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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2020-01-01 [長年日記] この日を編集

[ph.] 正月画像

画像の説明

150年前の大立者が長い長い雌伏の時を経て今日に至っている。再び陽の目を見ることになるといいのだが。そして私も彼に習わなければならぬ。与えられた 役割を全うすることのみが必要なことなのだと思う。

例の如くの初詣to原田神社を済ます。例の如くおみくじを引き、例の如く安産であった。安心せよとのこと。まことに有難いことである。

[奇妙なポテンシャル] 悪いインターフェイスの例

画像の説明泉南市新家の旧市街にて。駅へ向かおうとしている時にこんな場面に遭遇した。見通しの悪い細路地の先に橋が架かっていて、その手前に何やら路面標示が。
画像の説明路面標示はこうだ。左に曲がる矢印があり、その矢印の先にXと書かれている。

言葉で説明してしまうと「ああそういうことか」と理解されてしまうかも知れないと危惧を抱くのであるがとりあえず書いてみる。私は最初これを見て「橋を渡って左に曲がればXがあるのだな」と理解してしまった。それからじっくり考え直して、やっと正しい意味がわかったのだ。別にひねくれた読み方をしたつもりもないのだけれども、Xをダメの意味に取らずに目標地点か何かのように感じてしまったのだった。

間違えた理由はいくつか考えられる。「橋を渡って」と思ってしまったのは、矢印の胴の部分?が妙に長かったからだ。その長さの分だけ進み給えと読んだわけである。そうしてその矢印の先にXが置かれているので、進んだ結果のXを想起し、何かはよくわからない仮定的な目的物X、と読んでしまったようである。まさしくX字のごとく縦長く描かれているのもよくない。

「左に曲がってはいけない」ということを示すのであれば、矢印自体に✕印をつけるか、矢印の手前に×をつけるべきではなかったろうか。矢印が先にあるとその矢印に釣られて進んでしまう慌て者、あるいは目先のことしか考えない人を釣ることになりはしないか。少なくともそんな誤解の余地が残されている。その余地を立錐不可にするためにも、ちょうど英語文法のように否定から先に示したほうがよい気がする。

といったようなことは、モノを見て評する分には幾らでも評し得るのである。いわゆるイチャモンとしていくつでも見つけられ後出しジャンケンができる。仮にこの道路標示を企画設計するところから自分が関わっていたとして、でき上がる前から先述のようなことを考え、最適解を与えられる気はしない。


2020-01-02 [長年日記] この日を編集

[煉瓦] 焼損煉瓦の断面

三室煉瓦跡で焼損煉瓦をいくつか割ってみた。詳細はまた後日述べる機会があるだろうが(といって述べないのはコンパスの排尿時の奇妙な儀式と同様である。これ「はてしない物語」のパロディだったりするんかなと最近気がついたnagajisである)、最も歪みの酷かったひとつなどはこんな断面をしていて大変意外だった。 画像の説明

ここまで黒くなるものだとは思ってもみなかったことだ。まるで鉄の塊か何かのよう。よほど還元焼成が進めばこうなるのだろうか。

考えてみればいぶし瓦はこんな色をしているな。瓦のような燻焼をすれば煉瓦もこういう色になるのかも知れぬ。それが黒煉瓦・鉄煉瓦というやつなのかも知れぬ。

三室煉瓦跡では未焼成の素地煉瓦と思われるものも見つけた。ほとんど灰色に近い黄土色で、これを焼けば赤くなり、さらに焼けば(還元焼成すれば)黒になるというのが面白く思われたことだった。

[奇妙なポテンシャル] 冨

画像の説明時系列を無視して昨年の山科。諸羽神社の前だったと思うが、頭の折れた脊柱が、って酷い誤字だなオイ、頭の折れた石柱が埋もれていた。

画像の説明たった一文字「冨」という字だけが読めた。元はいったい何と書いてあったのだろう。「永冨私有地」とかいうあれだろうかと思ってみたりもしたが、ここは明らかに神社の敷地だし。気になるが明らかにしようがない、持て余すタイプの奇妙なポテンシャルである。

[ph.] 深い意味のない夜景

画像の説明

意外と持ち上げられるな、よかったよかった。


2020-01-03 [長年日記] この日を編集

https://archive.org/details/scientific-american-1875-09-11/page/n9


2020-01-04 [長年日記] この日を編集

[煉瓦][煉瓦工場] 関西煉瓦

ふと思い立って舞子浜へ行ってきた。関西煉瓦のB.C.△H.J.に出会えるかも知れないと思ったからである。

関西煉瓦の所在地は明石郡垂水村ノ内山田村。いま山田という字で探しても見つからない。ずいぶん昔に舞子公園の辺りに行った時にも少し探してみたけれどさっぱりわからなかった。が、最近スーパー地形図on今昔マップの熱烈ユーザーになった私は旧版地形図で探すというわざをおぼえた。それで探せば山田は一発でわかる。いまの西舞子1丁目、舞子六神社のある辺りだ。有り難いことに山田を通過していた幹線道(西国街道)は国道2号にかからずに残っている。その周辺の街並みも全く変わってしまっているわけではないようだった。つうてもM30頃には廃業した会社なのだから、120年前の何かが残っているという保証はなく、半ばダメ元のつもりで出掛けたのだった。 画像の説明

結果からいえば”錯”であった。あるわあるわ、B.C.△H.J.。あれだけ探しあぐねていたやつがそこここに転がっていて、目を疑うようなことばかりであった。例えば上掲のは平の両面に凹みがあって、そこに陽刻で「大日本」「 B.C.△H.J.」を刻んでいる。これまでに見たことがある関西煉瓦製品は片側だけが凹んでいた。 「大日本」の文字も従来品?に比べて小さい。まるで消え入りそうなQ数である。 画像の説明

これが、見慣れている関西煉瓦。さすがに経年劣化していて欠けているものが多かったが、この程度のものならあちこちで見つけられる。 画像の説明

そればかりじゃない。凹みをつけずに陰刻したこのようなタイプも。非常に分厚い直方体で−−−測ってみたら9×4×3インチであった−−−、持った時のずしり感は大阪窯業の舗装煉瓦を連想させる。まさにそういう舗装煉瓦として作られたものなのではないか。当時はイギリスでもアメリカでもpave brickが作られていたからな、そのまま型を輸入して作ったとしても不思議でない。

これもプレス成形で作られたはずで、明確なライナー痕がある。刻印のないこのタイプの肉厚煉瓦も多数あって、それらはたいていライナー孔のところが大きくほげてしまっている。そこだけプレスがかからないからだろうか。このタイプで刻印を伴わないものも多く転がっているが、ライナー部の裂孔と、結構特徴的な坏土とで見分けることができる(長石?石英?の白い粒がかなり多量に混じっている)。の煉瓦の焼損したものさえあった。 画像の説明
画像の説明

さらにこんなものまで出てきた。通常の煉瓦サイズのプレス成形、凹みのない陰刻タイプ。吹田で見かけていた断片の完全型がこれなのかも知れない。 画像の説明
画像の説明

ついでにこれも関西煉瓦製品と思われる煉瓦。プレス成形で製造された役物煉瓦である。ちゃんとライナー痕があり、小口長手もプレス成形の肌をしている。裏面は平らだ。

ここに掲げた以外にもそれらしい断片はいくつもあった。あるところにはあるのである。これまでの苦労は一体何だったんだと思ってしまう。


2020-01-05 [長年日記] この日を編集

[独言][未消化] 駒ケ林

画像の説明 画像の説明

舞子からの帰りがけに、探査が手薄だった長田区か兵庫区の辺りを歩いてみようと考え、何の気なしに板宿までの切符を買った。そうして東へ向かっている最中に月見山駅で特急待ちとなり、ふと気が変わってそこから歩いてみることに。月見山周辺や「須磨の穴門」の辺り(東須磨)もまた最旧版地形図の時代からの繁華街である。

東須磨からは天井川に沿って南下し、駒ケ林へ。なぜ駒ケ林へ向かったかというと、単にそこが大きな住宅密集地だったから、という以外にない。神功皇后の征韓にまつわる伝説があるとか遣唐使船の船継所だったとかいう話は探索し終えてから知った。

大変興味深い町である。旧市街は浜に沿って東西に伸びていて、端から端まで旧い形態の街区が残っている。高密度に並んだ家並み、民家と民家の間には細い路地が縦横無尽に伸びていて---人一人通るのがやっとというような、路地と呼ぶのもおこがましいような通路も多い---、中にはそんな通路で四方を取り囲まれた家もあったりする。そして古い家も新しい家も基本的に垣根がない。まさに家と家との間をすり抜けていくようなところが多い。

こういう家並みは古くからある漁村に多いような気がする。和歌山の加太とか、湯浅とか、舞鶴湾の北面の集落とか。できるだけ路地を多く、しかし高密度に家を寄せて建てるべき理由があったのだろうか、それが漁村のセオリーだったのだろうかと思ってみたりしたけれども、仮にそうだったとしても理由が思いつかなかった。風通し・風当たりに関係するものだろうか。建物を離して建てるよりギリギリまで寄せて建てたほうが集落総体として風に対して強固になりそうな気がする。軒下を吹き上げられて屋根が飛ぶということはないだろう。浜辺の街は台風の時などは特に影響を受けそうでもある。

漁村ならではの労働形態に起因するのかも知れない。通路が多ければその分各々で浜に出やすくなるよな、と思ってみた。しかし漁村の労働と農村の労働はどちらがより集団的なのだろう。曳網などは大勢が加勢しなければなし得ないが、普段から曳網ばかりというわけでもないだろうし、小舟で個々に沖に出ることも多かったはず。ただ魚をさばく場とか寄り合いの場とか、船溜は最たるものだな、そんな公共の場は漁村のほうが多かっただろうと思う。そういえば井戸のある家はほとんど見なかったな、庭からしてないのだから。井戸も共用であったのだろうか。

細路地は水道管やガス管の埋設に利用されているのが多かった。そういうものを埋設するとますます境界を変えられなくなる。路地の真ん中に壁を立てて敷地を二分するなんてことができなくなるからな。と考えた時に、この街の形態が保たれているのは都市部に近くて比較的早い時期に水道瓦斯が整備されたことが関係しているかも知れない。そのせいで街区が改まるタイミングを逸したと。新しい都市なら幹線道を通してそこから枝分かれさせれば済む。道を基準にして街を作れる。駒ケ林は人住ありきで始まり発展した集落なのだろう。

それを考えると、都市部でも似たような町並みはある。キタの中崎町とか玉造の中本町とか。泉南の鳴滝も似たようなところがある。必ずしも海辺の街だけに限らないのかも知れぬ。ただ都市部のは長屋が建ってそうなったような向きがないわけではない。駒ケ林は基本的に一軒家の連なりだ。

いろいろ考えてみたけれども答えは得られず。とにかく駒ケ林には数多くの煉瓦があり、煉瓦刻印も多数検出することができた。明治まで遡るような煉瓦は尠いが(貝塚煉瓦や岸和田の古めのものが数点あったくらい)、播煉や和田煉瓦、弘栄煉瓦といった、大正から昭和戦前期にかけての播州煉瓦がそれこそ掃いて捨てるほどある。その頃急激に都市化し、それが一度建て替えられて今になっているものと思う。阪神大震災ではあまり被害が なかったそうだが、それでも真新しい洋風住宅がそこかしこに混じっている。かと思うと倒壊した煉瓦壁の一部が残っている空き地?菜園?があったりもして。道を軸として考えた時の街のかたちは古いが、そこに乗っかっているものは千差万別で、それもまた面白い。

駒ケ林だけでなく、その周辺にも古い街区は残っていそうだ。どうも長田区というと震災のイメージが強すぎる。無事だったエリアも広いのである。


2020-01-06 [長年日記] この日を編集

[煉瓦刻印] 川島煉瓦

画像の説明

昨年の暮れに採取した川島煉瓦。慎重に清掃した。苔類地衣類は無理にこそぐと煉瓦を傷める。カビキラーかけて溶かしてから爪楊枝でチマチマ取ったほうがよい。

肝心の「川島煉化」の辺りがきれいに出ていないのが残念だが---素地の時点でこのへんに凹みがあって上手く乗らなかったようだ---、「島」の3~5画のあたりや「煉」の火偏などもかすかに残っている。頑張って拓本を取れば行けるかも知れない。

真ん中の隷書は少し読みづらいが「四十九組」であるようだ。「四」は製造時の傷で歪んでいる。

ここに使われている疏水の「ソ」の字と、琵琶湖疏水記念館のパネルの川島煉瓦製品にある「ソ」は違う。後者は篆書体なので偏は足っぽく旁は京っぽくなるのが正しいっぽい。□+英数字、小判+英数字の「疏」はその系統。でもこの印では楷書体だから足偏になってしまう。うむ。

(□のほうの疏は京のままじゃよくないな、ということで姑息な修正を加えておく) 画像の説明

川島煉瓦は文献では拾えていない工場。浅田政三工場を引き継いで操業していたか、休業状態だったのを疏水建設に際して復活させたのかも知れない。とにかく断面の感じはよく似ている。黒く焼けた土が混じっているところや、表面が褐色系なことなど。左は川島煉瓦、右は桂川橋梁の"D"。

桂川橋梁のものは外周にだけ黒い部分が目立つ。土の違いによるものなのか、そこだけ焼過になってしまったのか判断がつきかねていたが、三室煉瓦で焼損煉瓦を割ってみてから、還元炎で焼けた部分なのだと考えるようになった。以前はこれが函型製法の証拠のように思っていたけれど---函型に作った時の粘土とアンコの粘土とで成分が違うと---、そうすると写真上面の流動状態になったところがよう説明できんし、最外周に薄皮のごとき赤い層が必ずあることも説明できない。むしろ酸素の拡散律速の影響なのではないか。まだらになっている部分は粘土の流動で微細な隙間が生じていて、小石のように見えるやつはその周辺の空洞から酸素が抜けやすかったためにこうなるのではないか。ようはそこだけ酸素が不足している状態。燻し瓦的な。この状態から酸素過多で焼き直したら赤色に戻るんじゃないかと思ったりもする。


2020-01-07 [長年日記] この日を編集

[][煉瓦] Martin Hammond "BRICKS AND BRICKMAKING"(SHIRE LIBRARY)

昨年届いたB&Bとはまた別の同題の本。著者と発行元が違う薄い本である。本当に知りたかった情報はこちらのほうにあった。

同書p.23に、Hoffmanの設計事務所が描いたというホフマン窯の設計図面が載っている。1875年にLilleshall Companyのために設計したものだ。これには確かに副煙道が描かれている。次ページにある典型的なRectangular窯の図にも"HOT AIR"を通すトンネルがある(長方形のプランで中央縦方向に一本の副煙道と一本の沿道)。この副煙道で熱を輸送するところにホフマン窯の特許のキモがあったといってよいはずである。

一方、このような副煙道をもつ窯は日本に現存していない。日煉の窯も下野の窯も中川煉瓦のもそう。播州のだってことごとく副煙道なしだった。センセーショナルな言い方をすれば「日本にホフマン窯はなかった」ということになりかねないのだ。

んじゃあM21の農商務省の分析報文の解説は何だったのか。なぜホフマン窯は普及しなかったのか。特許期間の関係かとも思ってみたが当時ドイツの特許権は3年か5年かそこらで切れるものだったらしいし(https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200801/jpaapatent200801_029-042.pdf)、日本で煉瓦製造が本格化するのはホ氏特許の10年後なのだ(特許は1858年取得、明治元年=1867)。考えてみたらそうなんだな、日本で、当時この窯を何と呼んでいたかといえば、「輪環窯」とか「輪窯」とかなんだな。独り大阪窯業の大高が「改良ホフマン窯」の特許を得たくらい。


2020-01-14 [長年日記] この日を編集

[独言] ヤキモチ

サトウの丸餅が余っているので焼いて食うことにしたのだが、はて、何をつけて食おう?と考えた時に少々迷った。そういえば餅を焼いて食うというのは久しくやってない。

記憶をまさぐって出てきたのは「砂糖醤油」だった。子供の頃、焼いた餅を食うといったら砂糖醤油しかなかったような気がする。何も入れない醤油とか味噌とかポン酢とかソースとかいう選択肢はなかった。

実際それを試してみたのだけれども−−−他の調味料もいくつか試してみた−−−、やっぱり一番しっくり来たのが砂糖醤油だった。鼻の奥で混じり合う焦げの香ばしさと醤油の風味。舌に刺さるしょっぱさと後々まで残る甘ったるさ。噛み切れない餅に絡まる甘辛味。どれも「ああこれだ」という感じがした。

餅つき機で作り、熱いうちに丸め片栗粉をまぶして置いておいた餅。あるいはビニール袋に入れて四角く固めた餅。それをいい具合いに切り取って、ストーブの上にアルミホイルを敷いて焼いて。そのまま食べる時には決まって砂糖醤油だった。ただそうやって餅を食べるのは他に何も食べるものがない時のこと、つまみ食いのようにして食うことが多かった気がする。砂糖醤油の甘辛さはおやつの風習がなかった私にとってお菓子代わりの甘味だったのだ(だから、今更餅を焼いて食おうという気がしないのだろう) 。

甘い醤油というものの存在を狂気の沙汰のごとくに考え否定する人がいることは認識しているけれども、私にとっては幼少期の記憶を呼び覚ます味であり、結局はそこへ立ち戻ってしまうような味のようである。逃れられない味といったほうがいいかも知れない。それを否定されるのは、生まれ故郷を貶されるような心持ちがする。根に薬剤を撒かれたような危険を感じる。黙っていられるわけがないのである。


2020-01-15 [長年日記] この日を編集

[ORJ] 発行

ORJ_noの表記が「ORJ_2001」になって戸惑っている。なんか2001年版みたいだ。というようなことを思っていたらスラドでもそういうネタをやっていた。西暦下2桁でラベルするもんじゃないなあ(使い切るまで生きているはずはないんだけどさ)。

今のペースでもなんとかやっていけそうな感覚を掴んだ。あとはネタを得るタイミングがあるかどうかだ・・・頑張れnagajis。

[独言] 上床氏

本当は熊大工学部80年誌を読んでからと思っていたのだが間に合わなかった。思い付いたのが3日前なんだからしゃーない。関大は確か何かで1回だけ行ったことがある。チャリ部絡みだった記憶があるが定かでない。

岡町図書館のUさんには毎回迷惑をかけている気がする。が、やらないで後悔するよりはやって後悔したほうが後悔の絶対値は小さいと思うのだ。まあ読んだからって答えが得られるとは限らないのだけどな。

[独言] 経済学の論文はすごい

産業史の襞の襞の襞くらいのところに挟まっているようなことを丹念に拾ってまとめてくられているので、知りたいこととぴったり重なると、これ以上参考になる文献はない。そのかわりとことん調べられ語り尽くされているのでそれ以上何もすることがないように見えてしまう。自分がやろうとしていたこと知りたいと思っていたことが矮小な、酷く偏ったことのように思えてならなくなる。読みたいような読みたくないような気分になり、いずれだとしても改めて書く気力がなくなってしまう。よくないことである。

あと、経済学系の本は畳み掛けるように これでもかこれでもかと情報が提供されるので、その勢いに圧されて主張を鵜呑みにしてしまいがち。疑う余地すら与えない、隙のない論のように思えてしまう(そのへんは柳田国男の論に似たところがあるな。読みやすいのでホウホウそーだったかと読み通させられてしまう。じっくり考えれば結構な牽強付会だったりするのにね)。ホントかどうか吟味しながら読むなんて至難の業だ。そんなだから、最初に出会った記述を毫も疑わずに信じてしまい、ほいほいついていきそうになる。 卵から孵ったばかりの雛みたいなものだ。


2020-01-16 [長年日記] この日を編集

[] 妹尾河童『少年H』

何冊手にしたかわからないようなベストセラー本なのだが、このたび改めて読む気になった。この間訪れた駒ケ林やライジングサンの引き込み軌道のことが出てくると知ったからだ。ライジングサンの軌道の件は冒頭に出てきてしまうので続きをどうするか悩んだが結局読んでしまった。うん、読むべきだった。すごく意味のある場所だった。

長田空襲の時に少年Hが逃げ回った辺りを知らずに歩いていたことを知る。阪神大震災のことは頭にあったけれども戦時中の悲劇については思い及ばなんだ。経験したこととしてないことの違いは大きい。2度の悲劇を被った地区……と考えてみて、おそらくそれでは足りないのだろうなと思ってみたりした。さまざまな災害。近世以前のいろいろの戦。亡くなった人が弔われたり同情されたりするのは記憶している人がいる間だけなのかも知れない。記録としては残されてもそれに親身の同情を寄せ得る人がいなくなっていく。これは道理であり仕方ないことだろうと思う。

8月15日を境に少年Hが情緒不安定になっていくこと、その理由、に同情を禁じ得なかった。誰もが右を向いていたのが一夜にして回れ左して正反対になる。戸惑わないわけがない。生き延びるためにはそうせざるを得なかったというのはわかるけれども、端から見ていたらどんなに腹立たしく思っただろう。自分の意思とは無関係な流れが右に左にうねるさまを見せつけられては酔ってしまうだろう。

戦争と流行は似たようなものかも知れない。いつのまにか時流ができていて、確固とした考えを持たない人間はとりあえず従ってしまう。寄らば大樹の影というか、逆らわないほうが楽だからというか。そうやって無意識に時流に流されていく人々が増えていくうちにいつのまにか後戻りできないラインを超えて戦争に突入したり流行が始まったりする。誰もがそれに乗っかって世の中それ一色になったかと思うと、それがまたパタッと止んで、今まで熱狂していた人はどこへ行ってしまったんだろうということになる。それが怖い。自分の預かり知らない祭りが突発的に起こっては止んでいく。見ていると目が回る。だから距離を置く。自分の場合は確固とした信念もなくただ距離を取っているだけだ。

恋ダンスなんかどういう踊りなのか知らないままに終わった。タピオカミルクティーだって飲んじゃいない。MixiとかスマホゲームとかSNSとか数え上げればきりがない。流広告は一切信用できなくなった。巷を賑わすニュースも鵜呑みにできない。されずに立ち止まっている方がエネルギーを消費する。ものである。無駄な神経すり減らしだわな、とは思うが、そうしてきたお陰でやっと、自分なりの考えとか処世術とかが身についたようにも思う。


2020-01-17 [長年日記] この日を編集

[大日本窯業協会雑誌] 岡山県下煉瓦製造所の概況(第9巻第100号)(明治33年)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/9/100/9_100_130/_pdf/-char/ja

うーん。耐火煉瓦なのか建築用煉瓦なのか、話がごっちゃになっている気がする。天瀬稲垣耐火製造所?

[大日本窯業協会雑誌] 土管煉瓦及瓦商況(第9巻第101号)(明治33年)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/9/101/9_101_166/_pdf/-char/ja

京浜煉瓦製造の組合たる『煉瓦業組合』が標準価格を改正。関東では組合が機能していたのだな。

[大日本窯業協会雑誌] 堺の煉瓦業(第9巻第105号)(明治33年

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/9/105/9_105_312/_pdf/-char/ja

大阪毎日の記事から。堺に3箇所、堺煉瓦、日本煉瓦の2つしか名前が出てこないのは何故だ。あと1つは大阪窯業のはずなんだけどさ。

[大日本窯業協会雑誌][煉瓦] 煉瓦の風化物

田村典瑞「煉瓦ノ風化物附バナヂユムニ就テ」正続。明治27年のこの報文では小菅集治監製煉瓦に発生するものを分析して多量のバナジウムを検出している。他の建物の風化物(産地いろいろ)は炭酸曹達主体でバナジウムは痕跡。バナジウムの定量が困難というのもあるらしいが。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/2/23/2_23_291/_pdf/-char/ja

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/2/24/2_24_323/_pdf/-char/ja

そもそも風化物といったときにいろいろな種類があるようだ。例の白色のものだけでなく、黄色とか青とか緑とかもあったらしい。そういう色付きのはバナジウム塩が関係しているのかも知れぬ。

大正7年の長屋修吉「煉瓦の風化物に就て」では白色のものを分析して硫酸曹達→炭酸曹達→硫酸曹達→炭酸石灰の順に出てくると言っている。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/26/306/26_306_157/_pdf/-char/ja

[大日本窯業協会雑誌] 堺市煉瓦の盛衰(第10巻第112号)(明治34年)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/10/112/10_112_151/_pdf/-char/ja

堺周報のアレ。

[独言] 深川・碍子・香蘭社

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/10/115/10_115_270/_pdf/-char/ja

以前Mさんに教えていただいた、国産碍子第一号を製造した香蘭社。明治34年に(たぶんカッセル窯に似た構造の)改良窯を築造して生産を向上。この記事にはその窯の構造が妙に詳しく書かれてある。新聞記事の引用のはずだけど。

[大日本窯業協会雑誌] 東京煉瓦商況

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/10/117/10_117_368/_pdf/-char/ja

そうか。高さ三尺しか積み上げられないのだとしたらそれこそすごい広さがいる。東京の煉瓦製造業者は川運に依存していてその運賃のことなどあり。需要はあるけれど価格が見合わない。


2020-01-18 [長年日記] この日を編集

[煉瓦][] ホフマン窯と蛙 〔Martin Hammond "BRICKS AND BRICKMAKING"〕

前回書いたホフマン窯の件、本文のほうにもっと重要なことが書かれてあった。Hoffmanの特許は確かに1858年に取得されているのだが、当初は副煙道(Hot-air flues)がなく、それを発明したのは1870年のことなのだそうだ。だから1875年作成の図には副煙道が描かれているのだ。

冷却フェーズの房から副煙道を介し燃焼中の房をバイパスしてその先の乾燥フェーズの房に熱い空気を送る。燃焼中の房から煙を引っ張ってこないのは、煙に含まれる成分の影響で発色が悪くなるからだと説明されていた。なるほどな。あとHoffmanが輪窯を考案した時から房の仕切りは紙だったようである。

1875年というと日本では明治8年。近代的な煉瓦製造が始まって間もない頃。それから3~5年後に特許が切れると考えると&1877から特許制度が変わることを考えると、明治21年の農商務省分析報文に副煙道つきのホ窯が(特許云々の話なしに)紹介されていても不思議ではない。ただ分析報文では副煙道の使い方が正しく説明されていないハズ。1875年のホ窯の図はダンパーで開閉するよう描かれておる。投炭坑を流用したりしない。

そんなわけでちゃんと読み込めてないことがバレたので改めて読み直してみた。根本的な話としてこの本はイギリスの煉瓦製造を概観している。煉瓦造りにまつわる俗語もイギリス流。例えば 画像の説明

煉瓦のこの凹みを"frog"という。蛙。Websterにもない用法(?)。わかるようなわからんような……丸っこい凹みは蛙の腹を連想させないわけでもないけどなあ、凹凸逆だしなあ。ちなみに米英では手成形煉瓦(pallet moulding)でもこの凹みをつけた。17世紀末ごろから採用されるようになったものらしく、イギリス規格(British Standards, BS)でも"frogged brick"の規格が定められているそうである。

素地煉瓦は"clot"とか"warp"とか呼んだ。乾燥時の煉瓦積みは"hack"で同じ。煉瓦積みの壁を"kick"と呼ぶらしいのは面白い。ちなみに"kick the brick"という成句もあって、これは左記kickではなく蹴る方のkick、「自爆行為」あるいは「非常な苦痛を伴うもの」のような意味があるそーだ。ついでにいうとKICK brickなる子供用玩具もある。要するに柔らかい煉瓦形の直方体。積んで遊ぶ。


2020-01-19 [長年日記] この日を編集

[独言] どうしよう

さてここに、めっちゃめちゃに傷んだ歌川広重『東海道五拾三次 由井』があったとする。

画像の説明

はて、どうしよう。

まずこれが本物かどうか。正直よくわからない。複製印刷じゃないのは確かである。網点ないし、裏がこうだし。バレンで擦った跡があったり顔料が滲んでいたりする。ただ後年元版から擦り直したこともあるようなのでその時のものである可能性もなきにしもあらずかも知れぬ。 画像の説明

真贋はさておき、木版画として見たとしても、これほど高精度で色鮮やかなものは初めて見た。よくこんなグラデーションが表現できたものだ。峠道の岩崖の色なんかも実精細。ためつすがめつして眺めては、めちゃめちゃに傷んでいることが尚の事惜しまれるのだった(しかもサッタトウゲだもんなあ。この構図はとてもいい)。幕末に輸出された陶磁器の包み紙として浮世絵が使われていたと聞くけれど、ヨーロッパに届いたそれはまさにこんな感じだったのではないだろうか。繙いてさぞ驚いたに違いない。

画像の説明

「保永堂版」の落款もある。擦ったのではなく押されたもののように見える。

画像の説明


はじめ和紙だから水張りしたらいけるんじゃね?と思ったのだが、そんなことをしてはいけない。水溶性顔料を使って摺っているので水をかけた途端にえらいことになる(多分)。かといって復原修理してもらうほど思い入れや金子があるわけでなく、しかし捨ててしまうのも勿論忍びない。金銭的価値云々じゃなくて、もとは立派な芸術作品であり文化遺産であるように思えて無碍に扱う気になれない。

うむ、どうしよう。


2020-01-20 [長年日記] この日を編集

[独言] いつのまにかミニたんさく×2

画像の説明

JR山手駅を見てきた。いや、それが目的じゃなかったんだけどさ。

画像の説明

むしろこっちの石垣の残骸のほうが。読み通りだった、といっていいんじゃないだろーか。モノは見つからなかったけど。次は反対側。

[奇妙なポテンシャル] 退色する文字

画像の説明

ふと見上げた交差点名看板。Nishinoshochoみたいな色抜けをしていた。oとcの素材だけが劣化しやすかったのだろうかと思ったが、だったら最後のoとか庄のoとかも退色していていいはずである。もしかしたらoとcは同じoから生まれた兄弟(oの右側を切ってcにした)なのかも知れない。そんなことを1sec内外に思った。

そもそもこの文字はシール式なのか。一枚のシートをカットするだけじゃないか。とはその数分後に思った。

[奇妙なポテンシャル] binary忍者

ついこの間、ふいに、

一人でも忍者

という言葉が流行っていたことを思い出した。中学生か高校生の頃のことである。

誰が言い出したのかははっきり思い出せないが、こういうことを言い出すのはN氏と決まっている。この一言が書かれた葉書を受け取ったことがあるようにも記憶する。

三十数年の時を経てこんなつまらぬ口合に解説を加えるのも愚かだが、敢えてその愚を極めてみれば、要するに

一人でも仙人

のバリアントである。一人なのに1000人という多さがウリとなっている元ネタに対し、たった2人という数の少なさ、かつ正確には2人でもなく結局は1人であるという無意味さ(頭の「に」しか合致しない)、に底知れぬアレを感じたものである。

この「一人でも忍者」というワードこそ、奇妙なポテンシャルの初観測であったかも知れない。常識から導き出される「仙人」を躱して「二人」を連想させる「忍者」を継ぐ辺り(というよりも「忍者」に「二人」の影を見てしまう辺り---考えてみれば忍者なんだから分身の術とかで2人になっても良さそうなものである---)はまさしく取り扱いに困るポテンシャルを宿している。呟いてみたところで何も起こらないし理解も深まらないことはわかっていても呟いてみてしまいたくなるポテンシャルを秘めている。事実今までの人生で何度この言葉を呟いたことかわからぬ。そうしてその都度忍者とニンニンとニンジンが未分化な思考の底で交錯したのである。

そんな奇妙なポテンシャルをここ20年近く忘れていた。よく思い出したものだ、偉いものだと思う。その記念に一人でも忍者。


2020-01-22 [長年日記] この日を編集

[大日本窯業協会雑誌] 雑然としたメモ

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/11/121/11_121_45/_pdf/-char/ja

東京煉瓦 カラス

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/11/124/11_124_133/_pdf/-char/ja

碧海郡

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/12/140/12_140_271/_pdf/-char/ja

乾式法

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/13/147/13_147_91/_pdf/-char/ja

農商務省統計書式@M38

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/13/149/13_149_178/_pdf/-char/ja

大阪煉瓦活況 朝日からの引用だが見てないはず

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/15/174/15_174_209/_pdf/-char/ja

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/15/177/15_177_301/_pdf/-char/ja

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/15/180/15_180_407/_pdf/-char/ja

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/16/182/16_182_69/_pdf/-char/ja

砂煉瓦 前号承

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/16/183/16_183_141/_pdf/-char/ja

東京市況

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/16/185/16_185_217/_pdf/-char/ja

砂煉瓦 承

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/16/188/16_188_382/_pdf/-char/ja

東京市況

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/17/195/17_195_67/_pdf/-char/ja

砂煉瓦

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/17/196/17_196_99/_pdf/-char/ja

岸和田の機械

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/18/205/18_205_9/_pdf/-char/ja

遠煙突式の煉瓦窯。堺窯業の「遠引き」と関連? 大事なとことがぬけちょる・・

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/18/207/18_207_97/_pdf/-char/ja

石灰モルタルの強度 石灰は粘度を増すのには効くが強度下がる

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/18/208/18_208_162/_pdf/-char/ja

大阪市況

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/18/209/18_209_218/_pdf/-char/ja

東京煉瓦業組合の価格協定

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/18/212/18_212_348/_pdf/-char/ja

煉瓦風化物 抄録

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/18/214/18_214_437/_pdf/-char/ja

明治41年統計

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/18/215/18_215_503/_pdf/-char/ja

大連窯業 堺市の煉瓦職人

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/19/226/19_226_436/_pdf/-char/ja

大阪煉瓦業組合 紛糾

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/19/227/19_227_449/_pdf/-char/ja

砂煉瓦

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/19/227/19_227_466/_pdf/-char/ja

大阪煉瓦業組合 紛糾2

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/20/229/20_229_18/_pdf/-char/ja

日本煉瓦製造と品川白煉瓦の提携

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/20/231/20_231_ap1/_pdf/-char/ja

九州沖縄連合共進会

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/20/235/20_235_256/_pdf/-char/ja

軽量煉瓦 珪藻土使用

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/20/235/20_235_260/_pdf/-char/ja

煉瓦切断機の針金拭い

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/20/235/20_235_ap1/_pdf/-char/ja

群馬県主催一府十四県共進会 岩手 小野喜惣次

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/20/236/20_236_311/_pdf/-char/ja

煉瓦の品質と隧道問題

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/20/236/20_236_316/_pdf/-char/ja

隅田周辺の煉瓦工場 途中まで


2020-01-26 [長年日記] この日を編集

[きたく][煉瓦刻印] 敦賀港駅ランプ小屋を神戸に持ってくることに成功

画像の説明

なんとはなしに和田岬に行って、なんとはなしに川崎重工のほうへ行ったらこれがあった。川崎重工兵庫工場の建物で使われていた煉瓦を再利用して作ったモニュメントとのこと。

画像の説明

このモニュメントの左上隅の煉瓦に小さな刻印があり、はじめはよくわからなかったのだけれど、これも思いつきで持ってきていたライトで透かしてみて……”□+斗”であることが判明した。

これと同じタイプの刻印が敦賀港駅ランプ小屋に使われている。実物は見ていないけど「ランプ小屋新聞」にあった「全刻印」のなかに”□+斗”があるのだ(木とか土とかは見たんだけどさ。あと向こうは小口に押されているはずで、このモニュメントのは平に押されている)。 画像の説明

敦賀港駅ランプ小屋の古さの根拠の3割くらいがこの刻印の存在に立脚している。あまり見られない小口印であること(瓦業者が煉瓦を焼いていた頃の製品にありがち)、恐らく製造者の名前か何かを一字で示したものであること(同上)、から敦賀近傍で現地生産された煉瓦ではないかとされていた。けれどもそれと同じものが神戸にもあるというのは、その推測の当確率を引きずり下ろすものになる。敦賀ほどの地方の煉瓦がここまで運ばれてくる可能性は低いだろうし、かつ沢山あった工場建物の何十万ちう煉瓦の中から選ばれた数十個にそれが含まれる可能性は尚更低い。それより何より、川崎重工兵庫工場は明治40年頃建設・稼働というじゃないか。

刻印は2分5厘四方。煉瓦自体は3.7分×7.8分×2.1分という器用な?サイズである。 画像の説明

モニュメント曰く、煉瓦は創業当時の事務所(戦後は組合事務所として使用)のもので、昭和59年3月に取り壊されたそうである。竣工当初の事務所…ということで馬鹿一覚の近デジに頼ってみれば、ほいよ、ヒエヒエの構内図あるね。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228030/146

しかし字が小さすぎてよく見えねえな。南北を連絡している軌道の南方、軌道を跨ぐ格好で「総合事務所」がある。北部の製材工場の西手にも事務所かな? ちと小さいけど。

昭和54年の航空写真

https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=962185&isDetail=true

と59年4月の

https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=612176&isDetail=true

を見比べると、北側の門の右隣りにあった建物がなくなっている。近デジ資料の構内図でいえば「軽合金鋳物工場」。「総合事務所」はそれよりも早い段階になくなっておる。違う違う。北方正門右側は「飛行機工場」のエリア。そうして飛行機課は大正7年8月設置。近デジの資料はS11発行で、戦時中のためか詳しくは触れられていない。巻頭の俯瞰図でも省略されている。

そういえば……このモニュメント、以前KINIASで見学会をした時に見ているはずなんだ。川重の工場間軌道=以前は山陽線からの引込線を見て和田旋回橋を見てるので。

[ph.]

画像の説明

撮り損ねてこんな画になった。回転フィルタかけたみたい。いや逆か、こういう画を再現するためにフォトショの回転フィルタがあるのだ。


2020-01-27 [長年日記] この日を編集

[独言] 申し訳ないことをした

画像の説明1ヶ月ほど前から部屋の片隅に掛けて眺めている掛軸。国学者・近藤芳樹の書らしいことはすぐにわかったのだけれども、何て書いてあるのかさっぱりわからない。575の俳句のように思われるけど国学者なら短歌じゃないのかとも思う。仮に短歌の上の句だとしても。 7の最後が「や」、5の最後が「酌む」らしいと思うばかりで、残りはちっとも徹らない。句意などなおさらわからぬ。眺めているうちにいつか判る日が来るかもと思いつつ、かれこれ1ヶ月近く眺め続けて、何も変わらぬまま今に至っている。

それだけでも充分申し訳ないのに、さっきも少し検索してみて、近藤芳樹と自分とが全く無縁の隔世人ではなかったことに今更のように気づいたのだった。近藤芳樹は明治天皇の東北北陸大巡幸に随伴して「くぬかちの記」を書いた人。雨の刀根越を越えて憂き思いをした人だ。私もその跡を辿るようにして刀根越を越えている。彼が見たのと寸分違わぬに違いない湖国の空を見た。

すっかり忘れてた。あの記事を書いた時にずいぶんお世話になった。変体仮名を多用して書かれた「くぬかちの記」を頑張って辿々しく読みさえしているってえのに、それなのにすっかり忘れておるとは。何と罰当たりなことだろう。

著名人のサイン本とか「実物を見た・見ない」とか握手会とか、そういったことには一向に無関心で、むしろ無意味な追従だとしか思っていなかった私だけれど、歴史の向こう側の人だと思っていた人がこれを手づから書いたのだと思うと、そしてその人が歩いた道を私も歩いたのだと気がつくと、今までまるで感じたことのない、親近感に稍々似た敬虔の気持ちが湧いてくる。サインを求めるファンの気持ちの根っこにあるものには共感できるような気がし始めている。なんとも現金なものである。

これが真筆かどうかは不識。頭首印は「自然」、朱文印はまんま「芳樹」で白文印はなし。読める方、こっそり教えていただけたらうれしい。

なんだかんだとがんばってみる。

「百姓の さ□那(な)る月や □□酌む」

頭二文字は百姓だと思われる。大和言葉でいうところの「天皇が慈しむべき天下の大いなる宝である万民」か。

2/2。下の5の1文字目は「老」。


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