賤ヶ嶽隧道(考察・参考文献・謝辞)

■考察 Discussion

 賤ヶ嶽隧道は佐和山隧道横山隧道とほとんど同じ構造をしているが,建設時期がやや違う.同時に着手された2つの隧道が完成した頃に賤ヶ嶽隧道へ取り掛かっている恰好だ.しかしながら,その構想は古くからあったようだ.

 「滋賀県土木百年年表」によれば,明治21年にこの路線の改修計画がなされている.計画者は地元住民の大音竜太という人物───年表には裃に脇差姿の彼の写真も載っている───で,予算書まで作成されていたらしい.内容は872mの隧道(工費2万1,974円31銭3厘),道路拡幅2,306m(工費1,192円21銭6厘)などとなっている.しかしながらこの計画は実施されることはなかった.これに限らず北琵琶湖を東西につなぐ道は,何度も計画がなされ,そして立ち消えていたようである.
 この路線の改良計画が,大正8年に再燃する.当時の日本は第一次大戦の軍事需要で好景気の中にあり,日本中が事業熱に浮かれていた.かねてから路線改良を画策していた木之本町の篤志家・富田八郎はこれを機として立ち上がる.県議会議員の横関幸吉や沿線各地の村長をはじめとする有志と図って期成同盟を結成,堀田義次郎県知事,政友会支部長の井上敬之助らに路線改良を訴え,県会に県道改修案を提出するに至った.難所であった大音坂岩熊坂を開鑿し,木之本と塩津,永原,そして海津までを結ぶ,総工費六十六万千五百円の壮大な計画である.富田は八方に訴えて協力を仰ぎ,ついに十五ヶ年計画として議決された.大正9年のことである.

 その第一期工事が塩津浜〜大音間であり賤ヶ嶽隧道であった.同年8月には堀田知事も臨席し,塩津神社境内で盛大な起工式があげられた.工事着工は9月20日.塩津〜飯の浦間の道路改修に始まって,大正13年に隧道工事に着手している.隧道銘板は調査の項で述べた通りだが,伊香郡志では大正13年3月1日着工,翌14年3月21日に導坑が開通,昭和2年7月27日に坑内巻き立て完了とある.「拱環部は煉瓦又はコンクリート,側壁部は凡てコンクリートを以て各畳築せり」ともあり,当時から内部の大部分はコンクリートであったようだ.要したセメント樽は2945樽にもなったという.郡志ではかなりの難工事であったように書かれているが,佐和山隧道横山隧道とほぼ同じ位の日数である.延長や幅員は賤ヶ嶽隧道の方が上だから,よくやった方なのではなかろうか.

 路線はその後,第二期工事として海津村海津地内の道路改修1,850m,幅員4.5m化が行なわれた(大正15年5月15日竣工),次の第三期工事はやや遅れるが,その間に木之本〜賤ヶ嶽隧道〜塩津浜〜福井県間が国道乙種12号に昇格している.第三期(塩津村岩熊から塩津浜まで道路改修936m,幅員4.5m,昭和6年5月15日竣工),第四期(永原村大浦から小山まで2,291m,幅員4.5m,昭和7年12月23日竣工)ときて,次の第五期はいよいよ湖北隧道である.


 

 

 道路史的側面から見た賤ヶ嶽隧道は以上である.この歴史を調べる以上に報告者の頭を悩ませたのが,西側坑口の扁額である.初めて見た時は「赤城」という雅号が読めただけで,本文の四文字は一文字も読めなかった.雅号も読めたというばかりで,それが誰なのか知る由もない.この1枚の扁額から報告者の長い彷徨が始まる.

 まず,木之本町の教育委員会にお尋ねした.隧道の歴史的側面については詳しい資料を頂けたが,扁額に書かれてある言葉も「赤城」もご存知ではなかった.木之本町に古くからある図書館・江北図書館でも調べていただいたのだが,隧道完成時期に「赤城」という雅号を使っていた人物で,滋賀県にゆかりのある人物は見付からず.かわりに,建設計画を主導した富田八郎ではないことを教えていただいた(富田八郎は図書館の館長氏の祖父に当たるのだそうである.氏の話では書をたしなんでいたことはないとの事.なお当時の資料がつい近年まで残っていたそうだが,手違いで破棄されてしまった由.残念至極である).次いでお尋ねしたのは,木之本にある布施美術館.書を扱っていると聞き,「赤城」が誰かわかるのではないかと思ったのだ.突然の電話にも関わらず丁寧に応対していただき,「赤城」を署名として使っていた3人のリストを頂いた.

【赤城】程赤城[詩・文]
号は霞生、中国(明末)の人で我が長崎に従来すること二十余年に及んだ。書画をよくし美濃国養老滝の碑文は彼の書いたもの。

【赤城】清水正徳[文・書]
江戸の儒者で兵法武術に長じた。嘉永元年没(1848)、行年八十三。

【赤城】[文・書]
常陸大岩寺の住僧で石城とも記す。元治元年(1864)木芽峠で戦死。没年未詳。

(「書画骨董人名大辞典」常石英明編著 金園社出版)

 いずれも大正〜昭和初期の人物ではないが,過去に書かれた書を額に用いた可能性はないでもない.扁額には文字の他に印が3つ押されて(彫られて)いて,これは三顆印と呼ばれる伝統的なものだ.この三顆印があるということは,書法に則った「作品」であることは間違いない.ちなみに右上にあるのが引首印(関防印とも呼ばれる.好みの言葉を記す),左上の印が白文印(姓名印.姓名を彫る),下が朱文印(雅号印,雅号を記す)という.

 リストのうち三番目の赤城が気になった.木ノ芽峠といえば木之本のすぐ近くにある県境の峠.そうして元治元年に木ノ芽峠で起こった出来事といえば「天狗党」である.武田耕雲斎率いる天狗党は、水戸藩を発ち中仙道を遠って雪の蝿帽子峠を越え,最終的に金沢まで至ったところで幕府に降伏した.彼らは木ノ芽峠を越えて彦根藩の預りとなるが,やがて全員が斬首されてしまう.その中にリストの「赤城」がいたようなのである.
 おそるおそる、常陸大岩寺に電話した.結果としては,赤城という人物は確かにいたらしいが,明治の頃に寺が火災にあって古い資料が一切残っていないということだった.従って彼が書いたとされる書も残されていず,彼がどんな書を書いていたのかも定かではない.報告者のように「赤城」について尋ねられることは多いらしく,寺の住職さんは困っておられる様子だった.中には赤城の書を売り付けようとした輩もいたらしい.「赤城」探しはここで頓挫である.

 こうなると,書そのものから何かを導き出すしか残されていない.書が何を語っているのかを知るため,報告者は手持ちの漢和辞典のほかに篆書の入門書も読んだ.まず判明したのは3文字目.「如」であった.この時点で辞典がないとやっていけないことを悟る.何であれが女扁なんだ,と.購入した篆書辞書を片手に拡大のプリントアウトを眺めながらあれこれ類推し,ようやく1文字目が「周」であることを知った.正確に言えば辞典に載っている文字と現物とは異なる(本来ならつながっていない左上の辺がつながっている)が,他に似たものがないため「周」であると思う.
 4文字目も,辞典にある字体とは異なるが「匡」であるようだ.中央のIにナカグロがついたような形は,王の変形と取れないこともない.篆文では匚(はこがまえ)をもっと装飾的に書くようだが.他に該当するような文字もなさそうだ.
 そうして最後まで残ったのが2文字目.初めはぎょうにんべんであるように思ったが,篆書のそれは全く異なる形であった.超漢字に「行-テ 日」を問うても答えてくれぬ.辞書を片端からめくっていった末に,ようやくのことでヒントを得た.実は「道」ではないかというのだ.

 篆書の「道」はであって,全く字形が異なる.しかし辞典に併記されている金文の「道」はである.このような省略があるかどうか,素人である報告者には解らないが,「首」の下についているしんにょうの払い(止)を取り除けば,現物の2文字目に近くなるのである.
 そこで「周道如」をキーワードに検索してみたところ,「周道如砥」という言葉が詩経にあることがわかった.周の大路を砥石のようにまっすぐでなめらかだと形容したものだ.では,3文字目が道だとして「周道如匡」と読んだときにどういう意味があるのだろう.

 漢和辞典によれば,「匡」は曲げるの意味があるほか,曲げてただすの意味もある.例えば「匡正」は正しくする,わくにはめて正すという意味.これを知って全てがつながったように思った.琵琶湖の北部を行く道は,湖と崎によって曲がりくねった道である.それを隧道を使ってまっすぐにしたかのよう.すなわち「周」湖の「道」「匡」するが「如」し.報告者のこの推理が正しければ,書者のセンスはなかなかである.古典の四文字を引用しつつ,それをもじって全く別の、しかも絶妙な四文字にしてしまっている.


 それで,肝心の「赤城」とは誰なのだろう.2回目の調査では下から望遠で姓名印雅号印を撮ったほか,隧道の上から身を乗り出しながら,見当でつけたマニュアルピント+タイマーで落款を撮ってみた───佐和山隧道の『特殊装備』は後に導入されたもの───.上2つが望遠で撮った姓名印・雅号印,下が最近接の姓名印である.

 陰影がうまく写せなかったためどの字も判別し難いが,右上は「字」である.その下は「曰」のようだ.3,4文字がわかりづらいのだが,佐和山隧道の印からの類推で「義楽」または「義卿」であると思える.つまり「字曰義(楽|卿)」で,姓名印というより字(あざな)を記したものであり,堀田義次郎のものであることになる.確かに堀田は着工時の知事であり,起工式にも出席するなど大きく関わった人物だ.篆書という共通項もある.
 だが佐和山,横山の両隧道の雅号印は「□黄斎主」であり,赤城ではなかった.これは,隧道の竣工前に堀田が知事をやめていることに関わりがあると考えられる(堀田は大正12年に知事職を末松に譲っている).「斎主」は恐らく知事職のことを指しもので,辞職に伴って雅号を「赤城」に変えたのではないだろうか.堀田が群馬県出身であったりしたら,その可能性はさらに高くなる.

 初めて見てから半年.遠回りをしてようやく,赤城が誰なのかわかりかけてきた.

■参考文献 References

  • 『滋賀県伊香郡志』,伊香郡教育会(1903・復刻版?)
  • 滋賀県土木部,『滋賀県土木百年年表』,滋賀県,(1973)
  • 滋賀県教育委員会,『滋賀県の近代化遺産調査報告書』,滋賀県(2000)
  • 高柳光壽,竹内理三,『角川第二版日本史辞典』,角川書店(1975)
  • 高澤翠雲,『西東篆書辞典』,西東書房(1999)(文中の篆書・金文は本書より引用)
  • 鎌田正,米山寅太郎,『漢語林』改訂版,大修舘書店(1990)

■謝辞 Acknowledgement

問い合わせを受けて下さった全ての方に感謝.


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