nagajisの日不定記。
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尼崎市潮江2丁目の住宅花壇。「NKR 耐火煉瓦」で検索するとテクノ窯業の沿革がヒット。岡山県の会社という。昭和8年設立時から略称NKRを使用し、昭和52年に中村窯工株式会社になってからは「NYK」を使ったとか。その間に作られたものと思われる。
見本のような太ましい×印。上がり框に立てて使われているところへ強烈な日差しが当たっていたお蔭で陰影がくっきり出た。
旧大阪府庁では「岸×泉」の配置で「商×標」というのが出土したのだそうだ。キシレンが×印を商標登録したのは明治36年5月8日。
堺市街の空き地で。四角に囲まれた英数字の刻印は堺市を中心に分布、と思っていたらkousenさんが加太トンネルの上で□英数字の刻印を発見されている。それには△がついていなかったそうだ。 西九条にあった□8も△無かったっけ。会社が特定できそうでできないむず痒い刻印。
写真の煉瓦の隣は大正丹治の正刻印煉瓦。
大阪市中之島の阪大中之島センターエントランスに使われている一瓦。漢数字の二六。漢数字刻印は他に例がないわけではない(センター隣の瓦礫の山;おそらく阪大医学部の残骸の中にも漢数字刻印煉瓦が混じっている)が、いわゆる責任印だけという状態なので、どこの会社のものとも判断できない。奈良転車台で見つかった「目」も「四」なんじゃないかと思っている。
これは堺市の柳之町だったっけ。煉瓦にいくつも孔が開いたもので、これが軽量煉瓦であるうはずだ(by JIS)。空洞煉瓦よりも強度がありそうで、だから別規格で定められてたんだろう。軽量煉瓦は船の内装などにも使われたそうだ。
ちまちまと更新中。すでに過去号を無条件にダウンロードできるようになっているはず。告知はまだしていない。何か穴があるような気がしてならないのでもいちどチェックする。
購入・非購入の判定はユーザーテーブルを見て判断してもよいのだろうが、ダウンロードしたあとで更新が入った号を表示させるため、ログから読み取る方向で行く。どうせ何千万も何億もrowがあるわけじゃないんだ。
ダウンロード対象を記録していたつもりだったのに上手く行ってなかった…。阿呆也。らくは購入日で比較することになるため、漏れなく更新情報オープンになっている。このへんは我慢していただくしかない。更新情報欄から直接DLできたらいいんだろうけど…errata.datにファイル名を記録してねえ(汗。
数日前に創刊号~2010年頃の号のjavascriptを修正してupしたのだけれども、よく考えたら過去号に正しいff()を入れる必要はなかったのな。新しくリンクを付け加えるのではないのだから。例のフラグが立っていればそれでいいのだ。それよかついでに直したREARTYREのほうが重要な更新だろう。 新ゴが孤立点になって残っていたのに気づかなかったというやつ。ふだん作業で使っているAcrobatでは埋め込まれていないエラーが出てくれないので気づかなかった。
採るだけなら簡単なんだが、ムラなくきれいに採るのは難しい。やっぱりちゃんと絹タンポ作ってやらないといけないようだ。その後の処理もいまいちウマくない。きっちり裏打ちして平らにしないとスキャンも上手くいかない。そのうえ網掛けしたらかえってムラが目立ってしまった。よほどきれいに採らないと。
これくらいくっきり採れるような状態のいい刻印なら、まだいじり甲斐がある。小島煉瓦は裏しか採れなかったのでスカスカな梨地になってしまった。2値処理したらさらに汚くなるだろうし、きれいに取れたやつとの差が目立つに違いない。
ネタバレすると、こんなのを沢山作って煉瓦刻印Tシャツを作ろうと思っている。刻印と製造者との対応表を前面にプリント(背中だと自分が見れないからな)、うなじ?にワンポイント。刻印はイラレで作ったのを並べてもいいのだけれども拓本のほうが味があるんじゃなかろうか。そう思って採拓用の煉瓦を拾い回っている昨今であったりする。しかしいくつか課題が解決していない。製造者が確定してない刻印を使うかどうか、とか。実用性を考えると確定したもののだけで揃えたほうがいいだろうが数が限られてくる。この六稜星だって津守煉瓦のだと確定したわけじゃない。
刻印1個でもいいのかな。前面に大きく1個。荒いハーフトーンで。
『集成』から入ったので下野煉瓦の刻印=★と信じて疑っていなかったのだが、採取行を重ねるにつれてそれが疑わしくなってきた。少なからぬ数の★刻印煉瓦が府下に存在している。数個なら何かの荷物に紛れて持ち込まれた可能性もあるだろうが、それにしては数が多い。明治20年代初頭にはすでに多数の煉瓦製造者が操業していて、大阪窯業もホフマン窯で焼いていたらしいから、栃木の煉瓦が大阪の市場に入り込む隙なんてなかったんじゃなかろうか。だいいち鉄道だって通じ切っていなかった。
★刻印はシモレンのホフマン窯から見つかっていて、それでシモレン=★とされている。しかしよく考えてみると自社の窯に自社製造の煉瓦を使うことは稀なんじゃないか。特にシモレンの窯みたいに創業時に築いたやつなんかは。その煉瓦はどの窯で焼いた? 窯製造用に登り窯かダルマ窯でも築いてえっさえっさ焼いた? それよりもよそから煉瓦を買ってきたほうが早いじゃないか。事実シモレンのホフマン窯からはシモレン設立以前に地元にあった煉瓦製造会社・東輝煉瓦の「T」刻印が見つかっているそうだ。
要するに、大阪に★刻印を使っていた会社があって、その煉瓦がシモレンのホフマン窯に使われたんじゃないかという妄想をしている。その会社のアテもないではない。ただし現状では2、3の仮説に立脚する危うい論だ。シモレンとは無関係な大阪の会社がそれと知らずに★刻印を使ってたという可能性のほうが高いだろうし、栃木>大阪はなくて大阪>栃木はあり得る!と主張するのはずいぶん無茶な話だ。いくら大阪が煉瓦製造が盛んだったといってもな。
大阪にある★刻印は拓本を採ってあるから、これとシモレンの★刻印を突き合わせて比べてみたい。そうしたら同違がはっきりするはずだ。誰か手伝ってはくれないだろうか……。
堺市煉瓦の盛衰
我国における煉瓦は目下各地到る処に於いて製造をなし居れども其原料は堺市及び其付近より算出のものに優るものなく故に我国に於いて製造したるも亦同市を以て嚆矢とす而して同市における製造の始は明治元年三月にして同市接続の舳松村丹治利右衛門氏なるが同氏は其当時大阪造幣局及び神阪間鉄道工事の注文を受けて製造したるものにて尓来製造に従事し次で明治四年に至り生野銀山の鉱業用として同市住吉橋通り二丁目に官業として煉瓦製造所を設け同所において盛んに煉瓦製造をなしたるも丹治氏は屈する色なく共に其製造に従事し居りしも当時は其需用者極めて少く私人の需用としては殆んど皆無の姿なりき斯くて官業たる煉瓦製造も其用を満したるを以て明治七年に至り同製造所を同市の原口忠太郎氏に払下げたるを以て尓来丹治原口二氏にも各別に製造をなし居たれども尚お需用者極めて少く僅かに官衙の建築用として供給する位に止まりしが明治十五六年頃より稍々私人の需用者あるに至り続いて十七八年に至り鉄道敷設工事及び紡績会社其他諸会社の勃興するものありて官私共に大に需用を増加したるを以て以来煉瓦製造者も次第に増加し二十一年には九ヶ所の製造所を見るに至れり而して各製造等は個人の業とするもの稀にして多くは会社若しくは組合組織を以て成れり而して製造の窯は最初は達磨窯と唱うるものを使用し来りしが其結果甚だ面白からざるを以て明治四年に至り土樋焼法に基きて窯の改良を加えたるに稍々好結果を得暫く之によって製造したるも其後更に改良を加えて上り窯及び丸窯を使用するに至り昨今においては一二会社を除くの外総て丸窯を使用するに至れり斯くて二十一年には煉瓦の盛況を極めたるを以て製造業者も増加したるが二十二年末より稍々衰微の傾きあり尓後次第に衰えて二十四年には尤も其極度に達し製造所も六ヶ所に減じ就業せるもの僅かに一二ヶ所にして外は休業するに至りしが二十五年末より稍々回復の兆ありて各製造所も次第に就業するに至り二十七年に至り日清戦争の起るや新に会社を組織するもの多く隨って煉瓦の需用者大いに増加して再び製造所は八ヶ所に増加し堺煉瓦の全盛を極めたるは正しく同年間にありしが今各年における生産高を挙ぐれば左の如し 年次 生産高 価格 二十四年以前 一五、〇〇〇、〇〇〇 八七一、〇〇〇円 二十五年 九、三八六、二六七 四五、八六四 二十六年 一〇、八二七、三六八 六五、三六三 二十七年 一五、九九二五、三二七 一三五、七八〇 二十八年 一四、九八三、四七一 八九、六七六 二十九年 一一、六五一、八六三 六二、三二七 三十年 三二、九五四、八二九 三七〇、八五二 三十一年 九六八二、〇〇〇 七八、二八〇 三十二年 四四七三、〇〇〇 三六、五一四 三十三年 二一、二七三、〇〇〇 一八一、五一八 以上の如くなるが昨今に至り稍々回復の傾向あるよし而して又目下における同地の煉瓦会社は旭煉瓦、山本煉瓦、堺煉瓦、日本窯業(注:大阪窯業の誤りか)、日本煉瓦、丹治煉瓦の六会社にして何れも就業し居れるが職工は男女共使用し一二の会社は囚人を使用せるものあれども其他は総て普通の職工を使用し居れり而して現今就業の諸会社中尤も新式の器機によりて製造をなし居るものは大阪窯業会社なるが窯は丸窯に稍々改良を加えて専売権を得煉瓦は蒸気器機にて製作するをもって職工の少き割合には製造高非常に多きよしなるが元来我国に於いて器機を以て煉瓦を製造するは去る二十二年初めて中仙道深谷において日本煉瓦会社が据附けたるが始めにて次は東京府下南葛飾郡の釜町煉瓦会社、千住の東京煉瓦会社と大阪窯業の四ヶ所にて外は何れも手抜煉瓦なるが大阪窯業会社の器機を据え附けて製作に従事したるは一昨年なりき而して今手抜き煉瓦と器械煉瓦との製造高を聞くに手抜は職工一人に付一日約四百個位に止まれるも器械製は一分間七十二個を製造するを得べしと又価格においては普通煉瓦に比し一割方高価なれど品質頗る優れるよしにて目下海軍省より五百万個の注文を受け製作しつつなりと云う (完結)
資料出典は堺史料類纉。 年 度による盛衰は大阪府誌にある通り(のはず)。生野銀山のために官製工場が作られたというのは初耳だ。堺の官営工場は造幣寮建設のためにじゃなかったか。それとも造幣寮の関連施設として生野が出てくるのか。 旭商社の名前は工場一覧等でみかけたが「山本煉瓦」ってどこだろう?「山」刻印の出所がここなのかも知れない。
機械式のほうが高く売れたという話は面白い。今の感覚からすると機械式のほうが労力を省けて安く上がるように思いがち。機械式のほうが質が良かったから割高でも売れたのだろうし、その質が買われて横浜水道局や鉄道局に納入したりもしたのだ(機械式がさほど普及していなかった頃、鉄道省は機械式煉瓦であることを入札条件にしていた。そのため遠方の鉄道工事に大阪窯業の煉瓦が採用されたり、大阪窯業を指名入札したりしたこともあった。『大阪窯業五十年史』)
N氏からの手紙。消印は平成5年8月3日になっている。いま読み返すと意味不明過ぎて困るのだが、当時はこんなものでも腹を抱えて笑うことができた。
顔写真は、確かN氏の通っていた高校の、ちょっと特異なキャラクターで名の知れていた人物だったと記憶する。私はその人物のエピソードについて断片的にしか聞かされていないため、どういう特異さであったかを説明することができない。ただただ特異な人であったと記憶しているばかりで(そうしてそれを20年以上も記憶している)、考えてみればこれほど失礼な話はないのではないだろうか。
葉書の上部に画鋲の跡があるのも見逃せない。一時期これを机の前に貼ってあったのだろう。何を思ってそのようなことをしたのかわからないが。
なお文中の「田中食品」は「旅行の友」の製造元である。パッケージの絵に小さなポテンシャルを感じ、思い余ってTシャツを作ってしまい、それをN氏に送りつけたように記憶する。その礼状としてこの葉書を受け取ったはずである。
自分をアピールすることがあまりにも下手過ぎる.なぜだろう.自分がしてきたことに自信がないからか.確かにない.やってきたことが誰の役にも立ってないことはアンケート結果が客観的に示している.それを受け入れずに「正しいのだ」を貫くエネルギーはとうの昔に尽きてしまった.ならばより役立つものを作るよう努力すればいいのだが,そしてそのつもりでやってきたつもりではあるが,それをさらに一歩進めて「正しいのだ」まで持っていくことがどうしてもできない.自己認識できてないことをpgrれることを恐れているのだろうか.
はてnagajisは自分を社会のどこに位置づけたいのだろう.このまま寄生虫的立場で温々と生きていくつもりなのか.それでいいんか.結果的にそうなったとしたら,まあ諦めてしまうかも知れんが,最初からそれを目指すのは,ちょっとどうか.
メールの文末に「以上」を書く方は結構おられると思う.自分はなにか嫌味たらしさを感じて好きではなかったのだが,考えてみれば履歴書の〆の定型文「右通相違無候也」と一緒なのだなと気づく.也の最後のハネに特別な思いを読み取ったことがある手前,むやみに嫌うわけにはいかないだろう.
最寄り郵便局の時間外窓口が8:00~22:00に変更されていることを知らなかった.迂闊だ.
そんな言葉を思っている午前0時半.高望みと訳すべきか無茶とするべきか.
ここ1ヶ月ほど手整形の煉瓦を触り続けてきた結果、面白いことを発見した。手整形の煉瓦には必ずといっていいほど「掴んだ跡」がある。手整形の煉瓦が手元にある方はぜひ確認していただきたい(滅多にいないと思うが)。
確認方法:長手の面を下にして、横向きに置いた煉瓦を、上から両手でわしづかみにした時、平の面の中指と薬指の当たる辺りに微妙な凹みがある。いかにも自然な位置で、そこを掴むとバランスよく持ち上げられる。微かな痕跡なので指を滑らせて探してみてほしい。見つかったらおめでとう、百年前の職人と同じ手さばきを追体験していることになる。
指先の跡は平の面の平滑なほう(大きな筋が入っていない側=形枠に詰めた時に表を向いていた側;盛り上がった煉瓦をピアノ線などで削り取るため繊細な横縞がついている)にあることが多いようだ。形枠から抜いた直後の柔らかい煉瓦を移動させる時か、乾燥場に並べる時ににそうやって掴んだのだと思う。煉瓦は長手か小口を表に見せるように積むのが前提だったから、その面を触って歪めたりしたくなかったはずで、そうすると親指と残り4指で平の面を掴むほかない。また煉瓦を乾燥させる時は長手を下にして並べればスペースを有効活用できるうえに乾燥も早いだろう。そのような状態にするためには作業のどこかで柔らかい状態の煉瓦を「立てる」必要がある。煉瓦刻印が裏表についていることが多いのも、どこかで煉瓦をひっくり返す工程があったことを示唆している。
この跡は、手整形煉瓦の平の面の片側に目立つ筋がついていることが多いわけ(手整形煉瓦の製造工程)を解明するヒントになるかも知れない。関西地方の手整形煉瓦には平の面の一方に顕著な筋が入っていることが特徴と指摘されていて、枠からはみ出した煉瓦を削り取った時にできたものと説明されているが、自分は疑問に思っている(じゃあ何なんだ、がうまく説明できないのだが)。作業の最後の段階で煉瓦がどちらを向いていたか、この指の位置で読み取ることができるはずだ。
といったことを誰かに伝えたいという思いだけは枯れていない。それが尊いことだという評価もいただいた。それを信じて主張し続けることが、今の自分には要求されている。
官報. 1888年10月26日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2944837/4
関西煉瓦会社にジョン・ウェィクフィールドなるイギリス人を雇い入れたという告示.関西煉瓦の煉瓦が英国系だということの証左になるか.
農工商 ○煉瓦製造教師 兵庫県明石郡山田村関西煉瓦会社にては本年九月より明年三月迄の期限を以て英国人ジョン,ウェクフィールドを煉瓦製造教師として雇入れたり(兵庫県)
官報. 1894年10月05日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2946650/2
濃尾地震を受けて行なわれた煉瓦煙突調査の中間報告.
官報. 1925年09月18日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956071/3
官公庁に納入する煉瓦の規格を定めた告示.210x110x60mmという旧JES規格が採用されてる.工業品規格統一調査会は大正10年設立.
明治大正大阪市史. 第7巻
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1237186/28
造幣寮建設の由来記がある.かなり詳細.輸入した器機が火事で焼けたため工事が遅れた.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1839414/296
ほか.関西に関係あるもののみ抽出.太字は筆者のメモ用強調.
(P.507)
第一 明治初期時代
我が邦に於て耐火煉瓦製造工業の著しき発達を来たしたるは明治二十年前後なり.明治初年東京及び大阪に於て政府自ら本業を開始したる時より明治二十年前後を以て,之を斯業創始時代と見做すべきなり.明治の初年政府事業として耐火煉瓦の製造をなしたるは,東京なる赤羽工作分局,深川工作分局及び大阪なる造幣局の三社とす.
造幣局は明治元年八月大阪市外淀川畔に起工し,一時事業を中止し,更に二年五月工事を続行し,四年二月工を了へたり.二年五月英人技師ウォートルス来着するや,江川某をして後年の大阪砲兵工廠所在地たる鴫野に登窯を築造し,自己監督の下に建築煉瓦及び耐火煉瓦を焼成せしめたり.建築煉瓦は数百万個を焼成せしも,耐火煉瓦は成績良好ならざりしを以て廃絶したり.然れども之れ維新後に於て新進の学理を応用し,耐火煉瓦を製造したる嚆矢なりとす.越えて五年には四分六法と称し,英国製耐火煉瓦使用後の破層を適宜の粗度に砕きて得たる不粘質物の六分に,所謂焼粉或はシャモットと称する摂津西宮産の粘土四分とを配合し,之を成形したるものを骸炭窯上にて乾燥し,更に此窯内にて焼成せしことあり.西宮粘土を耐火材料としての使用は此の時に始まれり.明治三年起工に係る大阪砲兵工廠は,当時普通建築用煉瓦は造幣局製造のものを使用したりと雖も,諸金属熔融爐及び其の他諸窯に必要なる材料は造幣局と同じく皆外国製を採用し,内国製を主に使用するに至りしは明治二十五年頃とす.然れどもこの一局一廠が夙に耐火煉瓦を本邦に輸入し,諸金属溶融爐及び骸炭窯等に使用し,又石炭によりて強度の火力を得ることを知らしめ,大阪地方の工業者に対し,其の用途を実地に示し,更に進んで耐火材料の実地研究をなし,之が製造方針を直接間接に民間に教え,我が邦に於ける斯業の解説を輔けたる事実は大なり.
(P.516)
大阪地方
大阪に於ては造幣局及砲兵工廠に於て耐火煉瓦需用の事起るや,之に促されて最も早く斯業に従事したるは田中盛秀にして,明治九年西成郡福島に工場を開き,之を盛秀館と称せり.之を大阪に於ける個人経営に係る耐火煉瓦製造工場の嚆矢とす.爾来継続営業し来りしも,明治二十四年に至り廃業せり.盛秀に次ぎ斯業を起したるは明治十六年岡崎,高原外四名の合資を以て,造幣局砲兵工廠其他硝子製造工場に耐火煉瓦を供給する為,西成郡西野田に工場を置き,五成舎と称したるもの是れなり.耐火煉瓦製造所に於て泰西の新教育を受けたる邦人の専門技師を招聘したるは該舎其の始めにして,其の製品も優良のものを出したるに,他の事情の為,明治二十五年解散の悲運を招けり.
明治十六七年頃より耐火煉瓦製造を企つるもの漸く続出するを見たり.明治十七年硝子用坩堝,冶金用耐火煉瓦,亜爾加里用耐火煉瓦等製造の目的を以て,津枝三雄工場を北安治川に設け,製々舎と称せり.而して原料には備前産蝋石の使用を開始し,殊に硝子用坩堝の製造に心を傾けしかば,従来専ら使用せられし信楽焼坩堝は,為に大なる影響を蒙れり.十八年九月には渡邊貞助及び西村徳兵衛の両人資金を合せ,貞徳舎と称する工場を北区梅ヶ枝に開き,主として硝子製造用の目的に供する耐火煉瓦並に坩堝の製造に従へり.然るに業務拡まらず収支償わざるに至り,二十二年工場管理者大野半助に其業務全体を譲渡せり.二十一年西区湊町に広瀬倉平の工場起り,硝子用坩堝及び耐火煉瓦の製造をなし,翌二十二年七月には中臣吉郎兵衛(n注:丸三耐火煉瓦)亦た工場を南区難波に設け,技術に関しては斯業研究の為,嘗て独逸に遊学したる杉山昌大の指導を受けたり.後,二十五年十二月に至り,横山善三の工場亦た難波に起れり.創業当時は自己の本業たる銅及び雑鉱の精錬に使用する目的を以て耐火煉瓦を製造したるが,後には広く之を販売するに至れり.
(P.531)
大阪に於ける個人経営の耐火煉瓦工場は広瀬倉平,横山善三両工場の外,北村市松,筧繁之助,藤本喜三郎(n注:製々舎)の三工場あり,二十二年貞徳舎の工場を譲受けたる大野半助は,二十九年また継続営業者たる北村市松に譲りて廃業し,北村は尚お貞徳舎なる商号を用い,工場を東成郡鯰江村新喜多に置き,耐火煉瓦及硝子用坩堝の製造を兼業す.三十年七月中臣吉郎兵衛の死去と同時に彼が難波の工場は,筧繁之助之を継承して後日に及べり.丸三耐火煉瓦製造所は創立者吉郎兵衛の命名したる所にして,後の営業者亦,之を襲用す.次で三十四年津江三雄の逝くあり.其の子葆父の業を次ぎしが,三十九年十二月之を工場の管理者藤本喜三郎に譲りて廃業せり.喜三郎は翌四十年工場を南区難波に移し製々舎なる商号を襲用し,硝子用坩堝の製造を廃し,専ら耐火煉瓦の製造に従い後に至れり.此の外北区同心町に工場を有せる正盛館中辻萬造も硝子用坩堝の製造を主業とし,傍ら耐火煉瓦の製造をなせり.
斯の如く,大阪の耐火煉瓦製造業は明治三十年を過ぐるも著しき発達を見ざりしが,二(n注:三)十六年四月に至り品川白煉瓦会社の支工場南区木津三島町に起れり.品川白煉瓦会社が工場を設置するに至りたるは,当時新に獲得したる伊賀島ヶ原の広大なる原料を利用して,大阪の工業界及び筑前八幡なる製鉄所に製品を供給し,進んでは清韓其の他東洋市場に新販路を開拓せんとする業務の根拠地たらしめるものなり.この工場は三十七年八月に至り,諸般の設備全く成りしかば,之を大阪支社と名づけ,直ちに各種耐火物の製造に着手せり.而して京都三重兵庫岡山の一府三県に亘り,新に原料産地を取得し,之を大阪支社の採掘地に供し,その設備に就てはメンドハイム最新倒焔式瓦斯連続窯即ち十四室より成り,一室並型七千個を焼成し得るものを築造し,原料の粉砕,練成及び成形には総て機械の力を応用するに至り,関西の斯業界は為に一新生面を開くに至れり.
(P.544)
第六節 建築煉瓦
建築煉瓦の名称は,時に妥当を欠く場合あり.普通煉瓦の呼称も亦,往々にして誤解を招き易き場合なきにあらず.茲には建築煉瓦を以て耐火煉瓦に対称するものとし,又普通煉瓦は装飾煉瓦に対称すべきものとして,共に之を建築煉瓦中に配属せり.
第一 普通煉瓦
煉瓦の語は,早くより煉化石と称し或は(n注:セン)字を用うる場合もあり,明治の中年頃まで,博覧会等に於ては専ら煉化石の称語を用いたるも,民間に於ては夙に煉瓦の略名を慣用し来り,今日にしては全く普通の名称となりたり.而して一般に所謂普通煉瓦とは,重に耐火煉瓦と区別せる名称にして,或は白煉瓦に対して赤煉瓦と通称することあり.
此の煉瓦製造の濫觴は,安政四年幕府が長崎飽浦に製鉄所を起し(後の三菱造船所)蘭人ハルデスの監督により,長崎の瓦屋に命じて右工場用の煉瓦を焼かしめたるに起る.夫より維新後に及び,明治二年には大阪造幣局の設置あり.播州明石の瓦屋をして,同工場の煉瓦を焼かしめたるも,其の結果不良に終りしより,更めて大阪の瓦屋に命じ,英人オードロスの監督の下に,焼製せしめたり.又其の翌三年には,大阪造兵司分工場の大砲鋳造所を椎口に設くるに当り,同所の中島成道は,其の工場用の煉瓦を堺にて焼製せしめたるが,此の際同地の瓦屋原口忠太郎の担当にて,極めて堅牢のものを得たりき.
(P.548)
尚お関西地方の創業に関しての諸井の所説を参照するに,其創業は関東よりも稍早きが如く,明治二年春阪神間の鉄道敷設に際し煉瓦の需用起りて,始め堺市住吉通りなる旧函館物産会所及び姫路物産会所跡に,工部省鉄道寮にてダルマ窯を築き,外国傭技師の下に地方労働者を使役して其製造に従事せしが,右工事の終るに臨みて之を鹿児島人原口某に払下げ夫れより明治七八年頃に及び,原口製造所の外にも二三資本家の合同によりて稲葉組と称したる煉瓦工場の設立を見,爾来両三年毎に一二個所づつ漸次に小煉瓦工場の数を増加したるも一ヶ年の製造高は合計二三百万個を出でざりし,而して琵琶湖疏水工事用のために山城国山科に登り窯式煉瓦製造所を設け明治十九年七月製作に着手し翌二十年の一箇年間に六百万個を作り出したるは当時に於ての記録なり.又日清戦役後即ち明治二十八年より三十年までの間に於いて同業の勃興最も著しく,同年末の大阪府下には会社組織のもの三十二ヶ所,個人経営のもの十九ヶ所ありて,其の他尚お素地成形のみに従事するもの亦,数ヶ所ありしと云う.然るに同年十月より翌三十一年に亘り,経済界の逼迫を極むると共に,煉瓦業も亦大恐慌を来して,同三十三年頃には前記の三分の一の工場を存せるのみ.而して大阪方面に於て最も早く輪窯式を採用せしは,明治二十一年頃の大阪窯業会社にして(同社は明治十五年創立,同三十二年堺に移る.所謂「窯業」の称語は同社を率先とするが如し)其の他にありては広島に至る関西地方を通じて,同三十三年頃輪窯を有せるもの八ヶ所にして十二座を見たるのみにして,他は皆手抜製を用い居たり.
明治工業史建築編の造幣寮のところではウォートルスが英国から輸入したものか等とテキトーなことを言っている.耐火煉瓦は輸入だとしてもな.ちなみにこの本にブリキの語源説の一つが載っている.
吹田駅近くの住宅街の中で発見.民家の勝手口の脇にある排水口(写真後ろに写っている)の蓋代わりに使われていた.裏返しになっていたそれを「まさかなあ」と思いつつ,ちょっと失敬してひっくり返してみたら,これだった.驚かないわけがない.
旧ハンター邸や神戸市旧外国人居留地の工事現場,大阪市西九条安治川通3丁目の壁で見つかっているものはプレス成形による凹みを有する煉瓦だった.厚さもかなりあって7cmを超えていたと思う.この煉瓦はそれと同じ内容だが,凹みがなく,ごく普通の煉瓦に陰刻で刻印されている.そのようなバリエーションが存在するとは思ってもみなかった.
明治21年3月創業,同30年頃には消滅したと思われる,兵庫県明石郡垂水村に存在した煉瓦会社の煉瓦.家の主はそんなことなどご存知でないに違いない.
あ,念の為に書いておくが持って帰ったりしてないからな.してないったら.
ついでにこれも発見した.菱型にSの刻印は下野煉瓦(栃木県下都賀郡)のほかにも福岡の高橋煉瓦が用いていたことが知られている.ただし高橋煉瓦刻印は幅5cmほどの大きなものだという(以上『集成』).大きさだけで判断するとシモレンのということになる.
奈良県天理市二階堂上ノ庄町でこの刻印を見つけたときは,まあそういうこともあるだろうと思っていたけれども(その前に大和高田で★刻印を見つけていたせいもある.ひょっとしたらシモレンって広範囲に分布してたのかも知れないな,と),吹田市にもこれがあることがわかり,考えを改めるべきなのかも知れない.わざわざ栃木から持ってくるよりも,高橋煉瓦の刻印に小さなバージョンがあって,それが福岡から流入してきたと考えるほうが妥当では中廊下.
なんとかかんとかM30代まで書くことができた.その先をどうするか悩んでいる.後々まで残る煉瓦会社はこの頃に出揃うので必要十分といえば十分だ.その先に登場する会社の刻印がほとんどわかっていないのも悩みどころ.そもそも府下煉瓦業史をまとめたところで誰の役にも立たない.
組合成立.会社乱立により煉瓦価格の低下>緊縮内閣の成立>在庫滞貨>さらなる価格低下で大正3-4年の生産統制となる.当初は大阪組が他所の需用を「食おう」という計画だったが四国の3煉瓦会社と共同で生産統制へ.中国地方も組合を作って減産する(T2に減産協定なるがだめになりT3-4に再度実施だったかも.このへん要確認).東京荒川筋の改修によって小規模煉瓦製造家がごっそりなくなり東京で在庫払底.これに乗じて増産.T6に最大値を記録するが大戦不況で一気に減少する(T9堺煉瓦の倒産).それが立ち直る前に大震災.建物や土木構造物がRC造へ移行しつつあったところへ大震災によるダメ出しを食らった格好で,府下の煉瓦製造業は凋落の一途を辿る.
大阪窯業は震災前から非普通煉瓦を模索していた.例えば耐火煉瓦,例えば舗装煉瓦,それから化粧タイル,セメントの製造.造船業にも手を出していた.大震災後は復興材料供給で凌げたが(この時舗装煉瓦がかなりの数採用された;舗装煉瓦じたいはT10頃から試験的に製造し田蓑橋北詰とか武庫郡役所周辺とかに使っている.『大阪窯業五十年史』).震災後はそちらへ軸足を移していく.鉄筋煉瓦も作ったがあまり普及しないままに終わった(辰野金吾のと金森のとの違いってどんなんやったっけ).
他府県のはどうするか.T半ばに兵庫県飾磨郡を中心に煉瓦工場群が出現したのは特異現象で興味深い.阿弥陀村.香呂村.香呂村のはおそらく相坂隧道と関係がある.
昭和4年「関西窯業会社」を設立,組合の煉瓦を販売.この会社の素性を明らかにする必要がある.府下に吉名の煉瓦がそこそこの数入ってきたのはこの会社のせいではないかと思う.
戦前はこのくらい.戦後はどうする?ようわかってへんしなー.
大阪府大阪市西成区北津守2-3.真夜中に道に迷っているときに発見したので写真がぞんざいだ.
歩くだけで汗をかくほど暖かくなった。むしろ暑いくらいだ。その分夜の涼しさのありがたさが身に沁みる。ふとんを被ってすっと眠れるこの涼しさがいつまでも続いてほしい。無理な願いだとわかっていてもそう願いたくなる。
夜の心地よさ、玄関口の躑躅の鮮やかさ、元気に成長を続ける南天の若芽の、その勢い。そういうささいなことに幸せを感じる。そんなところにしか幸せはないとも思う。幸せは一時しか続かない一過性のものだ。だから人は幸せを求め続けて止まないのだ。いつもそばにあるものに幸せなり喜びなりを感じ続けることは難しい。
そっか、南側の橋台は関西鉄道のか。明治34年頃なら日本窯業の刻印があってもおかしくない。○も明治34年に線を引ける。かろうじて引っかかるな>旭
出ヲチ上等!で作った記事が役に立ったみたいだ.うん,作ってみるものだな.そうしてまた訂正が。。。 [独言] んでまた
こんなところで手押しポンプを見つけた.今でも販売されているタイプのものらしいけれども,こんな市街地にあって,しかもちゃんと水が出る.びっくりだ.
明治20年9月17日付日新聞の広告.photo/only で済ませられたらずいぶん楽なのだが…… .
「堺煉瓦石会社」という会社は存在したことはなく,堺煉瓦の前駆体というわけでもないらしい.堺煉瓦の直系の祖先は共立煉化石会社で,しかも工場は吾妻橋通二丁目もしくは戎島附洲新田にあった.戎島附洲新田=吾妻橋通二丁目=戎島4・5丁+北波止町であって南附洲新田=大浜とは別物なのだ(南附洲新田にはのちに大阪窯業が越してくる.堺附洲煉瓦は中附洲新田にあった).そうしてこの時期少林寺町東三丁目にも煉瓦工場はなかった.あとで丹治煉瓦の分工場らしきものが興るが(すぐに消えるけど).
そのくせ,このマーク,あと2本足すと堺煉瓦になるんだよな…….
のちに榊原なる人物が このマークで商標登録してる.んで福岡窯業株式会社が使ってる.おそらくこの会社とは無関係.
あ、これってkousenさんが見つけてはった「三ツ矢」なんじゃなかろうか。岸里の。
できた。自分としてはかなり上出来。
部屋の片付けをしていたら過去に拾ってきた煉瓦×2が出てきた。回収しとかなきゃと思ってわざわざ探しに行ったやつだ(当然無駄足になった)。大馬鹿者。
それにしても、この部屋には一体いくつ煉瓦があるんだ(汗
●大日本商工録 : 公認. 第2輯
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956899/202
淡路・岡本煉瓦製造所社章
●帝国商工録 : 分冊. 昭和8年度版 [大阪府,兵庫県]
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1106473/200
播州煉瓦合同株式会社、弘栄煉瓦製造所社章
●帝国商工信用録 大正2
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945928/294
丹治煉瓦合資会社はこの頃から〓を使用
●大日本商工録 : 公認. 大正14年版
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956901/1102
関西窯業社章
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956901/1136
明石窯業社章
●帝国商工録. 昭和9年度版 兵庫県版
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1034598/35
兵庫、名前のみ
●大日本帝国商工信用録 改訂増補27
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945926/627
洞川電気索道、大和索道の社章
大阪府統計書 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807139/121 商業会社の欄に堺煉化石を発見。一応営業していた模様。明治20年9月設立。共立煉化石は明治22年設立っちゅうことになっとるから、その前に堺煉化石があったのかも知れぬ。&、工場の欄には小工場ばかり並んでる。
榊原氏の商標登録。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941556/160
_ JR三石駅長 [三重丸の刻印煉瓦は岡山県の三石高級耐火工業㈱(㈱三石ハイセラム)製の耐火煉瓦と思います。]