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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2014-12-18 [長年日記] この日を編集

[D] 12/18朝(6時起き2度寝中)

今までの人生のどこかで出会った、さほど親しいわけでもない、廃道にもそれほど興味を持っていない人物とともに探索をしている。ターゲットはとある廃隧道。

なんやかやのイベントがあったあと、二人の前に巨大なトンネルが現れる。現代的なトンネルで、大きく開いた口の奥で土砂が崩落しているのが見えている。廃物件であることがあきらかだ。市街地のはずれという立地であることもあり、廃隧道というよりも廃墟的な何かを見ているよう心持ちがする。

相方氏はそれを見て「ずいぶん古そうだ」という。そして、探していた廃隧道がこれなのではないかという。しかし、全幅10mあるのではないかというような大きさや、半円形の口の開け方などを見るに、つい最近作られたトンネルのように私には思える。左右に歩道があるところなどはいかにも現代的な高規格道路的ゃないか。私たちが探しているのは明治時代の隧道だ。それがこれであることはないだろう。といったことを口にして私は反駁するが、相方はあまり納得してくれない。「そうかなあ……」とか何とか言って恨めしげにトンネルを見やるばかりだ。

その後短いイベントがあったあと場面が変わる。場末の街路をさまよっていった先(さきほどのトンネルの反対出口、もしくは坑道の横腹の辺りと認識している)に、コンクリートで塗り固められた法面工があり、そこに石組みが埋まっているのを発見する。「あれだ!」と思い、近寄ってみると、確かにそれは隧道ポータルだった。コンクリートで蓋をされ、上下左右もコンクリートの厚化粧だが、いかにもな扁額が露出していて元隧道だと主張している。隧道名が刻まれているその扁額より先に扁額右側に掲げられた工事記録銘板らしきものに目が行ってしまい、それを読んでしまったため、隧道名はわからずじまいに終わった。

工事銘板は縦書きだった。冒頭に「明治二十二年竣工」とか何とか書かれてある。それを目ざとく読み取った私は、相方に向かって誇らしげに宣言する。「ほら、明治竣工って書いてある。これが探してた隧道やで」。頭の中ではこの坑門構が先程の坑口と繋がっている。以前あった隧道の片側の口を取り壊し、拡幅して新しいトンネルを貫通させたのだ(じゃあさっきのが探していた隧道でいいんじゃんか、といまの私は思う)。

工事銘板には続けて文字が刻まれている。「加古川ヨリ○○二至ル街道」「隧道三ヶ所」云々と。このトンネルが作られた路線のことが書かれているようだ。やっぱりそうだ、現存している2隧道の他に、この隧道を加えて3箇所に隧道があったのだ、とさもパズルのピースが揃ったかのように合点する私。そんな情報は初期段階では出てこなかったはずなんだが。3隧道の1つを探していたというわけではなくて、無関係だと思っていた2隧道(と今回発見した隧道)が互いに脈絡のある存在だということが判明した気になっているのだ。

固有名詞や映像は出てこなかったが、小野尻隧道と鐘ヶ坂隧道にこれを加えて3つなのだと、夢の中の私はイメージしている。加古川から社に出て柏原に出て鐘ヶ坂を越えてというルートなのだ。そういう想像はこれまで一度もしたことがなかったにもかかわらず、夢の中の私はそれを直感的に看破して愉悦に浸っていた。空間と情報を整理する力ーーーちうより情報を隔てる理性的な壁が取っ払われた状態になっていて、素面なら「あり得ない」と即答してしまうことをたやすく真実にしてしまうらしい。夢は怖い。怖いは夢。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ あきら@大阪 [>今までの人生のどこかで出会った、さほど親しいわけでもない、廃道にもそれほど興味を持っていない人物~ 呼ばれた気がした(・ω・) まぁ、平時なら「有り得ない」と思ってるトコロに実は解答が用意さ..]

_ nagajis [んー、違うと思うな。メガネ男子だった記憶がある。]


2014-12-19 [長年日記] この日を編集

[]

津名郡 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269442/217


2014-12-22 12月に穴を開けないためだけに [長年日記] この日を編集

[] 筒井康隆『虚航船団』初版

p.173 ダエモン二世によるコスモス戦争 ×四五七→○五四七

p.328 LL1 句読点が一つ余計に入っている

いずれも文庫版(平成4年初刷)では直っている。

[独言] 文献調査・聞取調査とその殺害

資料を適当に読だり数人に当たってみたりしただけで「記述がない」「資料がない」「古老も知らない」なんて宣ってしまうのはよくないと思い、自重している。 選択肢はただでさえ沢山あるのだから、手近なところから中りをつけ、刈り込んで整理するためには(自分の理解や記憶を整理するのに)必要かも知れないが、そいつを公けにするとなると話は別。自分が見逃しているだけで、答えがその探索枝に実っている可能性は大いにある。その果実を探している他の人が収穫する機会を永久に奪ってしまいかねない。埋もれずに済んだ史実を知らないうちに抹殺しているかも知れない。実際町村史の交通の項だけ読んで「無え」と憶断してしまい、あとで近代通史とか郷土の偉人とかの項で重要事項を発見したりしたことは枚挙に暇がないからな。

電話で問い合わせをするときは特にそのことを思って気を使う。一度「ない」と言われたら、自ら再度突撃する気になるわけがない。「この方面はダメだった」と愚痴りたくもなる。けれども自分のトークがダメで、不審者扱いされたから「ダメといっとこう」だったかも知れぬし、その確率のほうがはるかに高く、そう答えた担当者史氏の机の後ろのキャビネットに捜して止まない重要資料が収まっているかもしれないのだ。脳裏に浮かんだあの人この人が断罪証言人であるかも知れぬ。自分以外の、もっと熱意を持って事に当たれる人ならば上手くこなしてくれるかも知れぬ。

などと考えてみる一方で「それっていいわけだよねぇ」とも思う。いまこの世の中で自分が最も熱意を持っているからこそこのタイミングで本を読んだり問い合わせしようと思ったりしたのだろう。手を付けた・手をつけかけた責任というものがあるだろう。一度手を付けたならとことんやるのが筋だろう。やって成果を出すのが筋だろう。上手く行かなかったことや見つけられなかったことは言い訳でしかない。

そういう二重思考がnagajisには多い。めんどくせえなあと思う。腰が重く尻が上がらない冬の時期には特に顕著。

であるならば、そういう「よだきい」を打破する策を考えるべき。試してみるべき。今までやったことのない新たな策で生き馬の目を抜くのはどうか。

ということで、デイサービスセンターに凸してみようと思っていることを予め書いてみる。地元のデイサービスセンターなら詳しい人がいるんじゃないか。かつて働いていた人や、そういう人を知っている人に行き当たるかも知れない。現地でモンテカルロ式いきあたりばったりをするよりも効率はいいだろう。怪しまれること間違いなしだが、なあに、これ以上無くすもの・ことは残っちゃいねえ。

[独言] はて

テレビの人に返事をしといたのだが連絡がこない。たぶん迷惑メールに分類されてるな。

[ph.] 三匹の豚

画像の説明

ボンレスハムを連想する形状に着目した。色はむしろ魚肉ソーセージ的。

[ph.] なんばパークスのイルミネーション

画像の説明

画像の説明

年々レベルがあがっている気がする。

[ph.] 写真とタイトル

以前から写真のタイトルの付け方が鼻持ちならないと感じていたのだけれども、そう思う理由というか、イヤなものに思えてしまう理由の拠って来るところがどこかのかを発見した。子供の頃だ。古書棚に突っ込んであった1970年台80年台のフォトコン目録を暇にあかせて引っ張りだしてみたら、どれもシンプルなタイトルなのな。小細工はいらない、写真で語るのだ、という意気込みが感じられて好ましく思った。そういう古い人間だから忌避感を覚えるのだな。

当時の写真はたいてい白黒写真だというのもタイトルの簡素さと関係しているのだろう。カラーではなく白黒の濃淡だけで表現しようというのだから勢いタイトルもキッパリしたものになるんじゃないか。逆にいえば最近はカラーだからタイトルも満艦飾にしないと対抗できない(と思われてる)と。

[煉瓦][] 『大阪毎日新聞』明治43年5月17日(関西煉瓦製造業創始)

原口亀太郎・仲太郎の名前が並列で出てくるだけ……。しかし発見がないわけでもない。

近畿の産業(十四)

泉州の煉瓦業

▲煉瓦事業の沿革 我国に於ける煉瓦業の濫觴は明治二年工部省鉄道寮が堺にダルマ窯を以て製造したるに始まり爾来原口亀太郎、原口仲太郎、丹治利右衛門、児玉、花岡、佐藤、成金社(せいきんしゃ)、稲葉組等或は興り或は[亻+ト](たお)れ十五年大阪窯業会社の設立せらるるに及び斯業の基礎漸く確立し二十一年ホフマン式輪環窯を採用し旭煉瓦岸和田煉瓦貝塚煉瓦津守煉瓦製造所等の創立を見、三十年には年産一億五千萬個以上に達し遂に生産過剰の為に頓挫を来せり

▲需要増加と経営 泉州の土質は煉瓦製造に適せるを以て今日の発達を促したるも亦一面之がため其濫觴を惹起し各自の競争激甚となれり煉瓦相場の高低甚だしきは需給関係よりも寧ろ是等事情に左右せらるること多し而して近時需要益々多きを加え従って其製法に一大変化を来し簡単なる手工業を以てしては利益薄きより漸く大工業的の面目を具備するに至り相場は三十五六年には千個八九円を唱えしもの丗八年には十三円となり三十九年には十円五十銭に暴落し四十年二月より四月に至りて十六円に突飛し四十二年二月には九円台に大下落を演じ昨今十一円台に保合い居れりコハ当業者が市場の大勢に通暁せず思惑心を以て売買を試みる結果にして斯業の発展上憂慮すべきに属す

▲大高庄右衛門氏の効績 氏は千葉県の人現に大阪窯業会社の技師長たり[先]に独逸其他欧米の煉瓦事業を研究しホフマン式焼窯に更に一層好良なる窯炉を発明して特許を得カッセル窯に類せる化粧煉瓦又は耐火煉瓦用窯を製作し其他原形[製作機?]乾燥機等斯業のために改良苦心する所頗る多く堺付近を中心として今日の発達を見たるは氏の力与って大なりというべし

▲組合薄弱 組合の必要殊に痛切なるに拘らず却って之が設立を妨害し製造業者間に何等の連絡なく只僅に大阪窯業岸和田煉瓦堺煉瓦貝塚煉瓦日本煉瓦津守煉瓦の一組合を組織せるのみ而も勢力薄弱にして生産上に資する所なきは頗る遺憾とせざるべからず

▲内外製造の比較 煉瓦事業は其の製法簡易にして技術上の熟練を要する程度少なく監督者の如き亦多くの人員を必要とせざるに本邦に於ては十人に対して一人の監督者あり又直接事業に従事せざる雇用者少なからず(傍点)日本煉瓦の如き事務員と職工と其数相半せりという(傍点)生産費の嵩む亦止むを得ざるなり独逸地方の如き職工数百人を使用せる工場にして事務員兼職工監督者僅に二名を以てすと云う原料は本邦より二倍高く職工賃金は三倍以上を支払い然も製品の本邦品より低廉なるは畢竟此辺に原由するものならんか当業者の鑑むべき所たらん

毎日の古い記事は見出し検索が腐っている。画像でいちいち探すしかない。上記記事を獲得したあとこれといったアテもなくぺろぺろ開いていたら成金商社の広告を見つけた。これが最大の発見。そして有限責任成金商社の社長が若井源左衛門という。明治二〇年九月の記事。

[煉瓦][] 『日本鉄道請負業史』第一巻 (関西煉瓦製造業創始)

煉瓦製造 本区間には三河底隧道を始め大小橋梁等、煉瓦を使用する箇所が頗る多かった。鉄道当局は是等所要煉瓦を製造するため、明治三年堺、大浜通り元凾館物産集会所敷地を堺県より譲り受け、ここに煉瓦製造所を設け、大属原川魁助、中属長谷川彦兵衛をして其衝に当らしめた。

当時は煉瓦製造に明かなる者がなかったので当局は京都府、兵庫県等へ照会して陶器又は瓦造の職人等を招集し、雇外人より製法の教授を受けしめたのである。この時、堺の瓦製造人丹治長蔵なるものが職工長となり、窯は陶器屋慣用の登り窯を三座築造し、一座を八室乃至十室に区分し、これに白地煉瓦一万二、三〇〇〇枚を一緒に容れて焼いた。煉瓦に小煉と白地との別あり、小煉は足踏であり、白地は手押式に依るもので木枠の型を用い、天日で乾燥して焼くのである。原料たる粘土は製造所を距る十町乃至二十町の万代八幡付近より採取したが、その粘土の質佳良なりしを以て形正しく堅緻にして石を凌ぐほどの良質煉瓦を製出することが出来た。是等の煉瓦は小帆船に積載して、大阪、尼ケ崎、西ノ宮、神戸等に送り、それから先は車力に積んで、それぞれ現場に搬入配給したのである。

この煉瓦製造所は明治六年夏、鹿児島県人永井庄右衛門、原口亀太郎両人が地所建物機械一切を払受け爾後の製造に当り、製品は必要に応じ鉄道寮で買上げたのである。(復刻版pp.17-18)

『鉄道と煉瓦』はほぼ全面的にここから引用している。異なるのは姫路物産会所が足されている点。

[煉瓦][] 『堺−もの・ひと・こと−』p.84

煉瓦は安政四年(一八五七)長崎に幕府が製鉄所を設置した際に作らせたのが初めとされているが、堺では明治政府が大阪造幣局を建設するため明治二年(一八六九)東湊の瓦屋藤吉に命じたのがその起こりである。翌明治三年にできた工部省の煉瓦製造所は明治六年民間に払い下げられ、瓦師の丹治利右衛門は独自に工場をつくり堺のレンガ工業が始まった。

明治二〇年(一八八七)頃の資料によれば、煉瓦石三七、三七〇・〇〇〇円、土桶摺鉢五七八・〇〇〇円の生産額で五四八、八八九・一一七円の清酒や五九、五六八・〇〇〇円の醤油等の醸造業に比べれば、少ないがかなりの位置にあったのである。堺がこのようにレンガ製造の地となったのは、良質の粘土が手に入ったからだとされている。

丹治工場が官営工場と別置であったことが明示されている。そもそも明治10〜20年代初頭の統計書には出てこないのだものね。しかしどこから藤吉が現れたのか謎。「藤」がつくのは焼塩壺の伝統からか。

焼塩壺(湊焼)は天文年間に湊村に移住した藤太夫なるものが作り始めた。その後藤左衛門の名。のち難波に進出し難波屋となる。瓦は文化7年(1810)に大坂の瓦仲間に加入して生産と販路確保、文政4年「瓦株名前帳」ではそれまで屋号を瓦に押していたのにかえて「堺改」の極め印を使用して堺瓦のブランドを守ろうとした。とある(同ページ)。大阪窯業+改に通じるものがありはしないか。

『堺』の情報はおそらく戦前堺市史(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/716)のリライトと思われるが、ここには瓦屋藤吉の名前は出てこない。いくつかの出典が書かれている(最初期のいろいろは古老の聞き書きに加え丹治煉瓦が提出したと思われる由緒書き?から)がそれらは『堺市史資料類纂』に未収録だった気がする。見逃したんか。


2014-12-24 [長年日記] この日を編集

[奇妙なポテンシャル] #333

画像の説明

JR森ノ宮駅横の商店街に掲げられている看板。看板の文字ではなく、そこに添えられた落書きに反応した。

画像の説明

御クルマ様だけが「神」
糞チャリ共は賤民
日本交通差別行政

なかなか奥の深い落書きである。車を神とし自転車を賤民と見做すような発想はそう簡単に出てくるものでない。「賤民」なる語の選択もなかなか痛烈。彼の理論上ベサツされる側に立たされることになる私などは思わず知らずのうちに憤ってしまった。なんでそんな酷い扱いされなあかんねん、と。そして誰もが使い書けない人もないだろうという「車」の文字をわざわざ開いて書いてあるのがミソだ。これは計算の上で、であると断言しよう。なぜならその次の「チャリ」に対比させるためだ。「御クルマ様」/[糞チャリ共」という文字韻を踏んでいるのだ。

そのうしろ、神にだけ鍵括弧がついているのは対称性の放棄だが、その非対称がかえって前段落の異様さを印象深くすることに成功している。

御クルマ様だけが「神」
糞チャリ共は「賤民」

としてみると、その正確無比な対称性によって印象が希薄になってしまうのが実験できるだろう。

もっとも興味を持ったのは最後の一文だ。この言葉を記した団体の名であるはずなのだが、「日本交通差別行政」という違和感ありまくりな団体名で、読んだ時にズッコケそうになるのだがしかし、「行政」としたことによって、この落書きが看板それ自体への皮肉であることがわかるのだ。放置自転車は危険だから随時撤去すると宣言する---しかし路駐自動車については見て見ぬふりをする---看板、そしてそれを設置した行政への皮肉なのである。この看板の設置者が「車は神」「チャリは賤民」と宣っている姿を想像してみるとよい。

[煉瓦][] 日本登録商標大全19集~24集

イブだろうがなんだろうがお構いなしに公文書館へゆく。近デジに収録されていない登録商標大全を桃獲得するためである。

結果は予想通り芳しくなかった。第19集が大正11年前半の出願に係る商標をまとめたものであり、煉瓦製造業が斜陽に照らされつつある真っ最中のことであるから、そもそも煉瓦関係の商標出願件数からして少ないのだ。

画像の説明僅かな収穫の1。三石耐火煉瓦が大正11年に出願した商標。この刻印が押された耐火煉瓦は現に存在していて舞鶴赤れんが博物館に収蔵されている。確かこの頃外国から飛行船が来日して人々の耳目を集めた。それにあやかった商標であるらしい。

画像の説明

2.出願者の北村源平は貞徳舎の初代社長。何か引っかかる名前だと思ったよ。ただしこの商標のとおりの刻印は見つかっていない。TTTとかTTRとか

画像の説明

煉瓦関係は第14類に分類されていて、他にも陶器や七宝焼やらがこの類に含まれる。なので陶器や七宝焼や瓦の製造業者が自社製品の商標登録のついでに煉瓦も含めて出願し受理されているケースが多い。例えばこの商標。一応「及煉瓦」ということになっているけれども、大正末期に深日村に煉瓦製造工場はなかった。おそらく瓦や陶器のために取得したものだろう。

そのほかには、大会社が自社屋号を商標ゴロから守るために類見境なく取得しているケースも多い。明治屋のトライフォースとか仁丹の将軍マークとか三井物産の井桁+三とかが煉瓦用に取得されてある。

結局のところ、煉瓦製造業華やかなりし頃の明治時代の商標は第一集を見れば事足りたのだった。他に役立ったのは関野さんカッケーくらい。あとは岸煉と大阪窯業の商標登録がある程度。榊原鶴吉の三本線はかえって話をややこしくしただけだ。


2014-12-25 [長年日記] この日を編集

[煉瓦刻印] “M”@大阪城本丸

M煉瓦刻印

昨日の成果その1。アルファベットの「M」1文字が刻まれている。形といい大きさといい、大阪鉄道の煉瓦構造物に見られるアルファベット1文字刻印と脈絡がありそげ。これは結構重要な発見だ。アルファベット刻印は大阪鉄道由来の構造物でしか見たことがなかった。それが鉄道とは無縁なこの場所にも存在する、ということは(今まで想像していたように)大阪鉄道自前の煉瓦工場のものではなく、市井の工場のそれである可能性が出てきたということだ。

採取場所は本丸の北東角。白龍大神附近の遊歩道に露出していた。歩道を挟んで反対側には明治8年に完成した大手前配水池があり、その水壁に煉瓦が使用されているのを確認している。それが毀れて落ちてきたものか………土手にもいくつか転がってたしな。あるいは本丸に建設された陸軍施設の何かであるかも知れないが、直感的には前者が濃厚だろうと思う。大阪鉄道路線が建設された時期と重なるからだ。

この煉瓦と並ぶようにして堺煉瓦のカナ入り煉瓦も埋もれていた。配水池側の側溝には堺煉瓦+カナ煉瓦6個ほどで構成された塊もあり、観察はこちらのほうが容易。堺煉瓦カナ入りは明治20年代~30年代に建造された鉄道構造物でよく見る。JR桜井線の橋台とか、滋賀の狼川トンネルとか。

[煉瓦刻印] “○ホ”@大阪城本丸

○ホ煉瓦刻印

成果しょの2。そこから南に数十m行ったところの草地で採取。○にホが刻まれている刻印で、似た構成は採取例があるが、このサイズは初見だ。

先の“M”刻印のそばには“○”の一部が残った煉瓦もあった。“M”、堺煉瓦+カナ、そしてこの“○ホ”が互いに繋がるのかも知れない。

画像の説明印影の狭い隙間にモルタルが詰まっていたので清掃に苦労した。あと写真はカーペットのほうにピンがあたってる。シャープネスでごまかしきれないくらいにボケている。

[煉瓦][煉瓦刻印] 大阪城公園で煉瓦を探す

明治維新のあと大阪城址には陸軍連隊が置かれた。本丸なんかは営舎が所狭しと並んでたらしい。今ではすっかり片付けられ、観光客が大阪城を眺めてへーと思うスペースになっている。

そんな大阪城址に陸軍時代の煉瓦を求めて歩き回った。北東隅に門壁や理化学研究棟や謎の小屋が残ってたり、多聞櫓の辺りに煉瓦壁が残ってたりするけれども、それ以外に何かないものかしらん。単体で転がってて、ひっくり返して刻印確認したりできるやつとかさ。

まあダメ元だ、と思いながら、観光客の流れを避けて隅の方ばかり歩き回ってみた。そうすると、あにはからんや予想以上の煉瓦転石を発見することができたのだった。

大阪窯業煉瓦刻印

こんな感じで歩道に埋もれていたりする。外堀の石垣沿いの遊歩道に埋もれていた。 これは大阪窯業だ。この外堀の土手は上をゆく遊歩道より土手脇の崖に転石が顔を覗かせていることが多かった。2、3個引っ張り出してみたら六稜星(中)なんかも出てきた。

画像の説明

もっとも有望なのはこの斜面。野外音楽堂の西方にある大きな土崖だ。ここには全形を保った煉瓦がいくつも露出している。解体し整地した土砂に煉瓦が混じっていて、そういうのが崖の斜面に露出しているらしい。

崖の北の方では何故かキシレン(小)が優勢。南のほうでは堺煉瓦を見つけた。しかもこの堺煉瓦、裏にカキメが施されている。 大正丹治で裏カキメとか、カキメだけ但し半分以上欠損とかは見たことがあるが、カキメ入り堺煉瓦は初めてかも知れない。(想像を逞しくすると、刻印よりカキメのほうが製造者のキーになったりしないだろうか。同じ工場の中でカキメ施したり非だったりはしないような気がする。作業者同士で競って作ってたような場で余計な手間をかけるだろうか)。

画像の説明 画像の説明

んで、本丸の隅では未見の刻印煉瓦まで見つかったのだった。行ってみないと何があるかわかんねえのは廃道と同じだな。

画像の説明コレハ猫デス。充分に餌を貰っているらしく、どいつもこいつも丸々していたにも関わらず、近寄ると逃げる逃げる。触らせてくれたっていいじゃないか・・・。


結局のところ、公園の北の方ではめぼしい発見がなく、煉瓦に遭遇したのは南の方ばかりという結果になった。 北部はアパッチ族が活躍したから煉瓦まで持ってっちゃったに違いない(違
(今回荷揚門下はパスした。満潮だったしハンマー持ってってなかったし)。

[独言] 生きているだけ

生きているのは間違いないが、ただ生きているというだけでこれっぽっちも世に関与していないのは哀れだぜ?

[独言] なんだよー

文句をつける前に企画がボツってしまったそーだ。そりゃまあ、芸人が行ってpgrするだけっていうどっかの二番煎じ三番煎じのような内容じゃそうなるだろうじゃん。


2014-12-28 [長年日記] この日を編集

[煉瓦刻印][煉瓦] 刻印の向き

これまで注目されたことはないと思うが、煉瓦刻印の向きって結構重要な情報なんじゃないか。縦長に置いた状態で正対するように押されているのか、横に置いたとき正対するかの違いに意味があるんではないか。

ハンコを押す時、人は無意識のうちに向きを考えて押すものだ。印影が正しく読める向きに押す。ひっくり返ったり傾いたりするとなんだか落ち着かない。煉瓦刻印だってキホンはそうなんじゃないか。刻印を押す時は正しく読める向きに押すのでは。とすると、刻印が正しく読める方向は即ち刻印を押す作業をした時の煉瓦の向きを、図らず知らずのうちに記録しているのではないか。

すごく漠然とした個人的な印象だが、古い刻印ほど縦に押されている(縦置きの煉瓦に打刻されている)気がする。そして会社によって縦/横がちがう。これは煉瓦造りの行程の些細な違いを反映したものではあるけれども、もしこの印象が普遍的に適用できるようなものだったとしたら、縦置き刻印の系列と横置き刻印の系列で作業手順が違う>作業手順の継承が見えてくるかも知れない。

戦後の播煉で手抜き煉瓦を作っていた方によれば、目の前に型枠を横に置いて粘土を詰めたそうである。ただし「詰め」の作業では刻印を押さなかった。乾燥場に持って行き、ひっくり返す作業の時に使う板に刻印が作り付けられていて、ひっくり返す作業と同時に打刻される仕組みだった。そうして播煉の三本線は基本的に横置きだ。

画像の説明

西神吉で採取したこれなどは「筋」の側についていて、筋を上にした時に正しく読める向きに押されてる。

画像の説明

宝殿附近で見た三本線はその逆だ。筋を下にした時に正しく見える。つまりこの筋と刻印の向きは無関係。筋がこの板でつくものであるならばこうはならないのではないか。筋がついた状態のオナマを右から返すか左から返すかで違いが生じると考えてみたい。筋に対して正対するかしないか、あるいは縦刻印に筋がついているか…を今後見ていく必要があるだろう。と勝手に考えている。

YEGAWA、阪府授産所(平印)なんかは縦。丹治煉瓦も縦が多い。大阪鉄道のアルファベットも縦系と感じる。古い刻印ほど縦置きが多いと思うのはこのへんからだ。しかしT10創業の大阪煉瓦は完全に縦であって、必ずしも縦=古いというわけではない。古い作り方を大阪煉瓦が継承した可能性がある(のでは)ということ。

大阪窯業は横が優勢。窯業マーク+改+カナなどは一枚の板に作りつけたものを押しているらしい(全く同じ配置の刻印が見つかっているので)。ただしそれぞれは向きバラバラなのが謎。

五稜星も横。概して後年になるほど横置きになっていくような漠然とした印象がある。

で、前日の記に戻るのだが、上記”M”も”ホ”も縦置きであるところに注目したい。大阪鉄道のはどちらかといえば縦が優勢。傾いているのが多いけど。

岸和田煉瓦のように天地無用な刻印でも、副印がついているとどちらか判断できる。副印がついている場合はたいてい縦だ。

漢数字のみのも縦やんな。複数種見たがどれも縦。

あー、でも、若井は横と縦とあるなあ・・・。

日本煉瓦も縦と横とがある。下は桜ノ宮駅の関西鉄道橋台。幅印だけ何故か傾いてる。

[煉瓦][煉瓦刻印] 煉瓦裏面溝考-1

手整形煉瓦の平の面には小口に沿う筋がついていることが多い(写真下辺)。『ヒストリア』の煉瓦特集号を拝読する限り、型枠に詰めた粘土を小引いて平らにする際についた傷と考えられているようだが、もしそうだとすると、平の面全体の微細な小引き傷と溝の方向が一致していなければならないだろう。実際そういう煉瓦は多いのだけれども、必ずしもすべてではない。写真の煉瓦がよい例。微妙に左上がりに傾いている溝に対し、面の小キズは左下へ斜走している。

うちにある小島煉瓦の溝なんかはもっと端的な否定材料。大きく蛇行している。焼成時に生じる歪みとは思えないほど歪んでいる。否定材料として強力すぎて自説をも否定されてしまう危険な存在。

溝の外側が比較的平滑なのがまた解せない。

はい残念。余にはバカるよ。


2014-12-29 [長年日記] この日を編集

[][煉瓦] 兵庫県商工労務部『赤煉瓦産地診断報告書』

昭和35年頃、兵庫県下の煉瓦工場がJIS認定を取得する目的で「産地診断」を受けた。その報告書。当時はマル秘扱いの資料であったらしい。産地診断というのは聞き慣れない言葉だが、要するに産地(この場合は煉瓦製造業者)が生産性や生産効率を高めるために行政機関など第三者に依頼して自身の業務の問題点・改善点を指摘してもらう、という取り組みの模様。何となくだが生産性本部とかが関係してるんじゃないかと勝手に想像している。

この報告書を読むと当時の県下の煉瓦製造業のありようがよくわかる。県下の、といっても大杉窯業など数軒を除いてみな高砂市域の工場だから、旧印南郡のそれだと考えていい。後半の作業工程とか窯温度の測定結果とかはいずれも印南のあれとかこれとかだ。また生産性向上を眼目にしているから、例えば成形作業者がどんな移動をしているから無駄だとか、作業範囲37cm最大67cmだから土を取るとき手伸ばしをせずとも済む工夫を導入すべしとか、燥場に車を押していく際の地面が凸凹なせいで摩擦係数が高くて無駄にエネルギーを消費しているからこれを平にするだけで何キロカロリー節約でき成人の一日摂取カロリーと比較してこれくらいになり過剰労働にならないとか、そういった視点で全作業が検証されている。さすがにワイヤで小引くとか枠ひっくり返すとかいう微細な工程は書かれていないけれども土取りから出荷までの工程がかなり明確に解る。こういうのが知りたかったのだよ。

興味深かったこと

●採土~成形~乾燥、焼成、窯出し~荷造り~出荷のそれぞれの行程が独立した請負制になっていたこと。これは播煉のIさんの証言のとおり。父親が土を取ってきて、こねて、Iさんが成形して、姉と母親が乾燥して、という感じで、家族が捌いた煉瓦の個数に応じて賃金が払われていた。それは要するに家族で作業を(作業工程の一部を)請け負っていたということだ。んで、そんな請負制がどの煉瓦工場でも当たり前になっていた。このような請負制は作業者の都合で作業できてよいように見えるものの、数多く作ることが至上命題になって質は2の次3の次になりやすい。また個人裁量でできるカイゼンしかできないから「作業のスピードアップ」「作業時間の延長」くらいしかできず、結果として労働環境が悪化しやすかった。Iさんも時間が勿体無いからといって立ったままでおかゆを掻き込んだりしてたそうだ。会社がそれを強いたわけではないのだけれども、請負制を取る限り起こり得ることで、そういう無理をせずとも済む環境を会社は整えるべきであった。そんな「各人の名人芸に頼る」ような生産ではJIS指定を受けることは不可能、と報告書は言い切ってる。

●この頃どこの工場でも機械成形機を導入していたようだが、それと平行して手成形も行なわれていた。理由が意外。機械成形煉瓦は品質が悪く、それよりも見た目のよい手整形の煉瓦のほうが消費者に好まれたからだという。機械成形のほうが綺麗にできそうなものなのだが、そうでもなかったようだ。
機械成形煉瓦の質が悪い原因次のように考察されている。粘土を押し出すとき、絞り口に接するところと中央付近とで押し出される速度が違うため、長手方向に弓なりに残留応力が生じ、それを乾燥させたり焼成したりした時に応力が開放される結果煉瓦が反り返ってしまうのではないかと(大阪窯業のアレと同じで平の面を切り出す格好に押し出される成形機械を使っていたようだ。てか、それがデフォルトだったはずだが)。なので絞り口の形状を変えて小口を切るように押し出すよう改良してはどうかとの提案。これは確か「日本煉瓦史」にあった広島の松本煉瓦の機械がそうだったような気がする。改良の結果なんだろうか。

●表3-1と3-2の製造工程(3-2も機械成形となっているが明らかに手抜き)。機械成形はピアノ線2本で切断、できた2個は小板に乗った状態でベルコンで送られ、板ごと台車に乗せ、32個になったら乾燥場へ運び、その状態で一時乾燥、その後長板の上に5個ずつ立てて乾燥させる。手整形の場合は成形時に長板に5個とり、それを乾燥場に運んで以下同。手成形では平を下にして取るから、それを縦に起こして立てていたということがミソ。これもIさんの聞き取りと符合する。翌日ひっくり返して裏っかわを乾燥させ、それから屋外の乾燥場に積み上げて乾燥させたという。&、第一次乾燥のときに煉瓦をひっくり返すのに使う板に刻印が作り付けられていたと聞いた。報告書では打刻のことは書かれていないから、この時期にはすでに打刻をやめてしまったのかも知れないし、ひっくり返す作業に丸め込まれているのかも知れない。型枠に詰める作業のことは書かれているけど小引く作業については特段触れられてないし。

この板が鉄板みたいな薄い板だったらどうだろう。長手の側から差し込んでハネアゲルとあの筋がつくんじゃないか。しかし立てた煉瓦に筋の側に打刻するのは困難だ。二枚使って挟む? 表側はある程度乾いているから触れる? いや、二枚で挟むほうが煉瓦を動かせるな。ということは表と裏で刻印が微妙に違う可能性があるぞ。あとで小島の刻印確認の助。

●I工場とかB工場とか環窯を有していたけれども、ホフマン窯のキモとなる構造がなく、厳密にはホフマン窯ではない、とされていること。外壁沿いのG.L(グランドライン:地表面のことか)に管が通されていて、それで余熱袋に燃焼空気を送って余熱を効率的に行なうのが本式みたいなことが書いてある。しかし日本煉瓦の現存窯も中川煉瓦の図面にもそんな送気管は描かれちょらん。ひょっとしたら大高が発明した改良ホフマン窯の「改良」がそれなんじゃないか。大阪窯業が特許を持ってたから使えなかっただけじゃないか。

また、楕円の端の袋では真っ直ぐなところと比べて熱の回り方が変わるため、窯の外壁側に煙道口があり、房の地下を通って内側の大煙道につながっていた(まっすぐな袋は内壁下部に煙道口があって大煙道につながってた)。そんな地下煙道が詰まってたり、ひどい所では水没してたりしたらしい。また窯が古くてヒビが入ってたところさえあった。そういうところは窯が高温になりにくいから温度調節はやはり職人芸に頼らないといけなくて、そのへんも「報告書」はカイゼンを求めている。

●焼成温度1000〜1100℃で急激に焼き締まる。機械成形煉瓦ではそれより若干低い温度で焼いた。理由は不明だが水分量の違いか?

●窯の中に積み上げる時の積み上げ方も各会社で微妙に違う。地面に近いところに縦長のすき間を開け、上部はよくある井桁積み。中川煉瓦の再現とも違う。もしこれが関西地方で普及してた積み方なら、高さによって二段積み三段積みにが混在することになり、長手につく型の数で会社を推測することは不可能となる。むしろそれは煉瓦の等級が反映されるんじゃないか(上の方にある煉瓦ほどきれいに焼け、下の方ほど生焼けになりやすい。窯温度測定の結果も上高下低の傾向を示してた。んでよく焼けた煉瓦ほど上等になりやすい)。


結局のところ、煉瓦産業は品質管理・生産管理の近代化(現代化)が遅れたため消滅したという言い方ができるのかも知れない。今でも煉瓦を作っている讃岐煉瓦とか松本煉瓦とかはそれに対応したので生き残った。トンネルキルンを採用して半自動で焼成→窯出しするとかね。

[煉瓦工場] 明石窯業株式会社@明石郡魚住村中尾

『大日本商工録』大正14年版に屋号の掲載がある会社。「吉」を○で囲ったものだったらしい。 現在の行政区でいえば明石市中尾、JR魚住駅の近くに所在してて、兵庫県立図書館から駅2つだから、ついでに足を伸ばしてみることにした。

念のためにと思って図書館で調べてみると、魚住駅は戦後にできた新しい駅で、駅周辺はそれ以降に発展した新興住宅地だということがわかった。大正12年頃の旧版地形図には駅東方の宮ノ前(これは魚住村ではない)と山陽線附近の中尾本村くらいしか集落がなかったようだ。その2箇所を重点的に歩いてみた。

画像の説明

画像の説明宮ノ前では在所入口の駐車場でさっそく刻印煉瓦を発見した。岸和田煉瓦の古いタイプの刻印(線状の×)だ。しかしこれはJR線由来かも知れない。踏切近くに煉瓦製の逆サイフォンがあって、南西側(海側)の枡しか残っていなかった。その残存枡に使われていた煉瓦に色目がよく似ている。

画像の説明 画像の説明

細い路地が入り組んだ在所の中をほっつき歩いてみると、さすがに古い集落だけあって古煉瓦をよく目にした。大正煉瓦の手成形だったり和田煉瓦の「ワ」だったり。煉瓦積みの腰壁の民家や煉化積みの焼却炉を見かけたりもしたし、中尾へ向かおうとしてJR線を渡った所の民家で古煉瓦を山積みにしているのを見かけたりもした(いずれも手成形で、最後の一つなんかはひどく歪んだものだった)けれども、○吉は見つからずじまい。

画像の説明

送信者 関西地方煉瓦刻印
明石窯業とは関係ないが、ポーチに耐火煉瓦を敷き詰めた家があった。山陽の伊保駅近くで見た耐火煉瓦製の内科建物に見られるやつとほぼ同じラインナップ。出処が一緒だったりするのだろうか?

画像の説明

六角形状の囲いの中にYの字が入ったマークは黒崎窯業。近デジ『耐火物年鑑』の広告にある。

画像の説明

別の路地でこんな耐火煉瓦も見つけた。手書きで「YFB」と書かれてある。FBはFire Brickのことだろうが、Yってどこだろう? しかも手書きって。

画像の説明大字中尾はこんなかんじ。丘陵に挟まれた狭い谷があって、その谷に沿って集落が発展したところらしい。写真はその谷を横断する道(たぶん山陽道)から谷を見下ろしてみたところ。

中尾にも古い民家が見られたし、いくつか古煉瓦を見かけたりしたのだけれども、○吉は無論その他の刻印も見つからなかった。ただ一つ「‥」という刻印らしからぬ刻印が見つかっただけだ。判断材料に乏しく、ドコのだとも推定しづらい、扱いに困る刻印だ。ただし曽根のセンチュリーアミー;大正煉瓦阿弥陀工場跡で同じものを見つけている。

画像の説明

むしろ印象に残ったのは、陶管や陶器の花瓶らしきものがよく転がっていたことだ。墓前に設けられていた花立ても陶管のミニチュアみたいなやつだった。明石窯業は大正6年創業、昭和8年に明石陶管と名前を変えているから、後年は陶管製造がメインだったと思われる。その頃の製品だったりしないだろうか。

ついでながら魚住村には西海製陶合資会社という会社もあった(T10工場通覧に掲載され、 明治40年創業と書かれてあるけれども、出てくるのはこの年度のみ)。あちこちで見た窯業製品の一部はここが作ったものかも知れない。街道沿いには「さいかい」という商店の仕舞屋や西海石材店なんかもあったので、それが関係しているのかも知れない。いずれにせよ中尾本村と関係が深いのは確かそうだ。

画像の説明中尾で見かけた「なんちゃって土塀」。煉瓦壁を塗り込めにしてある。こういう用途も多かったのだろう---それが解体されて煉瓦転石になるんだろうと思った。奈良の延寿堂も煉瓦塗り込めの土塀だ。

[奇妙なポテンシャル] #面倒

NHKラジオ第一の番組に「ムーンライトシャワー」というのがある。同チャンネルの数ある番組の中で最も謎な番組だと思っている。一応Wikip.にページがある。

イージーリスニングは悪くないし、不定期な放送なので、たまたまその日に当たるとちょっと得した気分になるのだが、Wikip.云うところの「岩崎の一人コント的なトーク」がひどく遣る瀬無い。こんな感じである。

娘(の声色で):「お母さん、頼まれた買い物に行ってきたんだけど、『豚のコカンセツ』売ってなかったわよ」

母(の声色で):「『豚のコカンセツ』? さあ? そんなもの頼んだかしら?」

娘:「だって、買い物メモにそう書いてあったじゃない」

母:「どれどれ……。……ああ、真由美、これは『豚の小間切』って読むのよ

…こんな調子のコントが2、30分繰り返されるのである。ケツの穴のちょっと上のあたり、サルで言えば尻尾の付け根のへんがむず痒くなって仕方ない。


2014-12-30 [長年日記] この日を編集

[煉瓦][煉瓦刻印] 煉瓦裏面溝形成因仮説

画像の説明

http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20130707#p05 の『★』on丸角煉瓦の筋の位置が示唆。立てることを考えると面積の広い方を下にするのが望ましく、となると上記の仮説のとおりの位置に筋がつく。ひっくり返すのに手間取って、板が煉瓦から離れてしまうことがあると、刻印を重ね打ちしたようになる。

ずっと不思議に思っていた。もし刻印がふつうの判子のような形状だったらあんなに押し損なうものだろうかと。んなのトンと押すだけじゃないか。なんで重ね打ちしたようなヘッタクソなのが多いのか。特に岸和田煉瓦。

一次乾燥の時に打刻されるとすると、刻印の縁が広がってる理由もわかる気がする。字母を垂直に刻んであっても表面が引きずられてエッジが立たない。詰めた直後のベットベトの状態に打刻すれば今度はバリが出る(蹴23がそれ)。刻印の狭いところに粘土が詰まったりもして効率がよくないだろう。

上記仮説が正しければ長手方向に水平にずれた重ね押しは起こりにくい。 特に筋のある側は必ず小口方向にずれる。

でもそうすると筋の外側に小口方向に傷がつくはずだな・・・そういうのはまだ見たことがない。

薄い板を使うこと自体は合理的。小口・長手は絶対に触れないという制約のなかで煉瓦をひっくり返すとなるとそうするしかないだろ。あと機械成形だと最初から立った状態なので返し板を使う必要がないゆえ刻印も押されない? いや、5個並べるときには必要か>板。

あ、ピアノ線幅しか離れてないから刻印作り付けだと差し込めないのか。

あー、そうすると、刻印が斜めに傾いたやつとか説明できひんよな。そういうのは別のタイミングか、それこそ判子のようなやつでポチッと。印南の刻印はたいてい長手か小口を向いてる。斜めになった「ヲ」とか見ないものな。端っこすぎる「ワ」は見たけど。


2014-12-31 [長年日記] この日を編集

[独言] 今年も越えてゆく年(伝山頭火)

画像の説明

そばの用意をしなきゃと思った頃、行きつけのスーパーで由布院そばなるものが売られているのを見つけた。とくに知名度があるわけでも田舎を懐かしむわけでもなく買ってみたのだが、そんなに悪くなかったと思う。もうちょっと固く茹でたらもっとよかったんじゃないか。

例によって具だくさん。蕎麦と呼べる代物じゃないかも知れない。拠って来たるところがあるわけじゃない。腹が減っている頃なのでいろいろ入れてしまう。だいいちうちでは温そばを食べなかった。温かい、汁のある蕎麦を食べるのは年越しそばくらいじゃなかっただろうか。あとは夏にざるそばが出たことがあるくらいで、それもごく稀なことだった気がする。理由はわからない。麺類はむしろうどんだった。

そんな感じだから汁の味付けも定石がない。今回はそばについてきたつゆに水と醤油を足した。悪くない味だった。去年は出しじょうゆで適当にやったな。

ふだんエビを食べないくせに海老天を載せてしまったのも「なんとなく」。最後の買い出しに行ったらたまたま売っていた。198円もした。そんなんだったらもっと別のでもよかっただろうにと今更のように思う。かき揚げとかきつねとか、肉そばでもよかっただろうにさ。

普段しないことを何の前触れもなくやってみたり、いつもしていることを急に止めたりしてみると、そんな普段がいかに理由のない、ものだったかがわかる。普段食わない蕎麦をくう。蕎麦にいろいろな野菜を入れてみる。食べない海老を入れてみる。どれもそう悪くはない。悪くないなら普段からやればいいのに。うどんに飽きたら蕎麦でもいいじゃんか。和そばで焼きそば作ってみてもいいじゃないか。瓦そばみたいでうまいかもよ。4玉89円とかの時に買ってきてさあ。でも結局は「普段通り」に戻ってしまうのだ。その普段の根拠のなさを思うでもなく。それに危機感を覚えるほうがどうかしている。普段かあるから非日常が楽しく、発見があるのだ。

今年は鏡餅が買えなかった。毎年買っていた和菓子屋がいつのまにか閉店していたからだ。ていうか3月末にはもう店じまいしてたのな。ふだん利用しない店だから気づかなかった。時代の移り変わりのなかで静かに退場していったその店に自分を重ねる。「まだやってんだ」と思われて通り過ぎられるより、すっかり忘れられたほうがなんぼかすっきりするだろう。


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