|行政:滋賀県草津市標高: 200m
|1/25000地形図:木之本(岐阜15号-2)調査:2005年3月


■背景 Background

 滋賀県は天井川の多い土地である.山から流れ来る川が土砂を運んで扇状地を成し,また川自らを嵩上げして.まるで土手の上に川を通したかのようになったのが天井川である.平地にどこまでも長く横たわるそれは交通を遮るばかりでなく,ひとたび大雨が降るとたちまち決壊して洪水を引き起こす.滋賀県の土木の歴史は,この天井川との戦いの歴史でもあった.
 天井川を克服する手段の一つとして人々が取った手段は,天井川の下に隧道を通すことであった.明治17年には中仙道沿いにある大沙川の下に大沙川隧道が穿たれた,そして東海道の道筋には,明治19年,草津川隧道が掘削されている.この2本に限らず,滋賀県各地には天井川隧道が多く,県の特色といっていい.
 本報告書で報告する草津川隧道は,昭和11年に作られた二代目の草津川隧道である.今でも現役で活躍する国道1号登り線.利用する人々の多さからすれば,随分と忘れられた旧隧道である.
 

 

■調査 Experiment

 国道1号ということもあるので,アプローチ等は省略する.草津駅から歩いても10分もかからない.隧道は鉄筋コンクリート製の矩形断面,ボックスカルバート型で,ぱっと見では何の変哲もないトンネルである.しかしこれが戦前の作であるという歴史的背景を加味すると,また違ったものが見えてくる.  少なくとも,滋賀県内で初の純RC道路トンネル.全国的に見てもこのタイプのもので年代が確定しているもの(戦前のもの)は少ないだろう.「近代土木遺産2000選」では特に明記されたものはないため,ひょっとしたら現存最古か,という思いが頭をかすめるが,誰も気に留めてなかったというのが正解といったところか.全国を調べればもっと古いものが出てきそうだ.

 

 

 この形を採用したのは,やはり天井川という高さ制限があったからに違いない.そして国道1号という交通の動脈として機能が重視され,2車線分の道幅が要求されたためだろう.とは言い乍ら,最初期のものだけあって今日よく見るボックスカルバートトンネルよりは装飾的だ.ポータルには化粧コンクリートが施され,左右にピラスター様の柱,そして笠石帯石を擬した段差がつけられている.いかにも過渡期といった感じがしていい.
 天井川という特殊な地理条件と,途切れることのない車の往来に70年近く耐えてきた彼だが,さすがに随所に痛みがみられる.天井には無数の擦り瑕が,化粧コンクリートもいくらか剥離しつつあり,痛々しい.

 題額には「草津川隧道」と右書きされ,昭和11年3月竣工と揮毫者の名前「□山」が見える.一文字目は崩してあって何と読むのかわからない.当時の県知事は村地信夫(昭和9年10月26日〜昭11年4月22日)だが,彼ではないようだ.彼は昭和10年竣工の谷坂隧道の題額を書いているが,これでは「村地書」となっている.つくづく草書の知識がないなあと思う.

 隧道内は自転車歩行者ともに通行禁止になっている.律義に従うとかなりの遠回りを余儀なくされるが,ここは交通法規に従って行こう.隧道横の斜面を上がれば,上は草津川である.

 現在の草津川は完全に枯れ川となっている.上流部の治水工事が進んだためだ.トンネルの真上に相当する川底には,石を積んでコンクリートで固めた補強が見えている.高さは隧道ポータルとほぼ同じ位である.  

 南側のポータルは北側と同じ.題額も含めて全く同じである.下り線は昭和46年に作られた草津川第二トンネル.二車線幅の単線トンネルだ.二代目草津川隧道は単線二本であったから,技術の向上を垣間見ることができる───などど言うと大げさに過ぎるか.
 ちなみに下り車線は三代目の草津川トンネル.昭和40年代に作られたもので,旧道倶樂部の興味の対象からは外れるが,北側の扁額がちょっと面白い.草津中学校三年生・松田明君の筆によるものだ.


■考察 Discussion

 この草津川隧道についての資料を草津地方整備局に探していただいたが,これといった資料は残っていないとのことだ,仕方がないので古い草津川隧道の歴史を振り返ることでお茶を濁そう.

 草津川の下を抜ける隧道が初めて作られたのは明治19年.工事は地元村人からの請願がきっかけとなっている.隧道の南口の辻には草津川隧道を解説する看板があり、その願書が記されていたので転記してみよう.

中山道筋草津砂川隧道開削並ニ東海道筋大路井村新道開築事業起功ノ義願書

栗太郡草津村ト大路井村ノ間字砂川タル平日干川ニシテ風雨少シク強ケレハ頓(ニワカ)ニ出水シ動モスレハ暴張堤防危ク、殊ニ大路井村ト草津村トノ間ニ於テ東海中仙両道ノ渡場アリテ、平素ハ干川ナレハ通行便利ノタメ両渡場トモ堤上ヨリ四、五尺斗リ(バカリ)切下ケアルヲ以テ出水毎ニ両村民之ガ防御ニ困却致シ候ハ,外川添村村ノ比ニアラズ候、且亦出水毎ニ土砂下リテ川床自今平地ヨリ直ニ径弐丈余モ高ケレバ、年々道路修繕相成候ト雖トモ何分高砂川ニシテ人馬通行ノ難所タルハ衆人ノ熟知スル所ニ御座候、之ガ為村民ノ労苦費用モ又少ナカラザルニ付、今般東海道推ヲ本村字新屋敷ヨリ中山道筋本村字北ノ町ヘ新道ヲ開通シ、而シテ中山道筋ヲ本村ヨリ草津村ヘ草津砂川ニズイ道ヲ開サクスル時ハ、人馬通行ノ便利ヲ能クスベキ義ニ付右工事費ノ内ヘ本村有志者ヨリ金五百円支出仕ル可ク候条何卒全テ公費ヲ以テ右事業御起工相成リ度別紙麁絵図(ソエズ)相添エ此段願奉リ候也
明治十七年八月二十日

栗太郡大路井村
有志者総代
長谷重兵衛
平井綱男
中野清蔵
長谷庄五郎

滋賀県令 中井 弘殿
前書之通リニ付奥印仕リ候
右村書役長谷恒治郎

 この請願が受け入れられて、明治18年12月4日、総工費7368円14銭9厘をもって着手された.完成は意外に早く、翌19年3月20日のことであるという.たまたま当時の「工學會誌」(明治19年3月発行)に建設前後の様子が描かれているのを見付けたので,合わせて記しておきたい,

在來東海中仙ノ両道ノ岐點即チ草津驛ト大路井村トノ境ヲ流ルル艸津川ハ川底高ク殊ニ降雨ノ際ハ非常ノ出水ニテ往来ヲ止メタル┓多ク行旅ノ不便不少依テ滋賀県会ニテ川底通過ノ┓ヲ決シ其工事一切ヲ藤田組エ委任セリ其仕様即チ隊道ハ長サ百四十四尺内法欠圓十五尺高サ十三尺ニテ基礎ハ杭打ノ上ニ「コンクリート」地形ニテ隊道ノ兩側ノ「サイド」壁ハ高八尺ノ切石積ニテ其厚サ四尺七寸頭部ハ煉瓦石四枚積ノ欠圓形ナリ是ハ昨年十二月初旬ノ起工ナルガ接續道路改築三百間ト共ニ來月初旬竣工ノ見込ニテ其工費ハ隊道費金六千八百九十四圓余修路費千三百圓余ナリ

「滋賀県土木百年年表」より引用

 

 完成した隧道は「まんぽ」と呼ばれて親しまれ,昭和に入って二代目の草津川隧道が作られるまで,日本の動脈であり続けた.「滋賀県土木百年年表」には当時の隧道の写真が掲載されている(右写真).光の具合からして南口を写したものだろう.

 ついでながら、ここでも藤田組が登場することに注目したい.逢坂山隧道や鐘が坂隧道も藤田組の施工だし,学会誌の次のページでは天筒山隧道(金ヶ崎隧道)の工事も藤田組が携わっていることが記されている.当時の隧道工事のほとんど全てを請け負っていたかのような頻出ぶりである.


 現在の初代草津川隧道は,改修を受けてボックスカルバート型の現代的トンネルに生まれ変わっている.南北の商店街をつなぐトンネルは,あたかもただの生活道といった表情だ.天井川隧道は地元の生活に密着しているだけに,拡張工事で取り壊されてしまうのは宿命なのかも知れぬ.南側の坑口脇に残された扁額だけが当時の姿を偲ぶよすがである.

■参考文献 References

→大崎隧道(昭和10年着工)へ

湖国の旧隧道群リストへ

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