nagajisの日不定記。
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隣のアパートの人が特殊清掃のお世話になったようで、家の前の通路にそれらしいトラックが停まっていた。運び出されるゴミ袋の山を見て自分もいつかああなるのだろうなと思った。
時折出会うことがあって、会えば会釈をする程度の縁はあった。白髪混じりに髭茫々、クタクタのクタになった服をいつも着ていて、初めて見かけた時には軒下自由人かと思ったほどだった(今考えてみれはひどく失礼なことだな)。オランジーナが出初めた頃、アパート前の自販機でよくそれを買って飲んではった。そうしてとぼとぼと自分の部屋に帰っていくのを何度も見た。最近見かけないのはその人に会うような時間帯に自分が留守するようになったからだと思っていたのだが、どうもそうではなかったようだ。
かの人が何を思いつつ事切れはったのか、想像するための必要最低限の情報も持ち合わせていない私だが、自分の行く末を重ねてみることがよくあったので−−− そうならないように注意したいというのではなく、ああなるまでに何ができるだろうかと考えることがあったから、人事のようには思われない。さて、どうしようか。
それにしても、人の命の軽いこと、軽いこと。タモリが笑っていいとも修了とかAKBのなんとかがどうだとかいうニュースの陰で、というよりそのニュースの陰になることもなくひっそりと孤独死があった。そのことやその人の存在そのものに気づいていたのはごく一部の人間だけだ。そして世間は何事もなく新年度に突入した。あの人は消費税増税も今年の桜の満開も知らずに逝ってしまったのだなと思ってみたりもした。
うむ.直スキャンしたほうがはええ.
「百」「四」「六」「十」? ただ数を書いているだけかと思ったが、 「存分」とある?ので、 そうではなさげ。
欠損部分がキモ。そして書き順がかなり正確にわかることもキモ。果たして何が書かれているやら。
kyudou.orgドメインでやろうとしたらできないでやんの.ばーかばーか>nagajis.仕方なくthe-orj.orgドメインで立てる.
kinas-ml.the-orj.org-join@ml.the-orj.org あてに空メールおくると受信できるよ.興味のある方はどうぞ.
珍しく最初から配分を考えているが、やっぱり詰め込みすぎだ。1時間くらいほしい。
思ったことを書くことがむずかしいことは前からわかってること。そのうえおもった内容に新規性があるわけでも人間普遍の価値があるわけでもなく書いてみたところで何の得にもならないことは分かりきっている。いやnagaijsを貶めることはできるか。まあどっちにせよ沼だねえ。沼ってなんだ。
体裁を整えることに力を入れ過ぎた。投げやりくらいがちょうどいい。また書き直すか。
おそらく今日の雨で桜が散ってしまうだろう。先日の夜桜まつりで満足したので思い残すことはない。花腐しの雨。 はなくたしのあめ 。腹下しの飴。
画像をupしたところでctrlが送られっぱなしになるという謎現象に遭遇した。1が打てないとかは何とか対処できるがctrl押しっぱなしというのは壊死的である。
今回も渡らなかった中原橋。ヘタレと嗤いたければ嗤うといい。信念を守るためである。中原がどのような生活環境であったか知るためには谷底に降りて旧橋を経由ていくにしくはない。しかしまあ2度3度探索しないと見えてこないものってあるのだな。眼も脳も一つ二つじゃ足りない。
久しぶりに長い距離歩いたせいでいまだに足が痛い。ポンコツはいつまでたってもポンコツだなあ。いい加減完治してくれないと困るんだがなあ。
地図作成まで終了。あとはpdfにして↓をポップアップにすれば終。ずいぶん着地点が変わった気がする。探索漏れも多数あるので結局中編にしておくことにした。
街道をゆく「十津川街道」を再読。歴史はさすが微に入り細に入りだが、もう少し当時のことを書いておいていただきたかった。天辻峠も高津もスルーなのがかえすがえす残念。求める方向性が間違っているとは理解しているし、そうだからこそ後続の遊ぶ余地があるというものだろう。才蔵とはいかないまでも枯木役をするくらいの余地は充分残されている。そうしてそんな居ても居なくても一緒のポジションをさも大義のように思い込んで振る舞ってきたnagajisが哀れである。
文化左翼のボブ曰く「結局幕末以降の日本の歴史は司馬遼太郎が作るんだよね」。毎度思い出してニヤニヤする。それが真実っぽく聞こえるのは自分が世の中を知ってない証だ。
サブ記事をどうするか・・・。旧橋と絵葉書はよいとしてそろそろ一つ増やしたい。点観察ネタするか。しかしそのまえに発表の資料作っておかないといかんのだ。時間なんてないのだ。
「人間は努力の上にしか安息を見い出せない」だったか。先日街角で教わった言葉。言い得て妙である。積み重ねるために広大な底面が要ること及び積み上げた天辺の狭い狭い立錐の余地でしか安息できないこと。ならばピラミッド形でなく台形で留めといたほうが無難かも知れんが、そうもいかんたこめらはげちょめらなのだろうな。その高さをヒエラルキーか何かのアナロジイと勘違いしないように>[禁則事項です]。
まる一日かかって4枚か・・・。びっくりするは。この能無しぶりにはよお。
取り掛かったころの感覚をほんのちょっとだけ思い出した。存在してた会社がつぎつぎ分裂していって、また一つにまとまって、いったいなにが起こってるのやらさっぱりだった。絡まった糸を解きたくなった。それからいろいろわかったことはあるけれども、結局のところ真相は闇の中のままだ。ひとかたまりのわからないものが細分化されたわからないになっただけだ。糸の先はいまだ闇に続いている。無理に手繰り寄せたらまた絡まって切れそうな、細い 細い 糸だ。
かえすがえす豊中の特異点ぶりに目をみはらされる。なんでそれがここにあるの。という。西国街道+能勢街道の威力か。阪急王国の住宅建設ラッシュか。
貞徳舎の○一刻印が「○ト」の間違いじゃね?と思った直後に三津浜煉瓦跡地で「○ト」が見つかった記事を見て魂消た。じゃあ小曽根の「○ヌ」はなんなのか。○はどこからきたんか。
大正12年もウソ(=西服山の天王谷何とか)、障害児施設もウソ(=就業児童の2割にも達していた虚弱児童を対象とした滞在型更生施設兼小学校)、園の正門もウソ(=開園時にはすでに自動車が入っていた)、 兵庫抑留所も半ウソ(2つの兵庫抑留所から一時移送) ……。むろん心霊スッポトもでまかせだ。それを引いた嘘八百も広まりつつある。ネットに真実なんか存在しねえ。ksg。
昭和5年に計画>(失業救済?)(裏山開発のため区有林整理委員会設置)(承諾)昭和8再度ドライブウェイと再度隧道着手>昭和9年再度山林間尋常小学校、室戸台風害>昭和12視察>昭和13阪神大水害>兵庫抑留所。二本松林道がいつ入るの。自ずからでしょ。とはいえ都市計画課の初期計画がどこで変更になったものか。幅7mでもねえしな>二本松林道。
ようするにだ、
【マッチングが進めば…】
煉瓦刻印から会社がわかる
↓
会社の存続年から煉瓦の製造時期が推定できる
↓
建造物の建造年が推定できる
ということなのだが、それを端的にいう言葉が見つからない。nagajisが能なしと思われる所以である。
マッチングという言葉もできれば変えたい。「この刻印、○×工場のだ」と言えるようにしたいということなのだが、
刻印と会社の対応をとること
刻印から会社を割り出すこと
刻印と会社を突き合わせること
会社が用いていた刻印を特定すること
を端的に言いたい。比定とか擬定とかいう言葉はなんか嫌らしいので×。もうちっとすんなりな言葉、短文、できれば日本語で。
英語は便利なんだけどなあ。a pair suitably associated とか、まさにそういうやつなんだけど。
死ぬ目を見ながら作成&練習したお陰でなんとか終わった。最初からフルスクリーンpdfで作っていたのは大失敗。何で勝手にめくれるねん。おかげでフルスクリーン解除して発表するという不格好なことをせねばならなかった。(喋り始めてからその対処法を思いついたのだけは褒めてやる>nagajis)。
しかしこの発表のせいでいろいろ犠牲にしている。立て直すのが大変。そのうえIさんのメールに気づいてねえ体たらく。なんともはやあうあうな吸ったりはいたりの千石船である(意味不明)
今さらながら気づいたのだが煉瓦流通圏を瀬戸内海と設定するなら消長表も香川愛媛岡山広島を作らんといかんのではないか。それやったら間違いなく死ぬる。
思わぬところで廃隧道ネタが2つ見つかったのだが廃隧道が見つかったからといって途端にアレなのは我ながら馬鹿げていると思った。行ってもただ「あった」だけで終わりそうな気がする。特にあんな遠方では。意味を知らなければならんのに。
国交省の航空写真が見られんくなった。国土地理院の航空写真はちと荒い。いや一律になっただけか。すくなくとも以前より不便になった。うおっちずも廃止だしどうしたものかな。しかし今はそれよりも目の前の難事として部屋の片付けをしたい。
読みたいと思う本ほど高くて困る。。。そうホイホイ買える身分じゃないのだよ。で、買っても消化不良になると思うのだよ。いまは特に。
うむ。我ながら稚拙。稚拙を装ったナントカかも知れぬ。はは。
ようやく講演記録を片付ける目処がついてきた。毎回こんなに時間がかかっているのはひとえにnagajisが無能だからである。やりとりも下手だしなあ。もっと偉い人に代わってもらえないものか。
例えばこの間の講演も今からテキスト起こし始めればね。もうちょっと早くに出来てるんだろうけどね。自分でも1年間何やってたんだろうと思う。けれども振り返ってみると結構一杯一杯なんだなあ。ま、それは自分のことで汲々してただけなんだけどさ。
4月中:学会誌。5月:GWの探索とその整理。6~8月空いてたじゃん。あ、煉瓦探しまわって消長表作ってたのか。それはギルティ。8月~11月は集中訓練3月だ。そうして春の年次大会があり今に至る。ううむ。
丸一日使える日がほぼゼロになってんだから当然の帰結か。
最近人の愚痴を聞く機会が増えた。その結果、人の文句は文句として発話された時点でその9割方は役目を終えている、ということに気づいた。本人は文句を言ったことで満足しているし、文句を真に受けて心砕いたところでその人の事態が好転するわけじゃない。そもそも当事者でない自分が何をできようぞ。そういうのは「へえへえ」とでも言って聞き流すのがよいようだ。
自分に向けられた文句でも多分そんな感じだろうと思う。改善したところで悪評が好評に変わるでもなし。改善する努力はするが結果は約束できない。約束できないことを前提とするのではなく結果的に約束が不可能なのだ。
5月中旬までに、という話だったので期待せずに待っていたのだが、先日ご送付いただいた。なんとCD-ROM版つきである。これは意外。中身はまだ見てないが、たぶん版下からpdfにしたものだろうから、検索ができたりするんじゃないだろうか。
近代化遺産の報告書って刷数がびっくりするほど少ないそうだ。数百部とかいうレベルでもないらしく、その数は経産省が規定しているのだとかナントカ。そりゃ愛媛県みたいなことをしたくなるよなあ、と思う。
↑の状況を「調査してデータ収集することだけが目的なのか」と憤るパスと、「地味な仕事は役所がするから、あとは民間で活用してね」だと見るパスがあると思う。どう考えても役所が主体となって保存とか活用とかするのは無理。市民が声をあげないと動かない(<>声をあげれあ動く)。でももうちょっと情報拡散に手を貸してくれてもいいと思うんだけどなあ。
KINIASの端っこにいて、漏れ聞こえてくる斯界の情報を鑑みると、すでに「どう活用するか」に向かっていて、というか世界遺産にして観光資源にすることが第一目標のような感じに(上のほうでは)なっている感じがする感じ。これはどうしてだろう。議論を尽くしてないわけではないはずなんだ(単に自分がよく知らないだけで、話は数年前からやってたはず)。
そう思う原因の一つにやっかみヒガミがあるのは間違いない。日の当たらないマイナーな物件を掘り起こすことに価値があると信じている自分のような層とは対極にある話だから。対極と思ってしまってるのも問題だしよ。
活用に対する熱意のポアソン分布仮説。すごく先鋭的に頑張るところが頑張らないと裾野が広がらない。だから応援するのである。
あ。「これで肩の荷が降りた。どっとはらい」で終わるつもりだったのに、余計なこと書いてるなあ。まあいいか。これを機に奈良に行かなくなるわけじゃないし。
で、調査員という肩書を返上したいま大手を振って素人に戻れるのである。清々するのである。お疲れ様でした>皆様。
明治初期の土木費支弁制度や国庫補助制度ってのは、江戸時代の「御普請」のところから考えなきゃいけない。江戸時代の河川道路の改修で幕府と住民とで工費を折半してたところから来てる。だからM6の河港道路修築規則が「たとえば6は官に出て4は民から出て」云々と書いてある。江戸時代からあった慣習を明文化し、幕府を官に置き換えただけ? この認識があってるかどうか確認しないといけない。
例えば川瀬巴水の近代浮世絵はとても美しくて金銭をもとい琴線を掻き鳴らすのだけれども、清洲橋とか永代橋とかの構図には引っ掛かるところがある。あれだけ取り方か上手いのに橋だけはピシッと決まっていないように思う。写真も同様。どこがどうだから決まってないように見えるのかもよくわからない。わからない限り橋の写真はうまくならないだろう。
堀威夫の撮った写真はすごくいい。橋の魅力が遺憾なく写し込まれている気がする。極端を誇張したものでもなく記録写真でもない「魅力ある橋の写真」だと思う。なぜだろう。橋の設計をしている人だとどこがキモなのかすぐわかるものなのかも知れない。
あゝ、私のぱらいそはこんなところにあつたのだ。阿弥陀町南池にて。
K1。
K4。
K5。
K6。大正煉瓦の「大」もある。
K7。
(推)山陽窯業「山」。副印「エ」つき。
初見の「H」。原田か。原田なのか。播磨煉瓦でも可。
「ワ」田煉瓦。
そしてこれも初見の刻印。カネマル。実は山陽伊保駅近くの民家で見た直後の二個目であった。どちらも機械整形に押されていたのが意味深。
他にもよくわからぬ刻印が一つあった気がする。それが関野▲であったような気が今頃になってしている。
あった!えらいぞおれ! 大正10年に関野与平が商標取得したさんカッケー。
阿弥陀と曽根の煉瓦工場がほぼ全揃ってるのは衝撃だ。それに加えて9割以上が焼損煉瓦なのが興味を深くする。阿弥陀にはもう一箇所焼損煉瓦を敷き詰めた庭がある(こちらには伊藤窯業の「イ」がある)。各工場から焼損煉瓦ばかり買い集めて売っていた店でもあったのか、それとも焼損煉瓦を集めて使う流行が阿弥陀にはあったのか。
以上に播州煉瓦合同の「ヲ」がないことに注目せねばならない。山陽窯業はT14まで。和田煉瓦はT8から。 Hは播磨(T6〜S3)。関野の商標はT10。仮にこれが一時に作られたとしたら、T8〜T14の間ということになる。となるとKnもその範囲になってしまう。樫野の出資で播煉ができるよりも前からKnがあったとしたら、仮説はどうなる?
カネマルはもう少し東のほうか。加古川煉瓦とか土山煉瓦とか。このエリアで唯一原動機を導入していたのは土山煉瓦。短命に終わっているが。
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小学校の遠足で近くの山に登った時、山頂で宝探しゲームをやったのを思い出した。高学年だったか先生だったかが先に登ってクジを隠しておき、それを探し出すという、たわいもない遊びだ。しかしそのクジで当たるものが結構いいものだったような記憶がある。
よーいスタートで一斉に探索開始。石の下だとかベンチの隙間だとかに隠されているのが見つかるうちはまだよかった。誰かが枯れ木の中に隠されているのを見つけてからが修羅場。寄ってたかってそこら中の木の皮を剥がしだし、丸裸にしてしまった。
それを見て「人の欲は怖い」と思った。欲しいものの為ならなんでもする。後先の事など考えもしないで(だいいちそんな奥深くに隠せるはずがないだろう。丸太の端っこならともかく)。そうして跡はとっ散らかしたまま。案の定宝探しゲームはその一回きりしか行われなかった。
この出来事が、「自分さえ良ければ」とか「集団心理」とかを忌避するようになったきっかけかも知れない、とふと思った。
人がやってるんだから自分も。
google日本語入力が少し軽くなった気がする。キー配列が変わってて少し焦った。
Yahoo!のニュースヘッドラインの
「川内原発の補正申請提出 九電」
という文字列のなかに
正露丸
という言葉が含まれているように空目して、
正露丸がどうした?
と5秒ほど見つめてしまった。
末期かもしれない。
「正」は含まれている。九≒丸としてやってもいい。露はどこから持ってきた。電に雨冠が含まれていて、それで露を連想したとしてもだ、順序がまったくばらばらではないか。
_ おこぜ [かのデーモンさんから配れまへんでぇ~とお返事が来た。 kinas-ml.the-orj.org-join@ml.the-orj.org]
_ nagajis [ううむ...別のメアドで試してみたんですが,うまくいきました(汗 お手数ですがもう一度お試し下さい.. kinias-ml.the-orj.org-join@ml.the-orj.org]
_ 西本真一 [こんにちは。和歌山の旧西本組本社ビルを調べている者です。検索を手繰って、こちらに辿り着きました。貴重な資料集をこれから少しずつ、読み進めたく存じます。 煉瓦の平の面に記された文字ですが、「六瓦」と..]