厳しい区間はない。現国道ですら2000m強のトンネルを2本たて続けにつなげ、一気に山脈越えするほどの山岳地帯である。にもかかわらず、と言ってもよいと思うが、馬車の普及に伴う新道建設が最も早く始まったのはこの区間であった。栗子山の芯を抜く全長800mの栗子隧道とその前後を含めた「万世大路」が完成したのは、明治14年のことだ。そしてそれは昭和のはじめの大改修を経て、東西栗子トンネルの完成に伴い旧道化した。歴史的な観点からも、規模の大きさもトップクラスの旧道といえる。

 万世大路の魅力はその歴史を知ることでさらに膨らむ。自転車による調査報告を始める前に、予備知識としてそれを述べておきたい。幸い、万世大路については「栗子峠にみる道づくりの歴史」という良書があり(米沢市立図書館に蔵されている)、報告者は大いに参考にさせて頂いた。以下の概史や調査の項のエピソードも、この書に学ぶ所が大きい。


 万世大路の歴史は、明治7年のある日に飯坂村第三区会長・立岩一郎ら数名が奥羽山脈を越えて米沢入りした時に始まる。当時福島と米沢を結ぶ道は米沢街道板谷峠越えのただ一本しかなく、これとて嶮岨深沢の続く難路であって、無論馬車など通ろうはずもなかった。街道とはいいながら、付近の住民がわずかに利用するばかりの、運輸の隘路だったのである。これを憂えていた立岩は、ある時米沢藩の隠し道という一路のあることを知る。それは米沢城下から赤浜を通り、栗子岳の南にある鞍部・明神峠を越え、二ツ小屋の東を経由して中野に出るというものであった。実際にこの道を踏査し新道を作る見込みありと考えた立岩らは、翌明治8年に第三区会に対し新道切開願書を提出している。
 時を同じくして、当時の工務卿・伊藤博文もこの路線に注目していた。米沢〜福島間に電信線を架設する必要があったためであり、県に対してその便宜を図るようにとの通達があったのも明治8年秋のことであった。
 さらにこの頃、米沢を中心とする置賜県でも同様の新道建設計画が持ち上がり、当時の置賜県令から福島県令に対して照会がなされている。山形と福島、ひいては東北と東京をつなぐことになるこの路線への期待は、あらゆる方面から寄せられ、そして一挙に高まったのであった。

 次に三島道庸が登場する。彼は鶴岡県令であった。鹿児島生まれの彼が東北に赴任するにあたっての目標は、道路の改良によって人と県、ひいては日本という国そのものを豊かにすることであった。明治9年に鶴岡県と置賜県が合併して山形県が成立すると、三島はその初代県令に任命され、その赴任に際しても県治方針の第一に「四方の山坂を開削し便道となす」ことを挙げている。

「道路ハ運搬ノ便否ニ関シ自ラ物産ノ興廃人民ノ貧富ニ預リ暫モ之ヲ忽(ゆるが)セニスベカラザルハ勿論ニシテ皆人ノ熟知スル所タリ・・・」(明治9年11月7日・区戸長に対する告示の冒頭)

 そんな彼の赴任によって、米沢〜福島間の新道建設計画は一気に進展していく。明治9年10月14日には、県の土木課長であり、三島と同じ薩摩藩の出身・高木秀明に現地調査の命が下った。2週間がかりで栗子山周辺を調査した彼の結論はただ一つ。栗子山に長さ八町余り、約870mの隧道を穿たない限り、新道建設は不可能である、と。これに対しての三島の言葉は、彼の信念と気性をよく表していて面白い。曰く「余月山スラ其半身ニ洞シテ以テ車道ヲ東西ニ相通ゼント欲ス、一ノ栗子山何ノ難キ事カ之アラン」(山形県史資料編・三島文章)。そうして自らも現地を視察し、福島県令との協議の結果、高木のいう路線を承認するのである。明治9年10月31日のことであった。

 三島は内務省あてに工事申請を出すと同時に、その返事を待つまでもなく米沢側の新道・苅安新道の工事に着手。翌年にはもう栗子隧道の試掘にかかっている。慌てたのは内務省であった。明治10年3月、工事は指令があるまで待てという内務省からの通達。特に栗子山の隧道工事はよほど不安だったのであろう、外人水器機械工師(いわゆる測量士)を派遣して調査測量をさせた上で許可するとした。これは無理もない話で、当時最長だった静岡県の宇津ノ谷隧道ですら224mであり、しかも欧米の技術を導入した結果完成したものだった。当時の日本はトンネル建設の技術も経験も無いに等しかったのである。
 それでも三島は工事をさせろとせっつき、結局は工師エッセールの調査を待たずして、同年5月12日に正式な工事着工指令が下されるのであった。

 ちなみの話。内務省御雇技師であったゲ・ア・エッセールはオランダ出身で、当年30才。デルフト工科大学の前身である王立アカデミーで学んだエリート工学士であった。オランダ建設省を休職し、デ・レーケと共に明治6年に来日、淀川改修や野蒜築港の調査計画をはじめ、全国各地で土木工事の設計・指導を行なっている。明治11年に帰国し、その後は土木技術者の最高官位であるオランダ建設省技監も務めたという。彼の業績はむしろ築港において顕著で、例えば同じ東北の野蒜港も彼の設計であり、彼の名を冠した「エッセル堤」も残っている。

 そのエッセールの調査が行われたのは6月も末になってからだったが、結果は上々であった。隧道工事の成否は測量の精密さと工事を行う者の胆力とにかかっていると激励した上でこう言っている。「この工事は年数がかかるだろうが地質は隧道を作るのに適している。これからも度々測量を行うべし」。この言葉を元に、栗子隧道の本格工事が始まる。明治10年7月2日。
 エッセールの調査測量はごくわずかな期間に行われたが、彼はものの見事に工事を予見している。隧道西口に当たる山形側の掘削が始まったとたん、固い岩盤に突き当たり、人力だけでは日に二十センチも掘り進めなくなってしまったのである。固い地質は隧道にできれば間違い無く有利だ。そのかわり、穴を穿つことは極めて困難となる。当初の予定であった一年の工期を軽く超えてしまうのは火を見るよりも明らかとなった。
 慌てた三島は米国から最新鋭の蒸気式穿孔機を取り寄せる。米国でもまだ三台しか作られていないというもので、組み立てや操作習得に手間取ったものの、明治11年の春からこれが工事に加わった。併せて東口からも工事を開始し、穿孔機を中心にした西口からと並行して掘削が行なわれた。日本では今だ経験のない長大トンネルの掘削に加え、両側からの同時掘削ということでずれを心配する声もあったが、日本人測量士たちはエッセールの言葉を忠実に守り、厳密な計画のもとに掘削は進められた。

 資料によってはこの穿孔機の登場で工事がみるみる進んだように書くものもある一方で、やはり工期の遅れを取り戻すことができなかったとするものもある。ともかく、掘削を開始してから約3年後の明治13年10月19日、午前1時頃、ついに隧道が貫通。西口から打ったノミが岩盤を貫き、東のたがねと相交わった。現場に泊まり込んで坑夫を激励してきた三島もその場に駆けつけ、坑夫ともども貫通を喜んだ。小さなノミの穴から風が吹抜け、坑内のよどんだ空気が澄み渡る。その光景を三島が詠んだ句が今でも伝えられている。

「ぬけたりと 呼ぶ一声に 夢さめて
 通うもうれし 穴の初風」

 隧道貫通の位置は上下左右に寸分の狂いもない、計画通りの場所だったと言われている。穴を広げるにつれて抜ける風も強くなっていき、人が通れるほどになった頃が最も強く、まっすぐ立っていられないほどだったとも伝えられている。

 明治14年9月には道路工事ほかがすべて完了し、ちょうど東北巡幸中であった明治天皇を迎えて開通式が行われた。この渡り初めをもって、栗子隧道が庶民にも開放されることになる。当時の記録によれば、開通後1カ月間の往来は一日70人〜110人の通行人があり、腕車や荷車の類も日に数十台が通った。道すがらには宿屋も並び、遊女屋までできる繁盛ぶりだったとものの本には記されている。

 この栗子隧道の工事を端緒として、三島は次々と山形県内の土木事業を立案し、実行していった。県令として過ごした6年間の間に、23箇所250km余りの新道を開き、65の橋を架け、県庁の新築や小学校建設、河川工事に至るまで、あらゆる土木工事をなしている。「土木県令」という渾名は決して伊達ではないのである。


 そんな万世大路ではあったが、明治32年5月には奥羽本線が開通し、多くの荷物と旅客とが鉄道へ流れた。さらには車という乗物の出現、そのすさまじいまでの普及により、4年の歳月と当時の最新技術を投入して作られた万世大路・栗子隧道も、昭和の初めには早や過去の遺物となり下がってしまう。当然の流れとして車の通ることのできる道に改修されることが望まれ、昭和8年に改修計画が立てられたが、その背景には米国大恐慌に始まる一連の不況への対策という意味合いもあったのだった(大峠報告書参照)。
 この昭和の改修に先だって行なわれた調査で、道路の拡幅のみでは十分な効果をあげることができないことが判明。曲線部分や勾配を緩和するためにほとんど全線を改修した上で、栗子隧道と二ツ小屋隧道は1〜2m掘り下げて拡幅、山形側に作られていた苅安隧道は取り壊して切り通しとする必要があった。工事は昭和8年から始まり、4年の歳月と67万8000円の工費で昭和12年3月に竣工している。これによって福島〜米沢間は車で2時間半の距離となり、スイッチバックを多用する奥羽線よりも30分ほど早かったという。ちなみに、難工事ながら一人の死者も出さなかった明治期の工事に対し、この昭和の改修では2人の殉職者を出しているそうである。


 今日見ることのできる万世大路の遺構は、昭和初期に行なわれた改修の産物が中心となる。残念ながら栗子隧道は崩落のため通り抜けできず、両側から隧道までを往復するしかない。しかもその隧道に至るまでには数kmの薮漕ぎが待っている。それでも、というかそれだからこそ、この旧道を行くことには価値があると思うのは報告者だけであろうか。報告者だけであろう。


万世大路・福島側万世大路・山形側考察・参考文献

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