谷坂隧道(“火坂”)
2008年の再訪ではもう一つの探索をした.隧道によって役割を終えた“火坂”を見てこよう,というものだ. “谷坂”ではないのか?という方もあると思う.が,戦前雑誌「道路の改良」,昭和9年12月発行の16巻12号の地方通信欄にはこんなことが書かれてある. 「滋賀県々道御野・長浜線中火坂隧道の起工 だから当初は火坂隧道という名前になるはずで,峠も火坂と呼ばれていた,と言いたい所だが,慌ててはならない.「道路の改良」17巻11号(昭和10年11月発行)に隧道の竣工記事が載せられているが,ここでは谷坂隧道になっている. 「滋賀県内谷坂隧道の完成 報告者は最初,これを「火坂という名前で計画されたのが谷坂に改められた」と思っていた.しかしこの峠が火坂と呼ばれていたという史実はないようである.どうやら最初の報が間違っていたらしい.誤字脱字の頻繁さは本報告書の比ではない「道路の改良」だ.
どこで誰が間違えたかは神のみぞ知るだが,間違えたステップは何となく判る.手書き原稿を書く時に「口」が小さすぎたのだろう.原稿の書き手がかなりの癖字だったらしいことは,17巻11号の報で「若坂隧道」になっていることからも推測される.
…とまあ,余計な話題でページを浪費したが,ともかくそんなエピソードがあって“火坂”としたくなる報告者であった.その峠道は前ページで触れた通り隧道横の山道を登っていった先のように思われる.
隧道横をすり抜けていく道は勾配のきつい坂道で,コンクリートの簡易鋪装が施されている.つづらを折らずにひたすら真直ぐ登り上げていく道だ(この体裁は後年のもののように思われる.あるいは,墓地脇から登って巻き気味にここへ至る道もあったから,かつてはそれが本道だったかも知れない).この道は時に車両が入ってくるようだったが,山慣れた軽トラックでなければ無理だろうと思う.
行き着いた尾根は,峠と呼ぶには憚られるような広場だった.正面は薄い杉林で,その向こうで直ちに落ち込んでゆく地形が見て取れるが,そこに辿ってきたような明確な道はない.かすかな踏み分けがあるだけで,それもすぐに消えてしまう.あとは道とも谷とも見分けのつかない斜面をずるずると下るしかない.この場所が峠道として利用されていた過去があったとしても,それは昭和11年よりはるか以前のことだろう.そんなことを思ったのは,もう50mも谷を下って,急斜面と倒木によって四方が塞がれた時だった.
10分ほど掛かって反対側の麓に降りつく.先程の車道の続きかどうかは不明だが,ともかく車道林道に出てきた.この車道は隧道西口の直前から分岐している.鋭く小さな谷が隧道前を横切っていて,隧道を抜けてくる県道が築堤で超える.その袂に出てくるわけだ. 最初のページで紹介した竣工記念碑は,西口のこの築堤を渡った先にある.またその碑のそばには石仏の祠(左写真).隧道側の袂にも石仏がある.隧道以前の峠道がいかに厳しいものだったかがわかる.そういえば隧道東口にも地蔵様の祠があった(右写真).
隧道内部は街路灯が設けられているが,かえってその灯りが度重なる補修の跡を浮かび上がらせ,ひどく汚く見えてしまう.隧道の宿命ではあるし,こうして補修され,大事に使われていることを良しとすべきなのだろう.
■考察 Discussion
調査の頁で述べた通り,この隧道は半円形ピラスターにデンティルをつけた本格的な新古典主義の意匠である.もし湖北隧道───日本唯一の表現主義の意匠を持つ隧道ポータル───が村田鶴の作であったならば,ただ単にこれがここにあるという以上に意味のある,つまり彼の芸術一般に対する造詣の深さを示すものとなるだろう.観音坂隧道で生まれた坑口を前に出すパターンは湖北隧道に.下見板張り風の装飾はここに結実し,最も美しい花を咲かせたとも言える.
隧道の概念を覆し,積極的に意匠を持ち込んだ村田鶴.この隧道を最後に,彼の姿は消える.
■参考文献 References
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