nagajisの日不定記。
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横山隧道開通100年記念行事のために村田氏経歴調査をやっていた頃のことを振り返っている。我ながらよく頑張ったものだと思う一方、あれが限界だったのだろうかと思ってみたり、おれがやるべきではなかったなと思ったりもする。もっと貪欲に、自分のこととか度外視して、金を注ぎ込んでできる人がやるべきだったのではあるまいか。知り得たことを直接的に活かせる人がやるべきではなかったか。中途半端に調べて中置半端に切り上げてしまったのではないか。振り返れば後悔ばかりだ。
あれから自分はどれだけ成長しただろう。全然していないんじゃないか、と切り捨ててしまえば切り捨てられようが、その後奈良県きにちょをやったし、豊岡に通ったし、福知山線でレールを学んだし、何より煉瓦が現在進行中で。やっていることは確かに変わっていないが全然蓄積がないわけでもない。時にはセルフコンパッションがないとニンゲンやってられんぜ。
山田博愛らが滋賀県に移ってきて、博愛が去った後に元埼玉県土木課長だった原清明が短い期間滋賀県土木課長を務めていることに気づいた。その時に村田鶴も滋賀県に着任した。なぜにここまで移る必要があったのだろう。それ以前の滋賀県では土木費補助の工費算定基準が二十数年前に作ったものを使い続けていたりとか、かなり遅れた状態だったらしい。そのため県費補助を申請した工事のほうがいつまでも認可を受けられず、町村で全額出して工事する道路のほうがどしどし改修が進むというような状態であったらしい。そういうところを抜本的に改善しようとしたのか。それとも河川改修の経験が買われてのことか。村田以外は土木技手兼道路技手、村田は道路技手に土木技手を兼任する形だったのが意味深。
あと中澤徳次郎が短期間内務省の土木試験所に勤務していたらしいことを発見。本邦道路隧道集覧に湖北や大崎のデータを持っていったのが彼だったりしたら面白いのに。でも彼は昭和12年だったか13年だったかに逝去により土木学会員でなくなっている。早くに亡くなってしまったようである。海野照治は広島から来て広島市に帰り市の土木課長を務めた。回顧談が国立国会図書館限定資料にある。動きかたは村田鶴によく似ている。
あと、千葉市土木課長時代に千葉霊園の工事計画を報告した投稿を発見した。読むと隅々まで意を尽くした設計であったことがわかり、彼のポリシーというか公共物に対する態度というかが伺い知れる。彼がいう市の重役の葬られるエリアに彼の墓があったはずで、自作自演?とつい思ってしまったが、そうだった、市から区画を贈呈されそうになったのを断って自腹で購入したのだ。文句をいわれる筋合いはこれっぽっちもない。