横 | 山 | 隧 | | | 行政:滋賀県長浜市〜米原市 | 標高: 160m |
道 | ■ | ■ | | | 1/25000地形図:長浜(岐阜12号-4) | 調査:2005年2月 |
■背景 Background
長浜市と米原市(旧山東町)の境にある煉瓦造りの隧道.着工は大正8年冬と佐和山隧道より後だが、佐和山隧道が竣工するよりも早い大正12年春に完成している.従って、一連の村田鶴の作品の中では最も早く竣工したものと言える.平成13年に新しいトンネルが完成するまで,実に80年近くも現役であり続け,しかも完全に当時の姿のままであるところに高い価値がある.あの鐘ヶ坂隧道でさえ,補修を受けて84年なのである.
■調査 Experiment
米原市の側に広がる田園地帯は,横山の峰を隔てた長浜側のそれに比べて30mほど高い.従って,両者をつなぐ隧道はいわゆる片峠の様相を呈している.東側から登ればほとんどアップらしいアップはなく,新トンネルも西側に大きく傾いていて,まるで米原側へ落ちていくかのようだ.(写真は現県道から菅江集落を見る)
新道と旧道は菅江の上手で直交する.分岐点から隧道へはわずかの距離とアップで到達.真っ直ぐ延びる道の先に,煉瓦と石のポータルが威厳に満ちてそびえている.壁面の煉瓦はイギリス積み.笠石の上にピラスターが突出するタイプの冠木門ポータルである.壁面の煉瓦の染みが長年の苦労を偲ばせるが,煉瓦や石そのものに損傷は全くなく,見事なものだ.
この隧道の面白いところは,両側に煉瓦製の樋が設けられていることだ.ピラスターの手前に煉瓦の壁と溝が見えるが,これをずっと辿って行くと,2度折れ曲がって,ポータルの上につながっているのである.ポータル上部にも煉瓦で溝が切ってあり,山から流れてくる雨水を逃しているようだ.この日も若干の山水が樋を伝って流れていた.
同じ形式の樋は佐和山隧道や,後に報告する賤ヶ嶽隧道にも見られるもの───但しまともに機能しているのはここだけ───であり,この時期の3つの煉瓦隧道に共通する構造である.村田鶴の設計の特徴と言えそうだ.ちなみに,ピラスターと一体化している最下段の樋には,長手の面を斜めに切った細工煉瓦が使われている.こんな所にも村田の美的感覚が現れている,と言ったら言いすぎだろうか.
扁額には物凄く特徴的な筆致の書が刻まれている.これについては現在調査中.律義な縦棒横棒と躍動する筆運びが交錯し,広告や本のタイトルなどでよく見る,明朝とゴシックの組合せのようで面白い.右端の一文字は手扁に土(&T22C068;)だが,これは「在」の本字である(と超漢字が言っている).2文字目は「野」,最後の1文字は「河」または「道」だろうか,と全く根拠のない推測をしてみる.
横山隧道には東西に2つの開通記念碑が建つ.左は西側の碑,右は東側碑と隧道(東側の記念碑は大正13年5月建之,西側は8月だったか? 碑文は東西で同じ).隧道が作られた当時は峰を境に東黒田村・西黒田村があり,それぞれが記念して碑を建てたようで,これも他には見られない面白い現象だ.いずれも2mを超える巨大なもので,当時の人々の喜びようを窺い知ることができる.TRONコードで厳密に表すとチンプンカンプンになってしまったので,大人しく新字体と作字で書き下してみよう.
横山隧道碑 このことから,扁額はどちらも当時の県知事・堀田義次郎の筆であることを知る.全く異なる質の書をたしなんでいたとは,仲々に文人気質の知事だったようだ.調査時はここでみぞれ混じりの雪になったため,西側の扁額の落款印を撮ることができなかった.なお碑文は長浜北高校歴史部「ふるさと長浜」に掲載されているので.じっくり読みたい方は参照されたし.
忘れるところだった.横山隧道の内部は長手積みの煉瓦である.他の隧道の坑道がモルタル吹き付けで手荒く補修されているのに対し,ここは内部まで当時のまま.ひび一つない美しい離散構造体だ.これはもう,奇跡的としか言いようがない.おかげで水抜き穴が設けられていたこと,それが7:3に割って小口一つ分くらいの穴を開けたものであること,側壁部分の煉瓦は一重であることなどが知れる.イギリス積みでなくとも,こうすれば穴を作れる訳だ.
※2008追記:7月に訪れると周辺の森の茂りがすさまじく濃くなる.晩冬に訪れた2005年とは全く違う雰囲気だ.下写真左は西黒田側の,右は東黒田側の竣工記念碑である.東黒田側の記念碑は隧道前の高台に建っていて見落としやすい.寄付者名を刻んだ碑が並んで建っている(西黒田の碑は背面に寄付者名が刻まれる).
坑道ヴォールトはまだ健在であった.白化や煤でまだらになっていたり,一部破損しているところがあるとはいえ,総体としてすべてこのような「素」の煉瓦巻きである.
■考察 Discussion
碑文にある通り,この位置に隧道を穿つ計画は明治18年の頃からあった.最初にそれを考え,実行に移したのは,東黒田に生まれた高森慶多郎という人物だ.東側の新旧道が交わる辺りに───新トンネルの完成に合わせて───彼の遺徳を偲ぶ碑が建てられている.
工事請負入札
隧道工事の経験者に限っているのは───横山以前に作られていたのは杉本隧道と政箕隧道だけなので───少々厳しいかとも思ったが,それはそれ,道路用隧道に限ったものではなかったはずだ.長浜〜敦賀にかけての北陸線は東海道線に次ぐ古さであるし,東海道本線のトンネルのいくつかは明治20〜30年頃の作である.工事経験者が多くいても不思議ではない. 追記として,東口の扁額の姓名印(左),雅号印(右)を掲げておく.撮った当初はピンボケで全く無駄なことをしたと思っていたが,後に佐和山隧道の扁額のそれを撮って,同じであることに気づいた.これが堀田の印であることが判明したお蔭で佐和山の扁額も堀田筆であることがわかり,さらに佐和山隧道の印から賤ヶ嶽隧道の扁額も堀田の筆ではないかという見当がついた.記念すべき印である.
■参考文献 References
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