|行政:滋賀県余呉町〜木之本町標高: 327m
|1/25000地形図:木之本(岐阜15号-2)調査:2005年4月


■背景 Background

 杉本隧道(丹生隧道)は,滋賀県で初めて作られた本格的な隧道である.県下にはすでに明治時代,大沙川隧道や家棟川隧道,草津川隧道(初代)といった天井川隧道が作られていたが,山を越すことを目的とした長大隧道はこの杉本隧道が初めてであった.「滋賀県土木百年年表」によると,着工は大正6年,竣工は大正8年3月.馬蹄型煉瓦積みで,木之本町の土倉鉱山の関係者が労力や資材など一切を提供したという.
 資本はこのように民間の力に依るものだが,この隧道建設に合わせるかのようにして,滋賀県内務部土木課内に「隧道工営所」が設置されている.大正6年7月24日のことだ.後に村田鶴が,第二代の主任として招かれることになる部所である.

■調査 Experiment

 報告者は西側の国道365号線から向かった.琵琶湖の湖畔から北へゆるやかに貫入してゆく広い谷.国道は,というよりも国道の前身である北国街道は,この谷の左岸を中心に進む.

 余呉町に入った所で分岐.国土交通省の大きな青看板が目印だ.正面の細い車道が杉本隧道へとつながる県道284号であり,椿坂,栃の木峠を経由して金沢へ向かう北国街道の旧街道筋である.狭い道路にベンガラ塗りの柱の民家がひしめき,いかにも湖国の旧街道という匂いがする.また沿線には鉛練比古神社という一風変わった名前の神社もあって面白い.ちなみにこの神様の名前,諸兄は正しく読めるだろうか.正解はgoogle氏がご存知だ.

 右に左に小刻みに曲がりながらゆけば,2車線舗装にぶつかって丁字.右すれば丹生谷川を遡って丹生へと向かう.但しその丹生までの間に,峠を一つ越えなければならない.

 この峠,標高差はさほどでないが,意外と距離があって時間がかかる.谷が開けていて空が大きく見えるため,すぐに峠につきそうな感じもするが,なかなか辿りつかないのだ.こういう時はギアをローに入れて,よそ見しながらのんびり登っていくのが吉,

 と,左手に小さな祠を発見.木の立て札に墨で「郷土史跡」以下云々と記されている.かすれていて良く読めないが,かつてこの辺りにあった村?の産土神であった山王宮らしく,日吉大神(大山咋命)とその仏身である薬師如来を奉ったものという.いわゆる本地垂迹の見本みたような祠だ.軒下に穴の空いた石がぶら下げられており,祠の脇にも頭大の穴開き石が置かれていた.何か由来があるものと拝見するが,祠も立て札もそれ以上のことを語ってはくれず.

 

 

 

 

 ただし,この看板のおかげで,この道のピークが「中山峠」と呼ばれていたことを知った.現在の中山峠には余呉町が運営するレクリエーション施設「ウッディパル余呉」があって大変賑やかである.特に峠の向こう側には,大きなロッジ風の建物やテニスコート等々が並び,さらに下れば「賤ヶ嶽バトルアスレチック」なるものまであってちょっとそそられる.しかしながら無断で立ち入りする訳にも行かず,そもそもアスレチックでバトルする為にここへ来たのではない.先を急ぐ.

 下った所が丹生.谷の右岸の山際に民家が並んでいて,そこと川との間に田畑が細長く伸びている.川に沿って北上する県道は新しく付け替えられたものだろう.杉本隧道への分岐にも青看板があって判りやすい.「3km 国道303号 ─<284>→」,目指す杉本隧道が高さ制限2.5m・幅制限2.0mであるという情報もさりげなくつけられている.

 

 

 

 

 

 分岐直後は2車線の立派な道.だが,集落の外れでたちまち幅が狭くなる.古惚け苔にまみれた1車線のアスファルト舗装.杉木立の間を幾つもの小さなカーブで縫ってゆく道は,八草峠の旧道にそっくりだ.

 

 

 そうして至る杉本隧道西口.高さ制限・幅制限を宣言する鉄柱の向こうに,完全にコンクリートで覆われたポータルとして建っている.竣工当時は煉瓦積みであったが,かなり早い段階でコンクリート補修を受けたものらしく,「滋賀県土木百年年表」に載っている写真もコンクリート補修後の姿だ.こちら側の扁額には右書きで「丹生隧道」.後に述べるが,昭和3年刊の地誌「伊香郡志」でも丹生隧道という名称が使われており,かなり古くから二つの呼び名が使われていたようである.ただしこの扁額はコンクリートに直接刻まれたものであって,建設当初からこの扁額が使われていた訳ではないようだ.

 坑口付近の側壁からは激しい水音.吹き付けられたコンクリートの下に蛇腹管が埋まっているのが見える.音の正体はその中を流れ落ちる水だ.かつては煉瓦が覆っていたのであろうが,それが剥がれ落ちて───恐らくこの漏水が原因───,仕方無くこの菅が埋められたものらしい.ポータルの上に上がってみると,この激しい漏水も納得できる.ポータルの上には6畳間くらいのスペースがあり,その上から流れてくる沢水で一帯が湿地と化していた.打ち捨てられた煉瓦も数個.どれもいびつに曲がった現場焼きの煉瓦である.  

 この沢水の対策は全くなされていなかった訳ではないようだ.ポータル向かって左手の斜面に樋がつけられており,ゆるやかな傾斜でポータル上部へつながっている.右側にも樋らしき跡が見える.ただ今は土くれや枯木が詰まっていて,全くもって用をなしていない.この樋もまたコンクリートに覆われているが,最下段の側面に煉瓦が覗いており,当時はすべて煉瓦製であった可能性がある.それにしても,佐和山隧道横山隧道などで見られた煉瓦製の樋が,ここに端を発していたとは.

 自転車を置いて内部へ.点々と灯る街灯が出口に向かって真っ直ぐ伸び,一点透視よろしく遠くで焦点を結んでいる.隧道長は約300mというが,確かにそんな距離感だ.トンネル内はほぼ全面に渡って改修されていて.コンクリート吹き付けの壁がどこまでも続いている.そのような中でわずかずつの区間を,逆U字に曲げたH字綱と波板で補強してある.交互に現れる吹き付け素掘りとH字綱のアーチ.なかなか異様な雰囲気だ.

 

 

 

 行程の中程から,急にトンネルが狭くなったような感じがした.不思議に思ってよく見てみると,天井に奇妙な突起が覗いている.等間隔に並んだ櫛形は正しく煉瓦.長手積みで巻かれた煉瓦の末端である.西口坑口付近のように煉瓦巻をすべて剥がして吹き付け補修した箇所もあれば,ここのように煉瓦を残してコンクリート固めした部分もあるらしい,当時の煉瓦巻がその肌を見せている箇所も1か所だけ見付けられた.

 このような感じで,坑道はほとんど原型を留めていない.当時の面影が残っているのは東口付近のわずかの区間だけである.坑口から10mほどの区間は当時の煉瓦巻が露出していて,その構造を知ることができる.

 その前に,とりあえず外へ出よう.車がやってきた.この隧道は狭さの割に交通量が多く,慣れた地元車は報告者がいるのもお構いなしに飛ばして行く.向こうは慣れているのだろうが,生身のこっちはたまったものではない.


→Next

湖国の旧隧道群リストへ

総覧へ戻る