nagajisの日不定記。
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さっそく書いているのだがさっそく煮詰まっている。ふだん文字数無視で書きたいだけ書いているせいでリミットつき原稿がうまく書けない。文字数を節約しようとすると端的ならざるを得ず、その理に从うと説明不足が怖くなってきてあれこれ詰め込みたくなって、結果グッツグツに煮込まれた糞文章になる。この状態に陥ってしまうと改善も復旧も見込めなくなる。同じ部分を果てしなく修正し続ける悪循環。糞が不可逆でどう頑張っても食物に戻らないのと同じことである。
理由薄弱。書くほどに「だろう」「と思われる」「の可能性がある」の羅列が気になって、しかしそれを断定形に変換できるほどの根拠もない。ない根拠をあると言い切れるほどの勇気もなし。うむ。それではいけない。
草津線が完成するまで運び出せないと考えていたけれども、峠越えで牛連ねて運んでいた実例もあるわけだし、少し進めば天下の東海道もある。決して無理ではなかったろう。塀に刻印が見られなかったのも見えた平が全てではないうえに暗渠では刻印を確認できなかったからな。
泡のような表面の剥離。ちがう。スパッタリングのような剥離。同じものを見た記憶がないが樽型に歪んだのは似たのがある。あと中京から回送したのであれば角が欠けているはずだがそれほどではないものが多い。海三場川再確認。
六反田の複線部の普通厚煉瓦はよく似てるんだ、小口面に罅が入っているところとか。西光寺の壁自体も隔年の製品が混じっているのか。
あんぎゃー。
何を書くにしても根本に近いところからぜんぶ書こうとするから苦労するのである。必要なことを見極めることが必要。
わが国の煉瓦製造史は水野信太郎『日本煉瓦史の研究』などによって鮮明な輪郭が与えられたけれども、判然としているのは創始の頃と大企業だけで、埋め切れていないvacancyは多くある。関東と関西で煉瓦製造の技法が異なるのはなぜか。地方や業種で異なる寸法規格がデファクトとなり、それが煉瓦製造業の発展を妨げたこと。煉瓦の輸送。販売形態。考究しなければならないことは山積み。
煉瓦製造の歴史を正しく理解するためには単に煉瓦生産史のみを追求していてはわからない。最初期には鉄道建設に資したので鉄道発展の歴史と並歩したところがある。需要先の検討は当時の社会経済状態に直結する(好況期の工場建設ブーム、不況期の建設中止、銀座煉瓦街のような政府方針の右顧左眄?もいれていいかもな)。輸送を考えれば鉄道や道路といった交通網の発展経過と深い関連をもつし、さらに以前は海路輸送が鍵を握っていて、金ヶ崎丸が運行したり東洋組が猿島に煉瓦を送ったり旭商社が宮崎に納入したりしている。鉄道開業のはるか以前に。地方ごとの刻印の特色は地域文化的なものと関わる。Bを“ビー”と書くか“ビ”と書くかみたいな。そうそう畑の採土と耕地整理を兼ねるようなことも多くて煉瓦製造業と地の農業との連関もあった。農閑期の働き先でもあったしな。煉瓦につく傷は人間の作業効率だとか可動範囲だとか怠惰性だとかと関係しているはずで(作業効率と省力化の科学的な研究は煉瓦積職の分析から始まった)、あるいは美意識を写した鏡でもある。単に建設素材の製造史ではなく、社会環境の変遷のなかに煉瓦生産史を置き、他との連関を読み解いていくような視点が必要。ひとつのアメーバとして顕微鏡で覗くのではなくシャーレ上で捕食被捕食コロニーを見渡すような見方が必要なのではあるまいか。それはおそらく煉瓦製造業に限ったことではないだろうが。
そんなこんなで煉瓦製造業の歴史を(刻印同定を中心に)調べてきた。そこそこの量たまったので浅学菲才を顧みず←これは書かないがそう思っているのは確かなのでここに書き残しておく 提出するものである。ここになぜ滋賀県かっちゅうことをうまく入れ込む事。大津京都間鉄道、敦賀線、東海道線と比較的初期の鉄道建設が実施され、その煉瓦構造物がよく形を保って残されている利点。国内最大の幹線道である東海道も通過し人と文化の行き来も繁かったこと。最大産地の大阪から離れていて製品を運ぶことに困難があったという立地の特殊性。それを鉄道が打ち破ったのか否か。かつて県下に存在した著名な煉瓦工場を列挙し、その製品の特徴や使用先、用いられた刻印について概観。また他府県からの煉瓦流入とそれを判別するための刻印と。
うん、こんな。でも長すぎかな。「滋賀県下の煉瓦製造」史ならそんなに長くなくていい。滋賀県下の「煉瓦製造史」を述べたいのであれば多少長くならざるを得ぬ。
今月の初め頃だったと思う。通勤途中に渡る川でカルガモの親子を目撃した。ヒナは5匹。おそらく生まれたばかりで鶏の卵くらいの大きさであった。こういう小さな生き物は無条件に愛おしい。親ガモに引っ付いて泳ぎ回るさまを眺め、雛だけで及び回るさまを眺め、その中の一匹が草陰でごそごそしているうちに残りが他所へ行ってしまい首をあげた時には仲間が見えなくなっていて慌てて探し回っているどんくさい一匹を応援したりしてその場を去った。
その翌日だったかに土砂降りの雨になった。市街地を流れている川なので両岸をコンクリート壁で挟まれた流水路のようなやつだ。降った雨が集まってたちまち濁流になるような川なので、カルガモ親子が水草を啄んでいた辺りなどはあっさり水に浸かってしまったようだ(後日その草洲の上の方に泥が引っかかっていた)。
そんな雨が降ったものだからカルガモも流されてしまったらしく、その後1周間ばかりは姿を見なかった。あんな小さなヒナだし、身を隠すような岸もないわけだし。可哀想なことだと思っていた。
けれどもさすがは自然の生き物である。一週間ほど経ってから再び親子を見かけた。いったいどこに隠れていたのだろうと感心する。いや隠れる暇もなく川下まで流されてしまったのかも知れない。それが一週間かけて遡ってきたのかも知れない。
その後も雨が降るたびに姿を見なくなり、また戻ってきて、というのを何度も返したように記憶する。見るたびに雛の数が減っているが(いまは3匹だ)確実に大きくなっているのも感心する。人が手を貸さなくとも自然の生き物は生き延びるものだ。たぶん数千年数万年、いやもっと果てしなく長い年月をそうやって過ごしてきたのであって、ポッと出のニンゲンどもがしてあげられることなどないのだと思う。
むしろ人間のほうが弱く儚い存在かも知れない。やれ猛暑だ、やれ線状降水帯だと騒いではしてもいない契約の不履行を自然に詰る。不意に大地震が起こることを何度も何度も見聞きしているはずなのにいざ自分がその災害に遭うと「こんなことが起こるなんて……」と呆然とする。自然との付き合い方だけでない。不測の事態が起こった時にかのカルガモぐらいの逞しさで切り抜けられる人間が(自分も含め)どれくらいいるだろう。生きる、にそれ以上の何かを求めて余計な無駄な苦労をしているニンゲンばかりではないか(自分も含め、と言いたいところだがnagajisをニンゲンに含めてよいかどうかは議論の余地がある)。ニンゲン同士で罵り合い貶し合い殺し合う愚。カルガモは多分生き残るために他雛を蹴落したりはしない。
大阪駅で新快速を待っている間に外人さんに話しかけられた。有線イヤホンでBUT NOT FOR MEを聞いていたので第一声が聞こえず。慌てて外して耳を傾けると“KIOTO?”と聞こえた。ふむこの電車は京都に止まるかということか。確かに止まる。これに乗ればよい。という返答に“OK”とサインまでつけてしまったのは大変いただけなかった。あのマークは国によっては卑猥な意味になると聞いたことがある。そもそも“OK”じゃ意味をなさないのではないか。シンプルに“Yes, you should transit on the next train"とか"Yes, the next train arrives at KIOTO"とか言えばよかった。ということを一日中後悔していた小心者のnagajisである。
公文書には地所代価の受取証もあって、そこにちゃんと番地が書かれているのを思い出した。その地番で突き合わせれば工場の場所わかるじゃん。そう思って大津市立図書館本館へ行きブルーマップで確認すれば、やはり大体推定の場所で合っているようだった。ただしちょっと南寄り、雄琴4丁目の北端から幸福の科学を経て自動車輸入会社の辺りまで、&その道路の向かい側雄琴三丁目はラーメン屋付近を含め南のへんまで。ただし全部の地番が今も残っているわけではないようだ。そうしてその周辺で煉瓦は見られず。ひとつだけあったが民家の詰め物に使われていたので触れるのは止しておいた。胎土も明らかに違ったしな。
あとで裏から回ってみようと思ったが、あてにしていた水田でちょうど田植えをしていたので諦めた。不運。どのみちそのへんは民家の裏庭になるし入れはせんかったと思う。
その後大津の旧線を辿って、最後に蟹川暗渠の煉瓦を測りに行った。敦賀線以前の煉瓦の寸法を知りたかったので。たぶん2-1/4と思うがアーチの上のほうには薄いやつとか短いやつとかが混じっていたのはたぶん東川暗渠と同じような状況と思う。蟹川暗渠は下り線方がオリジナル。書き間違えとったな。
京阪線になっている旧線の暗渠の場所にはちゃんと暗渠位置を示す標識があって面白かった。しかし暗渠自体はその欠片すら見えず、潜っていた溝川も見られなくなっている。埋殺しになっているか、大津市の下水路として使われているかである。
京阪線の琵琶湖方は石積み路肩が続く。天辺の石だけ起こしてそれ以下は45度以下の緩い勾配で積んであるらしい。そうなんよね、開業当初はこれより北には陸地がなかった。
こないだ出てきた高輪の築堤もこんなんだったんじゃないかと思ったが、あっちは天辺が残っていないのだな。
京都大阪間鉄道の煉瓦は2・4・8型枠で作られている。その上で厚さ2-1/4インチになるように焼き上げているのだ。
こないだやっとまとめたと思ったのに、その時には思い至らなかった。M24規格の考察で9x4-1/2x2-1/4inch以下だと書いたのと最後の方に2・4・8型枠のことを書き足しているにも関わらず2つが接しなかったところにnagajisのアホさがある・・・!
大阪の煉瓦製造がそれで始まったのち、長手=小口×2+目地厚となるような煉瓦の必要性が生じ、それが鉄道建設にも採用されるようになってM24規格になったのだろう。してその目地厚込の寸法が並形となって分離していく。M24の規格が決定的に。という流れ。
もとは単一煉瓦の焼き締まりのことを考えていて長手と厚、小口の厚の比を取ればいいんじゃね?と思いついたことに端を発している。それで個体の3辺を測れている老ノ辻避溢橋の転石で試してみたらきれいに4:2:1になることを発見して魂消たのだった。奥田ノ畑の煉瓦なんかもそう。京都線のはそれ以外はまだ試してないが、明らかに薄くなる穴屋川辺りの煉瓦でやると4.2:2:1くらいになる。東京形も似たような感じ。問題は誤差の伝播。10ミリ・5ミリのプラマイがあると仮定すると0.4くらいの誤差になる。10と1でも0.18だったか。小数点1桁で変わる。
追記:ぴったりというのは言いすぎかも知れない。長/厚比=4.089 小/厚比=1.996 有効数字を考えたら4.1と2.0になってしまう。これだと滝大吉の並形4.168 と 2.000とそんなに変わらない…こともないか。7.3x3.5x1.8寸だと4.056 1.945。
平均値と信頼度99%の区間=誤差として誤差伝搬を計算すれば(そんなことしていいのか知らんが)0.072、0.048なので7.3x3.5x1.8寸の比にあてはまらないことはないことになるな……
あれ。9x4-1/2x2-1/4がデファクトならそうなって当然なのか。いや逆か。測定結果が9x4-1/2x2-1/4デファクト説を裏付けるわけか。ただそれと7.3x3.5x1.8寸の比と弁別するにはもっと測定数を増やす必要がある。
長手比が少しだけ大きいのは収縮が拘束されるからだろうか。
こういうことではないか。
官報の登記情報を拾い集めて播州の煉瓦会社を整理した。工場表の末尾につけている。縦の欄は工場の継承関係を示しているが西播のように工場=会社の関連が固定ならわかりやすいのだが、中播とか播州煉瓦合同とか吸収や分離やらがあると面倒。
色付き枠は資本関係。濱本八治郎の山陽窯業関連。黒は純粋な地元資本、オレンジは大阪や神戸などの外部資本と地元資本の協業。青はほぼ純粋な外部資本。大正煉瓦のT9以降などは加古川の糟谷集次が参加してなければ外部資本といっていいような陣容で、だから他の煉瓦工場との関連がないのだとわかる。
S7全播煉瓦販売所は徳島の樫野商店が置いたものだったはずで、その代表者は高谷克巳、これが弘栄煉瓦も経営。弘栄煉瓦は会社設立の登記を見つけられず、個人工場として始まって後に株式会社化したものらしくみえる。弘栄化学工業の分工場だったのかも知れぬ(弘栄化学工業も高谷克己が経営)。その全播煉瓦が存在した時期に工場がちょうど9つある。想像が正しければ“Kn”刻印が全播煉瓦販売の共通フォーマットとして使われていた。K8、K2、K1は近傍で集中的に見つかる工場がある。K9は別所にあったがその頃には別所に工場が動いてない。K6は大正煉瓦の阿弥陀工場付近で採取。あとはかなり適当に割り振っている。確定ではない。
弘栄煉瓦と全播煉瓦が関連があり、Knを使わせてたとすれば、弘栄煉瓦が後に“K”印や“K■”印を使っていたのも納得される。使わなくなった“Kn”の印型を流用して“K■”にしたとかなんとか想像される。
別所窯業と播陽窯業の関係がかなり妙なことになっている。別所窯業ができる前に播陽窯業ができていたが、その播陽窯業が解散すると同時に別所窯業が商号を改めて播陽窯業になっている。関係者は両社でほぼ同じ。別所に工場が2つあってそれを取り替えたような格好か。別所には一時期各社の分工場が乱立していたような結果になっていたので2つ以上あったと考えたほうがすっきりする。その播陽窯業は播州煉瓦合同ができる1ヶ月前に中播煉瓦に合併されているので設立時に3社(3工場)が一度に合同したわけではないようだ。播陽を吸収した中播煉瓦と山本窯業所が合流して3社合同。ただ別所はほとんど稼働しないまま終わっている。