nagajisの日不定記。
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などという情報量ゼロ・当たり障りのないことを書いて始める新しい月。やらねばならないことがあることは幸せなことだ。んでその一方、呷る現実逃避の甘美な毒。コドクという毒は一度呷ったら死ぬまで止められないのよ。
TUKAさんの原稿が8割ほど?upということで拝見する。基本旧橋紀行だが周辺事情のいろいろ取り合わせな豪華版。個人的にはこういうほうが紀行らしくていいと思う(と書いて点数稼ぎ)。前回東熊野が纏められなかった分うまく処理せねばと思う。
東熊野は上谷上道ということで進めている。厳密には街道ではないので少し体裁を変えたい。現状では写真メイン本文少なめの紙芝居風。ついでにゲロっとこうという魂胆。
北摂は前回書きかけのままで終わっている。短いんだからさっさと片付けておしまい。あと、できればTRDBも。今すぐでなくともいいが、ここ数号なかったし(ただそれだけの理由)。
さあ、想像力の翼を拡げよう。
これを見て「ちっちゃい松虫やてープゲラwww」と草生やしつつ笑ったことがある奴、いるに違いない。松虫はもともと小さいのだ。そんなことも知らないか愚か者め。ケッ。
※写真や図が必要な時はこっちに。
大好きな川上村に
神の谷
が存在することを知って涙した。
安直過ぎてゲェが出るような表現だが他に思いつかない。
10/6追記:
このへんです。
奥のほうもすさまじいことになっています。お近くの方はぜひ。但し下流側は通行禁止なのかそうでないのかよく判らない状況になっています(大迫発電所の敷地?)。字神之谷を経由してこの谷に入る林道を使い、上から回り込むほうが無難かも知れません。その場合も川を渡る辺りで左岸に移らないとマジ死にしますのでご注意下さい。
※タイトルはパクリです。
前職で2度目の取材に行った時のこと。兵庫県北部の高原の宿だったと思う。取材といっても経験が浅かったから先輩の見習いという名目で金魚のフンのごとくについていっただけだ。で、お約束の通りカメラマンの構図に入って邪魔したりとか子供のご機嫌取りにあたふたしたり(というのはウソで元々ガキンチョなんだから意気投合したり)だとか、そんな感じで一日目が過ぎた。泊まりは紹介する宿に。広告取材という名目なのでタダで泊ることができた。食事も無料だった。それが「そういうもの」だろうと思っていた。
その日の晩、夜中に起きてトイレにいったわけだが、階下に降りると、宿の家族が総出で家族会議をやっていた。それを立ち聞きしてしまったのだ。
大半は翌日の取材についてなのだが、だんだんと雲行きが怪しくなる。まるで立ち聞きしている自分を暗に咎めるかのような展開。
「いくら宣伝ゆうても、ツクリゴトせんでもええやろう・・・」
というのはあれだ。「家族で山菜狩りへ行こう」という企画で、翌月号の記事だから、無い山菜をさぞ生えているかのように撮らねばならなかった。百貨店で買ってきた他所の山菜を持ってきて「植えた」のだ。そのへんは向こうさんも了解済であったはずなのだけれど、100%納得できる人などいないだろう。こういう場で不満が噴出しても仕方ないし普通だと思う。
「仕方ありませんわ、雑誌が出るんは1カ月後やそうですし」
「にしても、タダで泊めてやらんでも。ひいふうみい・・・6人やで。食事の用意やて馬鹿にならん」
「そりゃあ、まあ、そうですけど・・・」
宿の窮状は痛いほどわかる。旅行ブームが下火になって、かつては名の売れた観光地であった取材先も地域まるごと疲弊している。ただでさえカツカツなのだから、いくら宣伝目的であっても余計な経費をかけるわけにいかないのだろう。それくらい疲弊している地域はとても多い。というより都会以外はみなそうだ。
だからこそいい記事を書いて、お客さんに来てもらえれば、という思いが一つの拠り所になっていた。雑誌に取り上げることで幾許かの恩返しになると思っていた。それが「招かれざる客」であったとは。表向きは優しく接して下さった皆さんだし、写真撮影にもいやな顔一つせず協力して下さった皆さんなのだけど、裏でそういう思いを我慢してはったんだなと知って、まあ、愕然としたわけだ。
そもそもこういう記事を読む読者はほとんどいない。必要とされているのは「いかに安い宿か」「いかに便利な宿か」という情報、あるいは直感でわかる「きれいな写真」なのであって、グチャグチャ書かれた文章を隅々まで目を通す人はまずいない。それが辛かった。書いたものが読まれないという悲しさではなく、ツクリまでして用意して、苦労して頭ひねって文章書いて、という労力が何のためなのか、自分自身にうまく説明できない悲しさ。
ここで割り切ることができれば立派な職業ライターになれたのかも知れない。あるいはこの立ち聞きを先輩あるいは編集者に伝えたらそちらの側へ与できたかも知れぬ。しかし経験のない自分は自分のなかに抱え込むことしかできなかった。黙って布団に潜って悶々と考えた。お陰で翌日の取材が辛かった。
せめてもの恩返しにと思って一生懸命記事を書いた記憶がある。しかしそれもどの程度役に立っただろう。出版社内のなんかの賞を貰ったようなおぼろげな記憶があるが、どうでもいい。
今は楽でいい。覚え違いや勘違いはあったとしてもウソをウソだと認識しつつ書く必要がない。取材先のことを呵りながらない頭ひねって美辞麗句を並べたてる必要がない。何より読者を呵って、いかにもわかりやすい、噛んで含めて諭すようなことを書かなくていい。なんでもないことをすごそうなふうに書き立てる必要もない。行って感じたことを素直に書き、自分なりの解釈を書いていられる。それで(曲がりなりにも)生きていけるからORJをやっている。
とはいうものの、読者数が少ないうちはそれで良かったかも知れない。噛んで含めて諭すような文章でなければ読む気もしない方も多いだろう(そういうものでないものを付けてよく売ってるなあという非難は甘んじて受けるが。無理なものをいくら頑張ったって無理なのだ)。前述のエピソードだって、結局は自分が傷ついたヤな思い出を愚痴って気晴らししているに過ぎないのだろうし。
12、13日辺りに取材もどき(前述の記憶があって取材という言葉がうまく取り扱えないnagajis)に行かねばならなくなった。また滞る。すまぬ皆々様方、特に編集部の皆様〜方〜よ〜。
宇宙人から侵略を受け地球を明け渡せさもないとゼットンだかプルトンだかの最終怪獣を送り込むぞみたいな脅しをかけられガクブルした夢を見てうなされた。何がしたいのか>nagajis
76間と105間の隧道が立て続けに連なってる。だから1本に見える。ワアオウセイウチも納得(何
して、仮に閉塞していたとしたらまず間違いなく巻くことができない。上にも横にも。恐ろしいことだ。チビリそうだ。泣きそうだ。叫びそうだ。
先日の見学会の帰り道。初めて歩く商店街の片隅。暗がりに灯る明りにほっとしたらこれだった。
懐かしさと安心と道徳的嫌悪感を足して3回ビットシフトしたうえに23で割ったようなもどかしさを感じた。それでいいような感じもするしちょっとそれはと思わないでもない。そのコンプレックスの因って来る所をつらつら考えているうち1以上なのは鼻が黒いせいだと気づいた。そうして黙って通り過ぎた。
人間という生き物は偶像に弱い。不可視不可知な神のかわりに仏像を崇め奉り、そうでなくても草木山水に八百万神を見い出し畏敬の念を覚える日本人のはしくれとしては特にそう感じる。「ラーメン=中華の人」という恒等式が不可侵なもののごとくに君臨していて、それに反旗を翻すことも、異義を唱えることもできない。「いかにも」「わかりやすい」イコンであればあるほど通用してしまう。例え鼻が黒かろうが、丼に湯が張ってあるだけにしか見えなかろうが、通ってしまう。
それでいいのかという内省が奇妙なポテンシャルである。
わけがない。
nagajisがわかりやすいことを書くとこの看板のようになるのではないか、とも思った。本人は巧く騙した/演技したつもりでいても実はバレバレだという。恐ろしいことである。そうして今日もまた悪夢に魘されることを予期しつつ寝るのである。ああ主よ人の望みの喜びよ。
コースをよく把握してなかったが直撃じゃないか(汗
AM3:00 少し風が収まってきたような気がする。気が早いか。
AM5:00頃 時おり風が強く吹くだけでそれほどでもなし。ずいぶん東にスライドしているようだ。
AM6:00頃 ねる
AM9:00頃 うなされて目が覚める
AM12:00頃 青空広がる。追加問い合わせ
PM2:00頃 廃道ぼん概略に苦しむ
PM5:00頃 廃道ぼん概略にさらに苦しむ
PM7:00頃 ふて腐れて寝ることを決意 <いまここ
むしろととさんのエリアが心配。今はTUKAさんところ・・・北上せずに東へ抜けてくれないものか。青森のりんごが落ちるではないか。
ちょっと詳しい概略とかいいつつマジ書きになりかけているうえ纏まっていない。苦しい。チミはナニを言いたいのかね>nagajis。コンセプト立てたんならその通りに書き給え。
これは今晩中に終える。明日一日は旧橋とpdf修正。
オバマ大統領の受賞と温泉無料開放は関係がないだろう。>小浜温泉
しかしそれが当然なのが今の日本なのかも知れず。異義挟むやつは友達のいない寂しいやつか非国民。
とあるお店でジャンクなヘッドホン500えんを購入した所、おまけで(何故か)USB接続のカメラをつけてくれた。これでビデオチャットをせよということか。
MacOS9用のドライバなんてなかんべと思ってたらちゃんと存在した。とりあえず動いてラッキー♪と思ったらnagajisが青くなったり桃色になったり忙しいので役に立たない。使える設定にしたら今度はこれだ。ハゲ頭しかわからんではないか。
今晩中には発行できそうな塩梅。良かった良かった。
無料号の話は結局進んでないままだ。今月末までに何とかしたいのう・・・。しかし、10月末までに片付けなければならない仕事が(個人的なものを含め)すでに2つあって、これらの兼ね合いからしてすでにキツい。うまく回さないといけない。
それから、購読のてびきの修正。eバンクの振込み手数料が有料化される件とあわせて書き直そう。pdf版は削除したほうがよい。
発行前にdb登録忘れないよう。これやらないと記事一覧に出てこないからな。
あ、41号の東熊野修正してupしました。案内はまだです。今送ると503になること必至。
予告になっていないし非常に未確定事項なんだがとりあえず入れてみる。でなかったとしたらどうせ東熊野だしな。
「廃道をゆく2」の巻頭特集を何にしようかという話。どこかで探索OFF(合同探索とか言ったほうがいいのか)をして、その様子を掲載するのはどう? というアイデアが出ている。それでそのOFFの告知をしたい、というのがあるんだが、関西だし、日付未定だし、ヨッキ氏にも相談してないしな。
場所はこれ以上有名なところはないという場所。何しろ日本百名山。その歴史に大きな汚点をつけた張本人。よく話題に登る割に、それがいまどうなっているのか知っている人はあまりいないようだ。
@11;45
携帯電話というものは、人の注意力を散漫にする。
本日町中ですれ違った人。かなり興奮された様子で携帯に向かい叫んでいた。嫌でも耳に入るその会話内容。
・・・が1つに統合されったっちゅうのは、お前、どえらいことやぞ! 分かるか?!
何と何が統合されたのか。よほど便利な何かが生まれたのだろうか。どえらいこととは、どれくらいどえらいことなのか。電話の向こうの人はよほど気の抜けた返事をしたのだろうか。気になって仕方がなかったが聞き耳を立てるわけにはいかず、むしろ塞いで遠ざかるしかなかった。そうして頭の中で通りすがりの人のワンフレーズが繰り返されるばかり。
お陰で用事を一つし忘れた。
up。ERRATA発行。やはり戻ってくるメール・・・。うーんどうしたらいいんだ。
前回「無料号を出す」と言いつつ全然作業できていなかった。このまま出さなかったら狼少年謙になってしまう(はいそこ少年じゃないなんていう突っ込みは野暮。ぼく3つでちゅ)し収入も減ったままなので少しずつ進めている。
単に無料化するだけならポチッとなするだけでよく、今すぐにでも出来る作業なのだが、そんなんで何の販促効果やある。ライナーノーツということで詳細なりウリなりマンセーなり書いたページを用意したい(できれば最小限の労力で)。
というわけで既存DLページとhistory_pとkiji_order_1st辺りを流用してでっち上げた。仕組みはこんなんでいいんじゃ中廊下。あとDLはindex.phpを通さず素のpdfをDLするようにしないと大変なことになる。{$a}が{$b}ってきて{$c}が{$d}からな。
来月頭には何とかできるといいのだが無理かも知れず。あと、各pdfの冒頭に広告とか購読案内つけるくらいの姑息なことはさせてほしい。アンケートはどうしよう。
立小便禁止を主張するプレートに遭遇した。こういう場面では鳥居のほうがしっくり来るように思うのは関西限定か、という勝手な想像はさておきカニである。初めて見た。
カニが「立小便禁止ィィィィ!」か。珍しいな。そういうのもありなのかも知れない。と思った0.7秒後に真意を悟った。
そうか。そういうことか。
しかしこれ、よくよく考えてみたら性差別じゃないのか。ないほうの性だとカニ挟めないだろ。立ちもしないし。許されるのか。おれは許さんからなくそっ。
簡単な解決方法をはっけん。これはどのみち読者サイドで何とかしてもらったほうがよさげ。
PayPalとのデータのやりとりをUTF-8でやっている関係上、&、FirefoxやMozilla系ブラウザではAccept-Languageの筆頭がen-USなため(?)、FirefoxでPayPal画面に移ると英語で表示されてしまう。EUC-JPか何かにすれば自動的に日本語になるのだろうけれど、今さらあのへんに手を入れてエンバグするのは正直いやだ。樋をミルよりも明らか。
朝9時から夜8時までぶっ通しで作業。やる気があるうちに進められるところは進めておくべきだろう。
しかし・・・。すでに60ページを越えている。高橋メソッドライクな作りとはいえ20分でカタがつくとは思えない。随分削らないと。
先日お世話になったOさんのお誘いを受けて、泉南河内で行なわれた「軟式サイクリング部」之活動に参加させていただいた。南のほうを走ることが滅多にないのでよいチャンス。ついでに行きたかったあちこちにも寄れて満足〜。最後の打ち上げには参加できなかったけれど(∵nagajisは酒を飲むとすぐ寝てしまうので帰れなくなる)、楽しいひとときをありがとうございました>皆様
天野街道のひとこま。製陶土を産出した陶器山を経て天野山金剛寺へ向かう街道。正面の山波が和泉山脈だ。いい光景がうまく撮れない・・・>S9100
そのくせこういうどーでもいいものは綺麗に撮れる。大好きだ^^;)
途中で見つけた「とびだしだめ君」怪しいバージョン。北摂人にはおなじみの飛び出し注意看板だが、こういう造形およびカラーリングのものは初めて見た。胸に描かれた串団子、目がくり抜いてあって覗けるようになっている?のが味わいを増す。
(参考画像:純正とびだしだめ君。意匠登録第708404号)
金剛寺の石垣。乱れ積み基本だが水平を意識している風があちこちに見られる。仁王様の門前の石垣も乱れ布積み的な積み方で面白し。
金剛寺内天野川にかかる小さな橋の欄干。彫った上に木をはめ込んである。結構な手間だ(竣工は昭和39年と比較的新しい)。
金剛寺から北へ抜ける道にイレギュラーな青看板。おにぎりが逆になってる!
そうして紀見峠道をまたいで石川へ。その途中でパンクが発覚(汗。ピンホールやと思ってたのが、ワイヤーの切れ端みたいなんがめっさ刺さっとった。
河川敷のサイクリングロードを北上していくと、出会うのが玉手橋。2年ぶりになるのかな・・・。写真をいじったらコダックブルーっぽくなった。なしか。
そうして皆さんとは築留二番樋の辺りでお別れ。大和川の付け替えや樋門の存在は知っていたけれど、現地は未見。とても勉強になりましたm(_ _°)m
帰りはなんとなく走っていったら調子が出てきて、そのまま自宅まで(汗 18:30ちょい過ぎに戻れたのは我ながらびっくりだ@_@
教訓;大阪市街は車になったつもりで走ると楽だ!
「とびだしだめ君」もどき、見れば見るほど味わいが増す。思わずデスクトップに設定してしまつた。
と思ったらこの有様だ・・・もっと早く行かんと如何ともしがたい。
原稿作成中。意外に手間取るかと思っていた導入がさくっとできあがり、以前書きかけていたルポにつながった。とはいえこれで総行程の1/4。2日にまたがるのをうまくまとめられるだろーか。言いたいことはいっぱいあるんだが、伝えようと一生懸命になればなるほどこんがらがるかならあ。<からなあ、の間違い。一見しただけではわからんかった
いまの部分は生かすとして、・・・みたいなことを考えるから際限なく長くなるのだろうな。こっからが見せ場なんだってば。また写真で誤魔化そうか。
以下nagajisの個人的メモ。
課題:鳴川山OFFプレをどこで入れ込むか?行程通り最後でもいいか。
北海道人先生の件、ほんとは導入にかかないといけない。キモなんだけど。ただ引用と解説が長くなりそうで、入れると流れが阻害されてしまう。行程がちゃんと追えていない。現状のまま入れようとするとコラムにしかならない。これも最後に入れるか。すると土倉家文書の回にもつなげられるしな。そやそやそろそろ申請せな。
上記とは別件で石垣@廃道を読むをやりたいと思う。これも長くなりそうだからやる気が起こった時に一気にやったほうがよさげ。
というか東熊野終わる前に他の始めないと終わらんぜよ。土倉街道とか思い出せるん?>nagajis
以上nagajisの個人的メモ。
旧橋はTUKAさんにお任せする。次回表紙はええ写真やで〜(そっか次号予告これに差し換えとけばいいのか。そうしよう)
が、向こうに書いてまた上げちゃうのも、ちょっとどうかだからな。それにORJでまとめを書くだろうし。
村田鶴と移籍組5人について。別メディアで撮っていた分に吉田勇、佐藤道之介の着任辞令があった。埼玉県を「疾病」理由に辞してから滋賀県へ来るまでどれくらいかかったのだろうと思って確認してみると、吉田はT4.6.14辞、T4.6.21.着で1週間も間がない。佐藤に至っては9.20.辞で翌日には滋賀県入りしてる(!)。真に病気であるはずがないのだ。
そうそう、中澤さんも面白いことを発見した。この人は村田とともに最後まで滋賀県に残った人なんだが、T8orT9頃に坂田郡だったかどこかだったかの郡吏員になっている。辞任者名簿の目次にあったということは、当初は滋賀県土木技手として赴任し、すぐさま移ったのだろう(辞任者名簿に履歴が挟まってるはずなんだが、今回そこまで確認できなかった)。どうりで表に出てこないわけだ。中澤徳次郎は埼玉県時代にも千葉県へ出張したりしていて、ボランチというか遊星ギアというか、そんな役回りを演じている。ひょっとしたら遠山貞吉みたいに治水生徒制度の人なんかも知らん。違うかな。
この頃の人事は一見すると不可解極まりないけれど、厳格な法則に則って動いていたらしいことに気がつき始めた。例えば勤務年が叙位叙勲に直結し、滋賀県技手と技手は別物で、滋賀県道路技師と滋賀県土木技師兼道路技師は明確に異なっていた。何しろ名簿の別ページに書かれてあるほどだ。中澤さんや村田(後者)にはわざわざ朱印で「技手」と押されていて、友岡正介、重松才吉のコンビはふつうに道路技師とだけ書かれてるほどだ(@昭和10年職員名簿)。決して明文化されることのない「法則」があったに違いない。
友岡正介はおそらく滋賀県が直接採用した準エリート(土木学会の学生会員の欄で名前見たことがある)で、そういう人物と移籍組とが(同じ技師という身分であっても)厳密に区分されてた、みたいな。ちなみに重松才吉っつあんは満州に行っている。土木学会附属図書館デジタルアーカイブス「建設 / 土木満州」どちらかより。ページは忘れた(汗
吉田勇という人物はつかみ所がない。埼玉県ではずーっと浦和にいて、一直線に(?)滋賀県入りしている。滋賀県ではあちこちの工区長を歴任(で、何故か判子を逆さまに押す癖がある)。淀川河川敷の沖野忠雄の胸像の復興碑の委員銘に同姓同名の名前があるが、これは1979年に再建された碑だから、滋賀県の彼と一緒なのかどうなのかは微妙なところ。明治26(1893)年生だから全くあり得ない時間関係ではないけれども、戦争挟んでるわけだし、ともかく同姓同名が大杉だ。「吉田勇 土木」で検索すると土木の参考書籍書いている吉田勇さんや越前市で建築工事を営んでおられる吉田勇さん、掛川市で土地家屋調査士をしてはる吉田勇さんさえ引っ掛かる。困ったものだ。
とはいえ・・・滋賀の吉田勇が大阪へ行っていたとしたら、4年前に電話口で聞いた「埼玉と『大阪』から照会があった形跡がある」ちうのと絡んできて、面白い展開になるんだけどな。
(現実には所有してない)冷蔵庫の中に虫の湧いた生ゴミが詰まっていて、そのうえ紛れているペットボトルの中に死にかけた魚がうねうねずぬりとしているを見てしまい「うゎあ(汗」となった夢を見た。速攻扉を閉めたのはいいものの、あとをどうしよう、というのでぐだぐだと悩む。さっさと目ぇ覚ませばいいのに>nagajis
2日目朝で中断中。核心なんだけど見どころがない。雪の中にCPL落として時間ロスした話なんか書いても仕方ないしなあ。
毎回東熊野に時間をとられて他のことができず。どのみち必要とされてないんだからいいといいえばいいんだが、単調だ。
絡みで伯母谷軌道まで書いてしまったほうがいいんかも知らん。いまは片付けるほうに振らないと。
次号予告で入れていた件は11月末の連休になりそう。廃道をゆく2には使われないかも知れない(いけね、訂正してねー)けれど、今年最後の大イベントに参加されたい方はぜひ。
工事記録が残っているっぽいので申請中。実際に見られるのはかなり先になりそうだから、地図だけ確認しておくことにした。いずれも二万分一地形図/明治26年測量。熊川村は明治後期だったかも試練。
若狭街道水越峠。峠はいまと変わっていないが西側のトンネルの辺りに旧道があるらしい。どんな橋が架かってたんだろ。
北国街道栃ノ木峠。北側に換線。ただし今この谷筋には大きな砂防ダムが連続して架かっている。かなりズタズタな予感。
椿坂峠にも地味に旧線がある。
謎の自衛官氏にタレ込もうかとも思ったけれど、氏の手を煩わせるほどのものでもないかも知れない・・・そのへんは県民局資料を吟味してから。たぶん作られた時代とか経緯とかのほうが面白いと思うんだ。
栃ノ木峠、椿坂峠は一度自転車で越えたことがある。ホハレ峠へ行って、冠山峠経由で福井へ出た時に。懐かしい。
ありゃ、椿坂はいまトンネル作ってるのか・・・。
になりそうな感じだ。<感じだ、じゃねえ。人に任せッきりになるなと。
今度は土曜日なので余裕があるかも知れない。ただし南国の人nagajisは使い物にならないはずだ。隅のほうで大人しくしていよう。というかマジでnagajis要らんのじゃね?
役員会に参加する序でに滋賀県史昭和編をフェッチしてきて読む。これくらい詳細なものが大正中期からあったら苦労しなかったんだろうけど。
政治面からの考察が全然できていない。例えば政党政治と滋賀県土木の関係。大正後期〜昭和初期の滋賀県は政友会の天下だった。井上準之助井上敬之介ちう政友会の重鎮がいて県会を半ば牛耳っていた。「滋賀には知事が2人いる」とか、井上に就けば県会は安泰だとか言われていたらしい(最近気づいたが井上準之介は日田生まれだ。あんまり名前を聞かんかったのは金融恐慌の引き金を引いた人やからやろか。(こっちの)井上さんは昭和7年血盟団に暗殺された。井上敬之介は昭和2年没)。
原敬内閣の元で滋賀県知事に就任した堀田義次郎も井上の操り人形だったいうのが通説。堀田がそれまでで最大となる二百数十万円の歳出予算を提出し琵琶湖周遊道路計画ほか道路政策をがっつり押し進めることができたんも政友会系知事で、政友会が道路政策を好んだからだった。ただそうやって可決した15カ年計画(だったかなあ。全部うろ覚えで書いてるので信用するなよ<誰に向かって言っている?)は堀田なきあと停滞した。井上が支部長を去り(世を去り)、民政党が盛り返してくる昭和2年以降はさらに滞った。賤ヶ岳隧道が昭和2年にでき、続きとなる湖北は昭和9年。全通は11年の初夏。
滋賀県で時局匡救事業が活発だったという印象はない。あるにはあるが本当に局所的なもの。例えば万世や山陰道が直轄で工事されたようなのとは比べものにならない。こまごまとした工事が多かった印象がある。米原跨線橋とか。いや、京津道路の改修があるか。このへんはもう一度確認するべき。
で、ほとんど繰り延べ々々になっていたところを堀田貢が八八計画を打ち出し整理復活させようと試みた。観音坂隧道も実はこの頃俎上にあがったもの。堀田貢のいる間には進展しなかったが伊藤武彦が頑張って片付けた。県会もこの頃は非常時局ということで骨抜き&陳腐化してたらしい。以上うろ覚え記述。
村田がいた時代はそういう政治に翻弄された時代だった。昭和3〜6年の間目立った動きが無い(これは村田に限らず滋賀県土木課全体にとって。この年間の年表はやたらと短い)のもそのせいなのだろう。費用削減で土木課職員26人が一斉に辞任したというのもこの頃のことだ。
原敬が藩閥を解体し政党政治を確立させた功績は大きいけれども、未熟な日本はそれを安定運用できなかった。政権を取ることが目的の政争だったり市民レベルでの政党対立が始まったり。それが5・1615にも2・26にも直結している印象が(個人的に)する。それが後々まで尾を引いている。うちの田舎もそうだった。玖珠川を挟んで向こうとこちらとでは仲が悪かった(子供的シマ争い的アレなんかも知れんけど)。森藩<>天領というところから始まったものだとばかり思っていたが、直結しているのは大正昭和の政友会vs民政党の対立であったりすることを、田舎を出てから知った私だった。どうでもいいじゃん・・・と思う。それで両者を結ぶ橋が「協心橋」だっていうのは、泣かせる話じゃないか。
はい沢山間違えてました。修正修正。
小ネタを入れ込もうと思う。
・第一期熊野街道荷坂峠
・一庫ダム工事道路
・音水林鉄赤西支線/音水上部軌道続き
辺りさっさと片付けたい。北摂でもいい。旧多田大橋は写真がどっかいった・・・。廃橋というとまっ先に思い出すが写真が見つからず。この間撮ってきたのも中途半端。
CFは確かに県民局にあったけれども「郵送してくだちい」とは切り出せなかった小心者。次回申請が通った時に取ってくる。それだけのために1500えん消費できるわけがないし、どのみち核心はS11の職員名簿だからな。中身を忘れないうちにメモっておいてよかった。
ちょっと実験失敗・・・the-orj.orgに繋がらなくなっています(汗
つながらない場合はしばしお待ち下さい。
多分直りました@AM0:00
_ とと [実験失敗と聞くと、どうしても 爆発→チリヂリ頭→口からゴホッと煙 を連想する…。]
構想2年。隧道カレンダーができた。売るかどうかはさておきできた。
表紙。どこかで見たことがあるという方は、正解です。
中身。一年中廃隧道が楽しめます。同じ構図揃えるの大変だったんだから。
いちばんのキモはこれだ。
壁掛け式で作るのであれば天辺にマージンを取るべき。データ配布・印刷方式なら1月2MB以下に落とさないといけない。セブンイレブンのネットプリントじゃ2MBまでしか受け付けてくれないからな。これだけが不便。とりあえずキモ部分が仕上がっているから、ここから卓上にもCDタイプにも変更することは(原理的には)可能也。
Oさんが先日の天野街道サイクリングのレポートをあげて下さっている。こういう感じのにぎやかなサイクリング、いいですよねぇ。
明治33年の河川法の成立によって国が利根川を管轄することになり、直轄改修工事が始まった。明治33年に千葉県佐原から河口までの期間を第一期工事として着手。第二期は佐原〜取手まで。明治40年。埼玉県がからむ第三期は取手〜群馬県沼之上間、明治42年度から着手することに。
が、明治40年8月に利根川・荒川の大水害が発生。これを受けて第二期工事と第三期工事の同時進行が目論まれ、42年から始まったものの、その翌年に過去最大の大水害に見舞われてしまう。
この水害で埼玉県の1/3が水没したとされる。国の改修工事もこのような大規模災害を想定していなかったため改修計画そのものの抜本的見直しが必要に。改めて荒川改修も含む計画が建てられ、明治44年4月に告示。改修は昭和5年までかかっている。
河川法成立で利根川改修費が浮き、他の河川の改修に予算を回せるようになった埼玉県ではあるが、全く負担がなくなったわけではなく、度重なる洪水でかえって負担金が増えてしまった格好。枝川の改修も利根川が片付かない限り実効的なものにはならず。というか改修しなければならない河川が多過ぎて予算の奪い合いになっている。そんななかで渡良瀬川、大落古利根川の改修がなされている。前者は他県との絡みもあって無理矢理?通過、後者はいったん明治37年度からの3年間計画で出され、これも強い反対を押し通して成立したが、日露戦争の勃発でお釈迦になり、再度39年度〜42年度と4カ年計画で可決・実行されている。村田の初任地が大落古利根川の改修工営所であった。
43年8月10日〜の洪水で大規模な被害が出たところの一つに中条堤(ちゅうじょうづつみ)がある。これはフカダソフトさんに詳しい説明がある。利根川の一支流・福川に沿って作られた堰堤で、利根川が洪水となった時に遊水池(とその堰堤)となって洪水調節機能を果たしたもの。43水害ではこの堤も切れた。というか利根川べりの堤はもとから欠けがあってそこから溢流する仕組みだったわけだが、それが大きく破損した。
明治43年8月20日、村田は「中条工場」勤務を命じられている。ずっとfactoryの工場だと思っていたがそうでなく中条堤の工事現場ということらしい。堤は江戸時代からあって長く論争が絶えなかった場所(堤を高くして水害に備えたい下流側と、できるだけ低くしておいてほしい上流側との対立)で、この復旧工事の時も一悶着あったようだ。これも説明すると長いが、県会における工事予算決定が我田引水的に行なわれたのを島田県知事が是正しようとした(上流にも下流にも県議会の有力者がおって、改修工事に多額の予算を分捕ったのを何とかしようとした)ら、逆に県議会側から反発を受け、前代未聞の「知事不信任案」が動議され可決されてしまった。もちろん実効力はないものだが「法的意味があろうとなかろうと構わん」とかなんとか言って露骨に反抗を唱えたのであった。
そういうゴタゴタのなかで中条堤の復旧は放置された。44年4月になってようやく和解案が成立、復旧工事が講じられている。村田は44年6月23日川越工区へ異動。工事完了までは関わっていないのかも知れぬ。
大正年間にも河川氾濫が多発している。大正6年まではずーっと川しかやってない。ただ工事が細か過ぎて場当たりなものであった感じがする。それを岡田忠彦知事が積極的抜本的大改修計画を立て、大正6年だったか7年だったかから着手される。これが今日の埼玉県に直結する土木事業であった(のではなかったっけか)。居続けていればその工事に関わることができたはずだが、その端緒に就いた頃村田は滋賀県に移る。中澤さんも杉山もこの時期の移籍組。
CDサイズ+日曜始まりで作成してみる。案外いい構成になった気がする。ヨコイチをタテで使うような練習、しないといけないなあ。
最初に見たものが全てという性格なんだと思う。刷り込まれやすいというか、最初に見た構図から離れられない。見方を変えるといろんな味わいが出ることを発見。
調べてみると日曜始まりっていうのはちゃんと意味がある。労働法で定められている週の定義は日曜から土曜なのだそうだ。ニートが労働法か、と思わないでもないが自分以外はニートじゃないもんな。
何かいいことを思いついた気がするんだが忘れてしまった。最終的に切られる存在であるってことと何か関連してた気がするんだが。
11/21、23辺りで大台ヶ原へ行こうかと考えていたのだけれど、Oさんからお誘いをいただいてしまった。。。さっさと告知しないからだ。どうしよう。
いやいや。ここは連休ではないのか。21日奈良市街、22日乗り込み+休める人神之谷にでも行きますか?、23日に大台、でいいのか。紅葉は終わってるだろうけれど。ふむふむ。そうしよう双子葉。
というわけで11/23大台行きます。
わー違うよぉ。2010年のカレンダー見てたよぉ
異聞2まで書き始めてみたが、性に合わない。東熊野の書き過ぎか。こんなんじゃなきゃ喜ばないような層に対して書くまでもねぇ、ってことか>nagajis。そういうの欲しけりゃそういうとこ行けばいいよ。無料だし。
90ページ作って使うのは40ページ。がっつり削るとこうなる。これで20分前後、質疑応答たっぷり受け付け□。10/31、東大阪市鴻池新田会所へどーぞ。
朝起きて掲示板に報告して追記。確かにこれは気になる・・・。でかでかと「隧道」と彫られているのもいい。
あれ、よく見たら明治四十四年竣工になっているな。こっちは新しいんだろうか?
今月の煉瓦または探近土ネタとして使わせていただきまーす。
22、23の連休(のどちらか)で大台の四日市製紙軌道を歩いてみようと思っている。堂倉山の南から西へ2300間。東のトロ道は今回はあきらめよう。どのみち1日でどちらも行くのは(大台山の家に泊ったとしても)無理だと思う・・・その辺り識者のご意見賜りたく候。
たぶん西日本で最高所のトロ軌道跡。東大台を丸裸にした張本人。隧道2本あり。求む探索者。
ラーメン一つだとお腹一杯にならない。かといって二つ作ってしまうと余りがち。悩む。
それでふと高校時代のフッチー先生のことを思い出す。カレー2杯食べてもお腹一杯にならない、3杯目を食べるかどうかで悩む、と語ってくれたフッチー先生。あのガタイを維持するにはそれくらいしないといかんのだろうなあと思った次第だ。
一玉放り込んだところでそれを思い出しこれを書き始めてしまったため一玉の食事である。具はない。
何かの議論で「歴史抜きでやったら?」みたいなことを言われたことがあるような気がする。その時も「具の真骨頂」とか何とか言っておいた気がする。その場面がどこだったか思い出せん。うーむ。
そのへんが必要なければORJなんてやらなきゃいいのよ。ハイハイ廃で終わればウケがいいのは当然なのよ。考える必要ないからねぇ。消費するだけだもんねぇ。作るほうも楽だしねぇ。売れるだろうねぇ。
辞書編纂者と同じ。わざわざ可能性の芽を摘むようなことはしたくないぞ。だったか・・・。部室で、だったっけか。
やってることはあれから変わってないはずなんだけど、単調は感じるなあ。次に何をしようかということがない。信念曲げてまで迎合しようとは思わないけど、なあんか変わったことをしないとなあ。
_ 渡辺(仮) [歴史のみ。図・写真なしの文章のみ。読者が必要に応じて現地確認を要する記事。「歴史抜き」と対象でやってみたら面白いかも。]
東大阪市・鴻池新田会所にて。お昼から。五重塔が倒れない理由が判る講演会もあります。一般の方もそうでない方もぜひ。最寄駅はJR片町線鴻池新田駅ー。
1:50,000地形図・大台ヶ原山(明治44年測量)
現在の車道は赤線。枌尾を出たところですぐに対岸へ渡る。その後瀬戸まで川沿いの車道。
かつての道は青線のとおり。中奥の手前で中奥の高さにあがっていた。そこからゆるゆるとトラバって瀬戸へ。ちょっとわかりづらいが里道連路の牛馬ヲ通ゼズな道。ちなみに中奥から対岸山の中へ入って行く破線道は北又川流域の仕事場へ向かう道だった。神之谷が三之公を領していたのと同様、中奥は北又流域を領してた。はず。
緑線は戦後まもなくの応急修正版から。作ろうとして断念したトロ道とはこのことかも知れない。航空写真でも確認ができる。
それにしても・・・素堀のトンネルってどこやねん。
この場所にどうやったら76間+105間の隧道が穿てるのか、考えてみると面白い。
S9100、リサイズ・シャープネス一段。使いようのない写真。
今晩はラーメン2玉食べてやると決心したのに調理器具たる手鍋が行方不明で見つからず仕方なく30cmフライパンで作ったのだが量の加減が掴めずうすうすな味になってしまいその反省として水を足さずに作った2玉目が濃ゆすぎて塩辛く喉が乾き思わず傍らの薬缶に手を伸ばしたところその下からおもむろに片手鍋が現れた。畜生。なお相変わらず具はない。
ところで何で畜生が罵り言葉なんだろう。みんな生き物、仲良くしようよ<いやらしい言い方
こういうのをやろうと思いつく神経がわからない。明日は我が身かも知れないっていう想像ができないんだろう。
みたいな感じであげつらうのは簡単なのよね。自分より見下せる人間、あるいは叩いても無傷であろう大きな存在に対しては徹底的にアラを探して叩く人々。別の口では上から目線なんてゆう言葉を発しつつ。そういうのは人間同士でやるといいよ。
この間忘れてて思い出せなかったことは「末端であれ」ということではなかったか。アメーバの手足のごとく先鋭化し突出して拡がることのできる範囲を探る役割。斜上の発想を繰り返すことで界面活性化する役割。実験的手探り的模索の繰り返し自体に価値があって。安定はつまらない。君子になるつもりはないが危うきに遊んでもいいじゃないかという。
と、言葉にしてみるとごくごくありきたりなことだなあ。
_ なるな、人間になるな [ゲージツ家やカユイ犯の真意はわからんからなあ。弱い連中いじめる人種とは亜種レベルで違うかも。経験上ホームレスよりホープレスのほうがいじめに遭いやすいと思うはらたいらさんにプライスレス。]
5年分吐き出してきた。予想通りトバしまくった。とりあえず終わった。むーん。
タイトルに↑のような引用ネタを使ったが、実際のところはこれからが正念場だと思うんだ。自ら築き上げてきた村田像を切り刻み解体する作業が待っている。これがいちばん大変かも知れない。
あっちで書いたみたいに現段階では政治史との絡みをほとんど考慮していない。県議会議事録大正5年版にあったクリチカルな情報の検証をしなければならぬ。原敬→堀田義次郎&井上敬之助コンビの政友会系県治に清廉潔白で鳴らした山田博愛がどの程度協力したのか。政友会勢力増強のための移籍組であり六六計画だったのか。そして村田鶴は。次回はそのへんの攻防になる。
それから、工手学校の教授陣の分析。神吉先生のご指摘の通り、工手学校の教授陣はすさまじいもので、東京大学で教鞭を執っていたような人が夜学のこの学校のためにまた教鞭を振るった。教育の質はものすごくものすごく高かったのだ。例えば当時の土木科で隧道を教えていたのは森早苗。山手線新永間高架橋の建設に携わっているような人物。建築、図画辺りの教師が誰だったのか検証しなければ。妻木頼黄だった気がする。いやあの人は主務だったか。むーん。
語り継ぐ 人もなく
吹きすさぶ 風の中で
紛れ散らばる星の名を
例え忘れても
Head-light Tail-light
旅はまだ終わらない
Head-light Tail-light
旅はまだ終わらない
私事にかまけて他の仕事がほとんど進んでいない・・・明日から馬車馬のごとく動かねばならない。ならないのっ! めっ!
(カテゴリは必ずしも一意性を保証するものではありません)
子供を叱る時の
めっ!
というのは
この目を見よ!
ということであるらしい。口ほどにものを言うという我が目を見、怒りの感情を読み取り、自省せよ、ということ。何故怒られなければならないか、どうして怒られているのかの口頭での説明を省き、相手に読み取らせることで済ませようという、一種の手抜きである。
ならば仮に、他の器官が口ほどにものを言う人物がいたとしたら「(その器官)ッ!」といえばいいことになる。二重瞼で優しい目をしたお母さんなんかは目以外の何かで訴えたほうがいいのかも知れない。
目以外で外部に訴えかけるもの・・・。各自で想像されるとよい(<手抜き)。あ、お父さんでも可。
人でなしのnagajisにはどんな器官だってあるのだ。また入金操作し忘れていた・・・。真面目に反省したい。あと、幹事会にはちゃんとすーつを着て行きましょう>nagajis
どうも、nagajisにスーツというのは孫に意匠、もとい馬子に衣装であり、ケツの穴のちいせえ人間が精一杯背伸びしてる感が漂っているようでいけない。いや、全国数千万人のスーツさんを揶揄するつもりは毛頭なくて、とことんnagajisにはスーツ似合わないだろJKとしか思えないのだ。そうなのだ。人でなしのnagajisは人でなしらしく生きなさいってこった。
なので普段着(とも言えない怪しげな格好)で登場してもどうか石を投げないでください。スーツ着て出てきたときはウンコ我慢してると思ってください。年クラスの久しぶりにスーツ着た時点で虫食いに気づいてしまったり一張羅のネクタイ洗濯したら何故か裏地がボロボロに破れてしまって朝慌てて縫ってみたりしていたnagajisなのだから。
(とはいえ、莞爾となった限りは自分だけの体面じゃあないのだしな・・・ブツブツ・・・ニッコリ笑って自分斬るか(ボソ))
ツッコミ欄は実体参照使えませんosz
_ とと [プチマッチュウ by MC・ハマー(バブルの記憶)]
_ 絹路 [笑うんじゃネぇ! ウチは隣の松虫通じゃwww]