nagajisの日不定記。
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ヨッキ氏より7月1日ならtori氏と謎の(予備)自衛官氏とともに参加できるかもという連絡。一も二もない。その方向で。
いろいろとデザインを考えてはみたのだが、決定打がないのだ。
とりあえず、汚れてもいい色ということで黒地に白を考える(必ずしも黒白でなくてもいいんだけど他に思い付かず。真っ赤に黄色とかいいかも知れぬが)
化繊にするとやたらと高価なので躊躇している。これは課題。
ロゴの「廃」を使って何かをーと思いつつ、これだけでは締まりがない。何のTシャツなのかも解らん。左下に何かよい言葉を入れようと試行錯誤するが...
個人的には隧道とか作ってみたいのだけど、新しく正面図を描くのが大変だ。オススメがあれば作ります(湖北は以前に作ってたのを発掘してきた。廃道ではないので却下)
だんだん疲れて来て現実逃避。石投げられそうだ。
みんな!いいデザインを考えてくれ!
そういえば今頃に旅行に出たんだっけ、と思い出した。悪いことばかりじゃ、ないよな。
昨年も埋め草に追憶企画をやろうと思っていたけれど、何やかやで出来なかった。格好悪く今頃から始めてみることにする。
ともかく峠に登るだけの旅。日本の分水嶺を走り尽くしたいと、それまで行ったことのなかった峠を渡り歩くのが目的。あても期限もない、本当に好きなことができた旅だった。それをちょっと、久しぶりに思い出してみよう。
出発は6月4日。この日は雄の山峠を越えて和歌山入りしただけだ。5日は西側へ向かって付近の峠を回って、岩出町の若もの広場に泊。5年前の今日は3日目となる。
若もの広場のトイレの裏に荷物を隠して郷ノ峠へ。登る途中で(何故か)道に沿ってみかんが落ちていた(後にこの写真をI氏に見せたら(何故か)気に入られて壁紙にされてしまう)。郷ノ峠には「霞峠やすみ松」という碑が立っていてちょっと謎。未だに解けていない。峠北は細長い谷全部が段々水田。
北に下って境谷から登山道の峠・槌の子峠を担ぎ越えて楠峠へ向かう。槌の子峠の麓の集落は狭い谷にぎっしりと民家が詰まっていて、これは今でも鮮明に覚えている。あまりに密度が高過ぎて車さえ入ることができない(集落手前に駐車場がある)。その家々の間を縫って峠へ。今はほとんど用途のないようなルートだが四石山への登山道になっているらしく割合きれいに残っていたと記憶する。写真は槌の子峠。ああ思い出すぞ、この強烈な日射しとコントラスト…
反対側は栗林になっていて、作業道として使われていた。ここから楠峠へ向かう途中で初代のナタ「最小自乗法」を無くしたんだっけ。それで風吹峠へ抜けて岩出に降り、すぐに新しいナタを購入。おおそうか、今日は純粋経験の購入記念日だったか。
その新ナタを手に反対側から楠峠を目指すも、道を見失って敗退。どういう道でどういうルートを取ったかはもう思い出すことができない。最後に岩がちの沢になり枯れ木に囲まれてOUTになったのだけは確か(写真)。この時点ではまだ足も気力も出来上がっていなかったからな。
この日は若もの広場に連泊。ワールドカップを聞きながら寝る。
06年8月号(第11号)から07年6月号(第16号)までの1年分を#2とする。修正、開始。いきなり斜陽かよと思わないでもないが。
本日はTRDBを修正。フォーマットが固まっている企画であり、当初から解像度の高いpdfを作っていたおかげで前面作り直しはわずか。そのかわりバックボタンを揃えていなかったのと、Acrobat 8対策にフォームを使わない形式へ変更せねばならない(11〜14号まで)。地味に大変。
新しくカテゴリ立てて始めよう。でもPicasaの調子が悪いみたいなので写真は少なめ。
6時に一度目が覚めたらしいが、2度寝して、再び目覚めたのが8時。さっそく疲れが溜まっているnagajis。飯を喰って西田幾太郎の「善の研究」を読んでいたと記録にある。読んだという記録ばかりで善々頭に入っていないし身にもついていない(ツアーの最後まで持ち歩いていたはずだが、ついぞ理解することができなかったな)。そうしてその残り滓が「純粋経験」というナタの名前として残っているだけという、西田幾太郎が知ったら泣いて悲しむようなことになっている。いや、なっていた。違うな、なるのであった、か。
昼からポタリング。公園前の道を東へ、菩提峠経由土仏峠。地形図を見て旧峠があることに気付いていたから、車道の峠から稜線沿いに移動して探検した。岩出町はこの頃地籍調査の真っ最中で、山の斜面のあちこちでそんな標識が建っていた。30年に一度の大仕事だ(多分)。土仏峠は確かに旧峠が存在した。これは報告書にしている。ただ旧峠の切り通しと、前後にわずかな道跡があっただけで、他の痕跡は何も残っていなかった。「旧道があった」という記録だけの報告書ほど面白くないものはない。あれも無聊を慰めるために書いた埋め草だ。
この後、中畑を経由して中畑峠へ。市街側を辿ろうとして途中で断念。写真は途中にあった崩壊地点。これだけ抜き出してもさっぱり意味がわからないな。そうして池田隧道の前を通って−−−旧池田隧道への分岐のある林道をこの時に通っている。旧隧道があることを知って再び訪れたのはその2年後−−−。志野峠、松峠へ。いずれももうどんな峠だったか(写真を見なければ)思い出せないようになってしまった。松峠には葛城の峰巡りの経塚があったっけか。そのかわり、松峠から麓へ下る道はよく覚えている。みかん畑の斜面に、池が広がっていて。自分にとっては見たことのない光景。このへんでようやく、自分は旅をしているんだなあと思った。無意味に花写真を撮ってみたり。
帰りがけにファーマーズなんとかというショッピングセンター(農産物直売所の大きくなったようなもの)で買い出し。自転車旅行の楽しみの一つは晩飯の買い出しだ。見知らぬ土地の商店・スーパーに紛れ込んで、その土地の雰囲気を楽しんだり、雰囲気に紛れ込めない自分の浮きっぷりを楽しんだり。しかしこの日のファーマーズなんちゃらはあからさまに「外向け」の店で、しかも野菜と肉だけだった。ぐるぐる回った挙句にメニューは水炊きと相成る。この日も再びトイレの裏の人。
やる気になった時に一気に進めておきたいところ。Readers・REARTYRE・広告 など短い記事・リンクのない記事を一気に片付ける。続いて「喪われた〜」の4本を総ざらえ。数字表記の統一、第一回の写真の解像度upと若干の文章修正、拡大リンク付加。
今号(16号)から開き方のデフォルトを「全体表示」に変更した。それに合わせて変更しなくてはならない。特にしおり回り。今回のCDではしおりの拡大やリンク先が何なのかわかるよう色分けしたいと思う。
しかしまあ、0608と0610は、何だあれば。0610なんかREARTYREさえないし。よほど死んでいたな>nagajis。もう思い出したくない黒歴史だが、これも定めじゃ。覚悟せい。
11号の廃道36選は、何とかして81まで持っていきたい。これが#2最大の課題。これまでORJ誌上で紹介した道も含めて、かつ制限(道の廃道・隧道単体は含まない)を緩和すれば、残り45、何とかならないか。すでに「読者の〜」という目論見は成り立っていないし、今後も見込みがないのなら、形だけでも整えておきたい。1か月以上かかると思うが。
もう一つ、解決しておかなければならない課題が一つ。#1のコンテンツに向けてリンクを張るにはどうしたらいい? コンテンツをHDDにコピーしてもらうか、仮想ディスクを作ってマウントしてもらうとかしないとリンクを作成できない。総目次とかどうするのかね。
二題。2色使いに逃げてみる。一つは「廃」の文字をデザイン処理?(網点)して使おうという目論見。
拡大するとこんな感じ。時間がかかった割にはあんまりきれいではない... 他の利用方法を考えるべきか。"OBSOLETE"を黄色にしたのは仕方無く。しかも全然締まりがない。駄作以外の何者でもなさげ。文字を上に載せてスミフチにしたほうがまだマシかも知れない。
もう一つはロゴを使用したもの。こちらはまだ様になったと思う。いい加減罫線囲みは卒業したいけどな。
こんなところでブツクサ言っても仕方無いが「デザインぼしゅーちゅーでちゅー」。そろそろ掲示板に書いておかないと。
ようやく若もの広場を後にしたこの日。久しぶりの荷物付き移動で全く進むことができず。鍋谷峠を越えて大阪河内長野、そこから千早口まで登っただけだ。鍋谷峠はこれから登ろうとする峠が麓からまる見え。「あそこまで登らんといかんのか・・・」と思うと精神的に辛いものがある(特にこの頃のように、足が出来上がっていない時は)。記録では峠まで3時間近く費したことになっている。道もはっきりとは思い出せない。後に登った蔵王峠の風景と混同しているようだ。
√480は大阪側では父鬼街道という名称らしい。和歌山側には明治大正の碑しか見られなかったが、父鬼には江戸の道標と道路改修記念碑を発見。河内長野の市街で晩飯を購入し、千早口駅近くにあるアスレチックなんとかを泊地候補として登ったが・・・廃止されて久しい「立ち入り禁止」地帯であった。諦めて林道泊。
諦めて、と書いたけれども、この時・この場所は土地感が全く無く、目印としてアスレチック何とかを設定しただけだったと思う。あのへんまで行って、泊まれそうに無いならどこか別のところへ行けばいい。その次の目標物までの道筋で泊まれそうなところがあれば。そんな気楽な、一か八かな旅をいつもしてきた。そうしてこの日も古林道を見つけて泊まった。この旅で初めて納得の行く泊地だったはずだ。
自分は自転車旅行をする時はいつもキャンプ場の類を避けている。出費を抑えるのはもちろんだし、夜中に隣で騒がれて眠れないという目に何度も遭っているから。あちらは一夜のお楽しみなのだろうけど、寝なければ明日が持たない自転車旅、これで暮らしていかなければならない身にとっては残酷刑以外の何物でもない。人に邪魔されてイライラするよりは、水道も電気もゴミ捨て場もない森の中で、人間以外の何かに怯えながら眠ったほうが遙かにいい。
素性の知れない沢水で米を研ぎ、飯を炊き、カレーを作って喰う、寝る、走る。それが自分のやりたい旅。人間としての尊厳など、犬猿雉に呉れてやるわ。
今回はちょっと趣向を変えてみようと思う。全く違うシステムに。ということで作成してみた(要はオブローダー調査とおんなじ仕組み)ものの、funnyな成分が全くなくなってしまった。改善すべきか? 今回はこれで様子見にするか?
さらによく考えたら、現在の4軸は「互いに直交していない」ので平均を出す意味が全く無いことに気づく。ううむ。軸の取り方、考えないと。
やや旧聞になるが、最初のチャットに参加して下さった方を「共同編集者」にご招待。張子の虎さんも参加して下さることになり、いまは皆さんがリストを修正して下さっている。有難きことなり。アンケートが終わったら自分もかかります。
http://spreadsheets.google.com/ccc?key=pzKOvl8SX21DCrATllugBQQ
しかしやらなきゃならんことが山積みだ。。。。
9日。荷物をデポして紀見峠、蔵王峠を回る。紀見峠(旧国道)には峠直下の谷を渡るために昭和20年代に松尾橋梁が架けたワーレントラス橋がある。「こういう橋って、何ていうんだろうな」と思ったあの時。どんどん後回しになったけれど、最近はようやくそれが何なのかがわかるようになった。しかし旧国道は下らず、紀見峠集落を抜ける旧旧道を辿り、柱本を経由せずに(国道西側に)下る道を見つけてそちらを下った(はず。あれ、あの道は柱本に出たんだっけ)。そのため柱本の手堀り隧道には遭遇せず。
紀の川に出て、ぐるっと回って蔵王峠へ。麓からよく見える峠なので、登れば逆にさっき自分が登ってきたつづら折れがよく見渡せる。自転車で旅をする時に最も印象的な光景の一つ。さっきまであそこでハアハア言ってたんだぜ。よくもまあこんな所を登ってきたもんだ。荷物が重ければ重い程その感慨は深くなる。
そうはいっても、自転車で登ることを誇ったりする気にはなれない。単に峠がどんな所か見てみたい、そのための手段が自転車なだけだ。自分は峠が好きだけれどパスハンターではないと思っている。
蔵王峠はちょっと面白い構造をしている。峠とほとんど同じ高さに沢が流れていて、紀の川と大和川(石川)との分水嶺はごくごく薄い峰。しかも道はこの沢を越えもう一つのピークを越えてから下り始める。まるで2つの峠がぴったり隣接しているかのよう。
この日も河内長野で買い出し。昨日と同じ場所に泊。夜中にトノサマガエルが訪問。喋る相手がいないとこういう訪問者でさえも嬉しい。
10日。本当はここで連泊して体を休めたかったが、誰も来ないだろうと思っていたココに車が入ってきて驚いた。それもあって場所移動。千早赤阪周辺の峠を回るつもりでいたので、とりあえずそちらへ向かって走り始める。
…しかし異様に自転車が重い。日を重ねるごとに重くなっていくような気さえする。結局千早赤阪の奥までは行けず、手前のよく解らない林道の奥にて泊(どのみち奥は行き止まりなので、同じ道でまた麓まで下りなければならない)。先日に環をかけて人の来なさそうな林道。 11日。ラジオで台風が来るという情報をキャッチ。午前中はテントの中で過ごす。しかし台風はずいぶん逸れたうえ、午後には消滅してしまったので、じっとしていられず千早峠へ(もちろん荷物はそのままで)。
ひどく傾斜のきつい林道を登った記憶がある。その先にセダンが停まっていて魂消た記憶もある。しかし道の雰囲気はどんなだったか。そのかけらさえも思い出せない。平坦になったところで作業小屋。右か左か迷ったが、とりあえず行ってみた左が合っていた。茶屋でも建っていただろう、広い広場のある峠。今はダイアモンドトレイルとその案内看板ばかりが目立つ。
五条市側は草まみれ。だが道を見失うことはなかった。下れば金剛トンネルのある国道310号。トンネルは比較的新しいものの旧道を見つけることはできず。登山道クラスだったのだろうか。下って千早トンネルから千早に戻る。旧隧道の千早洞にはこの時に邂逅している。
写真はほとんど無関係なナナフシ。どこでくっついてきたのか、千早の後で写真に収めている。体が細いためピントが合わなくて苦労した。なお、この旅の時のカメラはFinepix6900z。旅行中は壊れることなく頑張り通してくれた(先にノーパソがイケなくなった)。かなり苛酷な条件だったはずだが。
いろいろ煮詰まった時は逃避逃避。ORJ用原稿を打ち込む。すみませんねぇ>各位。何かすっきりすることをしたいが、どれもちまちまとしか進まない作業だ。
アンケート。軸の取り方、アイデア。
Tシャツ。
近世以前リスト続き。
7月1日向け資料作成。吹田図書館に行った方が早い。
各方面メール。
CD販売準備。
つるしまばし。千石橋。
これはあれか、身辺整理させない為のセルフ罠か。
そんな課題や葛藤とは無縁な5年前の自分は久留野峠を越えて五条へ。千早側は千早峠とそっくりな印象。峠もそうだ。五条側は千早峠よりも荒れていたが半分程乗れた。麓まで降りて振り返れば、どこを通ってきたのかさっぱりわからない、金剛山のどっしりとした山容。
風の森峠まで登って一休みする。ここら一体は面白い地形。紀の川流域と大和川を分ける分水嶺の峠なのに、辺りは峠とも思えないなだらかな丘陵地帯だ。対岸が霞むくらいの広い谷(その奥は低い峰が凹凸と連なっていて、谷というには少しイメージが異なるけれど)を水田と畑と森、そして民家が埋めている。「風の森」という優しい響きの名前もいい。紀の川と和泉山脈に沿って吹き登ってきた風が、金剛山を巻いて向きを変え、この峠を吹き抜けていくのだ。国道の西側に小さな祠があって、ここに吉村虎太郎ら天誅組が集結した。吉野の代官所は峠を下ってすぐの所だ。
たまたま見つけた移動弁当屋で昼飯を買い、風の森峠を見下ろしながら食う。そうして伏見峠で再び金剛山越え。交通路としての命脈ははほとんど尽きた感のあるルートだが、それでもかつては多くの行き来があったのだろう、「こうや」「よしの」と刻まれた立派な道標が残されていて印象に残っている。山腹には町石や経塚もある。なかなか風情のある道だったが、頂上は金剛山山頂への車道になっていて、最後の最後に少し興を削がれた。
この日の晩は何を食ったっけか・・・食い終わった鍋をテントの外に置いていたら翌朝カタツムリが入っていたのは覚えている。特に何とも感じなかった。野宿旅をしていると意識がどんどん自然界側に傾いていく。
やっぱり発展がない・・・わずかに「アンケート中に他の人の回答が見られる」くらいの利点しか付け加えられず。この状態で編集部MLに投げる。要Javascript。
ていうか、毎回何か違うことするのって大変だよね。
愛宕山索道線資料ゲット。Webの情報の1/10にも及ばないが。。。
各方面へのメール×1。仙石貢が九州鉄道の社長であり猪苗代水力発電の社長であることやら600マイル離れていることやら当時の筆頭株主が三菱商事の岩崎久弥(あMLには弥助なんて書いちまったよ人斬り弥助かい)であることやらGoogleMyMapsやら磐梯山大噴火やら言い訳やらやらを英国人の人に説明しなければならず。ひょっとしないでもいま自分はたいへんなことをしていると思う。nagajisの阿呆さ加減がとうとう海外浸出。
明日は愛宕山索道線探索の栞作成。急がないと時間が詰まってきた。
ま、何やっても国の為にはならんのだけどね。エントロピーを増大させる(=人間的活動をしない)のには協力するがな。
アンケートが没になり急遽作成しなおし。ご意見・ご感想を尋ねるだけのさみしいものになる予定。すまんのうゴホゴホ。
しおりは地形図を入手すれば完成。明日には公開できれば・・・。各自印刷してお持ちいただく、と。
今の所、ヨッキ氏、tori氏、謎の自衛官氏、張子の虎氏、あきら氏が参加されるかも知れない。その他参加される方はnagajis@the-orj.orgまで一報いただけると(私が)安心します。といった事務連絡は改めてwhatsnewか掲示板で。
集合は車・バイクの方は1日10時に清滝にて集合。自転車・徒歩組は9時に京福電鉄嵐山駅集合で清滝に向かう。
嵐山から清滝までの平坦線はそれほど見どころはないようだ。せいぜい清滝トンネルと、清滝駅跡のレール流用ガードレール?くらいではなかろうか。なので車の方は素通りして清滝で待っていただいたほうが早いと思う。狭いしね。
索道線を登り、愛宕駅周辺を散策。登山道で下山。時間があれば清滝周辺の散策。そういえば清滝発電所も明治年間に作られた古いものだったな。
昭和5年開業の路線に英国式ガーダーが使われている不思議。叡山電鉄の前身・鞍馬鉄道は京阪と京都電燈の共同出資。京阪は明治43年(だったっけ)開業だから直接的には無関係か(開業時によそから買い受けた→さらに流用、の可能性はあるが)。京電というのも微妙。明治20〜30年代に開業していたのは伏見線のみ。せめて銘版でもついていれば。。。
なお確認できたポーナルガーダーは市原〜二之瀬間に2スパン(名前忘れた G / 二之瀬橋梁 g+G+2g)、貴船口〜鞍馬間に1スパン(鞍馬第一第二橋梁 g+G+7g)。高瀬川橋梁、市原駅の直上の橋梁はノーマルのリベット打ちガーダー、貴船口手前はI鋼桁だった(平坦線は鉄材供給で運休になっている。市原までと市原より上流は開通年度が違う。残り2橋は?)。
掲示板、どなたか投稿してくださらないとまた壊したのかと思ってドキドキする。ありがとう淑子さん(違
前回はUTF-8の判定をJcodeでさせてたんだが途中でサーバの設定が変わった(?)せいかうまく機能しなくなってしまった。一段階戻して、EUC-JPかどうかの判定に切替え。UTF-8数文字+英語だとEUCだと判断されてしまうことがあるようなので(当り前か)、こいつをすり抜けるSPAMだけ特別な正規表現を書いて弾いている。その結果・・・。
日本語のエロスパムだけが残った。どっとはらい。
エロスパムだけを通すスパムフィルターの完成だ。NGワードを打ち込むのもかったるいしなぁ。。。でもやらんといかんのだろうなあ。だいたい手入力のスパムなんてどうやって対処したらいいんだ。おーい、降参したからヤメレー>SPAMMERさめ
朝起きれないのはnagajisだけのようだ。フフフ。遅刻したら置いて先に登ってください>各位。
只今の参加予定者(アイウエオ順)
あきら氏(R173-net)、asamo氏(漂ヘド沈マズ)、tori氏(山さ行がねが)、謎の自衛官氏(デミオが行く)、張子の虎氏、multi氏(萬流智隧道)、ヨッキれん氏(山さ行がねが)。
おまけのナガジフ、。
霧の青山峠。旧道を辿らずに長野峠方面へ。この時に長野隧道(廃)下を通っている。後で知った時の悔しさと言ったら! おばあちゃんにバナナを頂いた蝙蝠峠。大山田の百年は未だ未見で、未だになぜ蝙蝠なのか解っていない。97年?に通った√25を下り。鈴鹿サーキット脇のキャンプ場に泊まる。タイヤがバースト寸前で、市街の自転車屋でタイヤを購入した。赤いサイドラインの入ったスリックタイヤ。2005年くらいまでは使っていたように記憶する。そうして蕁麻疹に悩まれる日々。それもまだ序章。
こうして書かなければ思い出せない記憶の数々。どんどん断片化していくのが辛い。霧の匂い。風力発電の風車のスピードと轟音。転がり落ちて行くあの道のブラインド・カーブの角度。全てを記憶できていたと豪語していたのは誰だ? あの道を、再び思い出すことはあるのか?思い出せるのか?
気がつけば過去ばかりを見ている。そうして将来設計はグダグダだ。そんなイキアタリバッタリズムはチャリ部仕込みだと思っていたが、チャリ部というより自転車そのものに由来するもののようだ。綿貫益弘「津軽から江差へ」を読んでそう思った。所詮自転車乗り、真っ当に生きられる訳がない。
廃道を読む(16)で町石に古いものが多いと書いたけれど、何げに「現存最古の町石」が箕面にあるらしい。1200何年、鎌倉時代の銘だったか。やはりこういうものはちゃんと調べられているのだな。今度機会を見つけて行ってみよう。
ピーナッツのカロリーの高さには瞠目せざるを得ない。
例えばいま手元にSHOP99で購入した「手むき味付けピー」・内容量約250gが存在するのだが、裏面の栄養表示成分によれば1袋で1520kcalものエネルギーを有しているという。恐るべき値である。成人男性が一日に必要とするカロリーは2000〜2500kcalと云われているからたった99円税込み105円でその3/4近くを補えることになる。単価当たりのカロリーで言えばカロリーメイトなど眼中にない、コンデンスミルクでさえ1ケタ及ばない至高の存在、ザ・ピーナッツ。マリー・アントワネットに托言して「ピーナッツを食べればいいじゃない」と言いたくなってしまうほどのポテンシャルを、ピーナッツは有している。(思わず定冠詞をつけてしまったが双子の歌姫を意図するものではない。念のため)
しかし、それを自ら実践してみた結果として、残念な報告をせねばならない。「ピーナッツのカロリーを余すことなく吸収するのは難しい」ことが判明したのだ。まず250gのピーナッツを一度に食べ切るのは大変だ。顎が疲れるし何より飽きる。そうしてどうも、人体がそれを消化吸収し切れないらしい。詳しく書くのは憚られるが、どんなに噛み砕いた積もりでも未消化のそれが下から出てくる。ピーナッツの芳香をふんぷんとさせて。一週間程試してみたがこの状況は変わることがなかった。まことに、残念な結果である。
ピーナッツを完膚なきまでに消化することのできる人類、あるいは消化酵素・腸内菌の類。来るべき食糧難の時代には彼等彼女等の出現が望まれる。
印刷広告・テレビ広告で最近とみに使われる「Web検索」が気に食わない。続きはwebで、というやつだ。
広告デザインたるもの、紙面・誌面という限られた媒体の中に如何に効果的な表現を盛り込み人の目を引き購買に結びつけるかが勝負、ではないだろうか。それ以外に情報源を委ねるのは広告として失格なのではないか。それならばまだ、QRコードのほうが、どう違和感無く取り込んでデザインするかが試されるだけインダスtoriアル・デザイン的であろうと思う。
などと偉そうなことを言うが、何のことはない、猫も杓子もな状況が気に入らないだけだ。何より「キーワードをうまく選ぶ」以外に発展のしようがないのがつまらない。そんな状況で「web検索」手法の未来は占えるだろうか。試みにいくつか試してみたい。
思い切って無関係な語を検索させてはどうか。その方が有益な情報が得られて企業好感度がupするかも知れない。例は満州事変の闇を知れ、という主旨である(それが有益かどうかは別として)。
あるいは難読語の羅列で検索させれば、検索エンジンからキーワードを購入する費用を節約できるうえに目標サイト一つだけをヒットさせることができるだろう。但しTRONコードでやろうものならごくごく限られた層にしか検索して貰えないので注意が必要だ。
&T219F65;は魚扁に遙の中身。超漢字ウェブブラウザなら正しく表示される(はず)。類似形としてアラビア語なども考えられる。
つねづね「リセット」ボタンの存在意義を疑っている。リロードすればいいだけの話ではないのか。
発想を変えて「Webに『Webで検索!』を置いてみる」とどうだろう。当然上の例は当サイトのトップページに置かなければならない。循環論法的で斬新かも知れぬ。
人の評価は他の人がするもの故にあらかじめ検索して知って貰おうという主旨もいいかも知れない。例はあまり良くないが(もちっと効果的なワードがあったはずだが思い出せず)。
結論。やっぱり発展しないのではないか。
今日は特に報告することもなく。無駄話を書いて寝る。
次回の廃道を読むは「道路の改良」の「地方通信」について。3面記事的な情報が詰まった「地方通信」のダイジェストを作ろうという計画。さすがに一気には打ち込めず、T15〜S7、S8〜S16の2回に分けてお送りすることになる。
その他自分の担当については、1日のOFFが無事開催されればその報告(多分)。先日行った二之瀬橋を旧橋紀行に。TRDBは新しいネタがないなあ・・・。
その他、裏で極秘に進んでいる企画?がいくつか。
先日来からの蕁麻疹でロクに眠れず、寝たと思えば10時頃に目覚め。のろのろと荷を畳んで出発する。
あまり心地よい思い出ではないためretrospectではほとんど触れなかったが、ともかくこの頃はひどい蕁麻疹に悩まされていた。体中蚊に刺されたような跡ができて、それが見る間に広がっていく。昼間はそれほどでもないのだが、夜になるととたんに駄目。アレルギー持ちだといってもここまでひどいのになった記憶はない。何が原因なのかさえわからなかったし、今でもはっきりしない。そんな状況で旅を続けた。そもそもDead or Runのつもりで旅に出たのだし名。
この日は安楽越(写真)を越えて√477を北上、水沢峠の麓に泊。明日から鈴鹿山脈の峠群を尋ねて回る。いよいよ真骨頂。
先日までの懐古が飛ばし気味だったので振り返り直してみる。左は14日に明日香村で見かけたもの。右はどこだったか忘れてしまったが、桜峠と青山峠の間で撮っているから、21日、三重県の伊賀地方だと思う。
何でこんなものを撮ってたかというと、手形や杓子をまじないとして玄関口に貼る風習の話が柳田翁の著書にあったのを記憶していて(いま調べたら「水曜手帳」の「王禅寺」だった)、それが微妙に変化しているのが面白くて撮ってみたのだった。
翁が見たのは小さな子供の手形に「コノ手ノ子ドモハルス」等と書き添えられたものだった。厄病神が入って来ないようにというまじない。本来、手形は「その人」の証拠なのだから、それを押しておいて「ルス」というのはちょっといただけない。これでだまされる厄病神のほうもどうかしている。かといって子供の名を記して相手に知られるよりは具合がいいだろうーーー日本では古来から名前を知る・知られるということに呪術的な意味合いがあったからねーーー。厄を逃れたい人が誰かという表示としては最適解だったのかも知れない。私などはこのエピソードに(恐らくこの手形を貼った)母親のささやかな思いやりを感じる。
「コノ手ノ子ドモハルス」のほうは、疱瘡の神に恐れられたという伝説の人物の名前を記したり、鎮西八幡為朝御宿と書いたりして軒下に貼るまじないに端を発しているらしい。翁が武蔵野を尋ね歩いていた頃(戦前間際)にはそれが発展して、シャモジに子供の生まれ年と「コノ者十五ニナル迄クツメキ御免」と書き添えて軒下に貼る風習があったという。クツメキは喉の病気の方言だとかで私もよく知らない。なぜ杓子が選ばれたのかは別稿にあったと思う。母親という権力の象徴であり食=魂の配分にかかわるものとして霊力が認められていたとか何とか。そうした小道具を添えて、まじないを験あるものにしようと企てたものらしい。
古くは厄避けのまじないだったそれが、関西の山中では祝いのまじないになっている。翁が見た融合がさらにアウフヘーベンされて別物になっている所もある。それが面白く感じられたのだった。もちろん、自分の実家にはそういうまじないがなく、この旅で初めて実物?を見た。みなさんの中には「ああそれ普通だよ」という方もおられるのだろう。ちょっと羨ましく思ったりする。
しまった、asamo氏から御連絡いただいていたグロメク氏の参加を加え損ねてた。大変失礼いたしました。ホハレ峠を踏破したお二方であります、私に代わって東京組を迎え打って下さるでせう(だから煽るなと
只今の参加予定
あきら氏(R173-net)、asamo氏(漂ヘド沈マズ)、グロメク氏(漂ヘド沈マズ)、tori氏(山さ行がねが)、謎の自衛官氏(デミオが行く)、張子の虎氏、multi氏(萬流智隧道)、ヨッキれん氏(山さ行がねが)。
おまけのナガジソ。
multi氏やtori氏ヨッキ氏は前日から京都入りされているとの事なので、開催時間が早めになると予想されます。あとは雨が降らないようお祈りするだけです。
だいたい上記のようなことを昨日最後に書いた積もりだったんだが。反映せずに寝てしまったか。ということは一穀橋のこともか。うーん。
水沢峠を担いで越えた日。水沢峠は国道477号武平トンネルの南方にある地形図破線道の峠。全くの山道だ。
西側からのアプローチは風化したての花崗岩の白い砂が印象に残っている。小さな沢渡りを何度も繰り返す道で、使い古された道というよりも登山のためにつけられた新道のように感じる。峠もあまり峠らしくない、尾根の一角を無理矢理乗り越えるような感じの峠であった。それでも後に登る鞍掛峠も似たような道・峠だったから実際には往来があったのかも知れない。写真は峠直下の最後の登り。
水沢峠は峠から伊勢方面の眺めがよいことが特筆される。峠のある谷が真っ直に開けているせいですこぶる見通しがいい。道は東西とも谷底を辿ってゆくものであった(この日も目の前の谷を延々と担ぎ下った。よくもまああんな所通ったものだと思う)。
柳田國男の「峠の表裏」に照らし合わせるならばどちらも表。これだけ見通しが良いのだから尾根を伝わずとも街を目印に下って行くことができたのだろうか。それともどちらの側も「鈴鹿山脈に登るため」の登山道として生まれたのか。先日登った白髪峠も峠付近から集落を見渡すことができたけれども、あちらは尾根をたどってその集落へ下っていった「裏」の道だった(東征伝説でも南から北へ、大和目指して越えている)。ここの場合、古えのモチベーションはどちらを向いていたのだろう。名前は東向きにつけられているが、西側に目だった集落がないことも関係しているかも知れない。
見出しは統一したほうがいいよな、と思いながらいつも適当だ。OFF会なのか探索なのか、それ以外の伺かなのかすら解らぬ。そうして内容も見出しとは乖離した話から入る。
今日は府立図書館に籠って資料ゲッツに費す。「麗しの愛宕山索道」は単なる小説で絵的な資料にはならず、当時の写真は京都電燈五十年史の一枚だけとなった。ま、愛宕山以外の資料をがつがつゲッツ(後述)したので私個人は困らない。帰りに旭屋で地形図を購入。必要なものが解っていて一発で引き出せるというのに若い2人連れが地図台占拠していつまでもだらだらやっててキレそうになる。ヴィトン風情が地形図に何の用か。地形図を写メールするな。それは犯罪だ。とここで文句を言う気弱なnagajis。わざわざ混雑する紀伊国屋を避けてこちらに来ただけに余計に腹が立ったのかも知れない。ケツの穴のちいせえ奴だな。しかしデカくっても得することなどないだろうが。
帰宅して一風呂浴びた所で寝てしまった。工事中の鉄骨建屋みたいな所で秘密裏に大根を栽培している(部屋に相当するブロックが土になっていて真横から大根を植えたり引き抜いたりしている)ヤミ屋集団に慣れない博多弁で話しかけ、横から植えてもやっぱり鉛直方向に根を伸ばす大根の律義さに感動したあげくに寛解する夢を見て。そうして起きたら24時だ。とほほ。という訳で発行は1日遅れの25日です。あっ、あれって6地区のど根性大ちゃんと今日の鉄骨なのか。いま気づいたぞ。おそるべし昼間の残滓。
当時の写真は一枚と沿線案内図で我慢してください。他は暇な時に見るための文字資料です。
なお、現時点で7/1(日)の天気は曇り。降水確率40%。ここからどう我々を翻弄してくれることか。
最近備忘録の必要性をとみに感じるnagajisによるnagajisのための府立図書館の備忘録。
何か一気に鉄道マニアになったような一日。鉄道の機械的な何かより黙って仕事している構造物の肩を持つ鉄道マニア。カテゴリとしてはあり得るのではないか。
Subjectが″何中?″というのが来た直後に″For nadachu″。お前等人のメールで会話するな。
水沢峠の麓から移動。いよいよ茨川へ移る。というか移動しただけの一日。記録によればこの辺りから本格的に雨続きとなったようだ。
麓のかもしか山荘での休憩。ベンチだったかブランコだったか、そこに座ってコーヒーを飲んだ。誰もいない庭。ここに自分がいることも誰も知らない。その安堵感。
平子峠(何もないゆえ記録も記憶もない)を越えて日野町中心部。そろそろ買わなきゃと思っていた中部のツーリングマップルを買う。これが初めてのリング綴じでないTML。機動隊の基地?がある瓜生津峠を越えて八日市市。マックスバリュでしこたま買い込んで登る。確か永源寺付近は旧道を通ったな。あの寂れた商店街(今で言う感覚の商店街の2世代くらい前の商店街)はちょっと旅情を誘うものがあった。
永源寺ダムの付近はあまり覚えていない。このダムの底にも昭和の旧隧道が一つ眠っている(はず)。そうか、左岸を通ったのだったな。杠葉尾の道路脇の大きなタイヤに腰かけて休憩したのを思い出した。車線変更のために置いてあるやつだったと思う。
持参の地図では国道から茨川までの道が破線表記になっていたため「これ全線薮漕ぎやったらヤバイな」と思っていたけれど、そんなことは微塵もなく、普通に車道林道だった。ただ国道から茨川まで10.5kmもあるため人里離れた感はすさまじい。茨川に入る直前、比較的新しいコンクリートの橋が見えただけなのに、それに人けを感じてほっとしてしまうほどだった。
大きく蛇行する茨川の隈に小さな河原。そこに続く道跡。平地らしい平地はこれくらい。あとは背後の山に2、3段の家が貼りついて連なっていたらしい。今はほとんどが崩れ去って、八幡高校山岳部の登山小屋になっている元公民館くらいしか残っていない。その軒下にテントを押し込んで泊まる。
この日写真を撮ったのは昼間に落石注意の看板を撮っただけ。何しろ充電式かつ電気バカ食いなデジカメだ、今後しばらく山ごもりすることを考えると無駄な写真は撮れない。というか何で看板なんか撮ったのだろう、それこそ無駄ではないか。
いたしました。届いていない方は御連絡ください。
メール一つ送るのに2時間もかけるなと。しかも間違えるしな。失礼した>あきら氏
激しく雨、そして体調不良。半径1m以上出歩くことなく丸一日テントで過ごす。確かテントから見える光景を写生していた。結局モノにはならず。あの画帳、どうしたっけか。。。
雨の日それ自体は嫌いではないけれど、わざわざその中を出歩く気にはなれない。憂鬱な気分で雨を眺める風情(その行為自体の風情)を楽しんでもいいじゃないか。マスターベーションと嘲られても構わない。特にこんな、先を急がない旅の途次、半径10kmの圏内に自分以外のニンゲンがいないような、世界では。
寂しさよりも先に来る開放感。それが不思議でならないが、実際自分はそういう生き物だと思う。ニンゲンと5分以上一緒にいたら煙を出しながらクシャクシャとしぼんでしまうかも知れない。いやあれは反対か。いずれにしても最後に笑うのはインベーダーだがな。
かといって、自然との一体感なんていう言葉には嘘を感じる。いくら自分が自分を否定したところで人間であることに変わりはなく、そして人間と自然とは相容れるものではない。自然と対立し、ある時は征服し、ある時は痛めつけられ、そんな敵対関係の中で己の身を守り続けてきたが故に人間という生き物がある。文明がある。この旅が終わればまた人間社会に戻らなければならないし、死ぬまで人間として生きていかねばならない。そんなことを考えたはず。現にこうして---無茶な旅を繰り返しても---結局はつまらぬ社会で嘆息しながら暮らしている。nagajisとは勝手な生き物だとつくづく思う。
柳田國男の論文のなかでは「山の人生」が一番好きだ。各地に伝わる「山中で異人に出会った」という伝承についての考察で、翁は本気で生物としての「山人」の存在を信じていたらしく、確かに説を読んでいるとあってもおかしくないことのように思えてしまう説得力がある。自分もできれば山人になりたいと思うが、遅くとも明治の末には死に絶えてしまったらしいから、たぶん無理だろう。何より煙草がネックになるのが目に見えている。
メモ:ニシゴリの枝を焚くと山姥が来る。剛胆なきこりは一夜の慰めにわざとニシゴリを焚いたという。ニシゴリはクロモジの別名。ちなみに先日峰越峠で実践したが、あの辺りには住んでいないようだった。
アルコールが回らないので問はず語りを続ける。自分にとっての書く事とは何か。上でああ書いた割にはwebで人に向けて情報発信をしている。ORJを作っている。矛盾ではないか。いつもそう思う。
人間にカテゴライズされる以上、その活動に関わらずには生きて行けない。それはちょうど人間と没交渉を保っていた山人が絶えてしまったのと同じ。かろうじての接点としての書く事。書く事が何か・誰かの役に立とうとか、生きた証を残すのだ、とかはあまり思わない。生きて行くための一手段。そうして嘆息しかない身の回りの中で、かろうじて嘆息ではないことの1つ。
大学で学んだ最も大切なことは、文化・文明が積み重ねの上に成り立っているということだと信じる。19世紀から連綿と続く、例えばProc. Roy. Soc.、例えばChem. Soc.の論文と、その引用の数々、仮説とその検証と反証。個々人の知識についても然りだが、情報を得て満足するだけなら何も書きはしないしwebで駄文を垂れ流して満足するだろう。しかしWebではその積み重ねが塞ノ河原を為していて、殆んど効果が期待できない。だからこそORJを作る。webとは違う、永続可能性のある媒体として、積み重ねの一つの石となるべく書いている。
もう一つ、自身の「思考」を明確なものにするため。書いて文字とすることで自身の思考を構築する癖がある>nagajis。あいまいな知識は文章にできないし、揺れていた思考を文字にすることでその上に定着させることができる。思考を整える意味でも書く事は重要だ。そうしてこの一文も、自身の考えを固めるために書く。
_ あきら@大阪 [まあ「予定」だからキニシナイ]
の話を書こうとして間違いに気づく。ぐふっ
絹路さんから参加希望のご連絡。ありがとうございます。参加者がとうとう2ケタになりました。3ケタになったら頂上でおにぎりをぱっくんぱっくんぱっくんと食べることにします。
只今の天気予報
31日 曇 降水確率40%
1日 曇 降水確率40%
2日 曇時々雨 降水確率50% ←
嫌らしい位置につけやがったな・・・
昨日は酔わない勢いで恥ずかしいことを書いたような気がする。後で消すからな。くそ。
実は廃道を読む(16)はほぼ完成している。添付原稿が。今回は168kBのテキストがつきます。
そうして旧橋紀行を懲りずに書いている。今回は京都のRC橋について。意外と面白い京都のRC橋。ちゃんと廃橋もあります。と書いた時点でバレバレだけど。
その裏で江浪峠を進めたり。完成するのか、これ。。。
秋元橋もそうなんだけど、今PGが(勝手に)アツい。
PGの構造は基本の基本だし物理感覚的に解りやすいのだけれど、ネットにまとまった情報がなくて難儀する。鉄の廃路さんの所やフカダソフトさん、弥生の森の散歩径さんの所などをぐるぐる回って教わる教わる。でも阪堺の大和川橋梁だって英製なくせに明治44年だしなあ、このへんどうなってるんだろうなあと思いつつ、最後に歴鋼集覧を見て・・・うおっ!キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!
マジで、グラインダーテストお願いします。後生ですから>叡電様。きっと裂けない火花が散りますから。
その頃5年前のnagajisは廃村茨川のテントの中でウンウンうなっていた。下腹部に激痛。例えばこれは腹を下したとかゆうレベルの痛みでないことは自明。肝臓が痛い。そんな局所的な痛み。
ふっと99年の夏に北海道で3度ほど生水を飲んだ記憶が甦る。一度目は静狩川の上流で。一度は十石峠の麓で。勝北峠の西側で氏に水として汲んだやつは飲まなかったけれど、あれ、ちゃんと洗ったっけか? 尊敬するFe氏、あなたを患ってしまったのでせうか。それはそれで悔いがないけれども。
身動き取れない状況なだけに、今までの旅が走馬灯のように・・・とまでは行かないものの、そんなことを考えて気を粉わすことしかできず。信州の峠はもっと見ておきたかった。眺めのいい峠、なんてずっと後回しにしていたから、ほとんど手つかずといってよかった。何よりこの旅が1ヶ月も続いていないことが悔しかった。このままでは「今夜が峠です」と言われて永遠に登り続けることになるだろう(というフレーズは確かにこの時思ったはず)。
1時間近く肩で息をして、ようやく動けるようになった午後。初めて茨川の中を散策した。文字通りの夢遊病者の体で。
集落に渡る直前の橋から、茨川。あらゆるものが緑に飲まれている。自分の自転車がどこにあるか、わかるかい?>nagajis
自分にとってはこの景色のほうが印象深い。茨川の傍らを流れる茶屋川はかくのごとくの浅い河原でどこまでも続いている。まるで歴とした道路(だったか)のようだ。実際この奥100mほどの左岸、この河原を辿らないことにはとうてい辿り着けないような場所に、民家の残骸が眠っている。
集落対岸にはこの集落で最も新しいもの・神社の鳥居。苔蒸した石段を登って行けば小さな祠がましまして。振り返った茨川の谷の険しさに、いつもの兼好法師の言葉を思い出す。「人はいかなる所にも住まるもの」。そうしてかつては信仰が、その原動力となりかすがいとなっていた。信じられる人はそれだけで幸せだと思う。
元公民館の脇から山腹に向けて登って行く道。石垣には可憐な花が群れ咲いていた。それが「ユキノシタ」であることを後に買ったポケット図鑑で知ったほど、自分は植物の名に疎い。だから自分にとってのユキノシタは今でも茨川の象徴である。
その道が行き着く先は、すでに更地になった民家跡。ここには柱の一つも残されていなかった(他所にはいくぶん残骸があったのだけど。中には屋根が形を保ったままごっそり落ちていて、それがどこかの登山倶楽部の基地になっていた)。
以上で茨川は全て。本当はもう少し民家があったようだが、それを辿ることさえ忍び無くなって、テントに戻った。
丸3日も動けないとは思っていなかったからそこまでの食糧は仕込んで来なかった。最後に残された口にできる固形食糧が、この「非常食」だった。
もともとは会社で貰った義理ばれんたいんチョコ。いろいろあってこの状態で会社の机に4ヶ月放置されていた。何かのギャグにと思って持ってきたこいつが本当に非常食になるとは...。「備えよつねに」は真なりと独り納得しつつ、自分の先見の明を褒め称えつつ、開封すると
包みによれば子豚の形をしたチョコレートだったらしい。一部が溶け、さらにそれが粉々になった姿は猟奇的でもありデュシャンばりの芸術作品でもあった。ピントが合わなかったのはつくづく残念だ。おいしく頂いた。
大学は違えどサイクリングの先輩であるyanoさんが参加されることに。にぎやかな一行になりそうでなによりです。うちも受付連れて行こうか。
そうしてmultiさんの所の表記を間違えていた!!大変失礼しました。。。。
●現時点での参加予定(アイウエオ順)
あきら氏(R173-net)、asamo氏(漂ヘド沈マズ)、絹道氏、グロメク氏(漂ヘド沈マズ)、tori氏、nagajis、謎の自衛官氏(デミオが行く)、張子の虎氏、multi氏(満流智隧道)、yano氏(大教大サイクリング部OB)、ヨッキれん氏(山さ行がねが)
さらに「索道線→鋼索線」の間違いでは?というご指摘をいただいたという連絡。確かに間違いだ。慌てて表紙をでっちあげ直す&本文修正する。カナは難しい。変に今風になってしまった。
いいもの見つけたと思ったんだけどなあ。やはり今ある鉄道橋は知られ尽くしているのだろうか?でも、自分にとっては発見なのさ!
今現在のnagajisがどうであろうとなかろうと旅は続く。再びの腹痛と蕁麻疹に加えて食うものがないという三重苦にのたうちながら気がつけば朝。ロクに眠ることができなかった自分とそのテントを異様に濃い朝霧が包んで。幻想的かつ絶望的な状況の中、ほとんどヤケクソで越えたのが治田峠だった。
のっけの倒木。自転車を担いで道無き斜面を右往左往。諦めかけた所で発見した赤テープ。ヘロヘロになりながら沢を遡った。とはいえ沢にさえ降りてしまえば、もう、こっちのものだ。
沢は所どころで広い砂地を形成している。錆びてボロボロになったカメラが一つ、砂に埋もれているのを見た。古そうだがいかにも量産型っぽい小さなカメラ。誰かが何十年か前に撮った風景が、この中に入ったまま失われたのだろうかと思って、ちょっと切なくなったのを覚えている。
峠下の″切り返し″は運が良かった。少し行きすぎてしまって、いくらなんでも行きすぎだろうと思って引き返す時に赤テープを見つけたのだった(そのかわり休憩した場所にライターを落とす)。残りは一本調子の、しかししっかり大地に刻み込まれた塹壕道。
鋭い尾根を乗り越える峠。縦走線ばかりが目立ち、峠らしくもない。建てられた看板も御池や藤原岳などを指し示していて、ここが峠であることさえ書いてあったかどうか。しかしこの峠は茨川の人々にとっての生命線だった。いろんな思いが越えただろうと思うと、目の前の看板に落書された「縦走記念」云々という文字が余計に腹立たしく思えたのだった。あなたのためにある峠じゃない、ここは。
東側への下りは深く掘り込まれた塹壕道。傾斜もきつく、小さなつづらでどんどん高度を下げて行く。これが中尾地蔵の所で一変し、山腹をゆっくりと巻きながら降りる道に変わる。そういう道の変化の目印としての中尾地蔵。存在にも名前にも意味があることを思う。これもまた落書だらけだった。節操のない、自制心のない人々め。
降り着いた先は小さな草原だった。左を見れば谷の対岸の斜面がかなたに見えている。ものすごく深い谷の、その谷の中腹に出来た小さな広場。棚のような広場。すぐに車道に出そうな気もしたけれど、ここからしばらくはこんな草地と薄い林とを交互に通って行くような道だった。それが治田鉱山跡に出た時の場面展開までは覚えていない。これは旅行直後でも思い出すことができず。
いつまにか辺りは平らになっていた。右側に迫っていた山の斜面が遠のいて、小さな平地を抱え込む杉木立になって。あっ、何か違うな、と思った次の瞬間には隧道の前だった。それを迂回する道もあったのだけど、向こうも見えていたしで、その隧道を潜って。出た所に日の岡稲荷の真っ赤な鳥居が建っていて、それで治田鉱山跡だと知ったのだった。
さらに進めば、道はだだっ広い河原に降りる。後に読んだ本ではここでキャンパーが輪になってラジオ体操している写真があった。2、30人はいた。それでもまだ前後左右が余るくらいの広さ。川下できゅっと狭まって、大分で言うサコになっている。ここは岩場を鎖でへつらなければならない。その場面転換の面白さ。有無を言わさず(言う事も出来ず)自転車もろとも鎖へつり。
車道との合流点はその先だった。
まずは飯だ。飯。飯が買える所を探して走る。三重県を三重県だと意識して走ったのはこの時が最初で、そういう時はその時の思いがその県のイメージになってしまったりするのだけれど、その結果「三重県は東西に平坦だ」「店がない」という誤った印象になってしまった(そもそも1週間ほど前に名張辺りを通っているんだが、どうも奈良の続きという印象がある)。いくら走っても変化がなく、ぽつぽつと家があるばかりで、ここぞという町の焦点が、民家の集まってるような場所が見当たらない。起伏が少なく見通しできないせいもあって、余計にそれがわからず、ただ闇雲に走るしかなかった。そうしてようやく見つけた小スーパー。食糧を得る。生き返る。煙草を吹かす。川沿いのコンクリートの壁に座って、いくつ菓子パンを食ったっけ。
帰りは石榑峠を越えて。石榑峠は幅制限のコンクリートブロックばかりが有名だが、個人的には峠道の擁壁に描かれた絵のほうを推したい。登るにつれてどんどん写実的になっていく壁画群。最後のほうで現われる猿などは実にいい顔をして遠くを見つめていた。こんな道だ、誰を楽しませるでもなく在り続けて、そのほとんどはもう色褪せつつある、そんな姿が涙を誘った。そうして幅制限のコンクリートは確かに必要性を感じた。記録には「送電鉄塔が峠の目印になる」と書いているが、そんなことはもう忘れた。
ユズリ葉尾の商店で買い足し(といってもラーメンとコモパンくらいしかないさ)、再び茨川林道。まだこの時点では、林道を下ったことがない。同じ道を2度続けて登る変な感覚。
なお、写真は三重側麓で撮ったもの。単に「電光掲示板には難しい漢字が入ってないんだ」と感心しただけ。
まるはしや様、keisuke様から参加希望のメールをいただきました! コウモリストのまるはしやさまにはぜひぜひ実地研修を乞いたく候です個人的に。「廃道経験が浅くて」と謙遜されるkeisukeさま、オブローダーの道はいつでもフルオープンですからご心配無く。私も廃線あるき?は初めてで(爆
ご連絡第6報は、少し遅くなるかも。。。今は寝かせてください(後述)
登録延期を勧告されていた石見銀山が目出度く世界遺産に。自分にとっては大逆転という感じでとても驚いた。そうして初めての「産業遺産」としての登録。この分野、これからますますアツくなるに違い無いッ!!
7月3日から。ついに来た、という感じ。またしばらくネタには困らなそうだ。(でもいい加減、あの使いにくいUIは改善してほしい...pdfも1.5じゃClassic Macから見れんのだよ(ボソ )
昨日の分を書いてアルコールを浴びてさあ寝ようという時にカシイャに呼び出された・・・そのまま拘束、さっき帰宅。会社で少しは寝てみたが、こんな無茶な生活が、あってたまるものか。なので懐古する気力が尽きた。寝る。
しかしモーローとした頭の時ほど阿呆なことを思い付くもので。OFF会にネタ仕込みありかも。
先日の徹夜ですっかり生活リズムが崩れた・・・眠れないAM6:00。大丈夫なのかnagajis。
8時に清滝につこうとするなら朝4時には家を出なければならない。24時に上がる身にはつらい。遅刻したり面倒見てもらうような失態だけは避けたいところだ。
疲労と体調不良によりもう何度目かの休息日の28日。風通しのよい河原にテントを移動したら雨に降り込められた29日。再び肝臓が痛みはじめて。この間の記憶はほとんどないが、茨川が自分の家っぽく感じ始めたのは覚えている。(腹の痛みと痒み以外は)何の刺激もない毎日もいいものだ、と思った。
脈絡などない。どこまでが自分の知識で、どこまでが他所の知識の引用なのか、線引きが難しいと思う。また自分の知識をそこに積み重ねるには勇気がいると思う。もうちょっと解りやすく(えっと自分に対してわかりやすく)書くなら、webにある情報をどう扱うか。書かれていることを信じたならば、それを自身の知識としていいのか。リンクという形で引用すべきなのか。
世界の知識の積み重ねのなかにいる自分。本で読んだ事を吸収して知識とする、みたいな言い回しがあるが、本当にそれを自分のものとしていいのか悩む。そのままに流用しなければ(出典を明示しなければ)盗用なのではないか。自分の判断は積み重ねに値するか。報告書のように事実を貴しとするような文章ならばなおさらだ。(といっても間違いを多々放置してるけどな>報告書)
その一方で、何か独自の判断を入れなければオリジナリティーは生まれないし、進展も(大げさに言えば集合知としての知識の進展も)あり得ない。何年も、下手すれば永久に、形として残ってしまう「書く」ということには、それなりに責任が要求される。
けどまあ、こんな部録"なぞ何の役にも立たんだろうからな。例えばこの記述でアフリカの子供達が飢えから救われたりはしない。好き勝手書くさあはは。
_ 学生服のヤマダ [お、 廃道界の「西の雄」と「東の雄」が相会して探索をされるのですね。 これは関西近県にお住まいの方では「そりゃぁ、のっぴきならねえぞ」と思われる方もいらっしゃる事でしょうね。 当方も7月に入ったら..]