nagajisの日不定記。
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今回から開催場所が西宮北口駅近くに変更となり,通勤?に時間がかかるようになったうえ,提出しなければならない書類がいくつもあってその準備に追われていた.終わってようやく一息つける状態に.
任命書と調査員証ほかが届いた.蛍光イエローで目に痛い.落としたら大変だろうに首にかけて携行せよという(わざわざそういう注意書きがある).気を付けないといけない.
馬の蹄の踏む所,櫂の及ぶ限りの水通行御免と謳った木地師の御綸旨の如き効力を持つものではない.調査の際にはあらかじめ申し込みをしなければならぬ.そうして許可を得てから入ること.そこんとこヨロシク>nagajis
橿原神宮前行きのホームに隣って建つこの建物.結構古そうな感じなのだが何だったのかよくわからない.ご存知の方おられたらお教え頂き度く候.
二階建てで,二階はかなり天井が高いようだ.入口は右写真のように直接二階に上がるようになっている.一階からも入れるようだが,正玄関?は階段を上がったところのほうらしい.その上に銘板が貼られていた気配があるから(四角いでっぱり×5).五文字の何かが貼られていたのではないか.ひょっとしたら大軌の内膳変電所か?
軒下にささやかな装飾がある.それ以外にもちょこちょこと意匠を施したようす.
位置的雰囲気的には変電施設か何かのような気がする.いまは近畿リテールサービス?が使用.それ以外にこの建物に関する情報は皆無であった.
畝傍跨線橋や神宮外苑道路についての資料を読み込んでいる.なぜこの道が作られたかを知るためには2600年事業の何たるかを知り,その成立過程を吟味せねばならぬのだが,その辺りのことも仔細に書かれていて参考になる.あまりに仔細過ぎてこちらまで洗脳されそうな感じさえする.
言っていることは至極真っ当なのである.道具に感謝すること,互いに協力することは美徳として考えていい.八百万の神を信仰しあらゆるものに神を見出した※旧代日本人の思想にそぐわないものでもない.しかしそれが戦意高揚と結び付けられる辺りからおかしくなってくる.神武天皇が即位し橿原宮を建設する時,その造営に参加した人々が,使った斧やら鋤やらを神器として崇めたという.従って畚も担い棒も大切にせねばならない,菊の御紋が入っていなくても天皇からの賜り物である云々.その辺りの連続があまりにシームレスなので切り分けることが難しい.作為的にそのようにしたかのように思えるほど.
※それはそれは綺麗な女神様とか
事業に際しては各地で乱立するのを防ぐという名目で二千六百年記念事業を行なう財団法人が置かれ,また内閣総理大臣を長とする事業委員会が設置された.そういう団体なり委員なりがよほど策を練って事に当たったらしいことが,文章の端々から嗅ぎ取れる.あからさまに戦意高揚を謳うのではなく,身近なところから始めて皇国思想に持ってって,実はその続きに戦意高揚があるという感じ.時代はちと違うが「玉座の背後に隠れて銃を撃つ」みたいな卑怯さがある.というわけでばっさり切り捨てるわけにもいかない.臭いからっていって鼻つまんでたら匂いがわからんからな.
「妙な」皇国思想はこの頃に端を発してて,それが過去の全部を表しているように誤解されてるんじゃないかと思う.2600年が云々されるようになったのはS8頃からで,上記の団体・委員の設置が議決されたのがS11頃(うろおぼえ).それ以前にああいう尊皇思想が市民レベルでとやかく言われたことはなかったはず.少なくとも浸透していたようには思われない.「道路の改良」とか「工事画報」とか読んでると特にそう感じる.ここに書かれているのは技術者層の言葉だから余計に目立つだけなのかも知れないが.
S15.11.3の祝典が終わった途端,手のひらを返すように日本は元の戦時体制へ戻った.当時の流行語にこんなものがあるという.「祝い終わった,さあ働こう」.当時の市井の人々はどう思ってこの言葉を使ったのだろう.その後をどう過ごしたのだろう.果たしてその6年後,昭和21年には「汝臣民飢えて死ね」プラカードが登場する.「大本営発表」なんていう言葉が今でも応用されていて,それ使って政府のことを全否定していれば安泰と考えている層さえある.極端なのだ.日本人は.
橿原神宮周辺の都市計画事業を立案したのは内務省技師で都市計画家の藤田宗光という人物.「道路の改良」への投稿や,事業報告書と言える書『橿原神宮と建国奉仕隊』も発行している.宮崎市の都市計画も藤田宗光が担当(これも2600年事業の一つだった).書いて残したものを読む限りでは徹底的な右派なのだが,工事で残したものには技術者的視点が読み取れるように思われる.頂点から畝傍山を正面に見ることができる位置に跨線橋を設定.曲線を多用したのはドライブが単調になることを避けるため.そうして重要な箇所には(恐らく日本で最初に)緩和曲線としてレムニスケートを導入した.近接する宅地や鉄道路線を移して新市街地を形成したのも「先を見越した徹底的な計画」と言えなくもない.わずか数年でここまでの理想的都市を作り上げ,未だにその通りで利用され続けてるってことは,それなりに評価されていいんじゃなかろうか.
旭川開村が23年、屯田兵入植開始が明治24年だし、なんだか一直線の道も北海道のようですね。
>KINIAS役員会<br>へぇ~ やっぱり偉い人だったんですねぇ~(尊<br><br>下の写真に対して「現在」というキャプションの写真がいかしている!このようなモノクロ写真の風景を生で見たらどうだったんだろうなぁ。あまり感慨はないんだろうなぁ,きっと。
北海道ぽいですねえ.もうちょっとユニークな名前をつけてほしかった.<br><br>偉い人ちゃいますよ.申しこめば誰でもなれます>会員
モノクロ写真の当時の景色って気になりますよね.空の青,森の緑,道の黄土色を想像すればだいたい合ってそうな気がしますが,看板なんかはどうだったんでしょうね.<br>S30年代のカラー写真を見ると,色はいろいろあるのだけれども,道が地道なせいかずいぶん寂しい感じがします.