国見峠・仙岩峠(仙岩トンネル旧道)

 秋田と岩手の県境に位置し、両の県の県庁所在地を最短距離でつなぐ道・国道46号。重要な路線であることは言を待たないが、それ故に複雑かつ複数本の旧道が残っている。特に現国道ピークの仙岩トンネル付近は、現国道を除いても3つの峠と片側5本の峠道が残っているという高密度であり、江戸時代から明治初期にかけての旧街道、明治の改修で新たに作られた仙岩峠道、昭和の改修による車道と、時間軸的にも複雑に絡み合って存在している。自転車による調査報告を始める前に、この絡まりをほどいておくことにしよう。

秋田街道・国見峠

 最も古くからの峠道であり、盛岡側からは秋田街道という名前で知られていたのが国見峠である。そもそもこの峠は一般的な「たわみ越え」の峠ではなく、尾根の最上部を伝って小ピークに至るものである。柳田國男の峠理論からすればどちらも裏ということになる。しかも面白いことに、秋田側の麓集落・生保内から登って辿り着く地点と、盛岡側の橋場から着く地点が異なるのだ。前者が街道中の最高所・国見峠であり、的方と呼ばれた後者から峰沿いに登り直して越えるという道筋である。数学的に言えば分水嶺を境に不連続な峠道、lim[x→-0]f(x)≠lim[x→+0]f(x)、とでも言えるだろう。このような道であったことも幸いして車道と重なる部分が少なく、かなりの区間が当時の姿で残っている。但し、盛岡側の峠道については地形図に記載がなく、現在は消滅してしまっているものと思われる。

明治期の改修・(旧)仙岩峠

 国見峠道は坂上田村麻呂が開いたという言い伝えがあるほどに古い起源を持つが、その古さ「にもかかわらず」いつまでも険路であり続けた。明治に入っても牛馬は通ることができず、全ての荷は人の背によって運ばれていたという。そんな峠道を改修し、荷馬が通れる道を作ろうと考えた最初の人物は、実は市井の一個人であった。それは江戸末期の幕府の下で雫石代官所の官吏や諸木植立奉行を勤めたこともある人物、上野辨吉である。明治5年、彼は岩手県に対して次のような申請を行なっている。やや冗長だが、要は運輸に便利なよう国見峠を改修したいからその許可を与えよというものである。

 「今般治水修路之儀者、地方之要務云々ノ御布告御座候。然処当県ヨリ秋田街道往還筋国見峠之義者、則陸羽之国界ニシテ嶮岨之高嶽故、往古ヨリ馬足立不申、往還之旅人甚艱苦仕候。勿論諸荷物運輸難相成嶮路ニ御座候得共、右国見峠両麓、当県ニテハ岩手郡橋場村、秋田県ニテハ仙北郡生保内村之儀ハ、産業モ少キ場所ニテ稀ニ往来ノ荷物有之候得ハ、嶮路ヲ不厭背負越候ニ付、自ラ高賃ニ相成候故、荷物之出入至テ少ク一ヶ年大口計リタルニ僅五百箇ニ留マル由ニ御座候由、日庁下豪商仕入荷物、野辺地湊エ入津仕候ヨリ秋田湊エ入津仕、右国見峠ヲ運輸仕候方、道程三十里程モ近ク、諸事辨理之趣ニテ、先年秋田湊入津仕候儀モ御座候得共、何分右嶮路ノ爲メ難渋ニテ、爾来中絶相成候。・・・」(「陸中・羽後両国界国見峠嶮路改修之入費及落成之上税金取立方勘考記」)

 ここからが普通の嘆願書と違う。この国見峠の改修を県の力を借りずに行なうつもりで、まずは現地調査のための仮道を作るからその旨を秋田県にも交渉してほしい、そして完成の暁には通行税を取ることを許可してほしいと続くのである。商売がらみとは言え、ここまで周到で熱意のこもった嘆願も珍しいだろう。が、上野辨吉の願とは裏腹に、この申請書がきっかけで岩手県が動き始め、当時の権令・島惟精を中心に道路改修計画が進められていくことになるのである。
 県の改修計画は明治8年に内務省の許可が下り、すぐさま工事に着手している。それまで橋場の「一の坂」から稜線をたどる道だったのを廃止して、坂本川を遡る道を新たに開いた。川沿いの平坦な道で峠までの距離を詰め、峠下でつづらを交えつつ登って行くこの道が、今日の地形図にも記されている仙岩峠道である。西側は、やはり峰沿いにヒヤ潟まで向かい、そこから国見峠へ登らずに直接秋田側へ下るもの---つまり現在の旧国道と同じ---であったらしいが、これは昭和の改修の際に下地となって消滅したようだ。改修は同年12月に予定の工事を完了し、その月の14日にはもう、秋田県権令・石田英吉により開通の告示がなされている。

 「国見峠の儀頗る峻嶮に付右峠東南の間に更に一条の新道開削既に落成に付人馬通行差支無之候」

 とはいえこの工事、着手から完成までの早さからもわかるようにかなりな手抜き工事であったらしい。

 ところで以上の資料の中に「仙岩峠」という名前が出て来ないことにお気づきであろうか。そう、仙岩峠の名前はこの明治の改修がなされて後に命名されたものである。命名者は時の内務卿・大久保利通。ちょうどこの頃、彼は明治天皇の東北巡幸を控えてその巡り先を視察しており、改修なった直後のこの峠を越えている。そうして、翌年三月の太政官告示の中で「仙岩峠」の名をつけたのだった。

 「岩手縣管下陸中國岩手郡橋場驛ト秋田縣管下羽後國仙北郡生保内驛トノ間國見峠ノ道路ヲ改修シ新道ヲ仙岩峠ト稱シ候條此旨布告候事」(太政官日誌明治九年第三十号)

昭和の改修・(新)仙岩峠

 こうして華々しくデビューした仙岩峠だが、その後ほとんど改修を受けることなく昭和に至ってしまう。もちろん全く手がつけられなかった訳ではなく、明治23年には岩手県知事による改修のための予算請求があったり、明治35年には工事費30000円で秋田側の改修に着手したりしている。が、前者は議会において否決されて日の目を見ず、後者に至っては工事が5分の1まで進んだところで日露戦争の勃発により中止という憂き目に遭っている。明治40年に工事が再開されたものの、これも生保内村の南西境(通称源太坂)までの道を改修するに止まっている。大正から昭和初期にかけてはわずかに国見温泉の湯治客や駒ヶ岳登山客が利用するに止まり、「地図上の路線として放置されてきた」(建設省秋田工事事務所「一般国道46号仙岩峠直轄改修誌」)という有り様であった。

 ようやくまともな改修が行われたのは戦後になってからだ。昭和26年、国の策定した「阿仁・田沢特定地域総合開発事業」の一環として道路改修計画が持ち上がり、2年後には国道105号の指定を受けて本格化。着工は昭和32年、峠の句碑にもあるように8ヶ年の歳月と巨額の工費をもって昭和38年に完成した(一級国道46号線の指定を受けたのは昭和37年4月)。橋場から竜川に沿って登り、ヒヤ潟に直接至って生保内に下る幅員6.5mの道路は、それまで丸一日を要した雫石〜生保内間を車で50分の距離に変えてしまっただけでなく、田沢湖と町を一望できる展望のすばらしさで世に知られるようになったのだった。
 しかしながらこの改修も、真の意味では抜本的なものでなかったと言える。それは多分にこの土地の気候によるものである。標高800mを越える峠付近は有数の豪雪地帯で、二月の平均積雪は70cm近く、吹きだまりでは5mを越えることも珍しくなかった。12月末から翌年5月始めまで通行止めとなり、「半年間道路」というありがたくない通称までつけられている。この雪は道路を塞ぐばかりでなく、溶けた雪が岩盤やコンクリートの隙間に入り込み、再び凍って膨張する「凍結融解作用」を起こすため、法面や路面はみるみる破壊されていった。雪解けのたびに大掛かりな補修工事を必要とし、昭和38年から43年までの5年間でこの路線に投入された維持費は約4億円にもなったという。秋田側の道路を作るために必要だった工費が6億3000万円だったということを考えると、その費用のいかに莫大で勿体ないことがよくわかる。

 こうした厳しい自然条件を克服するためには、もうトンネルを掘るしか道はなかった。仙岩峠道路開通のわずか4年後、昭和42年にはすでにトンネル建設のための実踏調査が行なわれている。このトンネル建設についても数々の面白いエピソードがあるのだが、これは旧道倶樂部の範疇から外れるために割愛させていただこう。興味のある方は、やはり生保内にある仙岩道路資料館へ足を運んで学んでいただくのがベストだと思われる。


 

 結局、昭和51年に仙岩トンネルとその前後をつなぐ仙岩道路が完成し、車道の峠はたちまち旧道化した。この車道の峠も仙岩峠と呼ばれていたようだし、峠に立つ開通記念碑にも「國道仙岩峠貫通記念碑」と記されているものの、実質的な供用期間が短かったこともあって地形図に反映されるまでには至らなかったようだ。ここでは車道開通以前の仙岩峠を旧仙岩峠、車道の峠を新仙岩峠と呼び分けることにし、国見峠を含めた3つの峠として報告しよう。


国見峠旧仙岩峠新仙岩峠

  総覧へ戻る