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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2019-08-03 [長年日記] この日を編集

[煉瓦] 煉瓦を割る・大阪窯業角丸異形編

そういえば大阪窯業の断面はまじまじ卍と見たことがない、ということで、先日採取しておいた角丸異形を割ってみた。呆れるほどに普通だった。胎土は見事な赤色で、そこに白い結晶粒がかなり多量に入っている。この白い粒、ずっと石英だと思っていたけれど、どうもそうではないようだ。石英粒もあるにはあるが長石のほうが多く大きいようである。

胎土はほぼ純粋な赤色粘土。斑はまったく入っていないといっていい状態。ただし上述長石粒はたくさん見られ、また長径1cmくらいはありそうな小石、5mm前後の黒褐色の石粒、白い胎土の塊?が含まれていたりする。岸和田や日本煉瓦の手製系の斑入りのような明瞭な層は存在しない。そのくせ表面は手整形煉瓦特有の擦痕があるし小口長手はザラザラだし裏面には筋に近い段があったりして、外見からは手成形としか見えないのであった(但し長手にシワはない)。

この塊の状態をうまく説明することができない。わずかに見られた斑の筋(小口の中間点付近に長手方向に1cmほど伸びている)が平→平に流れていたならば、機械成形の荒地を手で整形したものと言われないこともないのだが、そうはなっていないのである。小口に対して垂直方向(“⊥小口”)、平に対して並行(“//平”)の筋である。岸和田の機械成形は“⊥平”で、小口に平行するものと長手に平行するものが混在している。“//小口”と”//長手”が存在する。要するにロの字型。

一番知りたいと思っていた角丸の部分、45度に割って確認したにも関わらず、半枡断面と何ら変わりがなかった。断面の凹凸にも明瞭な傾向はなし。まるで機械成形煉瓦の断面。機械でよく練った土を木枠に詰めてぎうぎうしたらこうなるのかも知れぬ。

あるいはプレス成形がこれに近いか、と思ったらB.C.H.J.は函的であるのだなあ。//小口にしか割っていないが断面の斑は函だ。

もいちど整理。今回の大阪窯業角丸異形は“⊥小口・//平”。厳密に書けば“⊥小口・//平・⊥長手”になるのか。岸和田機械成形は“⊥平・//長手・//小口”。

あー、この表記、結構うまい発明と思ったんだけど、函状態を端的に書き表せないな。//平・長手・小口としたら箱になってしまう。そういう状態はないわけじゃないが特殊過ぎる。

A面が函の底なのか、B面が底なのかで表すか。平・長手・小口を固定して“A//://://”とか“B//://://”とか書いたらいいのか。大阪窯業角丸は“//:⊥:⊥”、岸和田機械成形は“⊥://://”。


2019-08-04 [長年日記] この日を編集

[C60] 13個目

画像の説明

デイリーカナートイズミヤ住道店裏の小さな公園で。

[文芸] 鴻池新田にて

外気温35度 雀、喘ぐ。

体感では36度2分くらいで、それで上の句を作ることばかり考えていたのだが、実際には35度ジャストであったらしい。嘘はつけない。

この夏の来し方を思い我慢する

7月はずいぶん遅くまで涼しかったからな。遅くなった分を取り戻そうと頑張っているんだよ、きっと。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ あきら@大阪 [>遅くなった分を取り戻そうと頑張っているんだよ、きっと。 いや、そこは「頑張らなくてもいいですよ」と言いたい。 十分に夏を体感してますからと。]


2019-08-05 [長年日記] この日を編集

[独言] 工エエェェ(´д`)ェェエエ工

遅刻覚悟で出社したら休みだったという、もう何度目かわからない体たらくを演じ、過去数回もそうしたように図書館へ行く。大阪は月曜日でも中之島が開いてくれているのでありがたい。

しかし図書館行が久しぶりであったのでデータベース利用にも図書館カードが必要だと記憶違いをしてしまい、家に取りに戻ったせいで、阪急宝塚線のequipment inspectionに引っかかってしまう。直行していたら引っかからなかっただろうという稼働停止に引っかかり、岡町駅で30分ほど無駄に時間を過ごした。カードを取りに帰る時間も含めたら1時間近くロスしたな。でも快晴の青空がきれいだったし心地よい風も吹いていたのでよしとしておく。ダイヤが乱れて足止めを食っている時は腹を立てたって何にもならない。デコにダイヤと書いた男がホームで乱れている姿でも想像して微笑しておるほうが数段宜しい。

先に日本橋に行ってHDDを入手しておく。最近は2.5inchがやけに高い。160GBで1000円とかボッタクリにも程がある。それだけ需要があるということだろうか。もう1000えん弱出してSSDでも買っとけということか。

そして図書館。12:45から閉館間際までがっつり毎索。それだけやっても終えられないM30。そして多分M31も見るべきであるとわかる。ドツボである。1ヶ月24000えん払って自宅で見たほうがいいのではないかと思えてくる。

[煉瓦工場][] 社章群from大阪毎日M30

近々整理せねばならないのでスキャンしておく。

画像の説明1月4日8面。追って合資会社化するとは書かれているが見つけられず。かわりに10月頃信達村の鶴岡氏らが樽井煉瓦株式会社の設立認可を申請しとる。この樽井煉瓦は浜の樽井煉瓦(後の矢代氏工場)ではないほうの樽井煉瓦と思われるのだが、周辺では該刻印を見つけられず。神戸や加古川の細い・くっついた三本線がこいつだったらどうしようと考えると夜も眠れない(が多分それは播煉のはずである)。

画像の説明2月21日5面。ほとんどノーマークだった工場。耐火・坩堝専業だとばかり思っていたが、赤煉瓦も掲げているし、「どんな煉瓦でも作る」と豪語しておる。その割に該刻印は見たことがない。分銅型はさておき富士に正が有り得そうだ。

画像の説明M30に簇出する泡沫工場群のひとつ。この広告を見た直後に工場跡地へ行ってみたが該刻印やはり見当たらなかった。そのかわりに東高野街道沿いに■刻印が分布していることとMASUDA RENGAを追検。会社所在地はいまの瓜破東なのだ(増田煉瓦は大和川対岸)。6月16日6面。

画像の説明この辺りから今日の収穫。西讃煉瓦社章。金町製瓦の○2つに似たような、serifつきCを2つ重ねたような社章。しかし別紙では「セイサン」と刻まれたやつが見つかっている。社章タイプはどうなんだろう、存在するのかどうか疑問だ(関西圏で金町?というようなやつを見たことがあるようなないような……)。西讃煉瓦は香川県観音寺市に最初に興った煉瓦製造会社。38年だったかに讃岐煉瓦に吸収合併されて分工場となり、それが後に本社になる。この広告には新式輪環窯と登窯を使用とあって地味に興味深い。関西ではM24の大阪窯業が最初で、M30には堺にも堺煉瓦の1基しかなかった(同年中に日本煉瓦が2基建造。泉南では貝塚と岸和田が採用してたんじゃなかったけか。あと実現したかどうかよくわからない堺煉化石の擬洋風環窯)。最初期の環窯の一つといってよい。8月18日号、面が掠れて読めんがたぶん5面あたり。

画像の説明そうして讃岐煉瓦もこの年に広告を出している。例の松葉菱に篆書体の「讃」。それそのものの刻印は未見だが枠の松葉菱と文字を組み合わせたタイプが永く使い続けられることになる。コメンタリーの「裁断自在ナリ」は地味ながら実用面で大きなアドバンテージになったものと思う。カッチカチに硬いやつでないときれいに割れねえんだよな。胎土が粗かったり焼きが甘かったりすると断面が凸凹になって美しくないのである、と経験者談として書いておく。10月3日7面。

画像の説明少し前後するが稲田の浪速煉瓦。たしかこの工場、最初の設立許可申請の時は「浪花煉瓦」だった。いつのまにか「浪速」になっている(どこかで訂正申請を出してた気もする)。そうして稲田はつい最近歩いた地域だ。これを知っていたらもうちょっと時間をかけて歩き回ったんだがな……。いま地形図を見直したら徳庵駅東1丁には煙突記号と垣根囲いのある工場がポツンと描かれている。元恩地川の対岸の今里には窯記号が複数。そんなに盛んだったところには見えなかったんだがな。古煉瓦は確かにあったけどさ。
浪速煉瓦は1wほど前にも広告が出ていて、そちらには「煉」字のない外枠だけのマークが掲げられている。要するに「煉」が入るかどうかはどっちでもよくて、外枠の形に社章としての重みが置かれていたことがわかる。讃岐煉瓦が松葉菱固定で中を使いまわしたのも同じ。8月25日8面。

画像の説明

そうして至高の問題児・津守煉瓦(株)。疲れがピークに達して生欠伸が噛み殺せなくなっているような段階で見つけたものだから一挙に目が醒めた。どう見ても堺煉瓦ですしかも添印"七”です本当にありが(ry。

この広告をどう解釈すればよいのだろう。この広告だけを根拠にして津守煉瓦=五本線≠六稜星だと鵜呑みにするような純真な心は有していないしM25頃からの鉄道構造物で五本線刻印が頻出する現実ともそぐわない。堺は五本線であって揺るぎなく、その知名度に便乗して津守がブラフを打ったというのが第一説。後に創業主が立ち上げた林土管煉瓦は大阪窯業マークをパクってたりするもんだから、行儀のよくない、グレーゾーンを生き抜いた工場と言われたら納得してしまうと思う(少なくともわたしは)。

第二説は、津守が煉瓦の小売販売もしていて、堺煉瓦製品の取り扱いがあったから「煉瓦の代表的なイメージ」として掲げてみただけというもの。悪気がなかったにしても第一説並みに悪事である(堺煉瓦は社章を商標登録していない。後年でもそう。なので法的には裁かれない)。

第三説は実は堺煉瓦と津守煉瓦の関係が、そういうのを許すようなバックグラウンドのあるものだった---少なくとも設立当初は---という説。津守が分工場を置いた狭山に堺煉瓦も分工場を作っていたりするから、某かの関係があったと見れなくはない。ただ創業者や役員の間に今の所共通点は見いだせない。そういえば製造年度が絞り込める六稜星刻印は少なかったはず。新大阪の近くの跨道橋の橋台に中型が使われていたが多分あれはM31の拡幅部分。それが一番古い。もう一年前はどうだろう? あと漢数字添印の堺煉瓦はM29の山中トンネルとかM28の大手前配水池で見ている。M30より少しあたらしい。

とにもかくにも、まったくいらんことをしてくれたものである。そしていらんものを見つけてしまったものである。

余談だがこの広告の「煉瓦製造」のアイキャッチは西讃煉瓦の広告に使われているものと全く同じだ。このへんは新聞社のほうで勝手に付け足したりしているのかも知れない。


2019-08-08 [長年日記] この日を編集

[独言] うっひゃあ

スピーカーを逆にはめてしまったぞ。また開けなあかんのか・・・とほほ。

たしかにらじる★らじるの音はマイクのほうから出てる。しかしボイスメモはちゃんと記録できていた。スピーカーが通話できないとマイクのほうで音を出すようになるという不思議な設計なのか>Xpria Z3。


2019-08-20 [長年日記] この日を編集

[煉瓦][独言] 今現在のnagajisの頭の中

日銀京都支店地下の桜刻印が一体どこのものなのか突き止めようとして混沌としている。

境界条件1:M39竣工

境界条件2:新聞記事では内装外装とも大阪窯業が煉瓦を供給

境界条件3:該煉瓦には機械成形痕がある

M40初頭に大阪窯業は和泉煉瓦と岸和田煉瓦を買収して自社工場とした。大阪窯業と和泉煉瓦はその前から緊密な関係にあったらしくM39秋には大阪府下煉瓦製造業組合の代表として大高庄右衛門と和泉煉瓦取締役・日吉端が満韓へ視察に行っている(『大日本窯業協会雑誌』)。そんななので

仮説1:和泉煉瓦=桜型刻印であって、和泉煉瓦買収直前に同社が成形機械を導入してた

と考えてみたが

仮説1の否定1:工場通覧M40などには和泉煉瓦の動力採用の痕跡がない。

載るか載らないかのギリギリであった可能性を検証。『大阪窯業五十年史』にはM40に両者を買収しただちに窯と機械を据え(各工場に2台ずつ)、結果「半乾式、湿式合わせて8台の成形機械をそろえ」大量生産体制が整ったとしている。この8台というのは大阪窯業全体を合わせての数らしく・・・和泉煉瓦→岸和田工場に2、貝塚煉瓦→貝塚工場に2、堺工場に4らしい。M42日本工業要鑑では堺工場に4、岸和田に3、貝塚工場に2となっている。岸和田の+1は50年史にはないが、この頃岸和田煉瓦を増強したとある故その時に持ち込んだものだろう。T2窯業協会雑誌の倉橋の報告ではこの数になっている。ついでに半乾式は堺工場の1つのようだ(後の日本工業要鑑)。つまるところ和泉煉瓦時代に和泉煉瓦工場に成形機械は存在しなかった。

といったことを考えているうち、和泉煉瓦の社長は中辰之助であり熊取の中家住宅の主であることに気づく。中辰之助は大阪窯業合流後に監査役や常務取締役をやったりしてる。中家住宅の壁に大阪窯業の舗装煉瓦があるのはそのためであって、共使いされている三ツ矢刻印煉瓦も中辰之助の和泉煉瓦である可能性が高くなる。

のであるが、和泉煉瓦はそもそもM30頃成立の桃山煉瓦と泉北煉瓦が合併して出来た節がある(桃山煉瓦の専務取締役石井鉄太郎、泉北煉瓦の誰だったかが泉煉瓦の役員になっておる。その辺から溜まっていた不良在庫の一掃セールだったとしたら?

あの刻印を桜と見て良いものかどうか、と思ったりもした。かの花弁型が桜のモチーフだという認識は果たして明治初期からあったものか。梅は丸花弁、切れていれば桜花弁と考えるのは近年できたコモンセンスでありはしないか。実は桃の花だったりしないか。桃の花=桃山煉瓦という想像。京都の有名な桃園の花は必ずしも切れていない。しかし仮にそうだとしたら桃山煉瓦はM39頃には存在していないわけで元の木阿弥である。


2019-08-23 [長年日記] この日を編集

  所在地ショザイチ 大阪窯業オオサカヨウギョウ五十50ネンフミ 
p.68
大阪窯業オオサカヨウギョウ五十50ネンフミ
pp.69-70
大阪府諸会社銀行及工場表 明治メイジ32ネンマツ 大阪府諸会社銀行及工場表 明治33年マツ 大阪府会社銀行組合及工場表 明治メイジ34ネンマツ サカイ史料シリョウ類纂ルイサン 38 工業コウギョウ 工場通覧コウジョウツウラン
明治メイジ35ネン
工場通覧
明治37年
大阪府下会社組合工場一覧 明治37ネンマツ 大阪府下会社組合工場一覧 明治39ネンマツ 日本工業要鑑
明治40年第2版
岸和田キシワダ煉瓦レンガ株式会社カブシキカイシャ弐拾ニジュウ周年シュネン沿革概要エンカクガイヨウ 大阪窯業オオサカヨウギョウ五十50ネンフミ
p.73
工場通覧
明治40年12月末日現在
大阪府下会社組合工場一覧 明治41 大阪府下会社組合工場一覧 明治42 工場通覧
明治42
大阪窯業オオサカヨウギョウ五十50ネンフミ
p.74
日本工業要鑑 第5版(明治45、46年) 大阪府下組合会社銀行市場工場実業団体一覧 大正タイショウモト 日本工業要鑑 大正3・4年度用(第6版) 大日本窯業境界雑誌ダイニホンヨウギョウキョウカイザッシ No.246 倉橋クラハシ藤治郎トウジロウ「大阪付近の煉瓦業」
データ収集シュウシュウネンゲツ   明治メイジ29 明治メイジ31 明32.12 明33.12 メイ34.12 明治メイジ34 メイ35 メイ37 メイ37マツ メイ38マツ 明39.7~(12)   メイ40スエ メイ40 メイ41マツ 明治メイジ42ネンマツ メイ42   明44.7 ダイ1 ダイ2 ダイ2.2.(大正1.12.27ヒツ
大阪窯業オオサカヨウギョウ
堺工場サカイコウジョウ
堺市サカイシ南附洲新田ミナミツキスシンデン 堺工場サカイコウジョウ建設ケンセツ開始カイシ
M29.3.より素地製造ソジセイゾウ開始カイシ
M29.10.シンカマハジ
機械成形キカイセイケイ開始カイシ
悉皆シッカイ独逸国ドイツコク最新式サイシンシキにしして五拾50馬力バリキ蒸気機関ジョウキキカンモチトク一種イッシュの煉土器を設置し(略)型口圧出の際煉瓦四面に水を浸出し側面は平滑にして恰も手製煉瓦の磨き品に等しき光沢を顕わし上下の両面は特に粗鬆にして以て「モルタル」の附着力を強固にする」(機械キカイ製造煉瓦広告 M31.12.)
職33/14
機関1/17馬力
ショク46/7
原動機ゲンドウキなし)
ショク49/16
機関キカン1/17馬力バリキ
ドイツコクメルゼ―ブルグイチテーゴロツキーシキ 1土練ツチネ1クミのワルツ(ツチカタマリオヨツチルイ破砕ハサイするもの)1の圧搾器1台の切断機よりなる 一日東京形3万個を製出
改良ホフマン式窯2基 各18室 1ヶ月85万個の東京形煉瓦を焼く
職49/16
機関1/17馬力
ショク78/32
蒸気ジョウキ2/102
職103/32
蒸気2/102馬力
電気1/5馬力
職112/28
蒸気2/102馬力
電気1/5馬力
資本キン 180000エン 積立 34000エン
創業ソウギョウ M15.1.
取締役 磯野良吉 取締役 辻忠右衛門 河中源蔵 監査役 長尾藤三 内藤為三郎 支配人兼技師長 大高庄右衛門 副支配人 後藤彦造
  独逸ドイツ湿式シッシキと、米国ベイコクハン乾式カンシキとを兼備ケンビせる、優秀ユウシュウ抜出ヌキダ機械キカイ8ダイユウするにオヨび」

オソらくこのコロ堺工場サカイコウジョウに4ダイ貝塚カイヅカ岸和田キシワダ各分工場カクブンコウジョウに2ダイずつ、ケイ8ダイ
ショク188/58
蒸気ジョウキ3/240馬力
電気デンキ1/5馬力
職84/28
蒸気6/240馬力
電気1/5馬力
  職158/58
汽4/276馬力
発1/-馬力
  汽罐コルニシュ型4  汽機横置連成式4
発電機1 3馬力 電動機1 馬力2.5
煉化製造機械4 ウォーシング喞筒1
製粉機1 輪環窯4
カッセル窯1
職188/58
蒸気3/100 電気4/100 他?1/8
前年度産額 テラコッタ180万個
技師長 谷口徳政
原動機 汽罐 ランカシャ型4 焰管式2 馬力計510
汽機 横置凝縮式複気筒4 縦置不凝縮式単気筒4 馬力計470 煉瓦成形用
発電機 直流式 電圧100ボルト2台 110ボルト2台 22kW 点灯用
瓦斯機関 吸入式 6台 馬力計308 煉瓦製造機械運転用
機械及設備
独逸「グローケ」形煉瓦成形機 11台 グローケ及足田鉄工所製
同「マロー」式煉瓦成形機 1台
同「グローケ」式「ローラー」破砕機 22台
同「グローケ」式土練機 11台
同「グローケ」式混合機 3台
「フリクションプレス」 4台 以上足田鉄工所製
「フレット」4基 英国「ボイド」会社及び足田鉄工所製
「ボイド」形乾式煉瓦機 1台 米国ボイド会社製
貼付煉瓦用複式土練所 2台 足田鉄工所製
回転式粉土乾燥機 1台 足田鉄工所製
改良輪環窯 17基 化粧窯 5座 煉瓦抜出機 11基
 煉瓦機四台、輪窯四基、単室角窯一基 ショク オトコ/オンナ
桃山煉瓦モモヤマレンガ 泉南郡センナングン沼野村ヌマノムラ     創業ソウギョウ 明治30年12月(明治30年8月?)
代表ダイヒョウ 石井鐵太郎
ショク39/9
ショク33/12
ショク33/12
                                 
和泉煉瓦イズミレンガ 泉南郡センナングン沼野村ヌマノムラ                     資本キン 100000エン
創業ソウギョウ M38.4.
社長 中辰之助 常務取締役 日吉端 取締役 大槻與三郎 白井治平 石井鉄太郎 信貴豊二郎 監査役 片木政次郎 工場長 村瀬弘光
 
大阪窯業オオサカヨウギョウ買収バイシュウされる
M39.12.27株主総会カブヌシソウカイ買収バイシュウカマ1・抜出ヌキダ製造機セイゾウキ2ダイ議決ギケツ
M40.1.1.実施ジッシ
同年上半期中ドウネンジョウハンキチュウ機械据付キカイスエツケ拡張カクチョウもほぼ完成カンセイ
  職63/35              
大阪窯業オオサカヨウギョウ
岸和田キシワダ工場コウジョウ
泉南郡センナングン沼野村ヌマノムラ                           ショク80/30 職5/14 職17/1
蒸気1/44
職31/17
汽1/44馬力
明治メイジ43ネン下半期カハンキ
カマ、ケルレルシキ乾燥室カンソウシツ設置セッチ
ランカシャー型1
汽機1
煉化製造機3
蒸気喞筒1
篩炭機1
輪環窯4
職38/-
蒸気1/44馬力バリキ
電気1/2.5馬力
原動機 汽罐 ランカシャ型 1 120馬力 岡鉄工所製
汽機 複式横置型 1 130馬力 煉瓦製造用 岡鉄工所製
発電機 直流式 1台 3kW 電灯用
瓦斯機関 吸入式 1台 馬力60 煉瓦製造用 発動機会社製
機械及び設備 煉瓦抜出機械 3台 独逸製
乾燥室大小及び平抜工場 数十棟
ケルレル式乾燥室 1棟
特許ホフマン式改良輪環窯 5
煉瓦機三台、輪窯四基
貝塚煉瓦カイヅカレンガ 泉南郡センナングン貝塚町カイヅカマチ     ショク64/11 ショク136/26 ショク136/26     ショク91/- 職35/6 職35/6 資本キン 70000エン 払済 積立キン 18000エン
創業ソウギョウ M27.6.
専務取締役社長 田端治平 取締役 沼田八郎平 取締役 寺田徳三郎 塩谷五平 監査役 中西馨 監査役 岡田惣吉 支配人 神崎新三郎 工務長 木村種一郎
 
大阪窯業オオサカヨウギョウ買収バイシュウされる
M39.12.27株主総会カブヌシソウカイ買収バイシュウカマ1抜出ヌキダ製造機セイゾウキ2ダイ議決ギケツ
M40.1.1.実施ジッシ
同年上半期中ドウネンジョウハンキチュウ機械据付キカイスエツケ拡張カクチョウもほぼ完成カンセイ
  職139/48              
(貝塚煉瓦
分工場ブンコウジョウ
泉南郡センナングン木島キジマムラ     ショク16/4                                      
(貝塚煉瓦
分工場ブンコウジョウ
中河内郡ナカカワチグン楠根村クスネムラ     ショク-/-                                      
大阪窯業
貝塚工場
                          抜出ヌキダ機械キカイ独逸製ドイツセイ湿式シッシキ米国製ベイコクセイ乾式カンシキ米国製ベイコクセイ上手ウマかず?(同書ドウショp.236)   職140/47 職79/25 職79/25
汽1/100馬力
発1/2.54馬力
明治44年ウエ半期
熱気ネッキ乾燥室設置
汽罐ランカシャー型1 汽機1
煉化製造機2 蒸気喞筒1 輪環窯3
  原動機 汽罐 ランカシャ型 1 120馬力 岡鉄工所製
汽機 横置並列連成高圧器 公称馬力120 1 岡鉄工所製
発電機 1 1kW 点灯用
電動機 1台 15馬力 瓦斯機関 ヲット吸入式 1台 30馬力 煉瓦製造用
 煉瓦機二台、輪窯三基
岸和田煉瓦キシワダレンガ 泉南郡センナングン岸和田町キシワダマチ     ショク100/36 ショク79/27 ショク79/27   職48/22 ショク86/27 職22/34 職130/34 資本キン 100000エン 積立 40400エン 前期成績 年2割5分
創業ソウギョウ M20.7.
専務取締役社長 山岡尹方 取締役 寺田甚与茂 金納源十郎 寺田元治 広海惣太郎 取締役兼支配人 竹谷行 監査役 宇野小七郎 日高邦道
明治メイジ39ネン 原動汽力ゲンドウキリョクモッ煉瓦製造レンガセイゾウ機械キカイ創設ソウセツ
(「参拾サンジュウ周年シュウネン沿革概要エンカクガイヨウ」ではM40資本金増強シホンキンゾウキョウとともに機械成形開始キカイセイケイカイシとある)
  職45/33
蒸気1/60
職24/18
蒸気1/-
職98/30
蒸気2/400
職98/30
汽2/400馬力
発1/23馬力
  使用280ニン
汽罐コルニシュ1 ランカシャー型3台
ラストンプロクター会社製
ランカシャ型325馬力3 同上製
汽機 連成復汽筒横置式2 375馬力 煉瓦製造機用 ラストンプロクター社製
自動横切煉瓦製造機 3台 米国フィラデルフィアチャンバース会社製
捏土機3 粘土細砕機2 粘土粉砕機3 煉瓦切断機3 同上
輪環窯5 カッセル2
職101/39
蒸気2/400馬力
電気1/15馬力
産額サンガク 40000000個
使用 280ニン
汽罐コルニシュ1ランカシャ3計475馬力 ラストンプロクター会社製 汽機 連成複式筒横置き式2 計375馬力 煉瓦製造用 ラストンプロクター会社製
自動捏土機3 自動粘土粗砕機2 自動煉瓦横切切断機3 自動粘土粉砕機3台、自動煉瓦切断機3 フィラデルフィアチャンバース社製
輪環窯5 カッセル2
煉瓦機三台、輪窯五基、単室窯一基
岸和田以外キシワダイガイ独逸ドイツセイ
堺煉瓦サカイレンガ           ショク20/7   ショク10/5 ショク200/17 職209/36 職30/37 資本キン 100000エン
創業ソウギョウ M26.7.
取締役社長 武内四郎 取締役 佐野幸助 岡村猪之吉 監査役 福本元之助
    職45/33
蒸気1/60
職250/-
蒸気1/60
職80/19
蒸気1/20
職80/19
蒸気1/20馬力
  使用250人
汽罐コルニシュ型1 汽機22馬力1 給水喞筒1 破砕ロール1  ホフマン式輪環窯1 鉄砲窯1 登窯2
職61/21
蒸気1/20馬力
使用 250ニン
汽罐コルニシュ型1 汽機22馬力1 給水ポンプ1 破砕ロール1 ホフマン式輪環窯1 鉄砲窯1 登窯2
分工場 泉北郡向井村
輪窯 一基(一基増築最近落成す他に鉄砲窯一基及登窯二基
(このゴロ成形セイケイ機械キカイ新調シンチョウブン工場コウジョウにも)
日本煉瓦ニホンレンガ 泉南郡センナングン舳松村ヘノマツムラ     ショク17/- ショク26/8 ショク15/14   ショク18/18 ショク37/33 職57/43 職91/59 資本キン 300000エン 積立キン 15500エン
前期成績年1割
創業ソウギョウ M29.10.
社長 野田吉兵衛 取締役 村上嘉兵衛 常務取締役 安宅重三 監査役 浮田桂造
    ショク40/25 職135/15 職95/62 職95/62   前年度生産額20000000個
輪環窯3
職26/36 前年度産額 20000000円
 
(日本煉瓦分工場ブンコウジョウ)(白地シラジ製造セイゾウ 泉北郡センポクグン鳳村オオトリムラ     ショク19/10 ショク16/8 ショク16/8   ショク28/18 ショク10/10 職11/10 職33/18       職34/23 職34/23 職13/10 職13/10   (あり) 職33/14 (あり)  
丹治煉瓦タンジレンガ 泉南郡舳松村センナングンヘノマツムラ     ショク8/3 ショク11/10 ショク20/11     ショク38/25 職38/25 職44/26 丹治利右衛門
創業ソウギョウ 明治3.2.
    ショク90/45     職30/20   年産額 18000000個
職250ニン
輪環窯3
職30/20 年産額 18000000個
職250ニン
輪環窯 3
輪窯 三基
津守ツモリ煉瓦レンガ 西成郡津守村ニシナリグンツモリムラ     ショク20/15   ショク20/20   ショク18/18 職42/13 職48/16 職50/18 林煉瓦ハヤシレンガ製造所セイゾウショ
林尚五郎
職64 創業ソウギョウ M30.5.
    ショク45/18 職42/15 職41/23 職41/23   職216
輪環窯1 素地製造工場23箇所
職52/38 職工男女250 輪環窯2 素地製造工場23箇所
分工場 大阪府南河内町狭山村字半田
素地製造所 三十四ヶ所 職 300
 
                                               
大阪窯業オオサカヨウギョウ五十50ネンフミ
p.74
滋賀県統計全書. 明治44年度 滋賀県統計全書. 大正元年 日本工業要鑑 大正3・4年度用(第6版)  
  明治メイジ44 ダイ1 ダイ2  
大阪窯業オオサカヨウギョウ
近江工場オウミコウジョウ
栗太郡山田村 大阪窯業オオサカヨウギョウ
近江工場オウミコウジョウ
明治メイジ44ネン上半期ジョウハンキ
栗太郡クリタグン山田村ヤマダムラ大字オオアザ南山田ミナミヤマダ煉瓦工場レンガコウジョウ(黒川煉瓦製造所)を買収バイシュウ
カマ増築ゾウチク機械設備キカイセツビ乾燥室カンソウシツ増設ゾウセツ

創業ソウギョウ M43.12.
煉瓦
製品代価 52,500エン
就業日数シュウギョウニッスウ 330
従業員数ジュウギョウインスウ 61
石炭消費量 1,680,000斤
創業ソウギョウ M43.12.
煉瓦
68,293
332
67
機関1
2,340,000斤
使用74ニン
原動機
汽罐 1 25馬力 汽機運転ケルレル式蒸気乾燥室送熱用
汽機 直立単筒無凝縮式 1 馬力15 煉瓦素地製造機械運転補助用 15馬力 1
発電機 直流式 1 3kW 電灯用 芝浦製作所製
瓦斯機関 横置単筒西山式1 40馬力 煉瓦製造機械運転用 大阪西山鉄工所製
機械及び設備
土練機 1台 大阪足田鉄工所製
エレベター 1 堺市島秀鉄工所製
素地抜出機 附土砕器 1台 大阪西山鉄工所製
素地下降器 1 大阪西山鉄工所製
ケルレル式蒸気乾燥室 1個
ホフマン式輪環煉瓦焼窯 2基
 

[] 米国ボイド社製乾式プレス成形機

https://archive.org/details/clayslimestonesc00grim/page/168?q=Boyd+brick+machine

ここに書いとかんと検索にかからぬ。記憶から脱落する。


2019-08-24 うげろばんばえあ [長年日記] この日を編集

[独言][煉瓦] いま考えていることを整理

明治30~大正初期の六大工場の設備動向を追いかける。死ぬ。

桃山+泉北=和泉=大阪窯業岸和田工場であるはずなのだが泉北を入れるの忘れた。泉北は会社のみかも知らぬ。

M40工場通覧で堺煉瓦が動力を導入していたことに今更気づく。そうなのだ。大阪の工場ははじめそこまで拾っていなかったのだ。始めた当時の手抜きが今頃になって悪さをしよる。逆別天神。

結局、M40前後に成形機械を使っていたのは大阪窯業と岸和田煉瓦と堺煉瓦だけであった。堺煉瓦は数年で動力が減少しているのが意味深。はじめの数年だけ成形機械を動かして、それ以降はミルだけとかになった可能性がある。だとするとその数年の間に桜刻印を使っていて、また五本線に戻ったとか、あり得るかも知れない。ついでにいうと五本線刻印を桜と見誤った人を2人以上知っている。五本線→桜という連想はまったく空疎な空想にはあらざるなり。

化粧煉瓦は乾式で作った可能性がある。乾式のプレス成形。湿式も側面はきれいだがあれほどツルツルにはならぬ筈。絞り金で擦るから。んでT2に所有していたボイド社製乾式製造機が怪しい。してこのボイド社製乾式製造機、馬鹿の一つ覚えのArchive.orgで発見した。少し分かりづらいがYoutubeの乾式製造機の動画と合わせて読むと吉。

そうか。乾式だと素地の時点でカチカチなんだ。エッジが立っているはずなんだ。時計店の煉瓦みたいに面取りされることはない。

乾式かどうかはやはり割らねばならぬか。大阪窯業異形も、あれも乾式か。樽井のプレス成形のピタッと吸い付くような肌も結局は乾式であるからか。んじゃBCHJはなぜライナーがあった? 英国製半乾式だからじゃな。

せやねん洲本アルチザンスクエアには堺煉瓦がなかってん。堺煉瓦だけがなかってん。
ne・mu・i.

やっぱりあの一個は割るべきであった。断面で判断しなければならんかった。どっちだったか忘れたが、切断痕は小口にあった。長手で切ったのではないんだ。それが116mm半枡なら全形を切って目地分も外して枡2個できる。

大阪に品川白煉瓦の分工場ができるのは明治38年だったか39年だったか。タイル型の化粧煉瓦が出てくるのはそれ以降。

[煉瓦][独言] いま一番気になっていること

6年前、薬水橋梁で、自分はいったい何を見てしまったんだろう。

薬水橋梁に堺煉瓦の刻印煉瓦があったのは記録に残している。その前に何か怪しい刻印を見た気がしている。それが表面の機械成形煉瓦のほうに押されていた気がする。ようわからん、あるわけがない、って無視した気がする。

それが機械成形煉瓦に押された桜型刻印だった気が、今頃になってしているのである。そしてそれが事実なら、京文博の謎が解けるのである。

明治40年代に建造された構造物の堺煉瓦の刻印ェ…。薬水橋梁はT1だけどさ。

[] 京都煉瓦製造組合

●煉瓦製造組合 京都にては近来各工場の建築増加せるより煉瓦の需用多く随て其製造所も益々増加し目今に至りては二十余ケ所の多きに達したるが其間漸やく競争の弊を生じ争うて代価を下落せしむるの結果製品粗悪に流れ同業全体の不面目を来たすを以て今回此弊害を矯正する為め同業組合を組織し規約を設け府知事の認可を受くることにせんとて同業者等目下協議中なりと云う (大阪毎日 M30.4.8)

[] M30パンデミック

●煉瓦製造業の前途 近時鉄道建築修港其他諸工業の発達と共に煉瓦の需用非常に増加し一時は其供給著るしく欠乏を告げたる為め其価格頗る昂騰し従って昨年下半季以来は当業者の利益もなかなかに多かりしが其結果として従来の煉瓦製造会社は多く其業務を開張し且新設の諸会社至る処に勃興し現に当府下のみにても昨年来の新設に係るもの二十数社内外に達し尚昨今新設中のもの十幾社の多きに及べる由にて此他中国四国等にて各地に新設の製造会社を見るに至れりしかして右の諸会社は将に起らんとする鉄道工事を見込めるものも少なからずと雖も当府近傍のものは十中の七八迄は大阪築港を予想するものの由なるが兎に角将来に於ける煉瓦の供給は非常の巨額に達するなるべし若し果して以上の諸製造会社が予定の如く何れも実際製造に従事する暁に際せば或は供給の需用に超過すること甚だ著るしきに至るやも計り知るべからずして数年以前に於る煉瓦製造業の大恐慌を再襲することなきを必すべからずとて機敏なる当業者中には早くも製造額を手控え厳に粗製を戒めつつある向も少からずと聞くそれかあらぬか現に昨今の如きは前途供給の稍々潤沢を見込たれば客(かく)月上半の相場を以て之を本月上半に比較するときは一割半内外を下落し今後も尚一層の低落は免れざるならんとの噂あり但し耐火煉瓦に至りては少しく趣を異にする点もあり供給をして増加せざるに需用は次第に増加し中には上海地方へ輸出する向もありて前途頗る好況なりと云う (大阪毎日M30.6.12)

[][] 鑿岩機国産

●鑿岩機の製造 隧道等を鑿開するに最も便利なる鑿岩機は是迄本邦にて製作する所なく輸入を仰ぎ居りしも高価なる為之を使用する者稀なりしが当地株式会社朝日商社鉄道用機械製造所に於ては今回阪鶴鉄道会社よりの注文に依り試ろみに六台を製作せしに結果頗る良好にして阪鶴鉄道にては去る一日より之を生瀬隧道の開鑿に使用し居るが人力及び経費を省き甚だ便利なりと又山陽鉄道にても該機六台を同社に注文したりと而して価格は輸入品に比すれば凡そ半額位なりと云う (大阪朝日新聞M30.7.7.3面)

地味に貴重な情報。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807148/137

[] M30パンデミックの泡沫(摂津煉瓦)

●明治三十年三月八日登記済に付左に其事項を公告す 堺区裁判所長承寺出張所 ○社名 摂津煉火株式会社○営業所大阪府泉北郡浜寺村大字船尾七百四番七百五番地 (以下略)(大阪毎日M30.3.11 4面)

●摂津煉瓦株式会社(解散) は本年三月中よる営業を開始し居りしが今回任意解散することとなり昨日解散届を府庁に差出したり (大阪毎日M30.10.■日(金曜)

くっそ、紙面データの日のところが欠けとーる。

[] 煉瓦製造=投機事業

やっと思い出した…神大新聞記事文庫だ!

煉瓦は投機的事業

総ての工業界が一般経済界の消長とその軌を一にすべきは論を俟たざるも殊に煉瓦市価の昂低は最も迅速且甚だしきものにして例えば去る四十年の財界沸騰当時十六円の最高値を唱えしもの四十二年は僅かに九円に暴落し殆ど半額に近き市価を現出し亦昨年十四円台を往来せしもの昨今又々財界の銷沈に連れ十一円台に低落し居如く如何に其昂低の甚だしきを知べし随って同事業の経営は頗る至難を極め平凡真面目一方の経営にては到底成績を収むる能わず常に大勢を達観し悲境に狼狽せず慎重なる態度を要する一面に人意的市価昂上策とし反対に製造業者より内々買占を為し以て一般市価の昂騰を招致し景気回復を企画する必要もあり亦自己製造の煉瓦にて損失するも買占煉瓦にて反対に利潤を計上し得ることとなり要するに投機的性質を帯ぶる事業なれば一歩経営を誤らば財界の□潮季に悲境季の契約品を製造するという馬鹿を見常に損害を計上するの不幸に陥ることなしとせず現に煉瓦会社の大半が損失を免れざるに徴しその経営困難なるを想うべし (強調筆者 大阪新報T12.8.12)

あーすっきりしたぁ。


2019-08-25 [長年日記] この日を編集

[産業遺産][煉瓦] 田中家鋳物工場にて採取の謎の土器

また、変なものを採取してしまった。 画像の説明画像の説明画像の説明

刻印分布マップの空白を埋めるべく赴いた枚方市で、京街道の解説看板に「鋳物工場跡」とあるのを見つけ、近代の工場跡だろうかと思って行ってみれば、奈良時代から鋳物造りを営んでいたと伝わる田中家鋳物工場の跡であった。江戸時代には北河内で唯一官許を得て鋳物師をしていたとか。してその工場はすでに別所に移築され、駐車場と田中さん家があるだけだったのだが、その田中さんちの裏っかわ、大阪府指定の文化財・天然記念物にもなっているムクノキの根元にこれが転がっていたのだった。はじめは敷瓦かと思ったのだが、にしては丸っこい形をしている。幅高さともに25cmほど、厚さは6cmほどだろうか。質はまったく煉瓦そのもの。

片側にヘラ書きがあり、真ん中に大きく「田中」と刻まれている。その下にも続きがあったようだが欠けて読めず。右側の草書はたぶん「丗弐年」云々と書かれてある。

反対側には格子状の刻みがあり、その上に黒っぽいモルタルのようなものが塗られている。この塗りはツメでカリカリすると削れてしまう。はじめただのモルタルかと思って剥がすところだった。

「田中」とあるからには田中鋳物工場と関係するものと思われたのだが元用途がさっぱりわからなかった。それでわざわざ移転先(旧田中家鋳物民俗資料館)に行って学芸員さん?市職員さん?に尋ねてみたりもしたのだが、そのものずばりという答えは得られず。ただ時間を無駄遣いさせ迷惑をかけただけであった。なんともはや。

とはいうものの、この資料館で見せていただいたものものと、モノそのものから察するに、鋳物の鋳型として使われた何かであるようだった。資料館に展示されている犁の鋳型は、犁の形に土器を彫り凹め、それに真土(ここでは「まな」というそうだ。肌理の細かな粘土である)を塗って犁の形を作り、鋳込むものであった。その鋳型の表面が該土器に張り付いている黒い部分の色目と質感に似ている。鈍い尖頭形---おむすび形とでも呼んどくか---も犁型に似ていなくもない。んで田中家から寄贈された犁型の写真集?には土器の裏面に型の製造年や製造者?を記したと思われるヘラ書きがあるものがいくつか載っていた。明治十何年とか「大福神」だったかな?そのような商品名らしきもの?を刻んだものもあった。(はじめはこの文字の面を鋳型の型にして製品に文字を鋳込むものかと思っていた。ホウ砂にこれで型を取り、そのホウ砂の側に鋳込めばこの土器と同じ形状の鋳物ができる。しかし田中家鋳物工場の聞き取りでは真土で型を作るほかにはなかったようだ)。

私は専門家でないので適当を言うが、この土器は鋳型の土台「シン」であるように思われる。汎用性をもたせた土台。鋳込みたいものの形はこの土台の上に盛った真土の形で変える。この大きさからするとちょうどシャベルくらいの大きさの鋳物が作れそうである。ただ黒い部分にはモノの型がつけられていない(若干反っているだけの平面)なので、例えばシャベルの背側、犁の裏側のような平らな面を形成する側の型なのかも知れぬ。

話の流れ上、資料館に預けるのを諦めて持ち帰ってきてみたが、うーん、どうしたものか。はじめは11/9の赤れんがネットワーク総会で展示すりゃいいかと思ってみたけれども、想像通りであれば建築用煉瓦じゃなく産業遺産的土器であって、もしくは茶碗や花瓶と同じ扱いをせねばらなないものである。枚方市が要らなかったら他に必要とするところもあるまい。

[煉瓦刻印] 収穫

画像の説明なんだかんだで尻すぼみになりそうだった一日だったが本来目的を達成できなかったわけではない。播煉が大阪府の北東端まで進出していたことを確認。この調子だとたぶん京都まで行っているだろう。逆に滋賀から京都を経て入ってきた江州煉瓦も確認。淀川以南では初なんだが奈良でいくつか見つけているから大和路方面の流れ者として有り得そう。 画像の説明 画像の説明

浪花煉瓦を探すため再訪した稲田上町で、浪花煉瓦のかわりに桜刻印を検出した。しかも機械成形だ。妙に、タイムリーである。

京文博では側面を確認し忘れていた。この煉瓦の側面は確かに機械成形の肌をしている。そのうえ粉炭が付着して燃えた跡があり、焼けムラすらある。妙にアレ臭いのである。 画像の説明

久しぶりにMacを立ち上げるとファンの音が凄まじいことに驚かされる。まるで掃除機だ。んで薬水橋梁のPをほじくり返して眺めてみたが表の機械成形は大阪窯業の匂いがする。思い過ごしだな。


2019-08-26 [長年日記] この日を編集

[独言] 矮小な己を見せつけられた気分

過日近所のインドカレー屋での経験。その日のその時間帯は家族連れが多く、私が食べている間にも一箇の家族が会計を始めた。その中に混じっていた小学校低学年くらいの女の子が、ほぼ同い年と思われるきょうだいに「あ、ネパール」と言ったのが聞こえた。レジ横に張ってあった国旗を目にして、それで何気なくそう言ったのだろう。

皆さんご存知の通り、インドカレー屋とはいえ必ずしもインド国籍の人がやっているわけではない。ネパールやスリランカから来てインドカレー屋をやっているところは多い。行きつけのカレー屋もそんなカレー屋である(名前からして「タージマハル・エベレスト」という。じっくり考えてみると何だかナアという名前である)。

それ自体は何ということもない事態である。問題はその後だ。私の隣に座っていた別の家族の、ちょうど先ほどの女の子と同い年くらいの男の子が、聞こえよがしな独り言を言い出したのだった。曰く「ここはインドや。ここはインドや」。そうして大仰なため息をひとつついた。

何とも心地が悪かった。男の子は最前の「ネパールだ」という呟きを聞き、それを間違いと思い込んで、それを正すつもりで独りごちたのだろう。インドカレー屋=インドという短絡的思考に囚われていて、自分が間違っていることに気づかないでいるのだろう。そのうえに聞こえよがしな独り言でその誤りを(誤りではないのだけれど)正したつもりになっているわけである。

それが腹立たしく感じられたわけではない。自分も同じようなことを子供の頃にしていたような気が、記憶の底のわやくちゃになった辺りから急に呼び起こされた気がして、それで心地悪くなったのだ。自分が今もし同じくらいの子供だったら同じことをしたかも知れぬ。そうしてみたい気分が確かにする。それに気付かされたので、ひどく居心地悪くなったのだ。

過去にした具体的な言動を思い出せなかったのは幸いであったかも知れないが、そのかわりに、今も似たようなことをしてるよなぁ、と思い至った。ネット上で見かけた誤った情報に対し、直接その誤謬を正すようなことをせず、まるで独り言のように(自分の正しいと信じている)正しいことを書き散らしているではないか。正しいと思うことを本当に正しいかどうか判断してもらえるような場に提示したりはしていない。ただ自分の考えを垂れ流しているだけである。そうして勝手に「ここはひどいインターネットですね」と嘆息している。まるで同じではないか。

ORJという形で世に問うてはいるけれども、その「世に問う」機能が全く形骸化していることは言わずもがなで、5点満点だったからOKなどとは微塵も考えていない。要するにここで書いていることの延長線上にあるとしか思えない。客観的に見てみてもね。書き手が減ったことよりアンケートの返事がほぼゼロになったことよりもその点改善できてないことに最も心を痛めているけれども、それを書いてみたところでどうなるわけでもなし、むしろかえって件の男児の呟きに近しいものになってしまうのだった。

おっと、そういうことを書くために独言し始めたのではなかった。「人は何故そのようなことをしてしまうのか」を考えようと思って書き始めたのだ。他人の間違いを無視していられないのはなぜだろう。誤りを指摘してしまいたくのは何故だろう。そんなことを考えさせられたのだ、件の発言に。

思うに、男児のようなケースの場合、誤りを正すことが主目的ではない。自分の知識が正しいのだと主張すること、すなわち自己を優位に保ちたい、他者より勝っている自己でありたいという欲求を満たすために事に及んだのだろう。そしてそれは件の男児がそういう男児だったからではなく、人間誰しも持ち合わせている根本的な心理の一つであって、その欲求を満たすもっとも簡便かつ確実なやり方として他者の誤り訂正、悪く言えば「あげつらう」ことが採用されがちなのではないか。

件の男児に心地悪さを感じたのは、それが直接対決でなく「自分だけは『自分が優っている』と思い込んでいる(うえに間違っている)」辺りに起因する。堂々議論の対峙ではなく負け犬の遠吠え的捨て台詞的言動であるところに嫌悪感を感じるのだ。わざとそんな言い回しをして「『嫌悪感を感じる』ではなく『嫌悪感を覚えるだろ』という突っ込みを待つ気にもなるのだ。

実際他人のアラはよく見えるが自分自身の間違いには気づきにくい。例えばの話、自分だけで誤字脱字を完全に無くすことはできない。どんなに見なおしたつもりでもつまらぬ間違いが残っていて、それでいつもTUKAさんのお世話になっている。以前はそれが自分の能力不足に因るものとして恥ずかしく思い自己嫌悪する種発点にもなっていたのだが、それも人間真理のひとつだろうと思うようにしてからは無駄な気苦労をしなくなった。TUKAさんだってあげつらうために指摘されているのではない。間違っていることに気づいた者の責任として間違いを指摘されているだけで、優位劣位はなおさら関係がない。

人の知らないことを自慢気に語ってしまいがちな心理の裏側にも似たような人間真理があるようである。誰も知らないことを知っている、ということを他者に優越する目的で他者に語れば「自慢話」になる。得てしてそういう自慢話は鼻につく。件の男児のように。だからといって「自慢話」にならぬように人に伝えることは難しい。なぜなら、他者より勝りたいという欲求は人間であること以前の、生き物の本能として欲求されているものだから。

そいつを完全に捨て去ることができたら、どんなに楽になるだろうか、と思ってみたりもする。自己を優位に位置づけようという欲求から離れて自己他己の意見をぶつけあうことはできないだろうか。近代初頭の科学の論文は(べつに悉皆読みこなしたわけでもないのだけれど)それに近かったんじゃじゃいかと思う。こんな現象見つけたんだけど何だろうね。こう説明したらうまく行きそう。いやいやこう考えたほうがもっとスマートじゃね? そんな議論を自己の利のためではなく「科学の発展」「世の中の発展」のためにやっていたように読める。そういう場になればいいなと思っていた。

まあ、たわいもない一児童の言動にさざ波を立てられるようなチキンハートじゃ、叶わないことだろうな。最終的な着地点はそれだった。そして帰って原稿の続きを書き「売間九兵衛の夢の跡」後編を仕上げたのだった。

自分が食べ終わったとき、件の男児の家族はまだ食事中だった。会計の時にどれだけネパールの当世事情でも聞いてやろうかと思ったか知れないことを正直に白状しておく。それは男児へのあてつけでもあるし、矮小な自分への戒めでもあるつもりだった。けれどもこうして書いてみれば、やっぱり男児個人へのあてつけでしかないようだ。そういうのだから世の中に無益な争いが絶えぬのだ。

人の知らないことを知っているという状況は、優越的であるのは確かだがしかし、淋しい状況でもある。人に話したところで(自身がそれを知った瞬間の心持ちが正確に・厳密に伝わることはないという意味で)共感を得られないだろうから。知り得たことへの感動をそのままに人に伝えることはできないだろうから。理解はされるかも知れないが「そのときの感動」と全く同じものを人と分かち合うことはできない。分かち合えば1以下になるのは自明の理で、だからといって水増しし誇張して語ってみたところでそれは虚しいだけである。一人でドアを閉めて心罠に顔挟んでなさいってこった。

[][煉瓦] だから言わんこっちゃない(M30)

●煉瓦製造業の警戒 煉瓦の趨勢は近来漸次に一変し一時一銭五厘内外なりし同品は昨今殆どその半価に低落すれども製品兎角に停滞し前途漸次不況に赴かんとするの傾向あるものの如しけだし今春来阪神地方を始め中国四国等の随所に続々勃興したる同品の製造会社は数十の多きに及びて其差額頓に増加したれども其需要は近時却て減少するの傾向あるよしさては昨今の不況を見るに至りしならんされば営業者中には此程よりその製産額を減少して前途の警戒を怠らざるもの甚だ多しと云う近時セメントの趨勢漸く一変せんとするに際し煉瓦製造業の景況既に斯の如し当業者が此際に処するの用意頗る周到を要するものあらんと語るものあり (大阪毎日新聞M30.11.14.3面)

2019-08-27 [長年日記] この日を編集

[][煉瓦工場] M30パンデミックの泡沫(日の出煉瓦編)

●明治三十年十一月一日商事会社登記済に付其事項を左に公告す 大阪区裁判所
○社名 日の出煉瓦株式会社 ○営業所 大阪市南区難波大字難波字小田千百十番 ○会社の種類 株式会社本店 ○目的 煉瓦の製造及販売 ○設立免許 明治三十年七月八日 ○開業 明治三十年十一月一日 ○存立時期 設立免許の日より向う拾ヶ年 (略)○社員の氏名住所(略)大阪市東区平野町一丁目佐藤洋二(略)(大阪毎日M30.11.7.)

購買広告
一 大阪市南区難波字小田千百十番地
一製煉瓦 三拾万個以上 一半製品 一石炭 一原土 一建物 三棟 一船 一艘 一什器雑品
右売却候間望ノ方は実地並に入札心得書、契約書類等熟覧の上来る三月二日正午十二時限入札保證金相添え入札相成度同日午後三時開札す
大阪市東区平野町一丁目百三番地
元日の出煉瓦株式会社精算事務所(大阪毎日M31.2.14

いうまでもないことだが強調筆者。摂津煉瓦は製造までしてなかっただけマシだったのかも知れない。この30万個はいったいどこへ行きどう消費されたんだろう。刻印は押されていたんだろうか。考えただけで眠くなる。

そうして難波小田町1110にはT1に製々社が入るんだぜ(当初は1109に藤本耐火煉瓦及坩堝製造所。T2に1110番地の工場が加わる)。清々するぜ。

[独言] M30読了

耐えて耐えてM30を読み終わる。全面マジ読みしたので心残りはない。多少見逃しはあるかも知れないがそれは多分縁がなかったんだろう。

M31は3面経済欄と4~8面の広告だけに絞って2月迄。株主総会の頃には時々10面になるので気を抜けない。結構斜め読みだったはずなのに日の出煉瓦の購買広告を見つけたのは我ながらゴッドハンドだと思う。この広告の中に「煉瓦」の文字はたった2箇所、しかも五号活字でなんだぜ。

↑は、さきに大阪丸三耐火が解散しての購買広告があったから気づいたのだった。M31初頭に解散。大阪丸三はただちに○三耐火になって、筧耐火・○三筧の筧フデになる。うんこれこそピアジェ。

[独言][煉瓦] 耐火煉瓦のサイズ

思いがけぬ問い合わせがあり朧げな記憶で返答したので改めてべんきょうし直してみる。

耐火煉瓦も煉瓦と同様定形寸法が存在しなかった。明治20年代くらいまでは外国から輸入するばかりで国内生産はずいぶん遅れてる(作れてもまともな耐火度のではなかった)。その間どんなサイズが使われてたかとかんがえると、やっぱり最大輸入元のイギリス流の寸法だったろうと思う。

大正末のJES制定で耐火煉瓦並型の寸法が215×115×65mmと決められた。なんでこのサイズになったかはよくわからないが(JES制定前の議論をまとめた本があった気がするんだが、あるいは大日本窯業協会雑誌の赤煉瓦のソレと勘違いしているかも知れぬ。このサイズだと平敷できぬ。小端積みで15mmの目地?深山砲台の窯の内面を思い出しつつ)、ともかくこれが不評で、戦時中の昭和15年6月18日に臨時JESとして新サイズが決められている。230×114×65mm。目地厚2mmで平敷するのを主眼に置いてるはず。してこのサイズが戦後のJISでも採用されて現在に至る。

竹内清和『耐火煉瓦の歴史』を読んでいるとJES制定以前の話が出ていた。p.98。

並型の寸法は一様でなく海軍では英国型、瓦斯会社方面では3吋英国型で、通常は東京形が多く、珪石煉瓦は大抵英国型である。
 主な並型の寸法は
東京型7.5×3.6×2(寸)〔227×109×60(mm)=東京型赤煉瓦と同サイズ〕
英国型9×4.5×2.5(吋)〔228.6×114.3×64.5(mm)〕
3吋英国型9×4.5×3(吋)〔228.6×114.3×76.2(mm)〕
純独逸型240×120×70(粍)
独逸式東京型230×110×60(粍)〔東京型赤煉瓦とほぼ同サイズ〕

(出典:高良義郎「耐火物の工業規格についての覚書」(『耐火材料』No.53 昭和25年4月)

これが大正13年3月27日にJES第10号「耐火煉瓦」で215×115×65mm。戦時の臨時JESは臨時JIS第99号(『耐火物年鑑』第4巻(昭和18年))で230×114×65mm。

赤煉瓦で東京型や並型などに分類しづらい中途半端なサイズのはこの耐火煉瓦サイズに準じたサイズであったかも知れぬ。そもそもその耐火煉瓦サイズは諸外国の赤煉瓦サイズに影響されているはずで、その寸法が後述大熊喜邦の報文にあるのだが、けっこうな分量があるのでめんどくさくて書けない。

[独言][煉瓦] 赤煉瓦のサイズ

ついでに赤煉瓦も。JES制定のための予備調査の報告が大日本窯業協会雑誌No.358(T11.6.)にある。大熊喜邦の報文。もとは建築雑誌T10.7.号に掲載されたもの。この中で赤煉瓦210×100×60というサイズが決まった流れが書かれている。曰く

(ハ)在来煉瓦寸法の更新 煉瓦の寸法は在来に於て略一定され居る様であるが※1、今日に於て其品等と共に寸法を規定する規格を極めて置かなければ将来乱雑になる恐れがある。而して現在の寸法を改めるに関して何を目標して考えなければならぬかといえば(一)現在の寸法より大きくすることは焼成不充分の点。取扱上の不便の点から不利益であることは一般の認むる所である。(二)現在の煉瓦の幅三寸六分は、本邦の煉瓦職工殊に手伝女人夫が取扱う上から見て少しく広過ぎ今少しく縮小する事を必要とする。現在に於ては前に掲げた表(njis注:某工場で作られた製品の実測寸法の表)から見ても正三寸六分のものは少く大抵縮小されて居る為めに大なる不便を感じて居らぬが三寸六分より小さくなる事は取扱上慥かに利益である。(三)現存の煉瓦の厚二寸は焼成の点から見て適当である。これを薄くするときは曲りを生じ、これを厚くするときは焼度不充分となり又は割れを生ずることは試製の結果からでも明瞭である。(四)煉瓦の寸法を定むるに、「メートル」法の実施を目前に見て、在来の日本尺を用いるのは徒らに複雑となる計であるから、「メートル」法に依り寸法に端数を付けない様にすることが将来の利益で且便利である。

※T1.10.小林作平「普通煉瓦業に就て」には、大正10年度の調査の結果として「現今では殆ど東京型と称しまして(略)其の他の形のものも少しは有る様でありますが極めて少ない様であります」と述べてる。その前年くらいに煉瓦生産数はピークを迎え、下降していくころの話。

それで幅を狭くする&端数を出さないという点から幅10cmが決まり、そこから目地厚さ1cmとして長21cmが決まり、厚2寸の端数を捨てて6cmとなる。2寸でないと曲がるというのは東京の土を念頭に置いてると思う。関西の土では1.8寸でもちゃんと焼けている。

この中で「手伝女人夫」の手の大きさを基準にしているのは注目すべき。煉瓦製造業に女性の参与子供の参与が多かったのは事実で、『北海道庁統計書. 第28囘 第2巻』(T5)など年齢ごとに職工数を計数している資料を見るよろし。男女数だけなら『工場通覧』でもわかる。しかし不思議なことに耐火煉瓦工場では女性の参与が少なかった。少なくとも大阪では。『煉瓦女工』は耐火煉瓦工場で働く女性の話なんだけどなー。

んで、この報文には旧来サイズの表、諸外国のサイズの表が掲げられているが、大高庄右衛門「煉瓦の形状に就て」(『大日本窯業協会雑誌』No.159、明治38年(1905))の寸法と若干違ったりする。上段は喜邦リスト、下段は大高リストの数値。

名称長(寸)〔cm〕幅(寸)〔cm〕厚(寸)〔cm〕
旧山陽形7.5〔22.7〕3.6〔10.9〕2.2〔6.7〕
(山陽形)7.5〔22.7〕3.55〔10.7〕2.3〔6.97〕
山陽並型7.3〔22.1〕3.5〔10.6〕1.7〔5.15〕
(山陽新形)7.2〔21.8〕3.45〔10.45〕1.7〔5.15〕
鉄道並形7.5〔22.7〕3.6〔10.9〕1.8〔5.43〕
(作業局形)7.5〔22.7〕3.6〔10.9〕1.85〔5.6〕
在来型7.5〔22.7〕3.6〔10.9〕2.0〔6.05〕
(東京形)7.5〔22.7〕3.6〔10.9〕2.0〔6.06〕

スペースの都合で厘を略したのかも知れないけれど、1分違ったりするとやっぱり違って見えるなあ。とはいえ実製品では長さで4分、幅で2分5厘、厚さで1分5厘強以内の寸法の相違はあった(喜邦報文)し、規格の観念が希薄だったから上記数字がどんだけ効力を持つものなのかは定かならず。

少なくともこの頃には「並型」が省略されてしまうほどに衰退してた。大高もM39に東京型に統一しようと呼びかけてたのだし。


2019-08-28 [長年日記] この日を編集

[独言] スパム

珍しく問い合わせメールが相次いだ頃に「お聞きしたいことがあるのですが」というsubjectでスパムメールを送ってきた奴に糞便排泄機関とのレッテルを貼り付けてやりたい。

[] 横山源之助『日本の下層社会』(いわなみぶんこ)

読んでいる新聞の発行時期とほぼ一致するということに気づき、図書館への行き帰りとか吉牛のカウンターとかで読んで了。どんな内容なのかは国基テストの頃に便覧でべんきょーしてたはずだが思っていたような内容ではなかった。もっと役に立つ、身の糧になる内容である。

煉瓦製造はもちろん出てこないが略同じような労働形態だったろうと思われる。ただし明治時代はまだ赤煉瓦が華であり得た時代でそれほど賃金は悪くなかったはず。煉瓦製造ではなく煉瓦積み職人のほうは確かに中の上くらいの賃金を貰っていて、何よりも寡占な仕事だった。製糸工場とか織物工場は工場も多く労働者も多くでひたすら低廉賃金悪条件でこき使われた。煉瓦製造もそれに近いほうだろうと想像する。これを想像ではなく数値で裏付けられたらと思う。賃金まで載っていた統計はどこの県だったか…。

播煉の話を伺ったあの方は「楽しいことなど何一つなかった」と仰っていた。戦後すぐの頃はかえってそうかも知れぬ。『れんがと女』に書かれた野幌の場合も決して楽な仕事ではなかったように読める。少なくともいまの自分は100倍恵まれていると思わなければならない。そしてその恵みは『日本之下層社会』のような発表があったればこそ、社会を変えていこうと努力した人々がいてくれたからこそなんだと思う。一つ一つの成果は微々たるものであったとしてもその積み重ねのお陰で今があると思わなければならない。

そんな苦労をしてまで人は生きなければならなかった。なんでだろうな。それを疑問に思っちゃだめなんかも知らんが。生きているから働いて飯食わないといけないのだ。何も食わずに生きていけるんだったら誰も働かない。働かずに食っていけるんなら社会は発展しない。スマホで旧版地図と現状を照合しながら歩いたり枚方まで片道1時間で行けたり山中の標高差10mを計測したり毎索で100数十年前の新聞をぺろぺろ読めたりはしない。そうやって生きるための労働以外のやりたいことができるだけでも有り難いと思わねばならない。そんなことができずに一生涯を終えた人々に報いるためにもいろいろ知らないといけないなあ。

横山源之助は上梓後に農商務省嘱託となって工場調査をやっている。その成果が『職工事情』。んでそれが工場法に結実することになるのだけど、最初の法案は帝国議会で成立しなかった(M35の『工場通覧』はたしかそれに関連して作られたんじゃなかったっけか。で工場法が成立するM44頃まで通覧は農商務省発行で作り続けられて。そういう意味では知らぬ間に横山源之助のお世話になっている。ただし工場法が出来た途端にやめちまうもんだから大正初期が空白地帯になっておって困っておる)。

[煉瓦] 煉瓦サイズのばらつき

一昨日の続き。喜邦報文の興味深いデータ。素地を焼いて製品になった時どんだけ縮むかの表。素地の寸法÷製品の寸法。〔〕内はその逆数、則ち縮小率のイメージ(nagajisけいさん)。

品等\寸法
素地1.001.001.00
縮焼過1.10〔0.91〕1.13〔0.88〕1.10〔0.91〕
撰焼過1.08〔0.93〕1.10〔0.91〕1.08〔0.93〕
焼過一等1.07〔0.93〕1.09〔0.92〕1.07〔0.93〕
焼過二等1.09〔0.92〕1.07〔0.93〕1.05〔0.95〕
焼過三等1.04〔0.96〕1.06〔0.94〕1.05〔0.95〕
並焼一等1.04〔0.96〕1.05〔0.95〕1.05〔0.95〕
並焼二等1.04〔0.96〕1.05〔0.95〕1.05〔0.95〕

焼けば焼くほど縮小して、素地の9割くらいになってしまうことがわかる。んで何故か幅がよく縮む傾向あり。そんなに大きくは変わらないみたいだが一応異方性は確かにあったのだと考えたほうがいいようだ。いや、違うな、幅が縮まるのは釜で焼く時にその方向に積み上げるからじゃねえのか。焼き締り+積み上げた煉瓦の重さで縮みやすくなるはず。一種のクリープ。

んで縮み方にも差異があって、一昨日書いたみたいに「長さで4分、幅で2分5厘、厚さで1分5厘強以内」の差が出てくる。実寸に直すと 1.21cm・0.75cm・0.45cm 。うーん、長手が12mmも変わられると同じ規格の煉瓦とは思えんくなるな。

このデータの出処(どこの工場のか)は書かれてないけれども、関東の工場は10種類のところあり、関西では多くても6種類という話もあるので(T11.10.小林作平報文)縮焼過があるこれは関東のやつっぽい。

こうい実例を見るにつけ、煉瓦サイズを測ることの無意味さを思い知られる。加えて観察者の測定癖誤差もある。かといって寸法測定をしないでもいられないのがヤラシイところだ。刻印がなかったりとか構造物を構成してて弄べないような場合に、寸法を測る以外の客観的データ収集法がないからのう。

欠けたところから内部を観察して胎土の状態を記録するとか(そしてそれを誰がやっても同じように記録できるような手順手筈を構築しとく必要がある)、煉瓦の色をカラーチャード重ねて記録するとか(これはそういうカラーチャート作って●番色とかするとか、色分析器でRGB数値に変換するとかすれば何とか)しかないんちゃうん。してそれが何かを特定する手がかりになるわけでもない。現状では。

焼いた時の不均等な収縮を見越して大きめの型枠で素地作る→焼く→不均等な収縮を起こしてバラつく→所望の大きさに近いものをできるだけ選んで使う、の結果を私たちは見ていることになるわけで、そこには収縮のバラツキだけでなく選別のバラツキも関わってくるわけで、バラ^2なわけだ。整って見えるようにみえても実際はバラ^2なので、そこから逆算して元の形を推測するような方法は上手く行かない気がする。T先生の体積法はよい着眼と拝察するが縮み方自体がバラつくわけなので残念ながら万全ではない。それよりも重量のほうが効果があるのではないか、とたった今思いついたが、それもやっぱり素材の土が違えば密度も違ってくるだろうしなぁ。同じ工場の製品で同じ土を使い同じように焼かれたほとんど同じ形の煉瓦であれば重さは一致するはずだが、そうなるとわかることの範囲がものすごく限られてしまう。いや逆だ、同じ体積で重量が違えば別社の製品ということになるか。しかし欠けてない状態の良い転石を得るのは大変なんだよ。

大阪の中でも堺の粘土と岸和田の粘土は違う。これはT2の倉橋報文参照。岸和田と貝塚は共通点が見られる。大阪窯業の一部も。それは岸和田工場or堺工場製ということか。ならば堺工場製大阪窯業の煉瓦ってどんなだ。


2019-08-29 [長年日記] この日を編集

[煉瓦展] 選定・解説了

了にせんといつまで経っても終わらんだろ。119。折コン×4。

あとは壁面掲示をちまちまと作っていくだけ。机の配置を変えてスキャナが遠くなってしまったので常使いすることができない。固定配置を考えないといけないようだ。

画像の説明画像の説明画像の説明

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