万世大路(福島側・その2)


 ピークを越え、谷をトラバース気味に下っているうち、一車線幅だった道が急に広がって広場のような地点に出る。周囲は一面の薄の原で、一見全くの行き止まりのような感がするが、その薄の壁の向こうにけもの道が隠れていた。いよいよ藪漕ぎの開始。しばらくは薄一色だが、道が盛り土の上に作られた地点から他の夏草が混じってくる。取りかかりの部分で道が半分ほど崩落しているため、それより先の荒れようが激しい。





 10分ほど草を分け入っていくと、2つ目の橋・大平橋に着く。藪漕ぎの最中に突如として現れる二車線幅の橋に驚くが、同時にほっと一息つける瞬間だ。この大平橋のたもとには、かつては福島側最後の宿場である大平集落があった。今は完全に草に埋もれていて家の残骸すら見られないが、地形図を見てもこの一角だけ平地になっているのがわかる。





 大平橋を渡ればまた藪が待っている。特にここから先は日の当たる斜面となり、藪の深さは一層深くなる。頼りはその中を縫うように走る一本のシングルトラック。二車線の道がここまで狭くなるのかと思うと、自然の回復力のすごさを感じずにはおれない。地形図ではこの後、谷の左岸で道が切れるが、実際には右岸に渡る最後の橋がある。杭甲橋である。橋に出たとたんに二車線幅になる変化が何とも言えない。右岸に渡ってからも厳しい藪が続き、加えて灌木の硬く密なバリケードがあちこちで現れはじめる。遅々とした歩みの中で道は大きく曲がり始め、ヘアピンが隠れていることを教えられる。

 杭甲橋を渡ってから隧道までの苦しいヘアピンは、施工した福島県側にとっても苦肉の策であったようだ。正式な隧道工事が始まった直後の明治10年7月14日、福島県令・山吉盛典から三島に対して一つの申請がなされている。曰く、栗子隧道の東口に接続する道に甚だしい高低差があるので、坑口を八、九間下げてもらえないか、と。これに対し山形県側は、それだけ下げると隧道の延長を100m近く延長しなくてはならない、その費用を負担してくれるなら設計を変更しようという返事。栗子隧道の工事は山形側の全負担で行われていたため、福島県はそれに合わせるしかなかったのだ。これについて内務省は、エッセールを再び派遣して測量調査をさせるから、その結果で判断するよう指示。この年の9月に再調査が行われ、結果は「変更の必要なし」であった。福島県側はさぞかし困ったことであろう。昭和の改修時にも、この隧道直下のヘアピンは重点的に改修されている模様である。


 草と灌木に埋もれた三段のヘアピンを登りきれば、道は谷奥へ進み始め、背丈ほどの高さに育った夏草の隙間からひんやりとした空気が漂い出す。それはしだいに冷気へと変わり、石組みの隧道ポータルとそれに囲まれた真っ暗な空間が視界に入る頃、寒さは頂点に達する。2つの意味で汗の引く光景である。

 栗子隧道は二ツ小屋隧道と同じく二車線幅。ただし二ツ小屋隧道に見られたような装飾はなく、あくまでも機能重視といった感じの重厚な隧道である。手前にやや土が盛り上がっていて、内部に水がたまることもあるようだが、報告者が訪れた時は幸いにも水が引いた直後であった。隧道左手には滑り台のような側溝があり、上部の沢からの水を逃がしている。この沢の水がトンネル内へ入ってしまうらしい。

 ヘッドランプを装着して奥へ入ってみる。1歩中に入るとそこは闇であるばかりでなく、物凄く濃いもやがかかっていた。ヘッドランプは周囲を照らすというよりもぼうっと光る光の帯を作り出すことしかできない。数m先のわずかな範囲に意識を集中しながら歩く。聞こえるのはかつぅん、かつぅんという自分の足音の反響のみ。もしここで落盤が起きて埋もれたりしたらどうなるだろう、なんて事を考えると余計に怖くなったりする。


 ふっと気づくと、自分の足音が壁に反響しなくなっていた。かつ、かつ、かつ。ヘッドランプの明かりも何か別のものを捉えた。岩だ。明かりを前方に向けるとトンネルいっぱいの土くれ、岩、木枠の残骸。すさまじい壊れ方をしている。向かって左上にわずかな隙間があり、怖いもの見たさ7、好奇心3の心持ちでそこへ向かう。

 が、その崩壊からわずか10mほど奥でも落盤を起こしていた。ここは底から天井まで完全に詰まっていて、どうあがいても越えられそうにない。上を見やると抜けた天井のさらに奥に荒々しい岩肌が見えている。ある意味自分は幸せかも知れない。明治のはじめに工夫たちが戦った生の岩盤を、この目で見ることができたのだから。

 この時は知る由もなかったのだが、新トンネルは主に旧坑を掘り下げる形で作られていたらしい。「栗子峠にみる道づくりの歴史」P85に掲げられた断面図を見ると、新坑のコンクリート巻き立てのさらに上に旧坑の天井がきているように記されている。この時に見た岩盤は、ひょっとしたら何十年も人の目に触れることのなかった、旧坑の天井であったかも知れない。

 この後報告者はトンネル上部を担ぎ越えて帰るつもりだったのだが、そのルートが山の斜面そのままらしいのと(当然といえば当然だが)、時間が無くなったこともあって、おとなしく来た道を引き返すことにした。もし山越えをするならば、トンネル脇の側溝に沿って上がればピンク色の布テープが案内してくれるはずである。


背景(旧道史)山形側考察・参考文献

 

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