行政:豊後竹田市片ヶ瀬〜滑瀬標高:-m
1/25000地形図:竹田(大分11号‐1)調査:2005年5月


■背景 Background

 小田無隧道は,みなみ氏の旧道方面,しろ氏の廃線隧道のホームページなどでも紹介されている.竹田に残る旧隧道の一つである.fuku氏の公開する隧道リストでは竣工年不明.お世辞にも装飾的とは言い難い,ポータルだけが石組の隧道ではあるが,報告者はそれを遠く大阪から虎視眈々と狙っていたのであった.竹田に赴いたら必ず立ち寄ろうと思って半年強,ようやくそれが実現したのは,2005年5月の末であった.

■調査 Experiment

 東側は小田無トンネルの上部から片ヶ瀬隧道のある片ヶ瀬の台地へ向かわずに右折.2,3の民家を過ぎればすぐに隧道が待っている.垂直に切り立った谷の底で,あたりは薄暗く,坑門は見事に苔蒸している.  

 小田無隧道はこの形状が全てである.垂直な側壁と円弧によって形作られた,純粋な欠円アーチ.日本広しといえども,欠円アーチの構造を持つ道路用隧道は数えるほどしか知られていない.そしてここまで純粋なそれは,恐らく日本でただ一つ.

 用いられている石は━━━さも当然といったように━━━凝灰岩である.ポータルと坑道側壁は自然石風の仕上げとなっていて,その荒々しさが坑門を蒸す苔とよく調和している.建設当初からそれを狙っていたのではなかろうかと思う程である.

 迫石が側壁とつながる部分に填め込まれた迫受石.五角形をした大きなものだ.構造的には通常のアーチに似ているが,上からの荷重は鉛直方向から大きくずれている.ポータル両脇の地山が硬くてしっかり抑えることができたからこその構造であろう.

 天井には滑らかに仕上げられた石.目の揃った布積みである.片側に灯された蛍光灯がさらに美しさを引き立てる.

 隧道の幅はちょうど4.5mであった.内部の素掘り部分はもう少し広い.坑道前半は土質で,落磐で生じたと思われる大きな穴がポコリポコリと開いている.後半は緻密な砂岩となって,側壁や天井に無数に残る鑿跡も鋭い.メソポタミア人が楔文字でtypographyをやったらこんなになるかも知れぬ,とよく解らない比喩を考えて.報告者は独り笑ったことだった.

 東側の坑口(坑道)は薄くコンクリートが巻かれているものの,強度を増すためというよりも,石組の隙間から漏れてくる山水に対処したもののよう.向かって左手を中心に激しく水が滴っていて,欠円アーチを濡らし続けている.ポータル上を見上げれば,そこは高さ10数mはあろうかという垂直の崖.工事のために切り取られたのか,それとも自然の地形なのかは解らない.  

 道はこの後100mほどで現道と合流する.滑瀬へ向かう道はトンネルをくぐる個所が無く,またこれ以外に道はなさそうであった.道すがらには大きな切り通し護岸がいくつかあったから,そのうちのどれかが,残りの小田無隧道であったかと思われる.

■考察 Discussion

 まず一つ.このポータルはいつ作られたものなのか.それを知るために多くの方の手をわずらわした.一人は竹田土木事務所の担当者氏.市のトンネル台帳と照らし合わせて,この隧道が管理番号52,「第三小田無隧道」であることを教えて下さった.「えっ,第四ではなく?」という問いに対しては「間違い無く,第三です」とのこと.第一,第二は台帳に記載されておらず,市の管轄するものではないか,あるいは既に取り壊されている可能性が高いとのことであった.みなみ氏の報告でもこの隧道以外のそれが見当たらないように書かれており,特にしろ氏は1つが確実に切り崩されたことを教えてくれる.今回の現地調査でも第三隧道以外は見付けることができなかった.残り2つは消滅してしまったものと見て間違いないだろう.それにしても,第四ではなく第三だったとは.

 竣工年は台帳にも記されていなかった━━━隧道リストにない以上は当然なのかも知れない.このリストは恐らく各地のトンネル台帳を元に作成されている━━━が,重要なヒントを提供していただく.文献を当たって,この隧道で抜ける路線が明治20年に作られたことを調べて下さっていたのだ.「定かなことは解りませんが,この『明治20年』という線が強いですね」.

 確かに,その推測は難くない.「旧城下町竹田周辺の隧道」によると,この路線,竹田から三重・臼杵に向かう道には,明治20年に3つの隧道を伴う新道が完成している.資料の内では多くは語られていないが,明治18年に大分〜熊本間の新県道(現在の国道54号線に相当する)が完成し,その平均幅員は3間以上.途中に2つの隧道があったがこれもその程度に拡幅されている.それからすれば,明治20年頃に,小田無隧道の最大幅員4.5mというのは有り得べき数字である.

 ただし,道の完成が20年であったとしても,それが即,ポータル竣工を示すものにはならぬ.一つだけ裏付け資料として加えられそうなのは,石のつなぎに使われている素材である.このポータル,つなぎに「三和土」が使われているのだ.
 三和土は,土と砂,しっくい,苦汁を以てして作る和製コンクリート.今では土間の別名としてしか伝わっていないが,その通り,昔は土間を固めるために利用されてきた.写真ではやや強調されて見えるが,石と石の隙間に赤い結着材が使われているのが見える(表面が剥離した石組の奥からも覗いており,後に埋め込まれたものではないことは確か).砂の荒さといい,色の具合いといい,三和土である.そして石積みのつなぎに三和土を使う例は,津坂隧道でも見られるのである,

 津坂隧道の竣工年と推定される明治14年頃は,コンクリートはまだ高価なものであった,現存最古の煉瓦隧道・鐘ヶ坂隧道(明治16年竣工)ではふんだんに使われているが,津坂隧道のような局地的地方的な工事にはふさわしくない素材だったのだろう.そうして身近な三和土が用いられ,西洋技術から遠く離れたこの地にあっても,然り.報告者はそう考える.


 御手を煩わした方もう一人は,緒方町歴史民俗資料舘の担当者氏である.報告者の問い合わせを受けて,現地に赴き,聞き取り調査までして下さったのだ.その結果,当地では小田無隧道のことを「ガラガラのトンネル」と呼んでいることを教わった.小字が「柄々」なのである.聞き取り調査対象は隧道近くに住む方.戦後まもなく移り住んできたそうだが,この方が来た時から「ガラガラのトンネル」は存在した.何でも昔は紡績工場があり,それに関連して掘られたものだと聞いている,と仰ったそうである.この話を伺った時にはすでに報告者も調査を終えていたのだが,紡績,ガラガラという言葉のイメージが,ポータルの荒々しいルスチカ壁と妙にマッチしていて面白く思ったことだった.
 最後に付け加え.なぜ欠円アーチであったのかだが,これは今の所明確な答えが出せていない.緒方町や竹田市には石橋も多く残っているが,緒方町のそれを見る限りでは欠円アーチのものが多く,やはり石橋築造の技術と関連があるように見受けられる.同年代に作られた石橋の迫受石がどのような構造になっているのか知りたいところだ.

■参考文献 References

鳥飼孝好(1998):旧城下町竹田周辺の隧道(別府大学史学研究会「史学論叢」第28号)

■謝辞 Acknowledgement

 竹田土木事務所,緒方町歴史民俗資料舘の諸氏だけでなく,竹田市教育委員会の方にも感謝.いただいた資料からの参照で,上記文献に辿り着くことができた.


レンコン町・竹田を行く

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