■考察 Discussion

 大山田村は昭和30年4月,山田・布引・阿波の三村が合併して生まれた.その村史は昭和57年に編まれている.それによれば,長野峠越えの伊賀街道が歴史の表舞台に現れるのは藤堂高虎が伊賀国に入って以降との事.津府と伊賀上野城との往還として利用されたが,高虎の頃には国防を優先して逆に整備を進めなかったようだ.それが藩政期になって,正保元年(1644)に上野〜長野越の道筋改修が始まる.江戸時代に伊勢・伊賀・志摩の三国の地理歴史をまとめた「三国地志」には,藩の公道の一つとしてこの道が記載されている(書内では「伊勢道」と記されている.一般には当時から伊賀街道であり,長野峠は単に峠あるいは橡の木越と呼ばれていたようだ).上野〜津間の道はこの長野峠と加太越が利用されたが,距離的な理由からであろう,前者が用いられることが多かったという.

 明治に入ると,県庁所在地となった津と,上野町の阿山郡役所を結ぶ道として県道に指定されている.延長は里程十三里,道幅二間二尺.明治十三年より実施された三重県道路取締規則によれば,奈良街道,初瀬街道他の八街道とあわせて仮定県道に指定されている.隧道建設もそれに合わせた節が見られる.

 大山田村史には,開通後に編まれた「上阿波村地誌取調書」(明治20年9月:名前から察するに村誌編簒のための調査資料?)の一文が掲載されている.これが語るところが,旧長野隧道のほぼ全てといっていいだろう.

「古来長野嶺ハ有名ナル嶮坂ニシテ其嶺勢伊両国ノ界ニ聳エ嶢巖崘山兀々峻路亦崎山区真ニ羊腸タリ(略) 伊国物産亦尠ナカラスト雖モ之ヲ輸出スル道塞カリ物貨人行ハ馬及ヒ籠ヲ用井テ漸ク共用ニ充ツ(略) 当時人智漸ク進ムニ従ヒ其不便ヲ感スル甚タシク明治十三年ノトキ有志者奮発始メテ此峠ノ南部ニ当レル字箕輪谷ナル嶺ヲ切削シテ一ノ隧道ヲ通セシ(ン)トス此頂上海面ヨリ高キ事直立一千六百六十尺余峨トシテ山兀立ス此頂ヨリ下ル四十間ノ處ヘ隧道工事ニ着手ヲ始ム岩壁硬緻切削頗ル悩ム明治十八年六月終ニ高二間二尺ニシテ長百二十間ヲ貫洞シテ爰ニ工事ヲ竣ル結構宏壮美麗既ニシテ東西各坑門ニ石額ヲ懸ク其書ニ(東額─補造化─当時三重縣令内海忠勝書・西額─其功以裕─当時元老院議官岩村定高書)尋テ沿道改修ノ切亦全ク竣ル年ヲ踰ル六年爾来運輸ノ便頓ニ大ニ開ク」

 また美里村史によると,この道の改修は阿波村の有志によって発案されたという.長野村,高宮村がその誘いを受けて,協議を重ねた結果として隧道建設にたどり着いた.明治13年11月12日着工,同18年6月15日竣工.のみとつるはしだけという人力のみで,4年7カ月の歳月と,総工費10万5776円(大山田村史では+96銭)をかけて作られたという.明治14年竣工の鐘ヶ坂隧道が250間で4万円の工費がかかったというから,(もちろん単純比較はできないだろうが)当時としては相当大掛かりなものであったことがうかがえる.

 しかしながら,幅4m,高さ3.8mという隧道は,その後の交通事情にはそぐわなかったようだ.大正に入ると,津〜長野,阿波〜上野を結ぶバスが峠の双方で運転され始めたが,峠を越えることはなかったようである.あくまでも人道,あるいは荷馬車手押し車の通行で精いっぱいだった.車社会に対応すべく,現在の長野隧道が建設され始めたのは,さらに元号が変わった昭和14年のことであった.
 事の序に,現国道の長野隧道の歴史にも触れておきたい.完成は昭和16年,当時の様子を伝える伊勢新聞の記事が,やはり大山田村史に掲載されている.

「あゝ開通したゾ 伊勢,伊賀国境長野峠
縣道津,奈良線の難所伊勢と伊賀の国境長野峠の新トンネルは阿山郡西柘植村安川組の手で東西両方から工事を進め廿一日めでたく導坑貫通しトンネルの奥深く従業員感激の場面を展開した.
開通の運びとなるのは旧トンネルより約十五メートル下方となるので,その延長も100メートル長く300メートルとなり幅員も倍の六メートルとなるから完成後には省営バスの運転はもちろんどんな大型のトラックも楽々運行ができる.この路線は軍事産業上の重要道路として関係府県が国道編入の実現を期するためにさきに上野町で期成同盟会が結成されたことなどを思うと新トンネルの開通は非常に意義深いものがあり,地元の長野村及び阿波村ではここへハイキングコースなどを計画している」

 「軍事産業上の」という語句は,この峠が伊勢湾と大阪湾を最短距離でつなぐことができることを指している.実際にどれだけ活躍したかは不明だが,昭和40年にはトンネル内のコンクリート補修(美里村史によればそれ以前の昭和29年にも大改修を受けているようだ),50年代前半には照明取り付けと,地道に改修されて今日に至っている.なお扁額は当時の三重県知事・佐藤正俊県知事(昭和12年12月24日〜14年3月1日)によるものである.また竣工の報が戦前雑誌「道路の改良」21巻4号(昭和14年4月発行)の地方通信欄にある.

 それから一つ,美里村史下巻の口絵に旧隧道と新隧道が並んで写った写真が掲載されている.現地調査の前にこれを見ていれば余計に迷う事もなかったであろうが,そうした無駄足もまた,旧道探索の面白さの一つだと報告者は思う.  この年に報告者が見た長野峠周辺は以上だが、その後延長1966mの新トンネルが掘削され,2008年7月12日から共用を開始した.筆者が見たのはトンネル予定地の斜面だけである.旧長野隧道はますます忘れられた存在になるのか,それとも好事家の玩具になるか.静かに見守っていきたい.


旧長野隧道・大山田村側旧長野隧道・美里村側長野峠

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