|行政:滋賀県木之本町標高: 160m
|1/25000地形図:木之本(岐阜15号-2)調査:2004年8月


■背景 Background

 すでに八草峠報告書でも述べているが再掲する.档鳥坂隧道は旧国道303号線,木之本町の市街から川合に向かう道すがらにある.現在はその下に新档鳥坂トンネルができ,隧道は寂しく旧道化している.
 档鳥坂の「档」は厳密に言えば木扁に當.ひらがなで表記してもいいのだが,何だか間が抜けて見えるので新字を使うことにする.なお档鳥は木之本町の字名であり,档鳥の坂だから档鳥坂なのであろう.道筋としては近江から美濃北部へ抜けるための街道筋であった.

■調査 Experiment

 木之本市街から隧道方面へ向かう道は今でも国道303号線だが,ちっとも国道らしくなく,生活臭に満ちた道である.木之本地蔵院(浄信寺)の前で北陸街道と分かれた道は,宿場町の面影を残した商店街を南に向かう.つき当たりの丁字路を左折すると,今度は民家の軒先を霞めてゆく狭い道に.いかにも旧街道がそのまま車道化したかのような道である.ここから新トンネルまでは三叉路や交差点がいくつもあるが,国道を指し示す案内看板の類はない.しかしながら雰囲気で何となく正解が解り,何度行っても間違えることがない.そんな道がしばし続く.
 新档鳥坂トンネルとそこを抜ける新道は,かなりの区間を掘り割って作られている.住宅街を抜けてその道が目につく頃にはすでに目線の高さより下だ.ここで档鳥坂隧道への旧道が分岐し,左手の金網沿いに北上してゆく.小さなワインディングをいくつも繰り返して隧道着.

 隧道は装飾が一切ない質素なもの.コンクリート壁に石のアーチがはめられ,扁額が掲げられているだけである.これより10年近くも前に旧鈴鹿隧道が作られていることを考えるとあまりにギャップが大きい.が,あちらは基幹も基幹の国道1号,対するこの道は当時は県道でしかなく,それだけ扱いが違っても仕方ないと言える.またこの隧道が建設された昭和6〜7年頃は,世界恐慌から端を発した「昭和恐慌」の最中だ.経済的な足枷もあったに違いない.

 それでも,迫石の仕上げや迫石同士の接合が丹念になされていることは特筆に値する.特に迫石は一般的な台形ではなく,外側を丸く整形して全体で円を描くように作られている.これは後の観音坂隧道湖北隧道に共通するものだ.ただし表面の凸状の仕上げは「つつましやか」で,どの隧道のそれとも似ていない.ポータルとして見た時に調和がとれていて,きりっとしていると報告者は思う.設計者は伝わっていないが,やはり村田鶴の名を思い出さずにはおれない.
 写真の通り,現在の坑道は擁護パネルが巻かれていて,内部構造がどうだったかを知ることはできない.「滋賀県土木百年年表」でもこの隧道は洩れている.

 2005年4月に再調査を行なったことで,ポータルの左右に樋が作られていたことも確認できた.大正期の煉瓦隧道三兄弟と同様に,ポータルに沿うものとポータルに垂直なものとを組み合わせた2段の樋である.

 木之本側の扁額にはトンネル関係でよく見られる「道通天地」の一文と「武彦」という銘.当時の滋賀県知事・伊藤武彦(昭和7年6月28日〜9年10月26日)である.

 

 

 

 

   川合側もほとんど同じようなポータル.扁額には隧道の名と「昭和七年十一月竣功」という情報が刻まれている.隧道のことを語ってくれるのは,たったこれだけである.


 扁額によれば昭和7年竣工のこのトンネル.では,それ以前の道はどうだったのだろう.報告者は川合側のポータルの上に登ってみたところ,向かって右手に道らしき空間があるのを発見した.隧道によって切り取られ,断面を見せるそれに上がって辿ってゆくと,数十m先がもう峠であった.

 誰も通らなくなって久しいはずの峠道が,けなげに形を保っていた.切り通しの大きさからみて,当時は1.8〜2m前後の幅だったのだろう.そのまま南側へたどっていけば,しかし,齢数十年といった貫禄の杉が道から生えていて,足元は動物達の恰好のヌタ場となっている.

 さらに下ればやや開けた谷に出るが,一面に杉が茂っていて道が不明瞭となる.谷の右岸に沿っていくらしかったが,そのまま谷に沿って下ることも可能.車道の档鳥坂峠道とは,隧道から数えて2つ目のカーブのところで合流することになる.

■考察 Discussion

 杉本隧道賤ヶ嶽隧道でも引用した「伊香郡志」だが,この档鳥坂隧道のことも───ごくわずかながら───この書に記されている.それによれば当時は県道丹生木之本線の隧道であって,延長63m63,高さ4m54,幅員3m63,昭和4年9月に起工し,5年11月に竣工,工費1万9千483円となっている.扁額では昭和7年11月であって2年ものズレがあるが,これが何を意味するものなのかは今のところ不明である.「滋賀県土木百年年表」でもこの隧道や路線の工事を直接に示すものがなく,やはり真実を知ることはできないが,昭和6年に杉野村地先に中島南橋,中島北橋,一の瀬橋などが架設されていることから,題額の昭和7年11月という年月は路線全体の竣工を指すものであるかも知れない.あるいは伊香郡志の竣工年が,隧道の完成ではなく貫通の年月を示しているかのどちらかであろう.
 隧道建設には杉本村出身の元県会議員・木村孫太,賤ヶ嶽隧道の誘致にも功績のあった富田八郎といった木之本町の有力者が大きく関わっているという,この隧道に限らず,川合橋や丹生木之本線の県道への編入などにも尽力があったようである.

 最後に余談だが,スズメ目の渡り鳥にアトリという鳥がおり,档鳥という地名もこのアトリから来ているらしい.琵琶湖から北へ向かうアトリの群れが隧道のあるルートを通るのは十分にあり得ることである.

■参考文献 References

  • 『滋賀県土木百年年表』,滋賀県土木部,昭和48年(1973)
  • 『滋賀県の近代化遺産調査報告書』,滋賀県教育委員会,滋賀県,平成12年(2000)
  • 『滋賀県伊香郡志』,伊香郡教育会(1903・復刻版?)
  • Yahoo!きっず図鑑 Yahoo!きっず図鑑 - ずかんカード - 鳥類 アトリ

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