杉本隧道(考察・参考文献)

■考察 Discussion

 県下初の長大隧道ながら、これでもかという位に雑な造りの杉本隧道.県の「隧道工営所」は何のための設置だったのか.両者の関わりを探るために、まずは地誌をひもといてみた.湖北の4町(西浅井町,木之本町,余呉町,高月町)からなる伊香郡には、昭和の初めに「伊香郡志」(以下「郡志」)という書が編まれている.これには丹生隧道という名前で隧道建設のいきさつが語られている.

 「背景」でも少し触れたが、この隧道はもともと民間企業の発案によるものであった.木之本町八草峠の麓にあった土倉鉱山がその主導者である.当時鉱山で採鉱された銅鉱石は,敦賀港から船で各地に運ばれていた.しかしながら,まずその敦賀へ至るために大変な遠回りを強いられていたという.県道揖斐高月線で金居原,杉本,川合を経て南下,高時川に沿って高時,北富永村から西に折れて木之本駅まで運び,そこから鉄道輸送というルートであった.
 鉱山にとって,杉本あたりから直接西へ出ることができれば時間的にも金銭的にもかなりの節約になる.その構想はもちろん,杉本・丹生両村にとっても利益となるものだった.

 鉱山側を代表する龍野周一郎と,関係地方の代表者───杉野村長広瀬孫助,丹生村長三国忠七,余呉村長大森七三郎ら───の間に隧道建設の合意が行なわれたのは大正5年3月のこと.延長約1千尺の隧道だけでなく,前後20丁の道も含めた新路線の建設がこの時に決まった.

 ここで注目したいのは,土倉鉱山側が隧道建設を全面的に引き受けているらしいことだ.郡志では隧道のスペックに続いて「工事の設計監督施工及び之れに要する経費一切は,鉱山側の負担とし」とあり,実務面に関わるすべてを鉱山側で受け持ったことを示している.ということは,隧道工営所が設けられたというものの,工事にはほとんど関与していなかったということになる.

 それでは何のために「隧道工営所」が設けられたのだろう.「滋賀県土木百年年表」にはこの年に工営所設置とあるだけで,その役割までは記されていない.滋賀県史にも具体的なことは見られなかった.こうなると,それ以外の資料から推測するしかない.

 頼みの綱は滋賀県公報だ.報告者は県の県民情報室を尋ね,隧道建設前後の公報をめくってみた.隧道工営所の初代主任に任じられたのは遠山貞吉という人物であることは「滋賀県土木百年年表」にも書かれていたが,公報からその就任が大正6年7月24日であることを知った.肩書に埼玉県北足立郡技手とあり,滋賀県土木技手に任じられたうえで隧道工営所の主任に命じられている.当時の公務員は今のように終生一つの県に勤めるのではなく,他県の求めに応じて異動することが多かったという. 遠山もそんな一人であったらしい(ちなみに彼は後に東京都の淀橋土木出張所所長に就いている).

 なぜ彼がわざわざ埼玉から招かれたのか.もちろん公報にはその理由までは書かれていないが,当時の埼玉県は煉瓦製造が盛んな地であり,治水のための煉瓦樋門が数多く作られた地であった(埼玉の煉瓦樋門についてはフカダソフトによる優れた研究がある).道路隧道を建設するにあたって,煉瓦を製造する技術,あるいは煉瓦でアーチを組む技術が求められた結果,埼玉の彼に白羽の矢が立った,と見るのが妥当であろう.そうして隧道工営所が設置され,技術指導に当たったのではないだろうか.ただ県下に民間の煉瓦製造会社が全くなかった訳ではなく,近江八幡市にあった中川煉瓦製造所などは大正5年頃にホフマン窯を築いているし,明治〜大正にかけて作られた北陸線や東海道線には多くの煉瓦構造物が残されている.民間技術に頼るのではなく,県として技術を導入したかったのだ,というのは少々苦し紛れの弁かも知れぬ.

 さらに調べてみると,大正6年12月26日の公報に興味深い訓令が出されていた.隧道工営所の主任が常時滞在すべき場所として,犬上郡と阪田郡の2箇所が指定されているのだ(翌7年1月1日より施行).犬上郡は現在の彦根市や東近江市周辺であり,阪田郡は長浜を中心とする地域.これは後に作られることになる佐和山隧道横山隧道の建設を視野に入れたものだと考えられる.一方で大正7年1月というと,杉本隧道が完成する6ヶ月前の話だ.工事の途中で指導者が抜けるというのも考えにくく,そうなるとやはり,隧道工営所は最初から全く関与していなかったと見るのが妥当なのかも知れない.

 県が佐和山・横山の両隧道建設を視野に入れ,煉瓦の技術者を招いて準備にかかる傍らで,全く独立した隧道工事がなされた.その結果として,いかにも素人らしい煉瓦積みの隧道───杉本隧道───が残された.
 これが,報告者の最終考察である.

 ちなみに彼の着任と隧道工営所の設置は,ひょっとしたらかなり慌ただしいものであったかも知れない.彼の着任は大正6年7月24日付けとなっているが,その辞令はそれより4日後れの28日の公報に載せられている.隧道工営所自体も,彼がそこへ着任した辞令をもって初めてその名前が公報上に表れるのである.
(同時期に設置された「砂防工営所」も,活動を始めて半年余り経ったのち,思い出したかのように設置の告示がなされている.告示が遅れた理由は,いずれも土木課の一部局であり,それほど重要視されなかったためかも知れない.もしくは当時の土木課がよほど暢気だったか,であろうが)

追記

 後日,フカダソフトのご担当者様より遠山貞吉に関する情報を戴いた.わざわざ県庁に出向いて調べてくられたのだ.埼玉県の場合は過去の職員の履歴書も一般公開されていて,それによると遠山が 県職員に採用されたのは明治30年2月.最初は土木助手(雇または嘱託の扱い)であったが,その年の6月には工手に昇格している.興味深いことに,彼は土木技術者としての学を積んでいた訳ではなく,現場叩き上げの技術者であったらしい.履歴書によれば明治12年に埼玉県比企郡に生まれ,小学校を卒業した後は地元の学者のもとで漢籍を学んだだけであったという.
 明治33年2月には秩父大宮野上の道路橋梁工事補助員に採用され,翌年には秩父工区の補助員に転用.大正5年には現・蓮田市と上尾市の間に架けられていた「瓦葺掛樋」の改修にも加わっている.瓦葺掛樋は鉄製の樋と煉瓦の土台で組まれた水路橋である(現在は煉瓦製基部のみ現存).翌年滋賀へ転任した時には彼は30代後半で,さまざまな経験を積んで脂の乗った頃だった,と言えるかも知れない.

■参考文献 References

  • 『滋賀県土木百年年表』,滋賀県土木部,昭和48年(1973)
  • 『滋賀県の近代化遺産調査報告書』,滋賀県教育委員会,滋賀県,平成12年(2000)
  • 『滋賀県伊香郡志』,伊香郡教育会(1903・復刻版?)
  • 『滋賀県公報』,滋賀県

→佐和山隧道(大正12年竣工)へ

湖国の旧隧道群リストへ

総覧へ戻る