nagajisの日不定記。
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やる気の乏しい休みの日は街を歩いて茶を濁す。今回も西宮市。西宮北口から阪神西宮までの辺り、西宮の東半分を主に歩く。
狙いは結構あたっていたようで、津門や松原の住宅地には所々で煉瓦を見ることができた。ただし希望の品は見つからず。通してみれば既知刻印の分布確認に終わった一日。勝部の煉瓦はいずこや・・・
こういう煉瓦は見つけたのだけれど。恐らく輸入物と思われる。upnと読んだけれども少々心許ない。(これを撮っている時に隣の家の人が出てきて少々恥ずかしい思いをした)
これは未知だけど耐火煉瓦。真ん中にでかでかと○太マークが入っていて、左右に三石と添えてある。そういえば三石に○太ってつく会社があったよなーと思ったら、大正5年創業の○太三石耐火煉瓦→昭和3頃太田耐火煉瓦(株)、のもののようだ。まあまあ、これを本日の収穫としておこう。三石の耐火煉瓦も結構な数採取されたなあ。
「明治前期産業発達史資料 別冊 36-1 鉄道局年報 自M20 ← 見るべきは多分これ
「明治前期産業発達史資料 別冊 36-2 鉄道局年報 自明治27年至明治29年
明治前期産業発達史資料 別冊 30-2 逓信省年報 第2・第3(明治22・23年)
明治前期産業発達史資料 別冊 30-3 逓信省年報 第4前編・後編(明治24年)
明治前期産業発達史資料 別冊 30-4 逓信省年報 第5(明治24年)
明治前期産業発達史資料 別冊 26-1 内務省年報 第1回1
明治前期産業発達史資料 別冊 26-2 内務省年報 第1回2
明治前期産業発達史資料 別冊 26-3 内務省年報 第2回1
明治前期産業発達史資料 別冊 26-4 内務省年報 第2回2
明治前期産業発達史資料 別冊 26-5 内務省年報 第2・3・4・5回
明治前期産業発達史資料 : 勧業博覧会資料 163← 見るべきは多分これ
第三回内国勧業博覧会の解説書の原本が、何故か一橋大のレポジトリに置かれてある。勢陽組→水谷工場の年月日記載あり。型抜して叩くタイプの作り方。
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/da/bitstream/123456789/6934/1/kgh3mie02.pdf
ksg
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/sc/46934/kgh3mie02.pdf
検索かかるように変更しとけよ!!!(2022-1-18)
奈良県もあるんだけど肝心の第1部第2類が存在しねえ。
まほろばデジタルライブラリーにあるんじゃないかと思ったが、関連公文書が確かにあったものの、目次無しくずし字草書の400コマ超×3部構成で非常につらい。結局第三部の上京用運賃割引申請?に平松甚平氏の名を見つけただけ。基本的にここには解説は含まれない。(第一部→第三部の順に新しくなっているようなのであるとすれば第一部か)。
556000681 p.91 p.121の辺りに土倉庄三郎の筏出品に関わる文書。筏二連というすげえでかい出品だったため色々大変だったようである。規定外のものだが吉野造林の手法と規模を示して林業者に感動を与えるにはこれくらい必要云々と玉置郡庁が上申していて、移送費用とか現地の日覆い設置とかは出品者持ちということで許可されたようだ(つまみ食い読みの結果なので間違ってるかも知れぬ)。
考えてみればこの直後に玉置郡長は吉野郡大水害で亡くなるのだよな。。。
京都府 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801934/149
出品目録には平岡惣右衛門の名前があるんだが講評の一覧には出て来ないんだ。どういうことだ。
大阪府 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801934/221
横山善三 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801934/222
田中清助、津江[草冠+保]、旭株式会社喜多羅守三郎、九里庄次郎、堺煉瓦福本元之助、子師常次郎、摂津国西成郡木津村飯田久兵衛、摂津国西成郡難波村藤本甚右衛門、同中臣吉郎兵衛、大阪煉化石合資会社岡島嘉平次、川南村大阪窯業株式会社長尾藤三、耐火煉瓦石・広瀬倉平、宮本積徳、福島村田中盛秀、西成郡北野村近山太兵衛、摂津国住吉郷墨江村森本小兵衛、あんどそーおん。
兵庫県 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801934/260
明石郡大久保村辰巳合資会社八木煉瓦製造所 中川浩平。講評では山陽煉瓦になってる。耐火煉瓦:播磨国神東郡粟賀村沼田政七、神西郡甘増村安積秀吉、煉化石:淡路国津名郡洲本町中村重次郎、おっと、関西煉瓦株式会社長和田半兵衛。
奈良県 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801935/91
奈良町 平松甚平
滋賀県 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801935/180
甲賀郡長野村 今村岩松 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801935/181
甲賀郡寺庄村 杉本喜三郎
和歌山県はなし。
この回に杉本煉瓦工場が厚65mmの大型煉瓦を出品しているのが興味深い。草津駅のいちばん端のホームに使われているのが多分60mm超の厚煉瓦。あと丹治利右衛門は瓦の出品がメインで煉瓦はあとで出てくる。
第1回〜第3回は第1部第2類、第4回以降は第1部第10類。出品解説は第1回は確かに存在するが他の回は不明。椎茸と美術品とか限られた類については近デジにあるが。第三回の解説というのは実在する気配がある。昭和の堺市史がそれを出典にしているし国立国会図書館にもあるげ。
仏生山隧道には作業局型(だと思う)が使われてある。「み〜な」で探検されていた東海道線新旧線の拱橋の煉瓦は一部めっさ厚いのがある。二重構造のは拡幅によるもんちゃうか。煉瓦サイズを厳密に測ってみたいものだ。。
田舎に居た頃よりも頻繁に「直撃」されているような気がしてならない。特に今回のはいかにも真艫という印象。建物は震える三階の看板はバタつく窓を少し開けて恐る恐る外を除けば葉っぱやら木の枝やら得体の知れぬゴミやらが吹き飛び去っていく空。雲も激しく流れ行く。あまりに速度が速いので雲なのか雨の濃淡であるのかも判断がつかぬ。台風を恐ろしいものと感じたのは久方ぶりではなかろうか。
13時を回った頃から電灯が暗くなる瞬間があり、ピークの頃には明らかに瞬断して照明が瞬いたりし始めた。うして風雨ピークが過ぎかけた頃に完全停電。暗い部屋の中にぽつり取り残される。昼間とはいえ読みかけていた寺田寅彦全集を持て余すような暗さであって、そうなって初めてハテ困ったなと思ったりもした。幸い停電は5分もしないうちに復旧しtたのだけれどもどういう経緯で復旧したのだろう。電力会社の人が頑張ってくれたものか。機械的にブレイクしただけか。
結局ほかにすることもなく本を読んでは寝て起きては飯を食ってまた寝てというような一日を過ごす。そのせいで夜中の今眠れずに困っている。原稿のほうはほとんど進まず。インプットばかりが多くて出ていくものがないというか、やたらに食ってばかりなのに便所と疎遠というかーーー腹一杯で困っているわけではないのだ。腹か脳かにブラックホールが入っていて、インプットをことごとく吸い込んではばらばらにして異次元へ吐き出しているかのような状況。
風ばかりで何という被害もなし、安泰安泰と思いつつ出社したら「案の定」天井の明かり窓的プラ波板が吹き飛ばされていた。二年連続通算二回目、先だっての地震も加えたら三期連続の被災である。笑うしかないを通り越して機械的に対応するしかなかった。これを何かの不幸だとか試練だとかと思うような心もない。
今日は晴れていたので屋根に上がってビニールシートで覆うことができた。まともな紐がなく荷造り用の安ビニール紐で括ったので次に台風が来たら吹き飛ぶだろうこと必死。そうして絶対、次の台風までには直らない。そういう[禁則事項]なのである。
屋根が飛んでいたのはある意味想定内だったけれども、一帯が停電しているとはまったく予期していなかった。そのうえ復旧見込みが立たないのでカエレ、の指令が出るとも思っていなかった。台風が直撃した昨日は台風に備えて休業した。加えて今日も休みなら2日分も溜まってしまうじゃないか。といったことは一切お構いなしなのだし、そもそも電気が通じていなければ何の作業もできないのだが。
そういう下の下の状況下で中之島図書館へ毎索を見に行くことにしたnagajisは改めて言うまでもなく非道である。そうしてクリティカルな発見が相次いだのもそのせいだろうと思う。断じて行えば鬼神も呆れてものが言えない。
●会社創立の出願 当市西区新町南通五丁目百八十九番屋敷高木嘉兵衛外五氏の発起にて資本金五千円(即ち一株廿五円)と定め共立煉瓦会社を設立せんとて昨日当府庁へ出願に及びしよし
前回毎索を漁った時に共立社の設立年月であるM22.7.を全見して見つけられなかった。そのことと、一部資料で「M22.6.」になっていることに気づいてから、むしろM22.6.に何かあるんじゃね?と思っていた。そのとおりだった。この誌面のこの部分にある、煉瓦には一切触れない小見出しの記事に、よくぞまあ目が留まったものだと感心する。
この高木嘉兵衛は共立社→堺煉瓦(株)の記事にも出てくる。要するに自分が興した会社を別の新会社=堺煉瓦に買い取らせて拡大したわけである。そうして共立社が五人の発起人で始まったことが最高にアレげ。いや外5名つったら計6人だわ・・・。
んで、ここで堺煉化石には全然触れられていないところもアレ。要するに堺煉化石と共立社は無関係不連続であるということの証拠。とするとM21.12以降M22.6までの間に堺煉化石廃業の報でもあるのだろうか?そういや毎日では堺煉化石広告を見ていない。
和歌山煉化石会社は其製造を那賀郡に設け春来業務相創め候処土質適合品質善良にして創始の際より硬加鉄との好評を得殊に陸軍の賞賛を受け専ら砲台建築部御用相勤め随て江湖需要諸君の望みを充す能わざりしは弊社の最も遺憾とする処に有之候に付今回業務拡張阪堺間に於て最も熟達せる職工五十名増募し一層製品に注意し廉価を以て広く江湖諸君の御需用に応じ候間続々御注文被成下度此段広告候也
明治廿二年十月 □ 和歌山県和歌山市久保町四丁目
和歌山煉化石会社
これなんかは全く予期していなかった広告。「其製造を那賀郡に設け」とか「陸軍の賞賛を受け専ら砲台建築部御用相勤め」とか、あらまほしき記述がズバズバあって涙が出た。今すぐにでも工場表刻印表を書き直したい気分である。しかしそうだとすると何故現地では菱Wが見つからなかった?探し足りなかったのか? 使われていたとしてもごく初期の数物件だけだったのかも知れない。そうして熟練工50名が集まったようには思われない。いや、添印は15まであったっけ・・・その3倍ちょっとならあり得なくもないか。
煉瓦販売広告
弊社製造煉瓦は欧式機械力を以て製出し大竃石炭焼にして堅固完全なること旧製煉瓦の比にあらざるが為め各位のご愛顧を蒙り日増販路拡張仕弊社幸福是に過ぎず併して今般種々異形煉瓦器械到着致候に付汎く需要の御便利に応じ尚一層廉価を以て販売仕候間倍旧陸続御購求あらんことを希望仕候
播州舞子
関西煉瓦会社
こいつもミッシングリンクの1ピース。関西煉瓦会社の興って来るところはずいぶん明瞭に判明していて、刻印煉瓦も見つかっていて、その刻印や煉瓦そのものから関西煉瓦≒B.C.△H.J.と考えていたけれども、「≒」のチョンチョンを取り去ってくれる確実な文献を欠いていた。この広告がそれだ。この広告は情報と現物という2つの巨きな球の接点である。
結局のところ、以前から外堀を埋めて埋めて埋めて埋めまくって肉薄してきた先およびその道筋が間違っていなかったことが証明されたわけで、なんともまあご苦労様なことである。
その他にも稲葉組の高石移転の話とか同社広告とかも出てきた。稲葉組の創始者は明治二年に泰西に渡って煉瓦製造の業を視察し云々とか書かれてあったりもする。こいつはかなり疑ってかからないといけない初耳情報である。もし本当だったとしたら鉄道寮でも造幣寮でも阪府授産所でもない第四の系統が存在したことになる。
ちなみにこの移転は玄洋社の来島恒喜が大隈重信を爆襲した頃の話。誌面で盛んに来島の経歴だとか爆弾のことだとか出てくる。切り落とした足をアルコール漬けして永久保存するだとか、爆発物が赤錆びてたので加波山事件の余り物かとか書かれてあった。そういう時代とリンクしている話なのだなと改めて感慨深く思ってみたり。
硫酸製造会社の記事はコピておくべきだったかも知れない。業績好調で事業拡大というのが大々的に書かれてあった。その拡張で追い出されたのが安治川川口時代の大阪窯業なのだけれども、そのことには全く触れられていず。ただし当時の府下工業界の概況を記した記事があって、M15だったか18だったかに大阪窯業会社ができたことは書かれてあった。大窯に関する情報はそれくらいだ。
M22.6.後半のいくつか。並び順をデフォルトでないほうにして表示させた20件の半分くらい見た。M22.7.は通覧済、M22.10.15~11.30まで通覧済。必要な記事はたいてい2面か3面にあり、4面は広告で用がある。1面はよほどの大事で無い限り出て来ないだろう。
画像検索のデフォルトサイズがちっせえのは、どうにかならんかなあ。いちいち拡大ボタン押すのがめんどうくさい。Alt+F4とかでやりゃいいのか。
M22の10・11月を見たのは堺附洲絡みでというのが発端。先に共立社の記事を発見していたので同じ原理で前月の記事もと思い10月後半から読み始めたのだ。
今回中ノ島へ行ったのはもう一つの用があってのことだった。M24.11.の煉瓦規格の逹が見つからないかと思ってM24度の鉄道庁年報なるものを読みたかったのだ。当然ながらそれは無駄足に終わったのだけれども、その心がけのお陰で、逹が出る1カ月前に濃尾地震が起こっていたことに気付かされた。そうしてそれが碓氷線建設中のことだったことも。
ひょっとしたら濃尾地震の事後策として厚い煉瓦を使うような通達があったんではなかろうか、と想像する。 濃尾地震で倒壊した煉瓦構造物の調査結果では確か目地不良がおもな原因とされてなかったっけか。 煉瓦が厚ければそれだけ構造物中に煉瓦の占める割合が増え目地を減らせるわけなので、煉瓦を厚くする=耐震的な意味合いを持たされて。しかし煉瓦が厚いと生焼けになったり膨らんだりしやすい。杉本の煉瓦がいい例だ。作るのが大変だとわかってまた元に戻したとか。それでM29−30の円形橋脚の煉瓦も薄くしたけれども肉厚煉瓦を作り慣れていた工場は平面寸法だけ規格に則って寸法図で示されない厚みに関してだけ慣行で作ってしまって、それが桂川橋梁下流側とか上神崎川橋梁とかになって。みたいな。
小野田氏の分類では直江津線に一箇所だけI群煉瓦が見つかっているらしい。中央本線建設のために作られたようなところだからその資材の運搬時に紛れ込んだものかとされてる。碓氷線の辺りにはない。碓氷の橋梁群隧道群は建設中に設計を変えたっていう話なので、その変えた設計の所には実は肉厚煉瓦が使われていたりしないだろうか。そうでなくてもM24以降30年代初頭に作られた構造物は怪しい気がする。特に東海道線複線化の頃に作られたやつ。片方の橋脚だけ厚いとか、他にもありそげなカンジじゃないか。
揖斐川橋梁の補修には21/4インチの煉瓦が使われたらしい。これは亀裂が入った箇所を取り外してサラにして組み立て直したのだから最初に使っていたサイズに合わせていただろう。震災後に丸々作り直されたものとか 追築された部位とかに肉厚煉瓦が使われてたり、しないだろうか。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831459/21
M24の濃尾地震を機に地震災害に関する調査研究を行なう「震災予防調査会」が設立され、その報告書が百いくつか公表されている。その中に煉瓦の接合の強度を試験した報告があって興味深い。第1回~第3回は種々試験のデータ、第4回にその包括論みたいなのが載っている(明治32年以前
この試験で面白いのは煉瓦をモルタルでくっつけておいてそれをひっぺがすのにどれくらいの力が必要か、ていうことを徹底的に試験しているところ。集治監製手成形煉瓦と日本煉瓦の機械成形、特にワイヤーカットしただけのザラザラした平のものとを使って表面状態の違いが及ぼす影響を見極めようとしている。通説では機械成形のザラついた肌の方がモルタル(セメント)がよくくっつくとされていた。そのほかにも煉瓦をよく吸水させるのか否か(通説では水をしっかり含ませたほうがよいとされていた)、あるいはセメント自身の水の量とか、試験体を製造する気候寒暖で差があるのかどうか、とか。
必ずしも完璧な試験ではなかったみたいだが、報告者自身の認識では
とのこと。通説がことごとく裏目になっているのがまこと興味深い。しかもそれ以降も煉瓦は充分吸水させて積むことが金科玉条のようになっていた。「オシャカ」は手抜きだとして忌避され続けた。もっとも充分給水させることは煉瓦にセメントの遊離成分が浸透するのを抑え、いわゆる「煉瓦風化物」の発生を抑制する効果があったようなので、見栄えを優先してのことだったのかも知れない。
接合強度の試験は煉瓦を十字に貼り付けておいて機械で上下に引っ張って破壊に至る力を読んでいる。こうするとたいていはモルタルと煉瓦の境界面で剥がれたようである。セメント部分が上下に割れたり、煉瓦自身が割れたりすることは少なかったように見える。つまりはセメント自身の強度や煉瓦自身の強度より煉瓦とセメントの接合面の強さが構造物の強さを規定しているらしい、という結論。結論というよりあれか、暫定的な小結みたいなものか。
実際のところ、煉瓦のモルタル剥がしを何度も経験していると、非常にあっさり剥がれる場合とそうでない場合があるとわかる。特に古い煉瓦は漆喰のような目地であることがあり、そういうのはハンマー数撃でポカッと外れる。目地が硬いやつ(上等なセメントモルタルを使ったやつ)も、目地で2つに分けるのではなく接合面に鏨をあてて面を剥がすようにしてやるほうがうまくいくことが多い。その時に煉瓦の面が剥離してしまうことはないわけではないが(焼きの甘いやつはそうなりがち)全体から見れば少数である。
震災予防調査会報告には濃尾だけでなく他の地震の際にも建造物の破損状況が詳しく載せられている。煉瓦積みの建物の破損を見てみればどれも目地にそって罅が入っている。目地自体が割れたのではなく接合面で割れているのだろうと思う。煉瓦を横断して割れているのは10中1、2といったところ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831452/22
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2014/34-0111.pdf
初代はM19に竣工。M24.10の濃尾地震で破損、第一・第三橋脚は基礎井筒を残して全部作り直し。第二・第四橋脚は亀裂部分を壊して煉瓦をはめなおした。翌年4月までに復旧工事を完了、5月から再供用。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831480/38
ていうことは、作り直した橋脚は煉瓦の厚さが他と違うんじゃね? とシツコイことを考える。実際土木史研究の報文の写真の煉瓦は厚いように見えなくもない。薄いのと厚いのとある。しかしそれがどの橋脚のなのかわからない(ちゃんと書いてあるのもあるけど)。
ちなみに「鉄道工事設計参考図面」の12ftウェルの図はたぶんM29に定規化されたやつ(本は明治30年発行)。なので直接は関係しないとおもう。概観は同じでも中身違うんちゃうかな。桂川の頃から変わってなければ。
●稲葉組煉化石製造所 同所は堺市の稲葉仁兵衛氏が明治二年の頃煉化石製造事業視察の為め泰西諸国に遊び帰朝後堺市菱橋に設置せしものなるが近来非常に需用を増し為めに製造場の狭隘を告ぐるに至りしより大島郡高石村に新築を企て今度落成せしを以て一昨二十日其開場式を同所にて挙行したり当日の来賓は島田大島郡長、江見北王子警察分署長、大橋石津憲兵屯署長を初め村長会社新聞社員等にして中々の盛会あり因に記す同所一ヶ月の製造高は一百万個内外なりと云う
(大阪毎日新聞 1889年10月22日号2面)
100万個/月というのは実績ではないにしろかなり大な産額である。この頃岸和田煉瓦(第一煉瓦製造所)が120万/月を製造したちう記録があるくらいで、それもちょっと怪しかったりするし、それ以外の工場も軒並み50万~40万かそれ以下だ。
しかし移転先で繁盛したような痕跡はない。大阪府統計書でみる限り22年度23年度で稲葉組本部の存在が確認出来るだけで、24年度版からもう早や退場している。
くっそ、書いてる途中で消えた!
明治20年9月17日の広告には堺市少林寺町東三町に第一分工場があったことになっている。少林寺町西○丁には青山工場とか九里工場とかいろいろあるのだけれど、東にはない。いったいどこだろ、と思ってた。
しかしよく考えてみると、堺市史第3編(昭和5)に「丹治利右衛門は(略)三年少林寺町引接寺跡に工場を建設した」とあるし、M29・30には丹治煉瓦の工場が東三町にあったことになってるし、日本工業要鑑大正13年度用(第14版)の丹治煉瓦合資会社の項目にも「本店 堺市少林寺町東川岸 出張所 堺寺地町3丁相生橋東詰」とある。少林寺町東に所有地があったのは確かなのだ。だったら堺煉化石の工場=丹治煉瓦だったんでは?ということになる。
堺煉化石の所在地は南附洲新田で、これは本社の所在地とみてよさそうだ。大阪府統計書では「会社」の欄に出てくる。工場と会社が別の場合にどう表記するのか未確定な頃だから、本社所在地だけ掲載されて工場が忘れられてる可能性が高い。
んで、明治21年2月5日に機械を購入、M21.7.3頃には当時の煉瓦製造業組合にも入ってて、明治21年11月11日には月産40万個(たぶん)、明治21年12月2日には「欧米風に擬したる新工夫の竃」をこさえておきながら、以降ぱったり話が出て来なくなる。
丹治煉瓦と思われる「泉北郡舳松村」の工場が文献に現れるようになるのはその直後なのだ。明治22年の大阪府統計書に舳松村の「煉瓦製造所」が初出して、24年から「丹治煉瓦製造所」となって、以降明治20年代後半から盛んに丹治煉瓦の名を聞くようになる。M3創業とかM6創業と言っておきながらな。それ以前に名が出て来ないのはおかしい。
丹治氏が引接寺跡に設けた工場で煉瓦を造り、堺煉化石がその工場を分工場として、M21.12.2の広告がいう新工夫の竃が舳松村に建設されたものだとしたら、色々と辻褄が合う。その新窯が後に丹治煉瓦の工場として記載されることになるわけで。
丸丹の刻印煉瓦は結構きれいなのだ。この時期のにしては。漬物屋になっている建物の煉瓦なんか、こんなだしな。
そうだそうだ、妙に肌のきれいな煉瓦だと感じたのだっけ。そういう大事なことをすっかり忘れている。あと丸丹は小口前に押されがちなのも注目したほうがいい。
だとしたら、堺の少林寺町東とか引接寺の周辺とかで三本線刻印の煉瓦が見つかってもいい。これはまたひとつの目的として忘れないようにしないと……。行きたいところがちょっと溜まってきた。
堺市全図及商工業独案内 M24
http://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?qf=&q=&start=7&sort=METADATA_ID+asc&dispStyle=&tilcod=0000000013-S0010908&mode=result_sd&cond%5Bitem2_andOr%5D=and&cond%5Bitem2_cond%5D=in&cond%5Bitem3_andOr%5D=and&cond%5Bitem3_cond%5D=in&cond%5Bitem4_andOr%5D=and&cond%5Bitem4_cond%5D=in&cond%5Bitem5_andOr%5D=and&cond%5Bitem5_cond%5D=in&category=%E7%B5%B5%E5%9B%B3
堺附洲の広告付き。赤で太井桁が書かれておるが・・・
堺市実測明細図 M30
http://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?qf=&q=&start=8&sort=METADATA_ID+asc&dispStyle=&tilcod=0000000013-S0010909&mode=result_sd&cond%5Bitem2_andOr%5D=and&cond%5Bitem2_cond%5D=in&cond%5Bitem3_andOr%5D=and&cond%5Bitem3_cond%5D=in&cond%5Bitem4_andOr%5D=and&cond%5Bitem4_cond%5D=in&cond%5Bitem5_andOr%5D=and&cond%5Bitem5_cond%5D=in&category=%E7%B5%B5%E5%9B%B3
堺附洲煉瓦の場所
わかったと思ったらまた不分明に。。。堺煉瓦石はM20時点で150人だったか100人だったかの職工がいるし、広告では少林寺町のを「第一分工場」としているからには本工場があって当然だろうし。しかし南附洲新田「浜」・・・南附洲は大阪窯業だ。堺附洲の位置と大阪窯業堺工場の位置は違う。おかげ山一個挟んで向かい合う形。だから堺煉化石の本工場跡=大阪窯業堺工場かと考えるか、別の南附洲であるかと考えるべき。これは以前の形とあんまし変わってない。丹治煉瓦のヘノマツ村工場を待つまでも無い話なのだよな。
稲葉組(菱橋西詰)と堺附洲が連続するかどうかも定かでない。&、古い大浜通りの三丁目は大谷工場で、これはM30の堺附洲の位置と被らないんだな。年代的には大谷工場=稲葉組の工場くさいのだけど(広告で「菱橋西詰で煉瓦製造せし」云々出てくる)確定できぬ。
こうなると堺附洲の始業を確認する必要が出てくるのだが、設立はM22.11.6、営業開始はM23.1という。前者はこないだ見た範囲。後者はまだ見てない。
今回の台風や地震の影響であちこちで停電した。んでラジオが盛んにスマホ充電できひんとか電子マネーが使えんとかオール電化が不便してると報じている(多分テレビもそうだろうがウチにはそんな文明の利器はないもん。知らん)。停電すれば電気モノは軒並み使えなくなるだろうことは最初から織り込み済みで考えないものなのだろうか。停電したらスマホなんて当てにならないとは考えないものなのだろうか。自分自身さほど便利に使ってはいないからそこから受ける恩恵を感じていないだけかも知れぬが、なければ生き抜けないような生活をしていることに、疑問を感じたりはせんものなのだろうか。
そんなことを考えてしまうのは自分自身がマスコミの役割を誤認しているせいかも知れない。いま起こっている事件を広く報じることがマスコミュニケーションの役割であって、興った出来事について批評を加える事だとかそれに対してどのような対策を取っていくべきかの指針を示すことはその役割ではない。世の中の悪とか不都合とかを糾弾するためにマスコミが報じているわけではない。それを誤ってラジオやテレビが非難しているように捉えてしまうと、世の中非難すべきこと悪事たること比定すべきことばかりになってしまう(そういうものが目新しいこととして取り上げられがちだからな)。そうしてその糾弾なり非難なりを何の咀嚼もせずに呑み込んで他所で吐き出す。口コミとして広がる。糾弾の輪が広がる。そうしてどんどん世の中は生きにくくなる。スマホの充電がどこでもできるような設備投資に国家予算が投じられたりしていくことになる。その前にせなあかんことあるんちゃうの。スマホなくても情報を得られるように電池式ラジオを備えておくとか、鍋で米炊く技術を身につけておくとか、山菜で食いつないでいく術を知るとか。
台風と地震のせいで富田林の逃走犯の話とか日光でフランス人女性が行方不明だとかいうニュースが吹き飛ばされてしまった感がある。それより以前のもっともっと重要な問題が未解決のままであったりするだろう。とかく大きな事件が起こると世の中そればかりという論調になって他事が忘れられてしまいがち。そういう摂理に対して自分はどういう対策法も持たないけれども、世間から3歩も4歩も離れたところにいるとそれが問題だということだけはわかる。さて、どうしたものか。
とりあえず、蕎麦を茹でて食った。
長浜駅の屋根に乗っている煙突。
なんで左右で角度が違うんだろう? と思ったら、
旧長浜駅舎のそれに合わせてあるのだな。
では何で長浜駅の煙突は左右で角度が違うのか・・・。駅舎と並行に作られているのは駅長室の壁の一面に暖炉があった。もう一つの煙突につながる暖炉は部屋の隅にあったような気がする。だったら4部屋の相接する一角に煙突をつけて隅暖炉にすれば煙突一本で済んだんじゃなかろうか。それともあれか、駅長室は特別誂え的な思惑でもあったんだろうか。
旧意匠を引き継ぐのは悪くないと思うけれども、格好だけの真似は正直好きでない。徹底的に同じにして機能まで再現してほしかった気はする。現駅舎の煙突はただ屋根に乗っているだけだ。飾り物だ。
昔の風を採用する、というのは手放しで喜べないところがある。中途半端な模倣もよくないし、完全再現だとしても、では未来の日本人はそれをどうしたらいいかという問題も生じる。200年後300年後。長浜旧駅舎は残り続けるかも知れないが、模倣の現駅舎に残しておく価値はあるか。作られた時代の特徴を、面影を、そこに読み取ることができるか。おそらく「ない」だろう。バブル建築はバブル建築として嘲り笑われているけれども、あと100年もしたら当時の風俗を色濃く残した物件として保存対象になり得るかも知らぬ。そこまで残るような耐用年数のあるものがまずないかも知らんけども。
あるいはそんな先々のことなど考えなくてよいのかも知れない。いま現在に有益でありさえすればよいだけなのかも知れない。近代建築だって未来永劫に残すためにつくったわけではあるまい。その当時の最高の技術を投じ、大事に維持管理されてきたから残っているだけで、朽ちかけたのを無理に残してやる必要もなかろう。人工心臓と点滴で命だけ生きながらえさせられてもな。その姿からいい何かを読み取れるような人は一握りもいず、それだって結局は自分の生を繋ぐために飯の種にしているだけなのばっかりなんだは。
舞鶴赤れんが倉庫群も横浜のも大阪港の住友倉庫も、要するに作られた時代の時代性とか、レトロな雰囲気が物珍しいから保存され利用されているに過ぎない。元は単なる倉庫である。モノを格納する壁と屋根だけである。そこに特異な工夫はない。機械を格納するとか水雷を置くとかいう違いはあったとしても結局はいまのコンクリ波板張りの倉庫建築と役割は変わらぬ。にもかかわらず珍重されているのは時代性でありレトロな感じであって、何も当初の倉庫建築のあり方が知れるからとか明治大正昭和初期の建築技術ガーとかいう問題ではないのだった。数が少なくなったから保護するという特別天然記念物みたような哀れな存在である。そうしてきっと未来永劫形を留められる保証はない。残したところで世間はその皮相の部分を舐め回して悦ぶだけなのである。そういう楽しみ方しか知らない客体も、そんな客を想定して残す/残さないを考える主体も、考えを改めたほうがよろしいかと思う。双方によいだけでなくモノに対しても、モノをこさえて守り伝えてきた人々にとっても、それが残っている地方、ひいては日本という国にとっても、果報であるはずだ。
奈良の大仏殿を鉄骨トラスで補修したのは、そういう意味では偉業であったかも知れない。何でもかんでも当時の技術だけで修復してしまったらアレだ。設計の無理とか瑕疵とかを無理瑕疵のままで保ち続けることは賢いことか。だったら当時最先端の技術で最大限のなし得ることをやって、その記録を記憶させることのほうがよかあないか。寺社仏閣の歴史がまるで江戸末期か幕末頃で更新を終えたようになっているのは不自然だ。それ以降の歴史はどこいった。
先日夙川の堤で採取したこの煉瓦。棒線2本と「・」を組み合わせたような刻印が押されている。
同じものを堺市街の廃屋の境界壁で採取していた。印の形も打刻位置もほぼ同じである。夙川堤採取分は裏側にも打刻されている。
この刻印の形をIllustlatorで再現するのに実はずいぶん苦労した。どう書いても同じようにはならないのだ。こんな単純な形なのに。
軽く清掃して台所に置いてあるので、ここ数日頻繁に目にしている。時折手にとってまじまじと眺めたりもしている。そうして、見れば見るほど絶妙なバランスで配置されているなと思う。
写真をトレースして書いた図がこれ。どの向きが正体なのかわからないので、とりあえずこれを基本形としておこう。左上の「・」はよく観察すると「■」であることがわかる。そうして微妙に傾いている。下辺の横棒と並行にはなっていないようである。以下「■」部と書くことにする。
「■」部はその右側の傾いた線に対してその上下のほぼ中央の高さに配置されている。厳密には中央ではなくその若干下にあるようだ。そして左右は下辺横棒の末端に揃えられている。これも厳密には末端が中心ではないようだ。
斜線と下辺横棒との揃え方も、機械的に揃えられているわけではない。
こうした微妙なズレのせいで、妙に安定感が出ているような気がしてならない。フォントの「日」や「王」の字の空白に微妙に大小があって、そのせいで安定感が醸し出されているのと同じようなものを感じる。
例えば「■」を下辺と並行にして、下辺の端と「■」の端を揃え、「■」と斜線を中央揃えにする等して「揃え」て作ってみるとこうなる。「■」が飛び出しているように見え、そこだけちょっと浮いてしまう。下線と斜線の配置もちょっとうまくない感じ。ここが附き過ぎて「■」の飛び出しを余計に目立たせる気がする。
その点、最初のこの配置は3つのパーツの配置が絶妙に均衡している。「■」と斜線はもう少し下げてもいいかも知れないがやはり下げ過ぎると下線との取り合いが附き過ぎて前掲図みたくなりそうである。
何かのマークのようにも見えるし、無作為に幾何学図形を配したようにも見えるし、しかし決して全くのランダムでもない。何度でも見てバランスの根源を突き詰めたくなる。そんな奇妙なポテンシャルを含有している。
この向きが正体だという証拠はないから、小口前で見たらどうなるかというと、こうなる。この向きで見てもまあそれほど破綻はしないが、「■」部と斜線のカタマリが右に離れすぎているようには思う。しかし縮めたら縮めたで正体に見た時に違和感が出そう。それ以外のバランスも影響しそうである。
もし斜線が水平であったとしたらどうだろうと思い、そういう図も作成してみたが、こうすると「■」の傾きが目につき、また元下辺棒線の斜めとも相まって全体が傾いているように見えてしまう。うむ。よくない。
結局のところ最初のこの形がいちばんしっくり来るようである。こういう向きの記号として押されたもののようにしか思えない。その他「\・/」のように棒線が左右対称である場合なども考えてみたけれども、そういう形というばかりで、これといった面白みは感じられない。微妙に傾いた三者が微妙な感覚で微妙に配置されているところに奇妙なポテンシャルがある。
考えれば考えるほど、何か意味のある配置であるように思え、またずいぶん練り上げられた結果できあがった図形のように思えてならなくなる。刻印はちゃんとした印母で押されたようで、例えば「■」は確かな四角だし、棒線も釘を打ち付けて急ごしらえしたようなやつではない。こういうマークとして作られた印母による印である。実は何か、こういう書き方をする略記法が存在していたりするのかも知れない。この図形が社名頭文字であったりするのかも知れない。
この印の向こうにある意図を完全に読み取れるようになったらと思うが、そんなことはエスパーでも不可能かも知れぬ。作った当の本人はとうの昔に故人になっているはずなので。イタコさんでも霊媒師でも彼を探し出すのは無理に違いない。
この記事を見る限り不満を述べているのは商店街の一人だけであって別に反対運動が起こったわけでもなんでもないのだった。誇張タイトルでしかもYahooニュースに載ったとあれば困ったものだ。
反対意見の人は目先のことしか考えていない。観光資源として有益だから古い姿を守りたいという立場。何も手当てせずに崩壊したら「大切な観光資源」が見るも無残な姿になってしまうことには考えが及ばないのだろうかと思う。そうして役場はこの遺構を守りたいからという立場。双方がちがう土俵でちがう反論を述べているんじゃあ噛み合うわけもなく。
竹田城にハイキングコースが整備されて雰囲気が台無しになった、という話とはちょっと違う問題のように思われる。竹田城は観光資源として最大限活用するための改変であって、利用者の安全云々も結局は観光客のことを考えてのことだ。でもまあ文化財なんてそうやって金づるにしないとしようがないのかも知らぬ。価値あるものも埋もれていればただの遺構だ。
んで、未だに「天空の城」とかいうレッテルを貼ろうとしている西日本新聞。やめとけばいいのに、そんな一過性な俗称は。ついこの間まで「荒城の月で有名な」しか言わなかった口が何を云うかという感じだ。ありゃ、記事本文の冒頭でも使ってら。
九州は雨が多いし暖かくもあるのでたぶん10年かそこらで苔るんじゃないかと楽天的に思う。肌は多少荒らしておいたほうがいいだろうな。むしろこの施工ごと全部崩落したりしないだろうかと心配する。そんなに硬い岩盤だったっけ。岡城の辺り。
昨日のNHKラジオだったかでは東北の防潮堤の話が話題になっていた。町を守るために各地で防潮堤を建設中だが、いざ出来上がってきてみると「高くて海が見えないのは寂しい」という。だからといってアクリル板の窓を設けたら「狭くて小さくて意味が無い」。どうも、人間というものはわがままというか、目先のことしか考えられない生き物のようだ。<この評は異議を申し立てた人に向けたものではない。人間の性に対する嘆息であって要するに全世界を敵に回している。
津波碑のことを引き合いに出すのも虚しい。安治川口の津波碑だって、そんな警告などお構いなしに大大阪が出来上がってしまった。次に大きな津波が来れば壊滅的被害を被らないわけがないのだ。そういう被害のリスクを受容して暮らす覚悟がある者だけが市街に住んだり勤めたりするべきだろうな。都市の便利を享受する見返りとしてリスクを払う、という考えが出来る人でなければ。「先祖代々の土地」っていっても高々数世代前からだし、その最初だって仮住まいのつもりだったかも知れぬ。出屋敷とか浜場くらいのつもりの小屋掛けでしかなかったかも知れぬ。
百年に一度くらいの地震・津波でリセットされることを前提にした都市、というのでもいいのかも知れない、などと投げやりなことを考えてみたりする。文明が停滞することはあっても文化はなくならないだろう。阪神大震災は確かに大きな被害であったけれども、いま神戸が死んでいるかと言えば決してそんなことはない。さまざまな教訓をもたらしてくれたとも考え得る。惜しむらくはその教訓が将来の被災を100%防いでくれはしないことだ。震災で亡くなった方もそれでは浮かばれまいが、事実だから仕方ないのである。寺田センセも死なない程度に小さな被害を被っていたほうが幸せなのかも知れないといった意味のことを書いてはったぞなもし。
またひとつとしをかさねてあきのかぜ。書くことで気づくことも多い。有り難いことである。
比較的余裕を持って進められたので昼間は図書館へゆく。そうして毎索を漁る。やはりこの方面を探るのは正解であった。かなり重要な情報をゲット。
東雲新聞に出ていたのとほとんど同じ堺煉化石会社の広告がM21.12の早い段階に出てくる。その後小記事で組合設立の話が出てきて、翌年早々にこの広告が出ている。2月の記事には会社として登記が完了したことも出てた。継続期間は3ヶ年と短い。
この時期堺の煉瓦工場が組合を結成していたことはM22.7.の記事にもあるが、その構成工場や設立日がはっきりしたんは大きな収穫。要するに堺煉化石・原口・稲葉組・その他昔からある小工場がまとめて加入してたわけである。ここに成金社や旭商社が入っていないのは注目すべき。そうしてM22.1.から始まっている由良要塞の構造物には若井煉瓦(←成金社)や(推)旭商社や(推)共立社や和歌山煉瓦石の刻印ばかり見つかっているのだ。な・ぜ・だ。組合を通さないほうが安くで買えたからか。ただし第4砲台の細い★印などは組合経由かも知れぬ。あとM29には若井や附洲や岸和田も煉瓦組合に入ってる。そのへんまで詰めないと断言はできない。
粘って目を通した2月分にはこれ。この少し前に青山工場が「堺煉化石製造所 青山商会」と名前を変えたことが広告されていて、しかしそちらには「山」マークはない。初めは「青山商会=堺煉化石会社の分工場?」と誤解してしまったが、そうではなく、組合結成により「堺煉化石」をブランド化しようとしていて、そんな「堺煉化石」を作っている工場だというアピールのようである。分工場だったら分工場だと明記しているはず。そして第一分工場だった丹治煉瓦が独立名で前広告には記されている。
この、隷書体の山に近い意匠的な山マーク、類似刻印が奈良駅の旧転車台で発掘されている。報告書では山城煉瓦の刻印か?とされていたものだ。まさかそれが堺発だとはな。そうするとアルファベット刻印も出所を考えなおさないといけないかも知れない。転車台からは漢数字刻印も見つかっているのだ。
青山工場(青山商会)はM19創業でM22度まで生きていたことが確認されている。だとするとあの転車台も開業時のものと絞り込めるかも。しかし山城≠山刻印だと確認されたわけではないからな。。。(そういうわけでマタ新情報追加でございますT様)
なんだかんだと、この時期の煉瓦製造業の真影に迫れている。すごく大変な作業だがわかった時のエウレカは大きい。裸で疾走するくらいじゃ済まない。
ていうか、窓口を一元化し粗製乱造を防ぐために堺煉化石同盟販売所が作られたんじゃないのか。加盟工場が自社宣伝の広告を出してたら意味無いじゃんか。改名の告知は必要だろうけど。。←この年7月には脱退しておったらしいから早々に居なくなっていたのかも。この年7月の記事では組合外の3社のひとつになっておる。かわりに附洲商社が入ってる。
堺煉化石会社の名前は上記記事にも出てくる。稲葉組はこの年9月・10月頃には高石へ移転してしまうが、それが脱退を意味していたかどうかは不明。M29には稲葉組自体存在してねえ。
大阪毎日新聞M21.12.24.6面。広告面である。様々な広告がごちゃごちゃとひしめいている中に、妙に白地が目立つ区画があり、否応なしに目につく。
博文堂 原田庄右衛門 広告領地
とあるだけである。
始めは広告原稿の入稿が間に合わんかったんか?などと思ってしまったのだけれども、翌日も翌々日も同じような「領地」があって謎は深まるばかりだった。しかしその次の日の新聞に、博文堂のごく普通の広告が載っていて、ちょっとガッカリしたことだった。要するにそういう新手の広告だったわけである。「こは何ぞ?」と気を引いておいて4日目の広告に注目させようというものなのだろう。今でいうティザー広告みたようなものか。
この頃の広告は文字ばかりなのが多く、自分みたいに何か目的を持って読もうとしているような人以外はなかなか読まないだろうと思う。そんななかで何とか目立とうとして風変わりな広告が現れ始める時期のようで、例えばその広告だけ天地逆になっていたり、けったいなイラストを添えてみたりといったものが時おりある。●●●●●●●●●●で囲ってみたりするのはまだいいほうだ(そういう広告のほうが煩くて読もうという気が殺がれるのだけれど)。
ちなみに4日目にどんな広告が載っていたかは忘れた。同社刊行の本の広告だったと思う。
当時の大阪毎日の広告料がどのような計算になっていたのかわからないが、時事新報だったかは1行○銭・掲載日数が増すごとに安くなる仕組みだった。毎日も面積ではなく行数で計算されてたとすれば、3行×3日+数十行×1日ということになり、毎日同じ広告を掲げるより安上がりになったかも知れない。
琵琶湖疏水工場がM22.3に閉鎖されるので工場施設を京都監獄が買い取って同所で煉瓦をつくる、という記事も掘り出した。「煉瓦史」にはない流れである。
考えてみたらアレなんだ。蹴上工場はM22.3に終わっていて、開業はM23.4.9。その間の工事には作り溜めた煉瓦でまかなえたかも知れぬが、第三隧道はM22.3.26に完成してるし安朱川橋梁の区間なんかはM22.12.25までかかってる(琵琶湖疏水要誌)。総合して蹴上製以外のが入っててもおかしくはなく、もし上記の通りに行ったのであれば「カ二」の「カ」が監獄のカであってもいいわけだけど、膳所なのか京都なのかという余計な悩みが増えることになるわけだ。なお南禅寺水路閣には蹴上工場の刻印のない煉瓦が使われている。しつこく見たもん。
○煉化製造所 京都府監獄に於ては囚人に煉化の製造を為さしめんとの事にて既に本年府会号外議案にて決議にもなりしが愈来る二十二年度即ち明年四月より疏水工事に使用する山科煉化製造所は不要に属するを以て之れを買上げる事とし修繕を加えて同所にて京都監獄煉化製造所と為し廉価を以て広く人民に販売するの目的にて四月より実施せらるる事とはなりたり
鄙びた街に来ている。探索ではなく純粋な旅?とでもいうべきの、街歩きを楽しむために来ているようである。現実の土地とはリンクしていないが、いま思い返してみたときのイメージは木之本とか長浜とかいった北国街道沿いの宿場町が近い。南北に商店街の本通り=旧街道筋が通っていて、それが時代に取り残され、シャッター街になりかけている、というような街である(木之本や長浜がそうだというわけではない)。
商店街の本通りからひとつ裏の筋へ入っていこうと、商店街と直交する脇道に入っていくと、商店街に面した商店らの裏側は空き地が目立つ寂しい空間で、その空き地に煉瓦が無造作に積み上げられているのを見つけた。震災後の神戸の空き地のごとく、慌てて取り壊して基礎やら壁やらがまだ幾許も残っている所にぺんぺん草が生えているような哀れの情を催すような空き地。解体屑として生じた煉瓦をとりあえず邪魔にならないよう隅に寄せて積み上げてある。それを見て、急にこの土地には煉瓦工場があったはずだと思うようになる。
積み上げられた煉瓦を確認してみれば、確かに初見の煉瓦刻印が。長手に大きく「雨宮製造」という判が押されてある。左書き二段の文字が凹みの底に刻まれている。判が大きいのに無造作に押してあるため、長手からはみ出てしまっていたりする。
他のはどうだろうと思い、隣の山を見てみると、積み上げられた煉瓦の中ほどに似たような判を見つけた。しかしその判の右下の文字は「井」であって、さっきのとはちょっと違う。とっさに「雨井製造」が縦書き二段で刻まれてあるのだろうと想像された。雨宮工場→雨井工場と変わったのだ。刻印全形を確かめたかったのだけれども、刻印のある煉瓦の上に煉瓦が覆い被さっていて、上の二文字を確認することができない。上の煉瓦をどかせば済む話だが民家の裏なのでゴソゴソするのが憚られる。
ここはひとつ、家の人に断りを入れて調べさせてもらおう。そう思って民家の表に回ってみる。 街道筋の一つ隣の筋に面して店棚が設けられていて、和菓子か何かを商っている店のようであった。雰囲気的に観光客向けの商売をしている店ではないように見え、少しためらわれたけれども、せっかくなので何か一つ買っていこう、そのついでに裏の煉瓦の件を切り出そうと意を決した。
一昔も二昔も前の駄菓子屋をちょっとだけ上品にしたような古ぼけた店内である。売っているものはごく少なく、レジ近くに置かれてある陳列ケースがほとんど唯一。今時珍しい木枠+ガラスの平台である。
そこに並んでいる菓子のひとつに、なんと煉瓦刻印を打刻したお菓子があった。クラッシュケーキ?とでもいうのだろうか、かなりでこぼこした柔らかそげな姿形をしていて、濃緑色基調の色合いから抹茶味だろうと想像された(粉砂糖がかかっていたように記憶するがフォトショで再現する能力がなかったため省略する)。うん、これにしよう。
いくつかあるそのお菓子のなかからできるだけ刻印が明瞭なのを探す。お菓子ゆえにベタベタ触ることができないので上から覗き込んで半ば当て推量である。これにしようかな、これにしようかな……うん、これ、これください。
店のおばあちゃんは最前から目の前にいて私の選択をじっと見つめている。私がコレと決めて伝えると、しかし「おやまあそれでいいのかい?」と尋ね返されてしまう。うーん、じゃあこっちにしようかな、と選べば「だめだめ、そおれは売れないねぇ」などと宣ったりする。優柔不断な私はいつまでも迷い続ける。さっきの煉瓦のことなどすっかり忘れて。否、忘れたわけではないのかも知れぬ。このお菓子で拓本取れるからいいか、などと考え始めている。
ついに夢の中でまで煉瓦を探し始めたnagajis。あな哀れである。長手に大型印を押したものは実際には見たことがないし「雨宮」「雨井」という工場も知らない。だのになぜこんな刻印が出てくるのか。しかも大型印だからはみ出すだろうことを見た瞬間に悟っている(この場合「見た」というべきかどうかわからないが)。そのうえ横書き→縦書きの変遷を直観している。自分の業の深さに恐れ慄かずにはいられない。
結局決められないまま目が覚めたのが10時半。中途半端な時間に目覚めてしまって当惑し、どうするか思案した末、結局また図書館へ行って古新聞を読むことにした。今日は日曜日だから中之島は開いていない。府立中央くんだりまで行かねばならない。
前回の青山商会広告には続きがあった。
煉化石職工雇入広告
今般大阪鉄道会社より大和国線路使用の煉化石製造を請負同国広瀬郡大輪田村に於て一大製造の分工場を設置候に付熟練の職工数名雇入候間望の者は左の所へ至急申込あるべし
和泉国堺区少林寺町西四町
堺煉化石製造所 青山商会
大和国広瀬郡大輪田村
青山商会分工場
(強調筆者)
昨日の予想が正解だったわけで、これは絶対現地を歩かねばならんとぞ思う。大輪田村っていったらあそこだ、王寺駅を過ぎたところで見える沈下橋のたもとだ。
ここに分工場があったとすると、「山」どころかアルファベット系のあの刻印もここに寄せられる可能性が高い。分布が和泉国境付近に集中しているうえに短期間しか存続しなかったらしいわけだからまさしく大阪鉄道の工事用の臨時工場のと見得るのだ。しかし「R」が桜ノ宮で見つかっていたり「M」が大阪城で見つかっていたりするのだから油断はできぬ。そこまで存続していたとは思われないし、青山商会自身M22を最後に現れなくなるのだ。(この記事の数日前に芝山だったか亀の背だったかの工事着手が報じられている。完成は確かM23。大和国内も広告の頃には未着工という記事ありてコピってある)。
この時期の古新聞を見ていると前の日に掲載した記事の訂正記事にかなりの頻度で出くわす。誤字脱字は当然のこととして、すでに組合が存在するのに「今後組合を結成する予定」と書いてみたり、情報源が事実無根であったので該記事を抹殺するとか(本当に抹殺すると書いてあったのだ)、とにかくまあユルユルなもんである。新聞ですらそうなのだからORJだってゲフンゲフン、とか謂れ無き開き直りをしてみたりしている。
極めつけだったのがこの謝罪記事。明治22年3月9日掲載。
●お詫 昨日はツイ粗慥で鬼薊の書と振わけ髪の絵と組違いましたが実にそそッかしいにも程があッたものだとお叱りなく何卒大目にお見ゆるしを願ます
「鬼薊」と「振わけ髪」はどちらもこの頃連載されていた小説。2つの小説の挿絵を入れ子に掲載してしまったらしい。上の紙面に載っているのが「振わけ髪」のほうである。
そんなデカい間違いをするもんだろうか?と思い、該当日の記事をめくり直してみたのだが、
うん、全然違和感ない(笑)。本文はじめの方に「近頃村中に見慣れぬ男の多く徘徊し、人の門戸に佇みて何事か間探る様子に」とかあったりするし、門前のこの絵が組まれていても間違いとは思わない気がする。お詫びを載せなかったら誰も気づかなかったんじゃなかろうか。藪蛇なお詫びである。
大阪毎日はM21までは1日4Pが基本で、連載小説も1編だけだった。それがいつのまにか小説2編に勅令告示の類とか偉人伝記事とかまで載り1日6P構成になる。たぶん正月号辺りからだと思う。ページが増えるので目を通すのが大変だけれども、必要なのは結局2面以降の雑報と最終面あたりの広告くらいなので、慣れればぺしぺし飛ばすことができる。あとネットのレスポンスはやはり府立中央のほうが早い。
●煉化石 府下西成郡炭屋新田なる大阪煉化石製造会社にては益々其業務を盛ならしむるため今回株主の衆議を経て従前の製造窯の南側へ東に高さ十二間南北五間焚口十三口烟突直径五十尺を増築致度旨昨日頭取岡島嘉平治より府知事へ出願せし由
大阪煉化石。大阪北部ではかなり大きな工場だったはずだが詳しい業態がわからない。岡島嘉平治(岡島嘉平次)って新田の開墾に功績のあったあの岡島氏なんだろうかと思ったりするが微妙に歳が合わない気もする。平尾新田は宝暦7年(1757)に開墾許可。明治23年は1890年。うん、同一人物なわけないか。代々継承の名前ならともかく。→恩加島新田は文政12年(1829)に検地。これは2・3代目の岡島嘉平次の業績。
「南側へ東に」という文言にハテナマークが浮かんだが、たぶん登り窯なのだろう。焚口十三口というのは側面の6×2+最下面の1か。しかし煙突直径「50尺」ってでかすぎやしないか。15mもあるわけがない。
●堺著名の工場 府下泉州堺に於て著名なる工場は第一煉化石製造場にして之れに次ぐものは土樋製造場、紡績、綿実絞油業、精米業の四種なるが内蒸気機械を用ゆるものは五工場にして公称馬力は総計一百二十七馬力なりとぞ又煉化石製造所八十ヶ所にして三十竈を備え一ヶ月平均三百万個の煉化石を製出し又精米所は三ヶ所にて搗き臼一千百七十九、摩擦機十三を備え一昼夜に平均三百五十石を精げ之れに使用する松木は大概四国、中国より輸入し一ヶ年の焚料は四百六十万九千八百貫目此の代価五万五千三百十七円六十銭の多きに至るより四国、中国等に於ても追々松木の欠乏を来し従うて年々価格を騰貴し各製出品の価格にも自から影響を及ぼすを以て今般本府農商課加藤属が同地へ出張し各事業家に就きて速やかに竈其他の改良をなし成るべく石炭を用ゆる様にすべき旨を説示せられたりと云う
第一煉化石、で区切ってはいけない。第一に煉化石製造場、だ。木材の消費量はたぶん他業との合算と思うけれども、4609800貫=17286.75トンと計算してみてもあまりピンと来ないが、1日あたり10トン積みのトラック5台分の松を燃やしてた計算になる。うーん、あり得そうではあるけれどもやっぱりもったいないな。「煉化石製造所八十ヶ所」というのは素地製造所も含んでいるのだろうか?それとも八ヶ所の間違い?後者なら一所あたり3窯強でまあわからないでもない。数もだいたいそんな感じだと思う。
●大阪窯業会社 西成郡木屋新田なる大阪窯業会社は従来一万円の資本にて硫酸を盛る瓶の製造を専業なし居りしが昨年中四万円を増株して都合五万円とし更らに煉瓦の製造に着手するの都合にて本月一日より先づ其新築の釜を焼き試み居たる処昨今は完全の結果を見るに至りしと云えり尤も右新築の釜は日本在来の焼揚仕懸にあらずして焼き廻わる仕懸けとなし十六個を据え付け其第一号より順を逐い段々と焼き廻わり行く手筈にて同会社十六の釜を以て一昼夜に焼揚げる高は一万五千個なりとぞ
ホフマン窯の特徴をよく端的に言い表している。ただ一房を一窯と数えている節があり(そういわれればそうかも知れぬが)この頃の釜数計算のことを眉唾して考えなければならぬかも知れぬ。
社史では硫酸瓶製造時代にもパン瓦と称して煉瓦のようなものを製造していたと書いてある。製品煉瓦は上記記事の通りホフマン窯を作ってから本格的に作り始めたのだろう。実際この頃から大阪窯業の煉瓦販売の広告が掲載され始める。わずか数行の小さな広告で、これが後の「西の横綱」になると思うとちょっと胸熱だ。
http://bdb.kyudou.org/
昨今の知見を反映。工場所在地ごとにグループ分けしつつある。親カテゴリ設定したほうがよかったかも知れぬがこの数になるとなかなか面倒だ。欲を言えばエリアの配置が非常に雑。京都と滋賀をもう少し前に持っていきたい。
改めて眺め渡してみて、よくまあここまで収拾したなと思う。情報や煉瓦を拾い集めたという意味もあるけれど、雲のように漠然として散り散りばらばらになっていたあれこれをここまで収束させ得たという所に我ながら感心してしまう。ものを見つけるのはたやすい。情報も根気さえあれば机上で済む。その二つをちゃんと結びつけて整理して、さらにそれらの重層を解きほぐし結び直してやってきたところに、なんとまあご苦労様なこったと言ってやりたくなる。
ふとそんなことを思って概算してみた。記録がある明治15年から昭和13年まで、明治前半期は赤煉瓦耐火煉瓦がごっちゃになった値だけれども、大阪府下の工場だけで
3,919,851,982個
を作っている。明治36年のデータが抜けているので、前後の年度の平均をとって70,000,000個は足さないといけない。そうするとまあ40億個くらいということになる。
1個あたり2kgとすると800万トン。日本の1年間の廃棄食品の量とか1年間に海に流れ込むプラスチックゴミの量と同じだそうだが、ちょっとピンとこない(むしろその量が煉瓦40億個分だと思うほうがわかりやすそうだ)。
敷き詰めるとどうなるか。煉瓦一個の面積を22cm×11cm≒0.025平方メートルと大目に見積もって、だいたい100平方キロメートル。33km四方。堺市の面積が150平方キロメートルというからその2/3を覆うことができる。意外と少ない感じがする。
×小口の厚さがあるわけだから、それだけの土を掘り取って煉瓦にしたということになる。表面積的に考えるとそうでもない感じがするが、良質の土は局所に集中しているからな。山の1つ2つはなくなっていそうだ。
そんなにたくさんの煉瓦を作ったはずなのに、さてその煉瓦はいまどこに? 埋もれているのか風化してor崩されて土に戻ったのか。舞洲あたりにむっちゃ埋もれてそうだがな。
上の数字は大阪府統計書から主に取っているので府に登録している工場の自己申告の値と考えたほうがよい。最低でもこれくらい、だな。
ここのところ夜が過ごしやすくなったので窓を開けたままにしていることが多い。これくらい涼しくなれば蚊も出ないだろうと鷹を括っていたのである。しかし生命力の強いやつというのはどんな生き物にも・どんな時期にもいるもののようで、毎晩のように刺されてはその痒さに辟易している。昨日などは熟睡中に刺されて痒みで目が覚めた。さっきも机に座ってキーボードを叩いていたら突如両足が痒くなった。いつのまにか両方の足を数箇所ずつも刺されていたのだ。蚊も必死なのだろう。そうしてそんな死にものぐるいになっている時期の蚊のほうが痒い気がする。とにかく痒い。掻いても掻いても痒い。
bdbをシコシコ書いている。これまで拾い集めた情報テキスト化してきたデータへのリンクを丁寧につけるようにしているので遅々として進まないのだが、あとで自分の役に立つはずだからと宥め賺しつつ書き続けている。ここへ書いたものにリンクを貼ると情報ソースが分散してしまうことになるのであまり良くないことだなあと思うもののだからといってbdbに固定ページを作って移すというのも面倒だしそれこそ情報分散になってしまうようにも思われ。いつものようなどっちつかずの場当たり処理でガランドウな大伽藍を建設中である。
場当たりといえば久しぶりに会社の受注システムに大改修を加えた。ゆうパケットがOutOf眼中になる代わりにクリックポストを使用せねばならなくなることになっているのでその措置である。場当たり的に作り上げてきた壮大な伽藍の柱を2、3本抜いてウィングをくっつけるような作業。これまでの分は比較的短期間に一気に構築したので骨格構成はだいたい似ている。しかししばらく手を入れてなかったので構築の流儀というか行儀というかがわからなくなってしまった。outputの処理中にクリポ対象のデータだけ投げて都度保存しようとしてみたり、20文字に収めるための修正モードの修正と元データの整合性の取り方とか保存のタイミングとか品別項目とかいろいろ余計なことをしなければならず、目先の課題一つひとつに場当たり的な汚い処理を突っ込んで、あとでその処理のせいで余計に面倒くさいことになってしまったりした。結局、8割くらい作ったのを4割ぶっ崩して9.5割まで作り直して、それでようやく、これまでの作業の流れを変えず、最後にクリポデータの調整とCSV取得の手順を加えるだけで済むようなのが出来上がった。すべては人のためでなく自分が楽をするためである。どうせこんだけやっても実入りはないのだ。
んで、これを本番システムに突っ込んできっとファイル名変え損なったりつまらん齟齬を生じさせたりしてイライラするんだろうなあと予測する。作っている最中もpostのターゲットが旧ファイル名のままだったせいでいくら修正しても反映されねえといって頭を拗らせた。ばーかばーか。あと久しぶりに複列テーブルを作ろうとしてhtmlでの書き方を忘れてた。昔は手作業プレビュー無しでcolとrowと合わせられたのになあ。そんな能力もいまどき何の自慢にもならねえし専用エディタて一発だろうけど、だからこそ自慢なアレであったのだよ。そんなこと書いたって仕方ないのはわかっているから敢えて書いてばーかばーかと思われるために書き残しておく。
先週の発行直前にイワシ1パック84円というのを目撃して以来天ぷら食いてえ欲の増進が止まらない。小振りなイワシの頭落として内臓取って丸ごと天ぷらにしたらさぞ美味かろう、などと思ってしまったのが運の尽きだ。その時はさすがにそんなもの作る時間なんてないと思い、発行後の時間に余裕がある時に作ろうと考えて諦めたのだけれども、そんな時に限ってイワシはなかったりするのである。
スーパーに通いつめて数日、ようやくイワシが入荷したが、一尾15cmくらいありそうな立派な真イワシであった。しかしピークに達していた 天ぷら欲を抑え切れずそれで無理矢理作ることに決め。ついでにいろいろ揚げてみようということで、玉ねぎを買ったりししとうを買ったりアスパラガスを買ったりした。もうちょっと肉気が欲しいということでささみまで買ってしまう始末。以来立て続けに天ぷらばかり食っている昨今である。
2日目くらいに思いつきで買った長芋(の天ぷら)が思いのほか美味くて瞠目した。世間一般では当たり前のレパートリーなのかも知れないが自分自身は長芋の天ぷらなど食ったことがなく、しかし野菜売り場で長芋を目にした瞬間に揚げたら美味いに違いないと直観しその通りに美味かったものだから、まるで人類叡智の秘密を誰にも頼らず自力で突き止めたかのような、誰も知らない物理学の方則を見出したかのような悦喜を味わうことができたのだった。何ともまあ幸せな野郎である。少し厚めに切ったやつをじっくり揚げてサクサクムリムリにしたやつが美味い。玉葱も長めに火を通したほうが貧乏人の口には合うようだ。
購った食材を一度に全部使い切ることは不可能なので、少しずつ食材が余り、それを消費するためにまた新たな食材を購ってきて、という無限ループに嵌ったりするのは最早お約束の領域である。そのうち最初の目的であった真イワシ(小)も買うことができてホクホクトロトロウマウマな天ぷらを食ったりもし。ああこの調子ならあの大量の大葉も買っておけば良かった、茄子だって揚げたてはさらに美味いに違いなく量も平らげられるに違いないのにと後悔したりもしている。
そんな天ぷら三昧の過程で、天ぷらの衣には卵を使わないということを知ったりもした。周りの人はみな水溶き小麦粉で揚げているのだという。へえそういうものなのか。卵を入れて厚ぼったく揚げるのがデフォだと思っていた。実際そのほうが自分の口には合うようで、衣が厚いほうが天つゆがよく絡む気がするのだ。
その天つゆは自作である。見様見真似味真似で、濃い目に薄めただしじょうゆに味醂と塩少々を加えてひと煮立ちさせてみたものである。最初は火を通さなかったので妙にピリピリする舌触り。こりゃいかんと思い次回から火を通して、うんこれだという味になった。もう少し薄めたら天丼にも使えそうであるがしかし天ぷらだけで十分お腹いっぱいになるために天丼にまでしたことは今のところない。
さすがに4日連続で天ぷらというのはやりすぎな気がしたし腹に溜まり過ぎているきらいもあったので今日は別メニューでさくっと済ませた。しかしイワシ2ラウンド目と蓮根2ラウンド目がまだ残っておる。また頃合いを見て揚げたいものである。しかしまあ、これだけ食っても胸焼けがしないのは不思議だ。 かえって不気味ですらある。 躰が脂質を欲していて実は天カスばかりバリバリ食っても満足するのかも知れない。
結構頑張ったほうだと思う。
蚊と闘いながら頑張ってこの写真を撮った。
蚊と闘いながら頑張ってこの写真を撮った。
蚊と闘いながら(略)。ほんと今日は蚊ばかり。出掛けに長袖を持っていくのを見送ったのが裏目に出て、しかし今日の暑さでは長袖は耐えられなかったかも知れぬ。
まずは芝山トンネルを再訪。煉瓦サイズを測定するつもりがメジャーを忘れてきてしまったことに現地で気づいた。馬鹿である。遣る瀬無い気持ちの遣る瀬を探して周辺をしつこく探った末、坑門側面の帯石の裏に若井煉瓦刻印を発見した。なんと、アルファベット刻印煉瓦だけではなかったのだ! 確かに建造時期的には若井が混じっていてもおかしくはないのであるが全くノーマークであった。重要な知見である。
幅15cmくらいしかない隙間にスマホ突っ込んでライトで照らしながら何とかかんとか撮影したのが1枚めの写真である。
続いて大輪田で青山商会分工場の痕跡を探す。大輪田の北半分は水田と畑。しかし大阪鉄道に供給することを考えればここに窯があるのがベスト、と考えてあちこち歩き回ってみたが、そこに煉瓦を見ることはほとんどなかった。あっても無刻印の新し目のだったり耐火煉瓦だったりした。
続いて大輪田の街なかを歩き回る。はじめは何故か菱Sばかりで「???」だったのだが、在所の核心部分において探していたそれそのものを検出する。アルファベット刻印煉瓦である。「E」が2つ、「X」と思われるのが1つ(2枚めと上写真)。付近には撥型異形も多く転がっていた。ただしこれらは焼損煉瓦ではなく、モルタルがついていたりモルタルで2つくっついていたりする。建物か壁かに利用され、解体されてさらに縁石に転用されているようだった。
あるはずだと思って行った先でそのものずばりを見つけ出したことについてはカ・イ・カ・ン、だったのだけれども、何故かここでも若井の刻印煉瓦まで発見してしまう。恐ろしいことである。しかもその隣には岸和田煉瓦さえあった。
大阪鉄道に供給する目的で青山商会分が大輪田に分工場を儲けようとしていたことが新聞記事から明らかになり、それで芝山や亀の瀬で見つかっているアルファベット刻印を青山商会分工場のものと推定していたのだけれども、一緒に若井が出てきたことで何とも判断しづらいことになってしまった。現状では青山商会分工場=アルファベットはあくまで仮説でしかない。そもそも分工場が操業したという証拠もない(工場作ったので職工募集する、とは書いてあるが)。だいいち職工募集が22年初頭で、亀の瀬が完成し開業したのは25年の頭。たしか工事中に落盤事故が起こって伸び、完成後に亀裂が見つかって伸び、でこの年になったはずなんだけれども、ともかく青山商会はM22度のデータを最後に姿を消してしまうのである。M23、M24に存在したかどうか定かでく、そんな会社の分工場だけが在り続けたとは考えにくいのだ。そもそも淀川橋梁付近(M28竣工)で「R」を取得したこととも合わぬ。しかしここで若井煉瓦が後半にアルファベット刻印を使ったとせば操業時期とは合うのであった。芝山亀の瀬の建設時期に切り替わった、という可能性もないわけではないのだ。若井煉瓦はM28頃まで確かに存在していた。
大輪田のアルファベット刻印はみんな単体転石だったから、工場由来と断定するのも難しい。例えば大和川を渡る橋の橋脚とか橋台とかを解体した屑ではないという証拠はないのだ(現大和路線の橋梁はC製橋脚。巻き立ててあるだけかもしらんがなんとなく新築っぽい)。岸煉&第一煉瓦のある時期からの×刻印も同様。岸煉はM26からだがそれ以前からセントアンドリュース十字は使われておったと聞くし。
転石の撥型異形が横並びで固着していたのは注目すべきかも知れない。この接合は円形橋脚か円形煙突にしか使われぬ。前者であれば付近の煉瓦がみな異形でなければならぬ。そうでないということはM20代にこの辺りに煉瓦が持ち込まれたという証拠、と言えるだろうか。因みにこの写真、蚊に追われながらぞんざいに撮ったのだが、左の煉瓦に刻印があるようにも見える。大阪紡績もしくは四日市製紙のに似た三本線の組み合わせ。三本の重ね方が右廻りか左回りかで違う。確か大阪紡績が左回り。
肝心の窯の跡は特定できず。小字西ノ岡でお尋ねしてみたが、さすがに100と数十年も昔の話だから……。しかし西ノ岡付近で煉瓦がごろごろ転がっているようなところも掘ったら煉瓦が出てきて困るというところもないそうである。
さらに移動して木津へ。5万図「木津」の以外なところに窯記号があることを発見し、これが山城煉瓦か?と思って行ってみたのだ。現場は竹藪になった尾根で、たしかに一帯は平らに均され何かがあった雰囲気だったうえに焼損煉瓦をひとつ発見した。深く掘られた穴の側面にひっかかっていたものだ(3枚目写真)。現場にはこの他にもパン瓦的舗石的大型板状煉瓦のコンクリート漬けもあったが、これは生活ゴミである可能性も無きにしもあらず。しかしこの尾根に建っている民家の敷地壁に煉瓦が多数使われていて、なおかつそこに焼けただれた赤煉瓦が使われていたりもし、これが窯の成れの果てのごとく思われたのだった。思い切ってポンピンしてみたのだが留守らしく応答なし。ううむ。ただし赤煉瓦が爛れるほどの高温は煉瓦窯には不要のはずだから、地形図が作られた頃には一般陶器の製造をしていたのかも知れぬ。件のパン瓦的煉瓦もこの民家の庭には使われていた。
竹藪の中で煉瓦を探すのはやっぱり大変だ。朽ちた葉が全てを覆い尽くしているうえに蚊が出る。
最後に奈良に戻って東九条と西九条を探る。大輪田で多数の菱S煉瓦刻印を検出したし、上記木津の民家でも使われていたので(重心が一気に奈良よりになった結果)奈良の町外れの斎藤煉瓦の可能性が再浮上してきた。それを確かめに行ったのだ。しかしこの最後の試みはまったくの無駄足に終わった。煉瓦自体がほとんど見当たらなかったし、無刻印手成形が数個見つかっただけ、あとは最近の機械成形品である。何故だろう、大輪田ではあんなにたくさん見つかったのに……。民家の更新のサイクルが、丘陵地帯と平野部とでは異なるのだろうか。古きを重んじる地域故に屋敷づくりも煉瓦を使わぬ純日本風で更新されたのか。
総合評価は65点といったところ。得たことも多いが謎がその3割増しで増えた気がする。そうして多分その謎は晴らすことが永久にできないだろう。
大輪田ではこんな刻印煉瓦も見つかった。撥型異形煉瓦に押された「L」のような刻印。しかしLとは向きが違違って、正確に表現するなら”「”だ。こういうのを見つけてしまうと改めて煉瓦刻印の際限無さを思い知らされる。これの出処を突き止めるのはまず不可能であるだろう。もうひとつの異形煉瓦にあった組三本線?も。
この畑はもう一度行ってもっとじっくり探したい。縁石に使われているのでうかつに裏返せなかったし砂土まみれで表面が見えないのも多かった。持ち主の人に断って探させてもらったらもっといろんなことがわかりそうな気がする。急ぐ必要は無いけれども忘れないようにはしたい。
醤油こぼしたり食い物カスを詰まらせたりなんやらよくわからないべたべたしたものを撒き散らしたりして汚いことといったらnagajisのやり口以上だという酷い状態になっていたApple Pro キーボードを完全分解して掃除した。都合数時間を要した大掃除である。
このキーボードは導電シート・ゴム・キートップをはめ込むガワが骨格たる鉄板に対して大量のネジで固定してあって、そのお陰で非常にsolidなタッチであるところが素晴らしいのだが、裏を返せば徹底掃除のために数十個の小さなネジをちまちまちまちま外さなければならないという大変さがある。それが面倒で徹底掃除はなかなか手が出せない。しかしいい加減汚らしさに嫌気がさして決行したのが今夜であった(←キーの反応がおかしくなったというのもあった。通電部にゴミが挟まって接触が悪くなってしまったカンジ。それを直すためには完全分解して通電シート部を取り出さないといけない。ちなみに醤油を大量にこぼすとこの通電シートに染み込んでそこで錆を発生させる。そうなると復旧は非常に困難である)。
そんなわけで掃除をし、きれいに洗って拭いて乾かして、いざ組み立ててみたら打鍵ゴムが一個どっかいっちゃってやんのばーかばーか。仕方なくHOMEキーをゴム無しにすることで対処することにした。どうせ滅多に使わないキーだから実害らしい実害はないのである。しかしあちこちダメなキーボードになってしまったことについては書いても書いても書き足りなり情けなさを感じる。Iキーはツメが一本折れちゃっているしHOMEキーは使えないし。見た目は綺麗になりグリスアップでキータッチも復原したのだけれどもそんな瑕疵がそこかしこに潜んでいるキーボード。見るたび触るたびその瑕疵が気にかかってうすぼんやりとした苛々を感じることになるのであろうと思うと何とも遣る瀬無いのである。
これといって食べたいものが思いつかないままスーパーに立ち寄って、お好み焼き粉を見た瞬間に電波を受信した。そうだ広島に行こう。ということで焼きそば麺やら豚肉やらキャベツやら買い込んでウキウキワキワキと作ったのであるがしかし、麺を炒める段階の頃に「お好み焼きソースが無い」ことに気づいてしまった。あると思っていたそれはお好み焼きソースではなく焼きそばソースであった。仕方なく焼きそばソースとマヨネーズで食べることにしたが、やっぱり広島風お好み焼きは甘ったるいお好み焼きソースでないとおいしく召し上がることができなかった。こういう失敗を二度と繰り返させないための戒めとして食したのである。
我が家のコンロは一口コンロ。これで広島風お好み焼きを作るのには様々な困難が伴う。まず炒める/焼くの順番を考えねばならない。先に麺を炒めてしまうとその麺の置き場に困る。器に移しとけばいいやん、などと考えてはならない。そうすると麺が冷めてしまってゴムみたいになってしまうし、焼いたお好み焼きの上に麺を載せるのが難しくなる。皿に麺、フライパンにお好み焼きが焼き上がっていると仮定して、その皿に麺を載せたお好み焼きを載せる方法を考えてみていただきたい。フライパンの上のお好み焼きに皿の麺を移す→それを皿に移す、とやるとかなりの確率で麺が飛び散る。型崩れする。かといって皿の麺の上にお好み焼きを載せるのは敗北である。上に載せなければ広島風とは言えぬ。
皿の麺の上にひっくり返した状態の広島風お好み焼きをひっくり返したまま載せて、その後皿ごとひっくり返してみるとか、フライパンの蓋にお好み焼きを取ってその麺の上に載せるとかも考えたことがある。後者は一度試してみたりもした。一見素晴らしくよいアイデアのように思えたのだが蓋がめっさ熱くなる上に油とか水分とかが垂れてきて阿鼻叫喚の巷が現出した。危うく取り落としそうになり余計にぐちゃぐちゃになってしまった。
要するに先に麺を傷めるからいけないのである。最初に広島風お好み焼きを完成させ、皿に移しておいて、改めて麺を炒めて乗せれば万事済むのである。ということを作り終えてから理解した。
昨晩のお好み焼きのリベンジでも良かったのであるがお好み焼き粉その他と共にお安く売られていたかつおのたたきを購入していたことを思い出しそれをかたしてしまわなければと決意した瞬間に興味は早や添え物のほうに移っていってまず最初に思いついたのは玉葱を薄くスライスしたものであったがこれは既に試したことがあるので特に懸念はなく面白みにも欠けるのでそれを補うものとして第二の添え物を考慮したところけん即ちさしみのつまは自作したことがなかったなと気づきそうか私には大根の桂剥きの経験がないのだこの際だから桂剥きにも挑戦してみようではないかうんそうしよう双子葉ということで帰りがけに大根半本98えんを購ってきて早速取り掛かってみたわけだけれどもこれが中々難しく思うようにいかなかったのはある意味想定の範囲内前後誤差5%に収まる事象であってそれこそ練習のしがいがあるというものと思い直し無心になって桂剥きに勤しんでいるうちにわずかながらコツのようなものがつかめたのであるがそのコツというのは包丁の刃のほうを動かそうと意識するより大根のほうを刃に押し付けるようにして切るほうがうまくいくらしいことと刃を上下に動かすよりもムリムリと押しつけて切るほうがまだ薄く切れそうな塩梅だったことでただし後者は決してスムーズな動きでなく仕上がりも美しくないうえに大根汁がボトボトたれて見苦しいこと限りなしなので刃を上下に動かす切り方も練習してみたのだけれどもやはりそちらはなかなか上手くは行かぬなんとなればその切り方だと大根を支える左手の方にばかり力が入って逆にうまく静止できないうえに右手に握った包丁への注意が疎かになって刃を滑らせた結果勢い余って桂剥きの桂とでも言うべき部分をざくっと切り裂いてしまい酷い時には刃が親指の付け根目掛けて横滑りして飛んでくるという危険極まりない瞬間を何度も経験して冷や汗をかくこと数次であったこれは包丁が中途半端に切れるせいであるようにも思うし百均で購入した刃先が湾曲した所謂文化包丁を使用しているせいでもあるようにも思えそもそもの話として初桂剥きのくせにいきなり幅広の胴長さ約10cmで挑戦してしまったのも良くなかったようでありともかくそのような試行錯誤の結果として理想的な桂剥き即ち巻物の如くな長い桂はちっとも剥けないでどう頑張っても10cmも続かない断片的な桂ばかりが出来上がり無論その厚さは1mmから3mmの間を脈動する如くな不均等厚のものとなり厚さがそんなであるものだからけんにすれば径数mmの塊状けんとなってしまってさしみのつまとは決して言うことのできないお粗末な物体が出来上がり続けるのであったとはいうものの薄いところはそれなりに薄くできたし多少厚いところがあったとしてもそれは未だ経験したことのない新食感例えて言うなら薄切りポテトチップスに対するざく切りポテトの如くな歯触りがあってそれはそれで納得できたしむしろ問題は桂を千切りにするところにあることを思い知らされた次第過日あれだけキャベツの千切りを練習したにも関わらず端々まで切通すことができず即ちけんを一本一本正しく分離させることができず蛸足かささら足状とでもうべき切り損ねのけんを大量に発生させてしまったのであったがこれは要するに刃先の湾曲を意識し切れていないため刃を滑らせる距離を見誤り不足して切断し切ることができなかったのであり或いは刃先湾曲を利用して刃を滑らせた後に押し切るような動きを加えてやるべきなのだろうと思ったりもしたがというよりキャベツ千切り時代からそう意識してはいたのだがそう意識をしたつもりでいても意識通り事が運ぶであれば苦労はしないのであって未だにそれが身になってはいなのであったここで刃渡りの大きな包丁刃先のストレートな包丁を贖い求めることなど考えてはいけない良い道具は良い仕事の必要十分条件には非ずしてむしろ正確な繰り返し動作なりサクサクサクと切るタイミングの計らい方であったりを会得体得することのほうが先であり上達に必要なことであるはずであってそれを極めた上で良い道具を持たなければ宝の持ち腐れとなるであろう包丁に失礼であるだろうと信ずる私は結局のところざく切りポテト然とした太いけんを無闇に大量生産するばかりで相変わらず厚いけんシートの断片しか作り得なかったのであったその結果として千切り欲は満たされたものの肝心のモノはモノにならぬまま不本意なままでつま作りを終えねばならなかった。これくらい連続した桂剥きをしてみたいものである。
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丁度良いタイミングで開催される。また行ってみようかしら。今度は若井か青山かがあの煉瓦を供給したのだということ、浪花工業が請け負ったこと、開通直前に東口を付け替えたことなんかを頭に入れた上で、その目でもう一度見なおしてみたい。とかなんとかいうが要するに煉瓦刻印探してえってだけなんだけどな。
なぜかは知らないが↑の参照元ページ(王寺町観光協会)を開くとChromeがおちる。未だにXpだからだろうと納得しておくことにする。nagajis来んなというメッセージであったとしても頑として無視する。
よりによって日曜日に来るとは。帰れソレントへチャーミー。
ただの雨ならばまだ図書館籠りとかできて有意義な過ごし方ができるのだけれども、暴風警報が出て図書館が休みになるはずだから、それも叶わない。大人しく記事作ってろってことなのか。それもいやだ。ぼくはいやだ。
そうして屋根は穴が開いたままだ。予想通りの展開だ。一応追加で紐を張ってみたが焼け石に水だろう。他の古窓も吹き飛ばないとも限らない。唯一の望みは縦断コースになるために移動するにつれて勢力が弱まっていくはずだということ。このコースで大きな被害があった記憶がない。高知とか和歌山あたりからシュート気味に抉り込んでくるほうがこわい。そして現時点で950hpaまで上がってること。さっさと走り抜けて立ち去っていただきたいものだ。
という題名のSPAMが届いたのでたまには見てやろうと思いすぐ開いてみたのだがこの有り様だ。馬鹿が、いまどき実体参照まみれで送ってくんな。貴重な善意と好奇心と時間を返せ。
楽天の広告メールもこんななんだよなー。カエレお前ら。
見事な直撃だな。予報円のほぼ真ん中のラインから微動だにせずやってきやがる。大阪に吸い寄せられる磁石みたいなんでもあるんやないか。
どこにも行けない暇な日曜日はbdbの整備でもするに限る。プラグインを漁ったらpostをtweetするというのがあったので入れてみる。うまくいってるのかどうかは知らぬ。TwitterはTUKAさんのしか見ないので。
カテゴリの説明は大阪窯業と岸和田煉瓦の二大巨頭を残してほぼ終了した。書いているうちに工場表の間違いなんかも見つかったのでそのうちerrataを発行する。予定。あれはほんと気が向いたらだからなあ。
(刻印表の記述は全般的に古うなっとる)
_ しゃちお [キーボードカバーを付けましょう!]
_ nagajis [そーなんですよね。キーボードカバーをつければ何の問題も起こらない・・・ゴム無くしたりせんでも済みますな。]