旧馬神隧道(考察・参考文献)


■考察 Discussion

 鐘ヶ坂金ヶ崎春日野旧池田と,最初期の道路用煉瓦隧道は関西圏に集中している,鉄道用の煉瓦隧道も,多くはこの例に洩れない.馬神隧道だけが飛んで九州にあり,そういう意味からすれば一連の系譜から外れた存在と云える.しかしながら想いを藩政時代にまで遡らせれば,なぜここに煉瓦隧道が残っているのか,その理由が見えてくる.

 薩長土肥,という言葉があるように,幕末の肥前佐賀藩は雄藩の一つであった.もともとは裕福な藩ではなかったが,長崎の警護役を努めるかたわらで西洋技術をさかんに採り入れ,その技術力で一躍諸藩を追い抜いたのである.蒸気機関の模型と実物視察から,独自に蒸気船を造り上げたというエピソードが有名だ.
 佐賀藩のそんな技術力の現れの一つに.嘉永3年(1850年)築地に築かれた洋式反射炉がある.反射炉は銑鉄を融かして精鉄を得る炉であり,18〜19世紀のヨーロッパで発達した技術.佐賀藩は独力でこれを完成させ,当時最新鋭のアームストロング砲を造り,幕府に納めたりなどしている.反射炉に使われる素材は,鉄が融ける千数百度の温度に耐えるものでなければならず,多くは耐火煉瓦が用いられていた.残念なことに当時の炉は現存していないが,このページによれば「反射炉の煉瓦」が残っているようだから,やはり煉瓦が使われていたと見て良いだろう.また,かつてこの炉があった場所─長瀬町の日新小学校の校庭─に建てられている反射炉模型にも煉瓦が用いられている.(ちなみに佐賀藩の反射炉は,炉の内張りに陶板を使うことで成功したという話を,高校の時分に聞いた記憶がある.建築煉瓦は作れても耐火煉瓦とまでは行かなかったのかも知れない)
 ともかくも,佐賀には明治以前から西洋技術と煉瓦が存在した.それを隧道の内巻きに使うことに思い至ったのが,文明開化の後になったというだけのことなのだ.そう考えると,隧道ポータルの3段げた歯構造も,どこか余裕の戯れのようにも見えてくる.

 それでは,道の歴史についてはどうだろう.馬神隧道周辺は,福岡〜佐賀〜長崎をつなぐ長崎街道と,佐賀から唐津へ向かう唐津街道とを連絡する位置にあったため,古くから交通の要衝であった.特に北方町の属する杵島郡は,古代官道の杵島駅があった場所とされている.そのためであろう,多久地区と北方地区を結ぶ峠には,大峠越・志久峠越を中心にいくつもの峠道があった.もちろん馬神峠もその中の一つである.
 江戸時代には峠北に多久藩があった.佐賀藩の家老職を代々務めた多久氏の治める領地である.多久藩領は馬神の峰を越えて北方のほうへ食い込んでおり,領内の行き来という意味でも峠越しの交流が繁かったのである.
 北方の山手の人々にとっての中心は,あくまでも峠を越えた向こう側の多久であった.そのため隧道建設も北方に住む人々の主導で行なわれた.この辺りの経緯については佐賀県の近代化遺産報告書に詳しい.報告書によれば北方の稗田市次郎という人物がスポンサーとなり,堤半助,板屋保教ら7人からなる開削委員会が北方地区に結成され,この委員会の指揮のもとで隧道掘削と取り付け道路の建設が行なわれたという.明治28年には鉄道の佐世保線が武雄まで延び,これに接続することも考慮に入れて,人力車や大八車もすれ違える幅(約4.5m)に設定したとされている.

 最後に,報告書ではトンネル部分の竣工を明治18年5月としている.取り付け道路の完成が明治21年10月.「近代土木遺産2000選」の明治21年というのは道路も含めた竣工年を示しているようだ.隧道自体の完成年で比較すれば鐘ヶ坂に次ぐ古さとなり,現存する2番目に古い道路用煉瓦隧道ということになる.あの繊細な煉瓦と築造の技術の高さがいちだんと輝くというものだ.

■参考文献 References

  • 第二版・日本史辞典,高柳光寿・竹内理三,角川書店,平成元年(1989)
  • 佐賀県の近代化遺産,佐賀県教育委員会,平成14年(2002)
  • 日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000選,日本土木学会,平成13年(2001)

■謝辞 Acknowledgement

 資料を提供いただいた佐賀県教育庁,多久市立図書館の方に感謝.


 

 

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