nagajisの日不定記。
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久々のクリーンヒット。思い付きはやってみるものだなあ。最大で17600m分。
搬出貨物種類種別・数量
上荷 下荷 穀物類 120908 板木管類 1904633 酒、醤油、味噌類 53124 角材類 26178 果実、蔬菜類 15606 木炭 518880 セメント及火山灰 86327 各種丸類 102144 縄、油類 15756 丸太類 548642 其他食料品 70244 皮類 7800 レール及鉄管 28025 雑品類 166156 雑品類 60090 計 450080 計 3274433
原稿書いたり調査票書いたり。書けば書くほどあれが抜けているのが気にかかって。北今西のを忘れてる・・・あれが親玉であったのだ。そういえば。
机の上に置いておいた大型犬型犬釘をきっかけに我が犬釘コレクションに興味を持たれてしまう、という夢。こういうのもありますよといって軽レール用の犬犬釘を出そうとしたが、それがどこかに行っていて、中々見つけられなかった(現実世界では陳列ケースに入れて飾っているのでそんなこと起こり得ないのだが)。一人がさがさしてようやく発掘し当て、これですこれです、明治20年代の鉱山軌道で拾ったんです云々と力説し始めたところで目が覚めた。
探しているものが見つからないという点以外はちっとも夢らしくなく、つまらない部類の夢である。
大正拾年 県令第三八号土木工事取締 土木課 1-T10-50d 556004014
県令第三十八号ニ依ル土木工事取締一件 1921 1-T6-51 556003649
県令第三十八号ニ依ル土木工事取締一件 1921 1-T6-52 556003650
県令第三十七号ニ依ル土木工事取締一件 1921 1-T6-53 556003652
なんでやねん、とツッコミ2発。bookid=100290565と100290567が一緒なのはどういうわけか。なんで一つだけ37号なのか。
検索の陥穽を躱せ!>nagajis。
軌道申請の理由はブラフじゃなかったようなんだが、ぽしゃった辺りからいろいろダメになったっぽい。当初目的が神童子山材の搬出だったからにはそれが下火になればグッと落ち込むのは道理だろう。
大軌は無視する。
文庫の解説を読むことはあまりないのだが、珍しく読んだこの巻の解説は良かった。 柳田国男はさりげなく娘視点で論を展開していること、それが戦後まもなくの新しい時代に書かれたものであること等々、気づかずにいたこと、そうだと認識しないまま理解していたこと(そう言われてみれば思い当たる節が多々ある。「妹の力」とか)を端的に指摘された。解説は須くかくあるべし、と思わずにいられない。
かつては女性が衣・食を分配する権力があった->嫁を迎えるということは次期権力者を迎えるということ->家の存続繁栄が至上であった時代には特におおごと・慎重にならざるを得なかった->恋愛結婚の抑制という流れなのだな。それが戦後になって家父長制度へ疑義が突きつけられ家による拘束が緩んだ結果、自由恋愛の復権となり、さらにそれがオーバーランしたのが今日だということになる(もちろん間にもう少しいろいろあるはずだけど)。果たして翁はそこまで見抜いただろうか? いやいや、処世の武器として「さかしさ」を授けようとした翁だから、それで万事上手く行くと信じていたに違いない。残念ながらそうはならなかった。
一度も会ったことがない2人が見合い結婚するというようなことは、本来とても稀なことで、知った仲から発展して結婚に至るのが一般民衆にとってのごく普通だった(娘宿・若集宿とかヨバイとか。もっと遡れば歌垣のような積極的な求愛もあった)。それが特に家柄を重んじていた上流階級のやり方に影響され、真似、かぶれていった結果、見合いでなければならない・お偉い仲人がいなければならない・そしてそれが日本古来的、というような意識が広まったと。今は逆にお見合いなんて・・・というイメージがあることだろう。これもまた近代ならではの一過渡現象だったと言えるのかも知れぬ。
思えばKINIASに入って初めて行った見学会が加古川だった。今から5年も前のこと。そこで見たニッケの工場も平木橋もすっかり姿を変えた。感慨が沸かないわけがない。
変わるものは致し方ないので、新たな出会いを喜ぶほうがいい。加古川橋。増田淳設計のPG桁。大正12年竣工。確か増田の設計橋梁でも最初期のものだったように記憶する。
増田淳設計と聞いて俄然特別扱いするのもどうかと思うが、実際そう思ってしまったのだから仕方ない。90年近くも国道2号の交通量を支えてきたのだし。さすがにI鋼で補強が入ってたり、ガーダーの補剛材の根元が腐りかけていたりはするが、大部分は頑健そのものという印象を受けた。この桁から関東大震災の年の空気を嗅ぎ取ることはできない。
この橋も手狭になってきて、じきに架け換えられそうな梅塩。昔だったら他所に持っていって橋に使うことができただろうが、今じゃそれも望み薄だ。できないわけではないが橋として利用することはないだろうと思う。わざわざリベット外して打ち直してなんてしてられないだろうからな、経費的に。記念に一部が保存されるか、形ばかり真似た橋らしくない橋になってしまうんだろう。
流行語大賞が決まり、定時のニュースごとに杉ちゃん氏のネタが解説されるのが何とも言えない苦痛である。NHKがやるものだから「馬鹿」がつくような丁寧さで説明されるためネタの面白味が薄れてしまう(そもそもネタの解説ほど哀しいものはない)。その一方で急に口調を真似て「ワイルドだろう?」と入ったりするものだから違和感大爆発である。
流行語大賞というものは、実はその流行語を殺すために授与されているのではないかと思った。受賞のニュースが流され解説されることで流行にとどめを刺すものなのではないかと。「ご苦労さん、もう出てこなくていいよ」と宣告するためのものであり、その流行語と決別するための儀式のようなものなのだきっと。なお本人の写真は見たことがあるが、どういう声でどういうリアクションをしながら「ワイルドだろう?」とやるのか知らない。テレビがないからだ。腰は直ったんだろうか、彼。
歌が合ってない・・・。あと575で弔うべきじゃねえんじゃね。
変な時間帯に目が覚めてしまい、持て余した時間をつぶすべく、トンネル事故に事寄せて表題のタイトルで書いていたら、あと少しというところでブラウザが落ちて消滅してしまった。なかなかいい出来だったのにな。滋賀県と野沢房敬の古傷を暴くようなことを書こうとしたのが祟ったにちがいない。うんそうにちがいない。
要するに事故は泥縄式に改善するしかなく、すればするほど次の事故が意外な原因を起因として発生し、被害が大きくなりもすれば世間耳目を集めることにもなると気づいたよーん俺ってすごいテヘペロ星マークということが書きたかった。泥縄式だからといって唾棄してもいかんのだろうな(それが今日の技術の高さをもたらしたのだろうな・そういう国民性なんかもな)とも。今日の便利な暮らしの奥底には過剰反応と泥縄式対応とその結果生まれた新技術とが澱のように蟠っていて、一部はもはや化石化しつつあり、そういう化石を掘り出して遊んで生きている自分なのだからそう易々と否定してはいけないのだよnagajis。
天然鯛2匹分298えんがさらに半額お値打ち品になっていたのに抗うことができず買ってしまった故適当に味付けし適当に煮たらそこそこ食べられるものになった。しっかし鯛の頭って小骨がすごいのな。これでもかという位に沢山の小骨が出てきて小皿にうず高い骨の山が積み上がった。人間の歯のような食感?歯触り?のするものもあってちょっとゾクゾクしたりもした。いるかどうかはわからないが、鯛の骨格標本を作った人がもしいたら偉いと誉めてあげたい。ってそうやって作るもんじゃないだろうけど。
そろそろ本腰を入れねばと思い一気に通し書く。事前予想通り大きな発見がなかった探索なのであまり面白くできない。一種敗戦処理のような記事になるはず。
そんな感じなので小記事を多目に書かねばならない気がしている(受けるかどうかではなく自分の 矜持 として)。そのための資料もこの間取得しに行ったが思いのほか有益でなかった。二見理論ちゃ何やねんが解決できていないままだ。
その他の定例記事は各々8割書いてある。13日が潰れるのだから 早めにpdf化しておかないといけない。
受付のをpdf化。しかし羨ましいぜ・・・&自分の絵葉書がしょぼいぜ。
次号もまた記事が少なくなるらしいので書かねばならぬ。月報は13日の天川行きの結果次第。行く前に片付けられるところは片付けておかないと。
石原氏が出てきた辺りからすっかり魅力がなくなってしまった感じがする・・・一時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったのになぁ。
なんという脈絡もなしに買ってしまった一枚@100えん。七尾港開港25周年記念の絵葉書であるらしい。どういう作りになっているのか気になるけれども、確認しに行く機会もないし頼るツテもない。掲げていれば気にしてくれる人が拾ってくれるに違いない。託す。
t/o.
一日中ポチポチしていた割にはちっとも進まない。しかも突如背景説明が始まって、それが延々と続くという、一番読まれないパターンになっている。危機感は感じないが徒労の予感が扮々だ。いっそのこと探索ルポなしでBG説明に終始してはどうか。んで発見した物々の個別説明と。うん、そうしよう。街道は街道で書いたほうがわかりいいだろうしな。
今日探索に行けなかったことで11月分〆なければならなくなった。さっさと送っておこう。ついでに未提出の調査票と修正調査票も同梱と。そうして缶ゴミを出し損ねた。アホみたいに溜まっている。
前回の成功に気をよくしたnagajisが、今度はカンパチのアラ480えんの半額を買ってきて同じことをしたらしい。鯛に比べて脂身が多そうだったのでさっと湯通ししたことと、千切り生姜を加えたのが奏功したらしい。もうご飯2杯を平らげて満腹幸せのほほーいのほいらしい。
魚の目玉は旨いといって、親兄弟は好んで食べていたけれども、自分はあまり好きではなくて、人にあげたり残したりすることが多かった。しかし食うものが貧しい今、食わねば勿体ない精神から箸をつけてみたところ、滅法旨いことを認識させられ憧目させられている。特にカンパチは旨味のある部位が大きくてうれしい(目玉が大きいわけではないらしい。その奥にあるゼリー状の組織が大きくて旨い)。ヒレの皮身も案外旨い。小骨が多くて大変だが一本一本せせっては捨て、せせっては捨てして食している。身自体はあまり煮物に向かないようだ。やはり刺身か寿司ネタとしていただくのがよい>身。
このカンパチ、つい最近まで海を泳いでいたのだなあとふと思い、ちょっとした感慨に浸った。果てしなく広がる大海のとある一角を泳いでいたやつが釣り上げられるか網にかかるかして捕まって何百kmも輸送されて解体されて店頭に並んだのを偶々私が買い求めて煮て食ったわけだが、果たしてこのカンパチ君、そういう運命を予期したことがあるだろうか。まさかこんな所で骨の髄までしゃぶられようとは思ってもいなかったに違いない。目玉まで啜られようとは思わなかったに違いない。そもそも私だけでそれを為すことは不可能であった。塩漬けにも薫製にもしていない海の魚をこんな手軽に手に入れて調理して食すことができるのはとんでもなく有り難いことではないか。「いただきます」「ごちそうさま」が自然に出るというものではないか。みたいなことをふと思った。ほんとはどんな食べ物にもそう思わないといけないんだろうけどね。コーヒーなんて地球の裏側からやってくるんだぜ?
ふと、残った汁でジャガイモを煮たら旨いのではないかと思い付く。しかし台所にあるジャガイモがメークインであったか男爵であったか覚束無い。男爵だと ぼろぼろに煮崩れてしまい収拾がつかなくなりそうで怖い。そもそも魚を煮た汁でジャガイモを煮ると魚臭さが凝縮されてしまいそうな気もする。そうならないために生姜を入れたつもりだったのだがケチり過ぎて風味が漂うだけになった。魚煮物ならそれくらいでもいいだろうが。なおメークインと男爵の性質を取り違えやすいnagajisである。いちいち「男爵->野郎 ->なのに柔らかくなる」と考えないとどっちがどっちだかわからない。この例に限らずnagajisは咄嗟に答えるというのが下手だ。「箸を持つほうが右」式の確認をしなければ答えが出てこないことが多過ぎる。これで一般社会生活が営めるはずがない。
久しぶりに飯ごうで飯を炊いたら少々失敗した(家に炊飯器などという文明の利器はない。いつもコッヘル+ガスコンロで炊いている)。コッヘルと飯ごうでは炊き加減が違うことを忘れている。アルミの厚さと形状の違いは結構大きかったりするのだが、とはいえ飯ごうで炊くときの加減ってどんなだっけ? 少し強火でまんべんなく火を廻すんだっけ。あと、水を二倍量強にしなければならなかったはず。コッヘルは二倍でよい。
コッヘルのほうがカリカリ(後片付け)が楽なのでいつもコッヘルを使っている。「飯を炊く!」という雰囲気としては飯ごうのほうがいい。特に焚き火でやる時は飯ごうでなければならぬ。コッヘルだとプラ部分が痛んでしまうし。オキで炊いた飯ごう飯の旨いことといったら。嗚呼焚き火がしてえ。煙に薫されてえ。
焚き火(オキ)で飯を炊くと瞬く間に炊き上がるので毎度驚く。吹いてもいないはずなのにいつのまにか出来上がっている。油断すると盛大に焦がしてしまうはずだが幸いそこまで行ったことがない。粒が立つようなほくほくご飯をうみゃーうみゃー言いながら食べた記憶しかない。幸せ者だと思う。なお今使っている飯ごうは2002年の夏に猪苗代湖畔のキャンプ場の炊事場に焦げ切ったご飯が入ったまま捨てられていたやつだ。余りに不憫なので回収してやった。
最近は出番があまりないが長旅に持っていくと色々捗る。飯ごうで飯を炊きコッヘルでおかずを作るという至極当然のことができる。もっとも昔は小さな深底フライパンとコッヘルという組み合わせで持っていくことが多かった。飯ごうはかさばるのだ。どうしても。炊いた飯を運んで昼に食うのは便利だがそれ自身を納めるスペースが確保しづらい。飯が入ったままだと鞄の外にぶら下げるスタイルも使えない。
県令第38号チャア何か、と思っていたら、ずいぶん以前に該当広報をコピッてきていたのだった。えろいぞnagajis。しかし本当にこれなのかは心許ない。
●奈良県令第三十八号
河川、堤塘、道路、橋梁、堰「棣-木+土」、樋管、閘門、用悪水路、溜池等興廃変更取扱規則左の通相定む
但明治廿七年六月奈良県令第三十号は本令施行の日より廃止す
明治三十二年九月十九日 奈良県知事 寺原長輝
河川、堤塘、道路、橋梁、堰「棣-木+土」、樋管、閘門、用悪水路、溜池等興廃変更取扱規則等興廃変更取扱規則
- 第一条
- 河川、堤塘、道路、橋梁、堰「棣-木+土」、樋管、閘門、用悪水路、溜池等の興廃変更及其係属工作物の新設変更除却並復旧工事にして原形を亡失し経年の久しき為新設に等しきものは左の各号を取調関係町村及関係者連署の上所轄郡市役所を経て出願許可を受くべし
- 但関係町村若くは関係者に於て連署を拒絶するものは其理由を別紙に詳記し添付すべし
- 一、工事設計書
- 二、実測平面図及縦横断面図
- 三、計画説明書
- 四、郡市町村又は公共組合の起業に係るものは其議会の決議書
- 五、費用出途方法及将来維持方法
- 六、潰地反別一筆限り取調書及其求積図並に潰地の処分方法
- 七、国県道路、橋梁等変更の必要あるときは明治十九年八月内務省訓令第十三号道路築造標準に拠り図書を調製すべし
- 第二条
- 河川、堤塘、道路、橋梁、堰「棣-木+土」及河川堤塘に係る樋管、閘門並に前条第七号に係るものの願書は正副弐通の外に写堤塘を添付し其他のものは壹通とす
- 第三条
- 実測平面図には縮尺、郡市町村大字境界、地名、小字名、道路、水路、橋梁、森林、原野、耕宅地其他地形を顕わすに必要なる付近の状況は悉く詳記し計画線を朱記し直線の長及方向曲線の長及半径測点等を記載すべし
- 縦断面図には縮尺、土地の高低、距離、勾配、郡市町村大字境界、水路、橋梁、切取、盛土其他参照に必要と認むべきものを詳記し横断面図には測点毎に調製し尚高低甚しき部分は便宜調製し縮尺を記入すべし
- 第四条
- 橋梁、堰「棣-木+土」、樋管、閘門等は平面図(前後河川の現況をも記入したるもの)側面図其外構造を顕すに必要なる図面及施設場所の河川横断面図を添付すべし
- 第五条
- 計画説明書には興廃変更若くは復旧を要する理由、起業地の地形、土質、水利の利害関係、従前配水の形跡、修理保存費の多寡、交通の便否、新旧路線の長短、工事仕様方法其他参照に必要と認むべきものは逐一詳記すべし
- 第六条
- 潰地反別一筆限取調書には郡、市、町、村、大字、字、地番、地目、親反別(分裂未済のものに限る)、潰地反別、所有者住所氏名等を記入し合計を付し尚現在地目に拠り潰地成地目(道路成、堤「棣-木+土」成、溜池成、溜池堤防成等)毎に内訳すべし
- 求積図は一筆毎に求積したる間尺を記入すべし
- 第七条
- 既に許可を得たるものにして変更の必要を生じたるときは其事由を詳記し新旧設計書及図面を添付し更に許可を受くべし
- 第八条
- 工事竣成したるときは竣成後七日以内に実測平面図を送付し其旨届出づべし
- 第九条
- 第一条に係る工事の為官有地の必要あるときは土地払下、譲与又は地目組換を別に願出、民有地を官有地に上地するものは起業出願と同時に第一号書式に拠り地主一同調印し所轄郡役所を経て地種目組換出願すべし
- 前項地種目組換願書は登記を経たる土地に限り各人別に之を作り且つ第二号書式に拠り各承諾書を添付すべし但金銭其他物の数量年月日及番号等を記載するには壹、弐、参、拾の字を用ゆることを要す
- 第十条
- 第一条又は第七条に違背したるものは期日を指定し作業人の費用を以て復旧を命ずることあるべし此場合に於て指定期限内に復旧せざるときは官に於て復旧を為し其費用は作業者をして弁償せしむるべし
- 第十一条
- 法人以外のものにして第一条又は第七条に違背したるものは前条に依るの外一日以上三日以下の勾留又は二拾銭以上壹円二拾五銭以下の過料に処す
(第一号書式、第二号書式省略)
やっぱり違う気がするなあ。なんで事業報告書が閉じられているのかわからん。後年の第38号なんだろうか。それとも改正されたんか。
前回の分まで書ききった。姑息ではある。
朝早く起きることができたら・・・と思っていたが敢えなく敗退。かわりに昼から奈良図へいく。
諸外国の秀峰で「神の山」という意味の名称で呼ばれているものは多いと思う。 北海道の神威岳を例に挙げてもよい。なんとなく「カッケエ!」と思う。けれども顧みれば、日本で「神山」って呼んでるものと同じなのだな。スティーブ・仕事とかドナルドの息子とか。外国語から日本語に訳すときに妙なのではなく、日本語から外国語にして日本語にし直した時に妙が出る。翻訳サイトで日→英→日と重訳した時の可笑しみにちょっと似ている。
魚の目玉は旨いといって、親兄弟は好んで食べていたけれども、自分はあまり好きではなくて、人にあげたり残したりすることが多かった。しかし食うものが貧しい今、食わねば勿体ない精神から箸をつけてみたところ、滅法旨いことを認識させられ憧目させられている。
It said that a corn ball was nice, and although parents and brothers and sisters were fond and were eating, he did not so like it, and raised or left them to people in many cases. However, if not eaten now when what is consumed is poor, when chopsticks are attached from wasteful soul, it is made to recognize an awfully nice thing and carries out [ 憧 ].
それは、トウモロコシ・ボールがよいと言いました、また、親と兄弟姉妹は好んでいて食べていましたが、彼はしませんでした、したがって、そのように、また上げられた、あるいは多くの場合の中にそれらを人々に任せました。しかしながら、もし消費されるものが貧弱な時、箸が不経済な魂から付けられる時、今食べられなければ、それはとてもよいものを認識するために作られ、[憧]を実行します。
Although it said that it had a good corn ball and parents and brothers and sisters were being fond and eating, he did not do, was raised such or left them to people into in the case of many. However, if it is not eaten now when what is consumed is poor, and chopsticks are attached from an uneconomical soul, it is made in order to recognize a very good thing, and performs [憧].
よいトウモロコシ・ボールおよび親を持っており、兄弟姉妹が好んでいて、食べていた、とそれは言いましたが、彼は行いませんでした、上げられた、そのような、あるいはそれらを人々に任せた、へ、多数の場合には。しかしながら、消費されるものがいつ貧弱かが今食べられず、箸が非経済的な魂から付けられる場合、それは非常によいものを認識するために作られ、[憧]を行ないます。
although it has a good corn ball and parents and it said that brothers and sisters were fond and were eating, he did not carry out -- it was raised -- such -- or them -- people he left -- passing -- many cases. However, when it is not eaten now when what is consumed is poor but chopsticks are attached from a noneconomic soul, it is made in order that it may recognize a very good thing, [憧] is performed.
それはよいトウモロコシ・ボールおよび親を持ち、それが、兄弟姉妹が好んでいて食べていた、と言いましたが、彼は実行しませんでした -- それは上げられました(そのようなもの) -- あるいはそれら -- 彼が残した(通行)人々 -- 多くの場合。 しかしながら、消費されるものがいつ貧弱かが今食べられない場合、それは非常によいものを認識するために作られます。しかし、箸は経済外的魂から付けられます、[憧]が行なわれます。
消費されるものが貧弱な時、不経済な魂から箸は付けられるのである。そうして [憧] は実行されるのである。
その逆で、固有名詞の固有名詞感?出涸らし感?をほぐせば何だって格好良く感じられるものなのではないか、とふと思ったが適当な例が思い浮かばない。無理矢理やると厨二病っぽくなりそうでもある。
カロリーメイトの袋 が上手く開けられなくてイラついたことがあるある人は多いに違いないと思う。廃道マニアの数よりも多いに違いない。にも拘らず対策を施さないのは何故なのか>大塚食堂製薬。消費者をばかだろ。いやばかにしているだろ。 あの印刷で万事解決するとでも思っているのか。
カロリーメイトの袋は横に開けるべきである。縦に裂こうとさせるから端が斜めに切れて反対側も同じくなってパンツ被ったような情けない姿を現出させてしまう羽目になるのだ。もしくは真ん中から裂こうとして詰まってしまいそれでも無理して引き裂くために勢い余ってUMDになるのだ。くそ。そうならないように横向きにくるっと剥ける新包装を開発する仕事にさっさと戻るんだ。と何時になく強気のnagajisである。理由は推して察していただきたい。
関東大震災のせいで煉瓦建物が姿を消したという話は、最早都市伝説に分類してよいのではないか。煉瓦産業はそれ以前から衰退の兆しを見せていた。コンクリートの普及で。by日本土木史。というのは以前一度書いた気がする。
都市伝説を都市伝説と断じて悦に浸るのは、どこそこは被差別部落だと陰口するようなのと変わらない気がしてきた。他人が知らないことを知ってるんだぜヘッヘーンという気分と同列であり、穿った物の見方即ち正義と信じてやまない人々に相通じるものであり、廃隧道と心霊スポットをイコールでしか結べない勿体ない人々である。たまにはそれを本当だと信じてあげる度量を持ってもええじゃないか。そのうえで分析したらどうだい。と、 こんくらい書けばnagajisも反省するだろうか。
万年床が余りに冷たく固くなってしまったので、もう一枚の敷布団を敷きながら、無意識のうちに呟いた言葉は
マット、マッター、マットレス
だった。何が彼をそこまで追い込んだのか。
似たような口合いで
ホット、ホッター、ホッタッター!
というのをやったこともあった。勢いだけが支配するこの巫山戯た世界へようこそ。君はカウボーイ。
SPAMフィルタ再構築の刑・・・・・・。納得が行かん。オロロンオロロンオロロンバイ。
さいごのを書いていたら結構手間取った。まだすっきり〆られてない。何を書いたら一連の記事が締められるのか・・・・・・。今日中にpdfかからんとまずいのだぞ。いくら期末に手が空くといってもなだぞ。
次々号で81号になるのを記念して廃道81選をリベンジしてはどうかなどと考えてみたりしている丑三つ時。もっとはよから告知せんと絶対集まらんって。また自分だけしかやらなくって、ひいひい言って卅数個しか書けないに決まってるって。
この寒波で天川村は真っ白らしい。失敗した。都合などあてにせずに勝手に突っ込んでおけばよかった。13日までに少しは溶けてくれるだろうか?
なんとかおわらせた。ここからまた長い・・・。諦めて明日まで作業るか。
頑張って地図まで入れた。この作業で夜が明けてしまったがやはり敗戦処理感がぬぐえない。予め断っていた通り発見に一喜一憂するような探索ではなかったからな。どうやって改善するか・・・って今から何とかなるもんでもないか。
年の瀬が迫るにつれてあれやこれやの泣き言が出てくる。1年積み重なることは有り難いことだがそれに応じた成果が出てるかと言えば決してそんなことはない。また無駄に、無為に1年経っただけじゃないかとしか思えぬ。かといってじゃあどんなことが成果と考えているのか。それもない。どうしたものかと思う。
四人が五人逮捕
詳しくは次々号にて。やっぱりね、教育委員会の人って変わらないほうがいいと思うんだ・・・。
写真は洞川電気索道の川合駅があったはずの場所。川合の雪はこの程度で助かった。お陰で大峯鉱山へ行くことができ、23kmのはじめとおわりを確認できた。確かに虻峠を向いていて、だから洞川屈曲停車場だったのだなと一直線に繋がったのだが、雪に覆われていたせいで残されていた構造物群を子細に吟味することはできなかった。雪が溶けた頃もう一度行きたい。
もし自分が篠原索道へ行っていなければ、アレが何を意味するものなのかわからなかったに違いないが、わかったところで何故そこに? がまだモヤモヤしている(故に今回の月報では外させてもらった)。そういう模式図をどこかで見た記憶もあるのだが。
あ。大支柱の直前だから、長スパン飛ばすから緊張が必要なのか。何も端から引かなきゃいかん道理はない・・・!Year!(書いてみるもんだなあ)
やっぱり大支柱の所在地を明らかにする必要がある。見つけて位置を特定しなければ意図したところが明らかにできない。例え3年間しか活躍しなかったアレだったとしてもだ。
和田発電所。九尾堰堤。川迫発電所(建物が地味に面白い。弥山発電所にもあるんじゃね?)。天川発電所遺構。あると思って探さないとこういうのは出てこないもんです。残りは役場の人にお願いしてもいいなあ>天川。
天川村の印象。不思議なくらいに活気がある。今まで訪れた村々のなかで最も多くの人を見た気がする。住んでいる人を見た気がする。孫と遊んでいる爺ちゃんとか、おでかけ中のおかあさんとか。雪にもかかわらず。何でそんなに潤ってるんだろう。やはり観光資源がいろいろあるからか。登りやすい高い山があるからか。
川迫土工森林組合の件。鋼製吊り橋とか。
講演会の内容のテープ起こし。。。すんげー大変。やっぱり動画にするべきではなかったかも知れぬ。とはいえICレコーダでも大変さはかわらないのだけどね・・・
なんにせよ外国から郵便物が届くというのはドキワクものである。感謝!
長殿急を書くときに若干うろ覚えのまま書いてしまっていたので再度読みに行く。改めて林安繁の怨嗟の念凄まじを痛感。これが昭和17年に出版されたものだということを念頭に置いて読まなければならぬ。
電気事業黎明期から昭和一けた台までは、官民がちょうど親子のような関係で互いに相補いながら発展してきた。林が「両者の間には温かき情愛が、脈々として流れていた」と表現するほど睦まじいものだった。
然るに満州事変勃発以来、所謂革新的思想が官庁の間に瀰漫し、その結果として自由経済打倒論が台頭し、民間事業者を目して、単なる利益追求者と認め、その間に於ける経営の苦心の如何に大なるかを考慮の中に入れないで、氷の如き冷やかさを以てこれを批判し、これを打倒せんとする思想が生じ、各官庁の中層階級に横に一線を画して、殆んど例外なしに瀰漫したのである。
して、昭和10年頃から電気事業国営論が唱えられるようになる。最初は企画院の方面から起こり、それが発表された途端に電気事業者の株式が暴落。さらに昭和11年3月、 広田弘毅内閣の頼母木逓信大臣により逓信省案が出されて又々暴落。
即ち従来の事業を護(も)り立て、これに依って生産の拡充を図らんとする方針が一変して、労力に対する当然の報酬たる利益を制限し、事業の発達を抑圧することに主力を注ぎ、茲に官民対立の形勢になったのである。
頼母木案:配電事業(電気の小売事業)を除き、電気事業そのものを取上げ、その財産価格を評価して、それに相当する額を新設する発送電会社(=日本発送電)に投資するという形で「政府は一文半銭を費やさずして」国家による電力管理を成し遂げようというもの。
これに対し、民間電気事業のみならず財界一般も大反対した。曰く事業者の資産を強制的に取り上げることは憲法で保障された財産権を侵害するものである、曰く国営化によって電気料金を2割3割減じることができるというけれども、各国の現状に照らしても、国内各種の物価に比較しても決して高いものではなく、この十余年物価が上がり続けている中で電気料金ばかり下げられている実情がある、これ以上下げるすべき筋合のものではない。等々。
頼母木案は昭和12年1月の内閣総辞職で消滅したが、同年6月に第一次近衛文麿内閣が成立し、永井逓信大臣が再び電気国家管理問題を掲げた。
永井案:火力発電設備、送電幹線を徴収し、半官半民の日本発送電会社を設立(政府は株式を所有せずだが強力な管理下に置く)
この案では水力発電施設を事業者に残すとしたが、林曰く「重大なる欠点」。斯界の基本方針は水主火従であって、火力だけ接収しても効果がないことは(徴収される側にとっても)明らかであり、愚策に他ならないと糾弾している。
永井案は民間事業者も出席した審議会の場で諮られたが、場に出された時点ですでに成案同様となっており、「民間と協議した」という体裁を整えるためだけに開かれたらしい。そのくせ議会に提出された法案は審議に手間取り、閉会後に一日延期したうえに各種条件を付与せられて辛うじて成立(電力国家管理法と日本発送電会社法: 昭和13年3月23日 。同時に国家総動員法も成立。同4月1日施行 )。そうして懸念された通りの成績不良だった。
これ即ち逓信当局が日本発送電の第一期配当六朱可能なりと、議会の本会議に於いても度々言明して置き乍ら、その実際は年四分の配当とし、而もその四分すら政府の補給を受けて辛うじてこれを為し得るという窮状を暴露した
第一条に標傍した「電力の豊富低廉」が実現しなかったのは勿論、電力不足のため節電のやむなきに至る有り様であった。
次いで昭和15年7月に第二次近衛内閣が成立、村田逓信大臣が水力発電の徴収を目す(電力統制令)。昭和16年8月に公布・即日施行。
前二案は各界の猛反発に遭ったが、村田案への反対は割合少なかったという。そこには横暴になっていく政府に対する諦観があった。この部分が最も痛烈で、当時の有り様がありありと伝わってくる。
最早発送電其物が国家管理となった以上、殊に料金の絶対的決定権が政府の手に属した以上、配電事業のみを民間事業者が経営したとて、事業に対する旨味はないのであって、寧ろ配電事業も合せて、国家の思う通りにするのがよかろうと我々は考えたのである。
言葉を換えて云えば、永井案の国家管理は、茶碗に罅が入ったようなものであって、最早完全なる茶碗ではなく、何れの時か罅のところから割れて二つになることは、判り切って居る。それが判っている以上は自ら進んで叩きつけて割った方が得策であって、善かれ悪しかれ革新思想の理想通りに御破算となし、改めて出発する方がよいのである。但しその御破算にして出発した新しい茶碗が、仁清作のような素晴らしい国宝級のものになるか、そこらに転がっている五郎八茶碗になるかは、自ら別個の問題であって、心ある者の窃かに憂慮したところであった。
そんなこんなの経緯で日本発送電株式会社と9つの配電会社による電力統制が完成する。宇治電も前後2回の分割の末、昭和17年3月31日に消滅した。
果たして新生茶碗はどうなったか。それはまだ漠然としか理解できていない。日本は太平洋戦争に突っ込み、負け、日発は昭和26年に解体された。
宇治電の水力発電施設が没収されたのは昭和16年だったはずだが、それ以前から兆候はあって、弥山・川合発電所の建設には日本発送電も出資していた。やがて取り上げようという下心があったのか、それとも電力国家管理法がそういう法律だったのか。たぶん後者。
してWikipではS13時点で出力5000kWを超える水力発電をも収用したような感じに書いてある。林の言ではS15の村田案でということになっている。うーん理解が足らん。巻末年表でも後者だった気がする。
そうそう、「道路の改良」はとても内務省寄りの雑誌だったことを忘れてはいけない。あの雑誌で当時の雰囲気を知ったつもりになってはいけない。牧される側の民は民で言いたいことがあったはずだ。
編集長といってもORJの話ではない。KINIASの話である。何の因果か学会誌の編集委員長を仰せつかって3年目。今年も胃が痛い年末が来た。今の時期が学会誌編集の一番忙しい時期である。
ORJのへんしゅーいーんちょーなんて元から形骸化しているから、へんしゅーちょーとか偏執長とか巫山戯ていられるが、学会誌となるとそうもいかない(仕事の軽重を論じてるのではない。結果が自分だけに降りかかるか否かの違いでそう思う。ORJはやってる本人が飢えて死ぬだけだけで済むからな)。最初は何もわからないまま、場の流れ的に、何とかなるだろうと思って引き受けたのだが、その見通しはずいぶん甘いものだったと反省せざるを得ない。引き受けたもののレベルを維持しなければならないことがこんなに大変だとは思わなかった。 成果物を受け取って「へー」で済んでいた頃がどんなに楽だったか知れない。
自分よりもものをよく識っている方々とやりとりせねばならぬ。地位の高い方と亘り合わなければならぬ。恐ろしく気を使う。査読だってそうだ。その論文の良し悪しを判断できる人物を見つけて「これチェックしてね」とお願いせねばならぬ。その人選を編集長一人が背負って黙秘せねばならない。
この編集長権限は重くて重くて敵わない。使い慣れない宝刀だ。覚えたての慣用句で云えば長鞭馬腹に届かずである。もうちょっと広い知識を持って、どんな分野にも一言言えるくらいにはなっていないと、何をするにしても受け身あるいは下手(したて)に出がちになる。そういう編集長は求められていない。この場に於いては。それはよく理解しているつもりなのだけれども、だからといってどうすれば広範囲な知識が得られるかがわからない。「産業遺産」という言葉ほど対象とするモノ・分野は大きい。工場とかダムとかだけ知っていれば済むっていう話しでもない。無論廃道マニアであることなんてこれっぽっちも役に立たない世界である。そういう無知者ですよと開き直ることもできぬ。さすがに3年目だしな。謙虚にならざるを得ず、しかしそれだけでも事は回らない。
大学へ行って良かったと思うことの一つが、論文というものの存在とその意義を理解したことだった。こういう仕組みがあるから大勢の知識を一ヶ所にまとめ積み重ねることができ、利用してまた新たな何かを見つけ出すことができるのだと。人類の英智の結晶が結晶たる所以なのだろうと思い(一般的にどう捉えられるかはさておき)崇高なもののように思えた 。 決してノルマを達成するためにあるのではない。 そこに組み込まれるものであるが故に不純物であってはいけないのであって、生半な覚悟じゃ荷担できないよ、しちゃだめだよnagajis、という話をしてnagajisを躾ておく。とかいっていくつか混じってるけどな既にnagajisのが。
最近なぜか無線LANがプチ切れるわルーター再起動するわ復帰せず無限再起動繰り返すわで困惑するようになり何処ぞから事務局へ向けて毒電波が発せられ活動妨害されているのではないかという疑心暗鬼にさえ取り憑かれていたのだが単にターミナル~ルーター間のLANケーブルが腐っていただけだった。ケーブルを交換したらあっさり直った。そういえば昔も会社でそのようなことがあった気がする。可動部品でも大電流が流れるわけでもない分故障を見落としやすい。
煉瓦刻印<>会社の対応はできるけれども、それ以上の情報(例えばその煉瓦がいつ焼かれたものなのかとか、どのような経路を通ってそこへ落ち着いたのか、誰がそれを積んだのか)とかまで解るものじゃない、というモヤモヤがある。会社によっては使っていた刻印が年によって違ったり、副印(所謂責任印)を使ったり使わなかったりがある。そのへんが体系的に明らかになったら、煉瓦から色々な有益情報が得られて便利だろうと思うけれども、現状ではそこまで行っていない。煉瓦のサイズも然り。どの分類にあてはまるか言うことはできるけれども、それだけで出所を明らかにはできない。
桜塚高校の煉瓦壁は、基部に大阪窯業と岸和田煉瓦が半々くらいの割合で混じっていて、一番最後に積まれたことが物理的に明らかな柱状構造物の天辺にのみ讃岐煉瓦?が使われている。このことから確実に言えることはわずかしかない。
・煉瓦はどこぞの卸商か小売業者から入手したものと思われる。違うメーカーの同じサイズのものをごっちゃにして卸してた/売ってたに違いない。
・柱状構造物は後から作られた可能性がある。もしくはその柱を積むのに好都合なサイズの煉瓦がたまたま讃岐煉瓦?製だったか。これは寸法を図れば解決するか。ただしこの部分に大阪窯業のがあったりもする。もしくは一部損壊して積み直したか。
使われている構造物の建造年が明らかで/会社の刻印の使用期間が妥当で/かつサイズもちゃんと数個平均で出せているようなサンプルを数多く集めれば、そういうモノサシが作れそうな気がするが、かなり大変だ。
あと、それがわかったら何になるか?が見通せてないと。
厳密性?厳格性?ばかり追っかけてたら息苦しくなることはわかってるつもりなんだよね、これでも。知らない者・追従しない者が発言しちゃいけないような雰囲気になったらそれもそれで問題。原則思い出してみー。
よく通る割に知らないところが多かった奈良盆地南部(大和高田、御所、高取、葛城)を自転車で回ってきた。要は道路元標と天皇陵参拝道を片付けるためだったのだが、それ以外の収穫が同程度以上あって中々面白い一日になった。昨日はその後片付けをばしておった。
しかし、何でこう、説明の必要な物件ばかり見つかるのだろうか。写真一枚で被写体のすべてがわかるような、誰もが納得してくれるような物件がひとつもない。そもそもnagajisの写真が悪いというご意見は甘んじて受けるか無視する。
2002.6.12撮影。 一充電で100枚くらいしか撮れなかったS6900zのくせにこんな写真を残している10年前のnagajisが謎。確か「一文字だと縦看板なのか横看板なのかわからんよな」と思って撮った覚えがある。余計に謎である。
2012.12.20撮影。いま見てもちょっと反応してしまう。しかしローマ字表記があるということは横看板だよなということで10年越しに解決した。10年前のnagajisの目が節穴なことがここでもまた立証された。
しかし雪国等で縦にしなければならない場合はどうするのだろうか。半角文字の回転で入れるのだろうか。横看板のくせに縦の辺のほうが長くないか。
余りに旨かったし白かったのでここに上げてホワイトクリスマスにしたる。
頂き物の酒粕汁を作成。大根・人参・蒟蒻を薄塩味@圧力釜で煮込んだのち、玉葱油揚げ鮭葱を投入して溶いた酒粕と昆布だしで煮込む。本来は味噌を入れねばならなかったようだが白いのが久しぶりに食べたくなったので遠慮。かわりにほんの少し醤油を加えた。
旨い。余りに旨い。味の染みた大根が旨い。歯応えがありつつさっぱり塩気な蒟蒻が旨い。鮭の味わいが旨い。その他も旨い。何より酒粕汁が旨い。ハラショー。オーチンハラショー。皆もクリスマスには酒粕汁を食すのだ。それが日本人の務めなのだ。
クッキーが大層旨くてその必要性がなかったというのもあるのだが、ケーキを買ってくるのを忘れたぞ。
「メリークリスマス!」というSubject:のスパムメールを万分の一の確率に賭けて開いてしまったnagajisを叱咤したい。
「管内電気事業要覧」の電気事業者一覧では、葛城水力電気の免許申請は大正7年1月24日、発送電開始は同年12月30日となっているが、当初は火力発電でスタートし、後に水力発電へ切り替えたのではなかったか(公文書でも「関屋第二発電所」と書かれたものが多く、建設理由も現在供給中のものに加えてということになっている。そうではなく下流にごく小規模の発電所を設けていたようなおぼろげな記憶もあり断言できない)。また「関西電気事業百年史」では昭和4年頃竣工となっているが、これも正確ではないようだ。大正13年12月25日に工事申請、同14年9月22日付で許可が降り、翌年大正15年12月20日に竣工届が承認された旨が、公文書「水利使用工事実施変更許可」(1-S12-60)に綴られている。
同公文書の「水越川水利使用許可願」によると、葛城水力電気の取締役社長は喜多長左衛門。葛城村生まれの篤農家で、果樹栽培の普及に功績があったほか、各種起業にも参画した(大峰登山電気鉄道の発起人にも名を連ねている。南和鉄道でも役員してなかったっけか)。申請理由は前述の通り。水路長510間、使用水量は2.5立法尺/秒、有効落差318尺1寸4分、88馬力の電動機で48kWの発電を行うとしている。もともとこの場所には大正10年に金剛水力電気が発電所を計画し、その免許も取得していたが、竣工期限内に完成せず失効していた(公文書「大正十、十一年 水越川水利使用 南海鉄道株式会社」(1-T10-60d))。葛城水電の関屋発電所はその計画を引き次ぐ形で実施されたものらしい。なお金剛水力電気は大正3年水越峠の大阪府側に千早発電所を建設し、後に南海電鉄系列の子会社となって、昭和37年頃まで稼働していた(「河南町史」p.517他)。沿道にその遺構が残っている。
取水堰堤は、役行者行場との伝承がある「祈りの滝」祈滝谷と水越川の本流が合わさる地点に置かれ、そこから左岸伝いに葛木水分神社の辺りまで水を引き、落とすという導線だった(金剛水電の計画ではもっと上流の丹生谷に第一の取水堰堤があった=より大出力の発電を計画していた)。また発電所建屋は当初本流左岸側に設ける計画だったが、工事着手後に右岸へ変更されて、その位置で開業したようだ。
昭和4年の夏には大雨で水路が大破した。筧(かけい)で応急復旧したのち水路を改修しようとしたが、秋にも大雨に遭って遅延し、完成が11月までずれ込んでいる。「関西電気事業百年史」が昭和4年竣工としているのはこの復旧のことを言っているのかも知れない。昭和12年8月に宇治川電気に買収され、17年4月には電力統制令で日発へ、戦後に関電所有となり昭和38年3月まで運転されたとのこと(同書年表)。その間ずっと出力43kWであり続けたという、細く長くの生涯を送った小規模発電所であった。
ということを書くために4時間も5時間も費やすなっちゅーの>nagajis。メモを発掘したことだけは誉めておくがよ。
ぱんぱかぱーん。ぱ、ぱ、ぱ、ぱんぱかぱーん。記念すべき300回目である。継続は力也を地でゆく本部録"のメインコンテツンである。思えば(以下略)。ではどうぞ。
先日五條市街で見かけた看板。ここまで共感を拒む看板はなかなか無かろうと思う。品詞分解したら各々の語の意味はわかるのだけれども、繋げるとさっぱりだ。「癌の」も「天敵」もわかるけれども、「癌の天敵」って何だろう。抗癌剤とか放射線治療とかそういうことか。しかし癌って自分の細胞が癌化するのであって敵と表現するに相応しいものがあるようには思われぬ。続く「毒菌を指摘す」はこれ一行で完結しているのか、それとも「国」あるいは「社」にかかっていくのか。後者だとすればそれによって何を意味しようとしているのか。そのうち国、社ってナンダという話になり、小学校の時間割表記が思い出され、しかし「協力願う」の主語にはなり得ないと思い直して結局共感を断念せざるを得なかった。国語と社会にお願いしてもどうにもならないだろうし先ず以て何をお願いしようとしているのかからして解らない。
下に掲げられている一文も謎。 知識や知恵で答えが見いだせないなら、一体どうしたらいいのだろうか。行き当たりばったりで問題解決すべきということだろうか。それにしては看板をつくって掲げるほど用意周到じゃないか掲載者は。
「不可能也」と強く出られると「はあそうだったのか」と思わざるを得ず、しかしじゃあどうすればが皆目わからない故に自分の愚かさを詰られた時のような思いがする。それもまた共感を遠ざける遠因になっている。
日本建築家協会近畿支部奈良地域会主催でパネル展が行われているとのことだったので行ってみた。今回の調査で見つかった物件を中心に数十件を写真にて紹介。良い物件がこれだけ見つかれば、他県に劣らない立派な報告書になるだろうと思って安心した。
主催が主催だけに建築重視の内容なのは仕方ない。が、せめて端駆橋か池原橋くらいは取り上げてほしかった。 また目立つ物件ばかりだと他がくすんで見えてしまうから困る。うちはそういう華がないからなあ(悔しければ個人でパネル展やるといいよ>nagajis)
御杖小学校以外にも現存する木造校舎は山のようにある。あと助詞の修正を失敗した誤植が一件。
天理の市街地図と御所市史をゲット。これで第38号がらみが調べられる。御所市史には葛城水電の話が一切なく、かわりに水越峠の元禄の騒動を詳しく書いた記事をコピっておいた。当然ながら2600年がらみだとは書かれていず。
天川丹生街道の峠名について補足。「奈良県吉野郡史料」中巻天川村の条の道路の項目に次のようにある。
其の支線に天川街道あり字象牙嶺より川合に至る延長二十八町五十間丹生を経て下市に通ずるの要路たり(強調筆者)
なので、電索がT8に描いた図にある「蔵毛峠」はぞうげとうげと読むべきだったことがわかる。而してこれらは江戸時代の改修記録で「雑木峠」とされていた件から繋がるものと思われる(雑木=ゾウキ=ゾウゲ)。日本には象がいなかったので最初に象牙という字が充てられていたあるいは地形を象の牙に準えて地名がついたとは思いにくい。雑木が繁っていたからゾーキと呼ばれ、それが蔵毛や象牙と書き表されるようになったと考えるのが自然じゃないかしらん。
そんな峠は大正の改修で大きな切り通しが作られ切抜峠という呼称が生まれた。それがコモンセンスになる前に川合トンネルができ、正式名称があやふやなまま廃峠となった。哀れなことである。なお吉野郡史料の道路の項では洞川小南嶺から天ノ川伝いに大塔へ向かう山上街道、黒滝から小南峠隧道までの洞川街道、して天川街道の順に掲げられている。これが当時の幹線度の順だったようだ。同書は大正8年に発行されているが調査は明治年間とのことなので、天川丹生街道が大正3年に改修されたことが抜けている。また県にとっての山上街道は下市から小南峠を経て洞川に達する補助里道であった(明治26年頃、だったっけ)。
気づいている人にとっては何を今さらだろうが、路線や峠の名称が視点によってコロコロ変わる(起点側、終点側で呼び名が異なる)ことが多かったことには注意しなければならない。また時代によって名称が二転三転することもよくある。 道路史を紐解こうとする際によく行き当たる面倒さで、固結びになっているそれを我慢してほどかなければならない。面倒臭がって快刀乱麻ったらかえって混乱を助長するだけだ。気を付けろよ>nagajis。
昨晩ラジオで耳にしたニュースが記事になってた。初代の六郷川橋梁の図面模写が見つかったというもの。消えると残念なので全文引用。おもにKINIAS用。
明治5年、新橋・横浜間で日本最初の鉄道が開通してことしで 140年になりますが、開業当初、多摩川に架かっていた木造 の橋の図案を書き写したものが兵庫県三田市で見つかり、れい明期の日本の鉄道の技術を知るうえで貴重な資料として注目さ れています。
見つかったのは、開業当初、多摩川に架かっていたイギリス人設計の木造の橋の図案を模写したもので、兵庫県三田市にある三田藩主、九鬼家の旧住宅に残されていました。 縦72センチ、横1メートル5センチの大きさで橋げたや橋脚当時の多摩川下流の呼称にちなんで「六郷川ブリッジ」と英語で書き込まれています。
調査に当たった三田市によりますと、これは、九鬼家の一族で、明治時代に鉄道技師を務めた九鬼隆範が残したものとみられ、三田市は、日本最初の鉄道の橋の図案の模写が見つかったのは初めてではないかとしています。
鑑定した鉄道総合技術研究所は、「橋の構造が細かい点まで描かれている。西洋の技術を日本がどのように受け入れたかもうかがえ、れい明期の日本の鉄道の技術を知るうえで貴重な資料だ」と話しています。
「道路の改良」では奈良県の道路愛護団体の話が盛んに出てくるのだが、漠然把握な状況に終止符を打つべくまとめを作ってみる。
前提:昭和8年に「道路愛護奨励規程」を設け、道路愛護団体の設立と自主的な道路維持補修を奨励。全文は18ー01他にあり。優秀団体は報奨あり。
団体数:272 団員数:30047人 担当延長:1002.514km/1224.973km=82%
S9.4-12成績 134団体、延長476.861km、延人員10635人(8h換算7901人) 労力費に換算して7111円
土木課に路面維持修繕主任を置く。各土木出張所に路面維持修繕担当者を専任。一面、道路愛護会の活動を促し、自動車運搬業者に作業用の土砂運搬に自動車を提供させる。
S10.10.24には松山工区出張所で道路愛護普及会開催。経済部長、土木課長、保安課長代理、土木課首脳ら出席。
団体数:276 会員数:29756人 担当延長:1010km余/1227km=82%
(実績は不明)
団体数:308 会員数:27278人 担当延長:1048.399km/(国府県道延長)=85%
S11実績 作業団体:169 延長:631.321km 延人員30808人(8h換算21943人、S10度に比し172%、S9比277%)
車:193台 2630立方m 8h換算196台
優等(優等旗+賞金30円) 田原村道路愛護会、王寺町道路愛護会、榛原町道路愛護会、大淀町青年団馬佐支団、宗桧村青年団川岸青年会、柳本町青年団
一等(賞金20円) 都介野村第六道路愛護会、今井町道路愛護会、内牧村道路愛護会、黒滝村脇川道路愛護会、白銀村道路愛護団、田原本町道路愛護団
二等(賞金10円) 以下略
団体数:321 会員数:28711人 担当延長:1067.534km/1227.470km=87%
S12度実績 作業団体:155 延長:546.166km 延人員:35489人(8h換算21943人、S9比2.7倍)
車50台、557立方m
優等 田原村道路愛護会、王寺町道路愛護団、丹生青年団、白銀村南部道路愛護団、柳本町青年団
一等 大日本国防婦人会都跡村分会横領班、葛村青年団、 大日本国防婦人会小川村分会小栗栖支会、宗桧村青年団川岸青年会、多武峰村青年団栗原校区支団
(二等以下省略)
(S13.3.26の土木部長報告中)村に組織のある町村:145 団体数:324 会員数:29118人 1067.534km/1227.470km=87%
団体数:324団体 会員数:29711人 担当延長:国府県道延長の99%
S13度実績 作業団体:125 延長:651.014km 延人員:32962人(8h換算17386人 S9比2.2倍強)
車34台 494立方m 8h換算37台
優等 田原村道路愛護会、王寺道路愛護団、榛原町道路愛護会、黒滝村道路愛護会、大塔村阪本道路愛護会、柳本町青年団
一等 大日本国防婦人会都跡村分会横領班、今井町道路愛護会、四郷村道路愛護団体、大淀町青年団馬佐支団、白銀村北部道路愛護会
(二等以下省略)
記録があるのはS13年度まで。それ以降ははっきりしない。しかしこの時点で府県道のほぼ100%をカバーしていたというのは、驚きであると同時に納得させられもする。そんなだったら、そりゃ天皇陵参拝道の改修とか2600年記念整備とかできるだろうと。
奈良県はS12の日華事変勃発より土木事業など起債の必要な事業を停止。http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/19-10-0138.pdf
驚いた!「道路愛護奨励規程」の作業方法規定、今でも生きている!
道路愛護奨励規程ニ依ル道路愛護会作業方法 昭和八年八月十八日 奈良県告示第三百二十七号
規程そのものは昭和22年に改正された模様。それでも今に通用しているのだな
http://www.pref.nara.jp/somu-so/jourei/reiki_honbun/k401RG00000685.html
突如工作欲が沸いて冬休みの工作をしたった。
これはいつも使っているカメラバッグである。s9100を購入した時に奮発して買ったTHE NORTH FACE のカメラバッグである。サイズがちょうど良かったのと、メーカーに対する信頼性から少々高いこれを買った。首から下げ、背中に回したストラップを固定して胸の前にセットすることができるので、ザックを背負っていてもカメラが持ち運びしやすく、すぐに取り出せるという利点がある。激しい藪漕ぎや登山チックな探索の時には絶大な威力を発揮する。
確かに良いものだったのだけれども、不満がないわけでもなかった。まずはバランスの悪さ。首かけストラップの付け根の位置が微妙なせいで、カメラを入れるとバッグがひっくり返りそうになる(もう一本のストラップで胴に固定すれば問題ないのだが・・・しんどい時やちょっと出掛ける時などは面倒くさくてつけてられない)。実際そうやってカメラを落としたこと数度。つい先日もそうして悲しい思いをした。
ひっくり返してカメラをまろび落としてしまうのにはもう一つ原因があった。長年使い続けたせいで緩衝材がヘタってしまい、バッグの形状が保てなくなっていたのだ。バッグがクシャッとなっているところへ不用意にカメラを放り込む結果、しっかり入っていないのに気づかないまま動いてまろび落としてしまうのだ。背中に回して固定するストラップをしていると余計にクシャッとなってしまう。
加えて・・・これは自分の使い方が特殊なせいだろうし、どんなバッグでも起こるに違いないことだが、中に枯れ葉や何やらが入りやすい。それをすりつぶして埃まみれになりやすい。掃除しようとすると裏表ひっくり返してバタバタしなければならず、頻繁にやらないとカメラを埃から守っているのか埃まみれにしているのかわわからない有り様になる。そうやって掃除しすぎたせいで緩衝材がぐちゃぐちゃになってしまったようでもある。
もうちょっと形が保たれてて、スポッと入ればなあ。掃除しやすくなればなあ。そんな不満をもう5年も抱えていたのだった。悩みを解決してくれる丁度いいカメラバッグも見つからず、そもそも買う¥もなく、ただただ我慢するばかりだった。そういう状況をふと何とかしたくなったのだった。
ステップその1。分解。100えんショップでリッパーを買ってきてプチプチする。目が固くて若干難儀した。5年間使い続けて縫い目が綻んでもないのは地味にすごいかも知れぬ。さすがはTNF。その頑張りを無駄にするrippingに罪悪感を覚えつつプチプチ。
ほぼフルオープンになった状態。前面のポーチ部分が開いている。端まで解いてしまうと強度が落ちそうなのでここまでにした。
続いてサイドの縫い目をほどき、サイド~底に回っている緩衝材を取り出す。 取り出した緩衝材のスペースに柔らか目のプラ板を切って入れようという魂胆である。そのために丁度良さげなサイズのねんど板として売られていたシートも購入しておいた。 再び リッパーでプチプチし、緩衝材を取り出したところ・・・
アクシデント発生。用意していたプラ板のサイズが足りない・・・。外から合わせたときは丁度よさげだったんだけどな。
仕方なく再度100えんショップに向かう。A3クリアファイルの表紙を流用しようとかいろいろ考えたものの、結局このようなプラ板が売られているのを発見した。厚さ1mmというのも望みのものだ。最初からこれを買っとけよ!と毒づくnagajisであった。(完)
終わるな。現物合わせしつつプラ板を加工する。最初は緩衝材の大きさに合わせようとして失敗するところだった。クシャクシャになったうえに縮んでしまっていたからな。だいいちこんな形だとは思ってなかった。ダンベル状に上下左右対称だとばかり思ってた。危ねえ危ねえ。
板を切って、面取りして、現物合わせして、また切って、を繰り返し、なんとかスッポリ収まったところ。
おーいえ、この感じだよ! この立体感が欲しかったんだよォォォォォォォォと独り悦に浸ったが、本当に大変なのはここからだ。当たり前だが縫って元通りにしなければならぬ。(ついでに緩衝材も元通りにして入れておいた)
ここで普通に戻したら細工リストの名が廃る。第二の工作。チャックをつける。バッグの前面がまるごとパカッと開くようにしたら掃除しやすいんじゃね?という発想だ。チャックにすると防水性が落ちるだろうが、もう5年も使っているのでそのへんは諦めている。
チャックを付けつつ縫い合わせ、縫い合わせ、縫い合わせ・・・ひたすら縫い合わせる。糸がチャックの歯に引っ掛かったり途中で切れてしまったりするイライラを経験しつつ。
完 成 。
ぱんぱかぱっかーん。これがしたかったのよ~。
チャックの端の処理をどうするか悩んだが、適当にやったらうまくいった。チャックの取り付けの向きもややチャレンジング。通常とは逆にしてある。
ひとつ失敗したのは・・・もとからついていたラベルを適当に挟んで縫ったら外側にはみ出してしまった。指摘して笑うといいよ! あとバッグの内側にファスナーが露出している。傷だらけにしたくないカメラは入れられない。これは布を一枚縫い付けたら解決するかな。
というわけで思いの外上手く手早く出来たので記念町子。
ウハウハいいながら作ったり書いたりしている裏で大失敗をした・・・。ダボが>nagajis
調子に乗っていろいろ入れたらもはや酒粕汁ではなくなった。これはシチューだ。体がぽかぽか暖まるシチューだ。
入れたもの:にく、人参、大根、里芋、馬鈴薯、白葱、椎茸。玉葱を入れた方が甘味が出てよかったかも知れぬ(前回も忘れた)。白菜は水っぽくなるようなのでパス(前回は入れた)。あ、あと牛乳の残りを少し入れた。最初から牛乳のみで煮ていたらどうなっただろう?
年に数度ある、feverに魘されるかの如くな怒濤の更新。いや単に雨続きですることがなかっただけで。逃避行動とかそういうわけじゃなくて。更新と並行して現行書いたり鏡餅買ったり新春お笑い企画のネタを仕込んだりしているのだ。
こうして見ると沢山回ったように見えるけれども、止観すると実際はまったく大したことをしてないことが丸わかりである(それが嫌だから随分水増ししたけれども、それでもこのくらいだていたらくだちんてくら)。よくもまあこんだけ屑を撒き散らしたな、と思うばかり。その屑を片付けられてほっとしている。
沢山のお母さんに支えられて幸せな年越しができそう。この感謝を形にできたらどんなに心が晴れるだろうかと思うけれども僕にはピアノがないし聞かせる夢もない。心はいつも空井戸の底に隠してあって半開きだ。嗚呼。はっみっがっきっ上手かナァ~。
「できること」と「やらなければならないこと」と「目標」は違うレイヤーの話じゃね? できることを目標にするのは容易く、目標を義務感で達成しても仕方なかろ。
カップ1杯180ccとわかっているがその180ccを量る術がなく結局目分量になってしまう愚をなんとかしたい。缶コーヒーの空き缶で量ってみるのもよいかも知れぬがもうちょっと文明の利器使おうよ。小さじ1杯とかも同様。
調味料の分量がすべて重量%で指定されているレシピがあったら嫌だなあと思った。
御節が存在しているのである今。
そして加わるウルトラソウル謎の煮物。雑煮はどこへいった。
いかにも普通な、日本全国どこにでもありそうな正月風景を演出してみる。
若干レイアウトを変えてみた。若干だ。
最早蕎麦じゃねえ。
今年一年ご支援くださった皆様に手を合わせつつ、いただきます。来年もどうぞよろしく。
未来からの解説:重箱や箸とともにおせちに入れられる食材を一式頂いたので生まれて初めておせちを用意してみた。一つだけは手作りである。あ、煮物のにんじんも入れたっけか。確実に十数年ぶりのまともな正月だ。
蕎麦は鳥ガラベースのしょうゆ味。手羽先の先っちょばかり入った鳥ガラが一袋150えんで売られていたので思わず買ってしまい、それを使ってスープを作った(ついでに煮た肉を入れてみた)。滅法旨かった。やはり自分の味覚のドグマは鳥であることを認識した。高野豆腐に深い意味はない。重点商品だというので協力したまでである。初めて調理した割にまともな出来。
一玉で足りるだろうかと思い替え玉を茹でる準備をしておいたがその必要はなかった。こんだけ具沢山なら 普通 満足するわなー。
_ おろろん [ スイマセン、お呼びでございましょうか?]
_ nagajis [(汗) 島原の子守歌で悲しみを慰めただけでする・・・]