佐和山隧道(考察・参考文献・謝辞)

■考察 Discussion

 冒頭で述べた通り,佐和山隧道は「滋賀県の近代化遺産」でも「近代土木遺産2000選」でも取り上げられていない※1.存在を全く忘れられている,哀れな隧道である.念のために彦根市教育委員会にも問い合わせてみたが,彦根市史にある記述以外にはこれといった資料はないとのことだ.滋賀県国道事務所にも尋ね,調べて頂いたのだが,やはり旧隧道に関する資料は何も残されていなかった.
 彦根市史の記述はごくわずかなものである.市史によれば,当時のこの路線は県道であり朝鮮人街道と呼ばれていたという.これは江戸時代に朝鮮通信使が江戸へ向かう道として利用されていたことに因む名前である.隧道建設の計画は早くからあったようだが,経費の関係で実現には至らなかった.それが大正5年,鳥居本出身の寺村庄三郎という人物が一万円の寄付を申し出たところから急展開し,県営工事として取り上げられるに至っている.当時の隧道工事はこうした地元有力者の寄付や村民の出資に補われる例が多く.滋賀県の場合,昭和に入ってからもこの義風は続く.人々がいかに道路をわが事と捉え隧道を望んでいたかを証左するものになるだろう.


 杉本隧道の報告書で詳述したように,大正6年,滋賀県内務部土木課に「隧道工営所」が設置されている.大正7年1月1日からはその主任が犬上郡阪田郡に常駐した.前者は佐和山隧道工事に関係するものと思われる.「滋賀県の近代化遺産調査報告書」では隧道工営所の設置によって杉本隧道が作られたように書かれているが,報告者はそうではなく,この佐和山隧道───とほぼ同時に作られた阪田郡の横山隧道───を作るためのものだったと考えている.杉本隧道と佐和山隧道の構造は全く異なり,前者は半円アーチの総煉瓦作りであったのに対し,佐和山隧道から以降は,アーチ環や帯石要石ピラスターに石を用いた本格的な冠木門タイプへと移行してゆく.煉瓦の積み方仕上げ方も端正な部類に入る美しいものである.同じ部局の手によるものと考えるには,あまりにも違い過ぎるのだ.※2

 隧道工営所の初代主任は,埼玉県北足立郡から招かれた技師・遠山貞吉.彼はその任を務めたのは1年ほどで,すぐに別の人物が二代目主任に就任している.村田鶴である.

 後に数々の名隧道を設計することになる村田鶴.彼が滋賀県に着任したのは大正7年10月15日のことだ.彼の名前は今後何度も出てくるが,彼についての経歴はほとんど判っていない.着任の辞令も,遠山のような前職の記載がなく,どこからやって来たのかすら判らない.着任と同時に隧道工営所主任を任じられているくらいだからそれなりの技術なり知識なりを持っていたであろうことは推測されるが,それが前職を辞して滋賀県にやってきたためか,それとも初めての着任地が滋賀県であったのかも定かでない.

 村田鶴.謎の男である.

※1. 2005年3月,Cランクの近代土木遺産として登録された.

※2.この2つの隧道の間に政箕隧道が作られているが現存せず.写真も残っていず,当時どのような姿だったのか,誰が建設したのか不明である.ただし「滋賀県土木百年年表」では関西電力の前身となる企業が出資したとあり,杉本隧道とやや似た経緯があるようだ.

■参考文献 References

  • 『彦根市史(下)』,彦根市史編簒委員会,彦根市役所,昭和39年(1964)
  • 『滋賀県土木百年年表』,滋賀県土木部,昭和48年(1973)
  • 『滋賀県の近代化遺産調査報告書』,滋賀県教育委員会,滋賀県,平成12年(2000)

■謝辞 Acknowledgement

問い合わせを受けて下さった彦根市教育委員会,滋賀県国道事務所の方に感謝.


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