|行政:滋賀県浅井町標高: 200m
|1/25000地形図:虎御前山(岐阜11号-3)調査:2004年8月


■背景 Background

 村田鶴の最後の「作品」となる谷坂隧道.昭和10年竣工,現役である.意匠の完成度が極めて高く,日本土木学会の「近代土木遺産2000選」では東の笹子隧道と並ぶ本格的な新古典主義の隧道として高く評価されている.道の機能としては琵琶湖を取り巻く山襞の一つを抜けるもの───県道郷野湖北線───であり,横山隧道横山隧道,観音坂隧道と似たところがある.ただし国道沿いから少々離れた所にあるため,2者に比べて通るものの少ない寂しい道である.

■調査 Experiment

 国道365号から県道に入るには,確か265号の青看板があった筈.分岐直後は民家街の中をクランク状に折れて行くが,このあたりはあまり県道らしくない.むしろ瓜生や野田の田園地帯に入ってからのほうが主要道らしくなる.そのかわり全くの吹き晒しなため,自転車で,かつ向かい風だったりするとなかなか難儀だ.隧道が越える峰はこの付近からすでによく見えている.
 峠麓の小室から,ちょっと投げやりな道のつき方で山道へ.1.5車線幅のアスファルト舗装であるが,あまり車が通らないせいかうらぶれて見える.

 きびきびと高度をあげて,谷坂隧道西口着.麓からは,このような豪勢な建造物があることなど微塵も感じられない.知らずに訪れたとしたらさぞかし驚くであろう.ポータルは半円形ピラスターに下見板張り風の装飾,笠石下にはデンティルがつけられ,新古典主義風の建築物としてよくまとまっている.Aクラスの指定(国指定の文化財にふさわしいとされる)を受けているのもうなづける美しさである.
 アーチは馬蹄形.観音坂隧道湖北隧道に見られたようなせり出しはなく,横に長い翼壁が広がっているばかりである.谷が広く浅いため,横幅を取ることに重きが置かれたのであろう.ともするとポータル全体がただの壁みたような印象になりがちなシチュエーションを,この意匠でうまく切りぬけているように報告者は感じた.

 

 

 東側のポータルも同じデザイン.こちら側は日陰がちなため,夏でも薮が薄く笠石付近の構造がよく見える.デンティルはその間隔を乱すこと無く付け柱に沿わせられており,緻密な設計がかいま見えるばかりかコンクリート打設技術の高さも伺わせる.但し,アーチの曲面の仕上げはあまり綺麗ではない.三箇所の継目が目立ち,縦に長く型枠の跡が残っている.昭和10年の建造物にそこまで突っ込むのは厳し過ぎるかも知れぬが.

 アーチの迫石は大正期の煉瓦隧道や横山隧道,そして昭和の観音坂隧道と同じ形状.5cm前後の段差をつけ中央を凸にしている.前年に完成している湖北隧道とは趣を異にする───というよりも,湖北隧道が例外的か───が,この方が新古典主義的でよさそうだ.

 扁額はどちらの側も「谷坂隧道」.揮毫者である村地の名前も刻まれている.また隧道の西口を少し下った山側には開通記念碑が建てられている.

谷坂隧道開鑿記念上碑

元滋賀縣知事從四等村地信夫篆額

凡殖産興業之本在便運輸而吾上草野村與田根村雖疆域相接民情亦同有谷坂之峻嶺隅焉不能東西通功彼此易物里人常深感之矣東浅井郡所擧縣會議員佐野眞次郎君慨之欲鑿隧道與兩村有志謀議即合是大正十四年十月二十一日組織期成同盟会屡陳情於滋賀縣要路以期達其志既而大正十五年縣会可決其建議案爾來兩村有志東奔西走鋭意籌策遂為縣當局所容昭和七年諮縣會議乃決因卜日起功工善吏勤晨夜展力至昭和十年九月成工費凡十五萬六千有餘圓而二萬三千餘圓係兩村民醵出嗚呼兩村民攀峻坂躋險路者久矣今遭昭代浴聖澤車馬之往來至便貨物之供求極易家給人人足是豈徒兩村民之幸哉茲際開鑿五周季記其梗概以傳後昆云爾
皇紀二千六百年記念 昭和十五年十一月三日
元滋賀縣経済部長正五位勲四等鈴木脩藏撰文
滋賀縣嘱託正七位勲六等脇坂芳三郎書

 『工善吏勤晨夜展力』は「工善く吏勤し晨に夜に展力して」と読むのだろうか.面白い表現だと思う.村地知事もまた篆書をしたためているのも興味深い.歴代の滋賀県知事は揃って書に通じていたようだ.

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