nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
分水嶺の峠を巡っていた頃「峠で十二支ができないか」と考えたことがある。名前に子、牛、寅、卯、・・・のついた峠を集めれば十二支の動物がすべて揃うんじゃないかと。同じ命題は山登りの分野では昔からよくされている。今年の正月に羊蹄山の写真つき年賀はがきを送った人は全国に何万人といるんじゃないか。そういうのを峠でできないかと考えたことがあった。
とりあえず手近にあった、地形図に掲載されている峠の一覧を虱潰しにしてみたのだけれども、結局「未」が見つからなくて断念した。「未」を「羊」に拡張しても同上だった。それ以外はすべて揃ったのだけれども。
そうやって断念したあと、愛媛県にある今生坂峠という峠が「羊坂峠」なる異名を持っているらしいと知った。現地麓に建っていた色褪せた案内看板にそう書かれていたのだ。以降の行程が詰まっていたうえ、予備知識なくそれを知り、なおかつ看板が不鮮明であったため、本当に今生坂峠=羊坂峠なのか確認するには至らなかった。とりあえず今生坂峠には行き、写真を撮っておいた。掲げた写真がそれである。1998年だったか99年だったかのこと。
なお十二支の候補はこんな感じである。うろ覚えなので詳しくはpdbでも見てほしい。
子:子別峠(熊本県)
牛:牛廻越か引牛越(和歌山県〜奈良県)
寅:獅子目峠(和歌山県)
卯:卯辰越(徳島県)
辰: 卯辰越使い回しか、龍ヶ飲水峠(岩手県)
巳:辰巳峠(鳥取県〜岡山県) 辰が気に食わなければ岡山県の蛇ヶ乢(おろがたわ)でもよい
午:馬越峠(同案多数)
未:???
申:猿ケ馬場峠(たしか長野県) 猿、申は代替案多数
酉:鶏峠(福島県)
戌:犬切峠(宮崎県)もしくは狼峠(広島県だったか島根県だったか)
亥:猪の子峠(大阪府)
「羊」のつく峠がないのは、羊や山羊が日本に定着してなかったからだろうか。そのくせ十二支に含まれてるのは不思議な感じがするが、そもそも龍だっていないしなあ。
写真に写っている枝に手挟んだ白いものは持参していた地図だと思う。明白なサミットがない平らな峠であったので、たぶんこのへんが最高所という場所に目印として立てたものだ。全然意味をなしていない。
唐招提寺と薬師寺へ。 中学生の時修学旅行で行った気がするのだが何一つ覚えていなかった。前者のほうが落ち着いた雰囲気があっていまの気分にぴったり。薬師寺は相変わらず庶民寄りというか商売上手というか。 だからあんなに建物立派なんだ。世渡り上手ほど御殿を立てたがるのは庶民もお寺さんも一緒なんだろうと思った。
ここ数年恒例となっていた年越し即原田神社詣で、及びおみくじは今年はしなかった。なんとなく違うことをせねばならぬように思えたので。そのかわり2日昼間に立ち寄った。おみくじは吉。昨年より少々よくなったうえ相変わらず安産である。
朔日も二日も雪に降られた。寒さは1日が底。久しぶりに正月らしい正月だったと思う(気候的な意味で)。
1956年(昭和31年)発行の新書。標題から古文書の解説の書かと思っていたが、そうではなかった。筆者が生まれた村に伝わる古文書を読み解いた結果からわかったことを書いたもので、むしろ「村の生活」とか「共同体としての農民」とかいう題のほうがふさわしく思われた。
山論や水論の具体例を引いて、農民が共同体として生きてきたこと、それが往古の昔から全く変わることがなかったことを教えてくれる。例えば水論の文書ではそこに出てくる地名や目印、池の名谷の名、田畑の規模に至るまでが、執筆時点の現在において、ひとつの過不足もなく全く一致していたという。それを舞台とする水利慣行のごとき無形物ももちろん変わっていなかった。 少なくとも江戸期より数百年は同じ状態が保たれていて、場合によっては中世古代まで遡り得るとのことだった。そういう意味では村の存在そのものが記録であるとも言え、そのへんに標題の起源があるのかも知れない。ともかくもその「変わってない」ということがあちこちで力説されてて印象に残った。むろんそれは執筆時点での話なので、半世紀以上経た今日ではどうなっていることかわからない。その跡形しか残ってないんじゃないだろうか。昔通ったことがある一帯なのでちょっと興味が湧いた。
水利慣行の共同体、入会地の利用と管理にかんする共同体に加えて、村の運営に与する/しない(年齢層)の共同体なんかもあって、実に様々な組に重複所属し暮らしていた。今からすれば「疎ましい人付き合い」かも知れないが、どこかに所属しているおかげで助けられたり助けたりがあった。村八分というものもこの村にはなかったそうだ。悪さをしたものは「 組を休んでもらう」。行事や共同普請に呼ばれなくなり、道端で会っても挨拶してくれぬようになる。やがて本人から(その親や知人を介して)赦しが乞われ、それは必ず容れられて元の鞘に収まる。復縁の機会が永遠に奪われるようなことはなかった。
話は滋賀県の一山村のことであり、これが滋賀県下一円とか近畿地方とかに敷衍されるものではないと思うけれども、いろんなところで読みかじり聞きかじった「村のすがた」とおおきく異なるところはないように感じた。この印象が正しければどの村も数百年間変わらずにいたことになる。そうして今はすっかり変わり果ててしまったことになる。ここ50年ですべてひっくり返ってしまったかのよう。50年という単位は変革をもたらすに充分に長い。
人んちの前にするよりは。
と、とぼけてみせたけれども、「これを書いた本人の自宅」の前であることは容易に理解できる。怒りに任せて書いたせいで 主客がごっちゃになっていること、自らに引きつけて考え過ぎていることが読み取れる。張り紙を書く時はもっと落ち着いて書かなければならないという他山の石である。
公共の場たる公園に荒ゴミを捨てるのは人倫に悖る行為だろう。それは認める。警察が不法投棄を禁じるのもまあわかる。検挙のために隠しカメラを設置するのだって税金の有効利用の範疇だろう。公共の福祉に資する出費には違いない。そういう共感ドリブンの理解と歩み寄りを拒絶する「生ゴミ」の一言。これがすべてをダメにしている。「生ゴミ」がどの語にどのように係るのかわからない。
様々なケースが考えられる。
どう考えても助詞がひとつ足りない。そのせいで説得力を失っている。もったいない看板である。
送信者 関西地方煉瓦刻印 |
送信者 関西地方煉瓦刻印 |
件の推定はすべての煉瓦工場にあてはまるものではないだろうと思う。判子で刻印を押したところもあっただろうし、片側にしか押さなかったところもあるはず。筋のついていない手抜き煉瓦ももちろん多い。「乾燥を早めるために縦に立てていたところでは」件の手順で筋がつき得て、そういう中に返し板に刻印を作りつけて手間を省いていたところがあったという話。返し板に刻印を作りつけていないほうがひっくり返し易い。そうやってひっくり返して(裏返して)刻印打ったほうが、返し損なって不格好な二度打ちになるのは避けられる。けれどもそれだと板2枚に刻印字母も持たないといけない。腕二本ではまどろっこしい(だから日本煉瓦製造では指輪型の刻印があった。叩き板の柄に作りつけたり)。
粘土の硬さ緩さが関係してるのかなあ。関東では関東ローム層を使った。「煉瓦女工」では固い土に泣かされた話が出てくる。播煉のIさんは抜いた煉瓦が型崩れしない程度に緩かったといっていた。緩い粘土なら叩く必要はない。固ければ返す時に筋もつかない。粘っこい土だから筋がついた>関西地方独特の傷になったという想像。
送信者 関西地方煉瓦刻印 |
送信者 関西地方煉瓦刻印 |
送信者 関西地方煉瓦刻印 |
春日野道のアーケードに隣る空き地にて。そうなんだこれなんだ、別所の播陽煉瓦工場近くで目撃した「ハ」は。
同じ基礎に「+」。そして転石に「山」。播陽と山陽は併存した時期がある(T7~T14)ので同時に持ち込まれたものと推定したい。ついでに岸煉が「+」なのはT3の雲中学壁との脈絡が嗅ぎ取れる。考え過ぎかな。
本格的に神戸を歩くべきかも知れない。震災で生じた空き地や転石に煉瓦がある可能性がある。どうも阪急線以北の、神戸の坂が急に立ち上がる辺りの建込み地帯に多くありそげな感じ。そういう住宅地には煉瓦を敷いた溝もあったりする(熊内橋通にもあり)。山手通もそうだった。
自分の思うことさえまともに表現できない人間が他人の意を汲み取って代筆清書するなんておこがましいにも程があるとは思わんかね。
クリスマスにコーヒーミルを頂いたのでコーヒーばかり飲んでいる。新しい玩具を与えられた子供か自慰を覚えた猿の如くに豆を挽いている昨今である。学生時分にもコーヒーミルを所有していたがコストパフォーマンスが悪くてほとんど使わなかった。質よりも量、糖分カロリーを摂取するための飲み物であったから。大して旨くも感じられなかったし。
最近ようやく甘いコーヒーに飽きてきて(20数年にしてようやく!)、ブラックとかレギュラーコーヒーとかに傾きつつあったから、丁度いいタイミングの戴き物だ。しかも以前のとは違ってミルの粒度をコントロールできる。吸い込んだらむせ返ってしまいそうなほどに細かくミルしたコーヒーのほうが好みの味になることを知った。ドリッパーに残った残滓がまるで泥みたい。泥のように煮出したコーヒー、とはちょっと違うが似たものを感じる。以前のミルコーヒーがダメだったのは中粗にしか挽けなかったからかも知れないな。豆のせいではないだろう。石橋の豆屋で奮発して買ったやつだったからな。
調子に乗って豆を数種類買ってきて代わる代わる飲んでいる。ちゃんと違う味がしてたのしい。安かった特選ブレンドは確かにオーソドックスなレギュラーコーヒーの味。ちょっと酸味が舌につく。カリビアンブレンドはあかるい日差しのような軽さで飲みやすい。ミルと一緒に頂いたフィリピン産の深煎り豆は(結構高かったそうだがそれだけに)一番おいしい。少しの豆でとても濃いコーヒーが点ち、薫りもすてきだ。あれコーヒーに点てるとは使わないか。まあいいや。
そのうちタージマハルエベレストのコーヒーみたいなのをいれられたらいいなあと思う。あのコーヒーは口に含んだ時の風味の広がりかたが絶品。帝国ホテルのブルーマウンテンブレンドなど足元にも及ばない。ブルーマウンテンは素直すぎて物足りない。まるで優等生を飲んでいる感じがする。旨くて当たり前、なにか文句でもあるかね? という味。なにかにつけ、どこかとんがった所なり欠点なりあるもののほうが性に合っているらしい。
いつもこの時期は追い詰められた感じがする。しなければならないことが山積していて手がつけられない。なんてキャパ小さいんだろうと思って情けなくなりなおさら手がだるくなり動かなくなり頭が軋んでくる。布団に包まって息を潜めたくなる。そうすればするほど課題は片付かないの、わかってないのかねぇ。まあ今日は頑張ったほうだと思うけど。
その補償として思いのままを書き散らすのがストレス発散だったのだけれども最近はそれすら億劫になってきた。書くだけ無駄だという意識が骨の髄まで浸透してきたからね。誰にも宛てない、自分すら見返すこともないような文字列を打ったところで何の得が吾郎衛門。思ったことを思ったままに書けるわけでも中甚兵衛。それをなんとかかんとか書こうとするのでさらなるフラストレーションが積み重ねられるばかりじゃないか。積んでは崩し崩しては積みの、賽の河原のワープア層じゃないか。わあ(発想が)プア。わあ(屁が)プア。結構臭そう。
後半も目を通さないと意味をなさないことを(すっかり|うすうす|意図的に)見逃していた。まるっと6時間消費した。へろへろになって終わった頃にはもう寝なければならない。なんでこんなに段取りわるいのか。寝言を言うために寝る時間すらない。わけではないが寝たところでただしい寝言が言えるともおもえぬ。
これで使う図版とかレイアウトとか考えてたらまた1日伸びるんだろうな。ばかだな。
こんな大事なのを古書棚から拾い損ねていたとは。よほどのうすのろだな。
冒頭1/5をざっくり読んだ程度。壁から人骨が出てきたというのはよほどの作り事でないかぎり本当っぽいんだけど、導入があんまりに「政府=悪」偏りなので、無い眉に唾つけてみたくもなるというもの。単純に事実の羅列でもいいんじゃないかなこういう話は。余計なバイアスほど要らないものはない。奈良少年刑務所の移転先探してるという話を掘り返してきて「裏でこそこそやってる」といちゃもんつけるようなもの。
以下内容とは殆ど関係ない。歴史というものへの感想。書いたものはたくさんある。証言もある。それをまとめたものもある。しかしそれが100%の真実と証明することはできない。積み重ねと鎬削りの末に「確からしい」と思うか思われぬか。なにを吸収し咀嚼してどう判断するか。そこからのアウトプットが問題なんじゃない。自身がどう解釈するか、そこから何を得何に応用するかだろうな、と短い読書時間に思った。成果が見えにくいから(形にしにくいから)歴史って敬遠されるんだろうと思う。これだったら順列計算とか確率とか物体の自由落下とかのほうがまだ役に立つ場が多かろう。
西口ばかりちやほやされる浜寺公園駅。東口のこの駅名ロゴのほうが捨てがたい。特に「公」の座りのよさと「駅」の四点の省略ぐあいが。ちゃんと作りつけだ。
書体にも時代時代の流行り廃りがある。作られたものの時代を反映している。札幌控訴院の表札(大正15年)とか、昭和30~40年代のトンネル換気室とかでよく見る宋朝体くさい縦長明朝体とか。
こういうのの変遷を研究したら面白かろうと思う。
不要な存在が不要であることを自認して不要と思われるために不要を主張している。 不要になった果てのことはさあ知らん。
いちめんのくずのつた
いちめんのくずのつた
いちめんのくずのつた
いちめんのくずのつた
いちめんのくずのつた
いちめんのくずのつた
かれてなおかたきとげ
いちめんのくずのつた
いちめんのくずのつた
いちめんのくずのつた
せいたかあわだちそう
いちめんのくずのつた
あくいのないそうもう
いちめんのくずのつた
かれてなおかたきとげ
かれてなおかたきとげ
いちめんのくずのつた
いちめんのくずのつた
かれてなおかたきとげ
かれてなおかたきとげ
かれてなおかたきとげ
かれてなおかたきとげ
みちあとはなおかすか
いちめんのくずのつた。
国交省が限界集落の維持コストを調査へというニュースを読んで思い出した。1968年(昭和43年)に発行されたこの新書を昨年の暮れ頃に読んだ。著者はたしか新聞社の人だったと思うが、その周囲ですら「過疎」という言葉が珍しかった時代に書かれた過疎の本である。昭和30年代末の国勢調査の結果から地方の人口減少の傾向が見られていて、このまま行けば地方の人口は減る一方だと指摘され---都市部への人口集中は戦前から見られたけれども、それが加速したんだったか、地方の出生率が低下して帳尻が合わなくなっていたんだったか---、いくつかの省庁でその対策が検討されたりしていたにも関わらず今なお減少を続けている現状をルポったもの。といったらいいのかな。要するに過疎問題が顕著になり始める下り鼻の頃の話。
前半は人口動態などデータを豊富に援用して「過疎とは何か」を説いてあるのだが、いま現在の目で読むと何当たり前なこと言ってるんだろうという、聞き慣れ見慣れてしまった事象の再勉強という感じがする。そんな昔から判ってたんなら何か対策すればよかったのにと。けれども「過疎ヤバイ」「過疎ヤバイ」ばかりで過ごしてたわけでもないらしい。多少は対策が考えられてた。それが有効に機能しないでこんにちに至ったという感じだ。人とか政府とかの力で何とかできるものではない、人間社会の蓋然的帰結であるのかも知れない。
執筆時点で過疎の村といわれていた京都府の山村、滋賀県の朽木村とかの現状が書かれてある。老夫婦が力仕事で田畑を維持し、夜なべをしという状況がまだこの頃は見られた。今はそれすらなく集落を維持することさえ限界に来ている。そんな状況下で維持コストの調査をする(そこに住み続けるのに・その環境を維持するのに必要なコストと、集団で市街地に移転するコストを調査し比較する)という話に、当然のことのように「何をいまさら」「それこそ税金の無駄遣い」と揶揄する声多数。もちろんそれは都市の人間の言い草か、政府=悪としか考えてない短絡思考の意見である。
集落の消滅っていうことはもう何十年も前から懸念されてきた。そのために新しい産業を興してという話を、吉野郡の村々の村史でよく見た気がする。天川村とか黒滝村とか。けれどもその村史の執筆時点からこのかたを見ても明らかに衰退している。その新しい産業が根付いたという話も聞かない。なぜだろう。(黒滝村は少し違うかな。新しい人がぼちぼちと入り始めて林業が変わりつつあるという話を聞いた。天川村でも洞川のような観光地はいまでも元気で、新しいお店だったりアクセサリーショップが出来たりなどしている)。
過疎の村に民俗調査が入っていることのほうが多い。ダム建設で在所がなくなるからというのもあるだろうけれども、まるで病床に臥した人に死に水を与えるみたいな心地悪さがある一方、そうでもしなければ跡形もなくなってしまうだろうというほどに事態が切迫していたということかも知れず、またその民俗調査の結果から教えられたことも多数あるので、なんともいえない。
この「なんともいえない」が曲者なのだろう。外部の人間がどうこうできる話じゃないという諦観・傍観が前提的にある。村が頑張ってくれないと。魅力のある村になれば観光客も来よう。新しい人が入ってこよう。そんな村任せにしてたから解決しなかったのじゃないか>過疎。もっと外圧が(補助金でも優遇税制でもなんでもいいや)が必要だったんじゃないか。いや、それもずいぶんやったけれども今日に至っているのか。しかし政府が本気で過疎を何とかしようと考えているなら、「子どもを産み育てやすい社会を」ってのと同じくらいに熱心にやるはず。
過疎を悲しむべきこと、解決すべきことと考えるのが無理があるのかも知れぬ。山奥に仕事があったから入っていって住み着いた。そこが便利であったから住んだ。不便になった今、積極的に出て行くほうが賢い。それを敢えて蹴って生まれ育った地に骨を埋めたいという思いが尊重されるのと同じくらいに積極的に出て行く選択を尊重してあげたい。コミュニティだとか生活習慣とか言われるけれども、なに、昔はもっと自由に出入りしてたじゃないか。
てなことを読んで思ったはず。
「日本で最大・最高の類語辞典」という触れ込みに惹かれて衝動買いしてしまった。ちょっと変わった辞典である。言葉の言い換え辞典がイメージ的には近いけれどもそこまで機能しない。類する語が知れるというただそれだけの辞典である。
例えば瓜。ナントカ科の植物で云々という短い説明に続き、瓜の別名である黄団、甘霜、等々の語が並んでいる。ここまではまだ瓜という語の言い換えに使えるかもしれないが、この辞書の本質はその後ろにある瓜から派生する語のズラズラだ。
◎くだものとーーー○果■ <クワラ>
◎やさいとーーー○蔬■<ソラ>
◎うつくしきーーー○[古]かほうり(顔瓜)。
◎熟したるーーー○熟瓜<ジユククワ>
△おそくーーー○おそうり(晩瓜)
◎未なりのーーー○[古]かりもり
◎小さきーー○[「瓜+交」][「瓜+失」][「瓜+包」][「瓜+勺」]たちふう(「瓜+失」「瓜+旬」)。
ーーーは元の語(ここでは瓜)が入る。△は◎の入れ子の関係で、例のんは「おそく熟したる瓜」ということになる。そんな感じで瓜に関係する語が沢山並んでいる。そのうち南瓜とか西瓜まで出てきてその語の説明が入ったりする。類語の小宇宙である。
そのうえ、 元版は明治42年に刊行された辞典なので(その紙面を文庫版サイズに縮刷してる)、潰れて読めない字(■)やJIS第二水準でも表現できない字(「」)がぽろぽろ出てくる。類語がわかったところでその文字を打てない・書けない・読めないこと多数。勿体をつけるため・いかにも知ったかのように別の語で書こうと思っても、せいぜい最初のいくつかが使えるだけだ。逆に「蔬■」という語の意味を引くこともできない。上記のような書き方なので引きようがないのだ。
結局、 移動時間とか厠とか、手持ち無沙汰な時に適当に開いて眺めるだけになっている。勿体無い話である。
七草を買ったら666円になった。Oh, Damm.
七草はうどんの具になった。おかゆでも良かったのだがそういたわるほど暴飲暴食をしていない。アルコール類は一切摂取していないからな、この正月は。この正月も。
六甲DW再撮
鈴鹿隧道
秋月隧道
この際だから山下とか。
鏡山は同じ角度のがあるよね
清洲橋、四ツ橋、
道である方がいい
明治神宮
橿原神宮
吉野山
観音橋
凸な
水晶橋
基本的に橋ばかりやねえ。まーみなおさんと。
東京ノハOさんにお願いすればいいんじゃね。
白川又。
橋/トンネル/道 橋数種で5。
桜の宮のぱら磯で見つけたもの。比較的わかりやすい。二画目の横棒が突き抜けているのが特徴。どの「ヲ」刻印にも共通するものだろうと思う。
「大日本商工録」の表記を鵜呑みにすれば、これが播州煉瓦合同の刻印ということになるのだが、Iさんの聞き取りの時、お姉さんが「あちこちでよく見るねえ」とだけ仰っていた。播煉の刻印だという認識はなかったようだ。戦後から関わり始めた方なので播煉成立直後(S3)のことはご存じないとしてもちょっとそっけない感じ。もし「ヲ」=播煉だったとしたら周りから聞かされてたりはしなかったのだろか。
てなことを考えると、これが播煉の社章だとは考えづらい。むしろ中播の末期の社章なのではないか。小田千代蔵の「ヲ」。日本全国諸会社役員録では中播煉瓦改称とかなってるしな。いやいや、播煉成立直後は小田が社長をしていたのだから(中播社長ではなかった?)、その後高谷耕司が社長となるまでの間のごく限られた時期にだけ使われたとすることはできる。しかしそれにしては分布が広い。この通り大阪まできている。 高谷氏は元播陽、んで樫野と関係が深かったのだっけ。
この刻印も裏側に打刻。2個打たれていたらしく左端に欠片が見える 。
昨日買った七草は消費期限が迫りつつあったうどん玉の存在により七草うどんに化した。余った七草は、今度こそちゃんと七草粥にしようと思って調理し始めたのだけれども、ご飯を投入したあとに何躊躇うことなく出汁醤油を注いでしまった。それはおかゆじゃない。雑炊だ。
なきながらかきはじめる。
ひとが休んでいる間に限って倉庫に猫が来たらしい。釣り餌としてバームクーヘンを配置してみたが効果の程は定かで無いと。10日に確認してみたがやはり齧った跡はなかった。くやしい。
水辺の遺産 京都府大山崎町桂川右岸高水敷で発見された明治期の煉瓦造樋管調査報告書
舞鶴の赤煉瓦・土と風の見聞録
舞鶴の赤煉瓦 1889-1991
国産赤煉瓦焼成窯の技術史的研究 上,下
[陶磁器関係原材料ノート]
最近セメント及煉瓦業
なぜか今年は十日戎の話を振られることが多かった。何かの啓示に違いないと思い、服役後に服部天神社へ行ってきた。
これで何も買わなかったら2011年の二の舞になるだろうと思い、初めて熊手を購ってみた。足がよくなったことへのお礼も兼ねて。高望みはしないが多少は福が集まってほしいと願う。
そういや、他人の幸せばかり願って自分のことをお願いするのを忘れてたな。まあ、いいか。
此の日は何をやったっけか。服務中以外はずっと原稿を書いていた気がする。それだけで終わる一日が最近はヤリキレナイ川になりつつある。
明日は朝から行かなければならない。交互に休むのは理に適っているが15日前だとつらい。
リーボを作るのが怖い。
MacからMi経由で書き直しができなくなっていて壺にはまる。加えてFinepixViewerが起動しない。画像が通覧できないとなると致命的にまずい。いよいよ年貢の納め時かと思う。
初期設定の関連ファイルを全部ほうったったら治った。フォルダもあるとは気が付かなんだ。
ようやくMacのデータを片付け始める。USB1.1でコピーだから10数GBに10時間かかるとか抜かしよる。勿体無いが塩漬けのデータの保存先にしよう。
250GBのほうはどうしようか。WindowsでもMacでも読める便利な外付けなのだが160GB以上入れるとMacがフリーズするといううんこ仕様。フォーマットしたらどっちかの専用になってしまいそうなので躊躇している。
右を見ても左を見ても三石耐火、という状況の中に、たった一つだけあった耐火煉瓦。「NICIKAWA TOGYO」と書かれてある。手書きっぽい線描だ。
工場通覧昭和7年版に「西川窯業合資会社」が載っている。所在地は和気郡伊部町。三石と並んで耐火煉瓦製造が盛んだったところだ。昭和5年3月設立、従業員数はこの当時でAだった。そこそこ大きな会社であったようだ。
これくらい古い耐火煉瓦だと産地や分布が気になる。敵地?に乗り込んできたこの一個はいったいどういうわけがあったのだろうか。
耐火煉瓦の街・三石で見かけた普通煉瓦はどれも播州産だった。和田煉瓦とか推定播陽とか。Knの数字の部分を潰したものさえあった。同じ並びに書体の異なるK刻印が並んでいた。大半は潰してさえいない。あとセリフとサンセリフとが混じっている。どういう意味があるのだろう。組合仮説で説明しづらい。弘栄のKと言えたらどんなに楽か。
煉瓦のことを書くのはそれがいちばん無難だからだ。いまコアダンプでも書こうものなら再起不能なまでに黒くなれるだろう。
この辺りでKAWAROというと川崎炉材株式会社しかない。戦前の工場通覧には出てこないが、昭和22年版に児島(昭和13創業)、日生(昭和10)、三石(昭和13)、三石東(大正11)の4工場が現れる。最後の三石東工場はおそらく三石窯業を継承したもの。川炉のオシリは調べられていない。
川崎炉材はたぶん川崎製鉄と関係がある。印南の和田煉瓦もこの頃川崎重工業株式会社製鋼工場炉材工場になっていた。
これがたぶん一番古いやつ。三石の老舗工場・三石耐火煉瓦株式会社のもの。「チ」の添印がある。ディンプルのあるこのタイプは灘の酒蔵跡や神奈川県旧加藤邸でも見つかっている。後者は昭和10年以降とあるが、はて、そんなに新しいかな。新しいかも。市街のあちこちにこのタイプが転がってからな。
これはKAWAROの近くにあったもの。上半分が欠けていてディンプルがない。左側の刻印は「ニドヤキ」かも知れない。三石耐火煉瓦のニドヤキは縦書き時代からあった(汐留遺跡出土)。
京都の某所に転がっていたのも縦書の「三石耐火煉瓦株式會社」だったがディンプルなしタイプ。というか判断困難なほどに風化している。
三石神社の境内にぽつんと転がっていた。Mitsuishi−Taikarenga−Kabusikigaishaか。断定しにくいなと思っていたが三石窯業か三石耐火煉瓦かホシレンガ系かだから案外絞り込めるのかも知れぬ。上の38−10という番号が謎。
2日の玉造逍遥でこれを見つけていたのを思い出した。ホシレンガの起源であるH.S.耐火煉瓦(大正5)のもの。H.S.FIREBRICKは櫻井鹿蔵により商標取得済み。
H.S.耐火煉瓦製造所は昭和5年に社名を変更し、戦後にホシレンガになった。そのホシレンガも三石耐火煉瓦に吸収されて今日に至る。元ホシレンガ東工場。が三石窯業か。わけわかぞうや。
H.S.FIREBRICKは★〜★★★まであった。のちに星四こまで拡張。しかし星の数が多いほどよいのか、少ないほどよいのかわからない。ま、普通に考えたら★多いほうがグレード高そうだな。これは星一個。
服務後帰宅途中にラッパを吹きながら巡航している移動豆腐屋に遭遇した。そういえば寮生活中にもこの音を聞いたなと思って懐かしく思ったのだが、それはさておき、道端で雑談していたおっちゃん二人がそのラッパ音をもとに議論を始めた。一方は「とーふー」と表現しているとする従来説をとり、もう一人が「あーげー」ではないかと宣う。後者の発想はなかったのでちょっと瞠目した。音階もあがるし揚げも揚がるしでいいと思う。
ということは「どんどんどん、ぱふぱふ」のぱふぱふも「あげあげ」であり得るな。あの囃しはテンションをアゲアゲしたい時に無理やり挿入されることが多いからその点においても揚げ説は理に適っているぞ。おれはおっちゃん2のあげ説を支持するぞ。そんなことを考えながら議論の場を後にした。
今思えば「まめ」でもよかった。豆腐もお揚げさんも豆製品だからな。それ以外にも豆乳とかおからとかも売ることができるし、なんなら小豆とかひよこ豆とか売っても構わない。世間がどう言おうが私が支持する。
関西限定であれば箸でもよい。移動箸屋というのはなかなか斬新で良い商売じゃないか。思わぬところで重宝がられるに違いない。
奥様A「まあ、お箸折れちゃったわ。なんて不吉なこと」
移動箸屋「ぱ〜ふ〜」
奥様A「ちょうどいい所へ移動箸屋がきたわ。箸屋さぁーん」
↑どうでもよいことを描写するつまらなさを表現してみた。
コゲをカリカリして箸を折ってしまい「あ〜〜あ〜〜あ〜〜折〜れ〜た〜」と叫んだE氏などはその瞬間に箸屋が通りかかっていればあんなにも語り草にならなくて済んだだろう。惜しまれてならない。
「ラッパ音」と「ラップ音」は似ている。真夜中に家のあちこちから笑点のオープニングテーマの最後のような「パフ♪」が聞こえる。想像するだけで怖い。
岡本駅北の住宅街の中で焼損煉瓦で作られた門柱を発見。比較的サイズが揃っていたのでわざと焼損させたやつだろうと思う。最も東の柱の頭に「セ」らしきものがチラリ。西播煉瓦はこんなものも作ってたのか。
その他は高羽町の辺りで大阪窯業を見つけただけ。川淵の駒止の柱が煉瓦をモルタルで覆ったものだった。
六甲まで辿り着いたところ、八幡神宮の厄除大祭の日に丁度行き合わせたことを知る。何かの縁だと思い参ってみることにしたのだが、いやはやものすごい人出だった。並び始めて参り終わるまで50分くらいかかったんじゃないか。
境内まできたところで真っ赤な幟が目についた。昭和5年に寄進されたものらしいのだが、寄進者が「国勢調査員」というのが一寸面白かった。国勢調査が始まったころ、その調査員となることは名誉なことだと考えられていた。地元の名士が調査員となり紋付袴で各家庭を回ったという話もある。そういう人たちが寄進したわけなのだが、名誉な職についたことを感謝して奉納したのか、もともと名士であったからなのか、国勢調査を宣伝するためなのかはわからなかった。
写真の幟は本殿の向かって右に立っていたが、左にも同じようなのぼり旗があり、そちらは昭和6年にナントカ司という肩書の集団が寄進していた(遠かったのと人垣で近づけなかったのとで確認できず終い)。
神社参道に隣る公園にも国勢調査員の痕跡が。写真のものは「第一回国勢調査員」と人名だけ刻まれたものだが、他に「第○回国勢調査記念植樹」というのもあったので、同様に植樹か何かをした記念の碑なのだろう。
第一回の国勢調査はその意義をひとびとに知らせるためずいぶん苦労したそうだ。人の数を調べるということが課税や犯罪者捜査に使われるんじゃないかということで、その誤解をとくためのキャンペーンやったりポスター作ったりした。「一人も漏れなく,ありのまま」というキャッチフレーズが流行したそうだ。
主はわがまま 妾は気まま 国勢調査はありのまま
なんていう都々逸も流行ったとか。以上 http://www.stat.go.jp/data/kokusei/pdf/kaisetu3.pdf より。
阪神淡路大震災から20年。月日の経過が早く感じられるのは、そのことに思いを馳せていない時間のほうが長いせいだ。日々四六時中向き合っていれば20年は果てしなく長いに違いない。
歩いた街は綺麗な住宅が立ち並んでいて、(表面上は)平和そのものの暮らしがあるように見えた。歯抜けにあった空き地もすっかり姿を消していた。六甲駅に近いところでようやく一つ見つけた程度だ。この間春日野道の辺りを歩いた時にはずいぶん多くあった気がする。岡本はさほど被害を受けなかったのだっけか。
震災の年に神大に入ったN氏も岡本に住んでいたっけな。久しぶりに岡本で降りて、その頃とはまた違った町並みになっているのを知り、動揺した。いかにも神戸臭い小洒落た街。これ以上何度訪れても慣れることがないだろうという、根拠も意味もない自信がある。
何か有益なことをしなければと思い、刻印拓本の整理に取りかかったのだが、B5 サイズに5×6入れられる計算で並べてみて、大阪だけでは2枚足りない/関西に拡げると絶対に収まらないという状況になった。結局2枚追加することになり、その採拓と水張りだけで終わる。何をするにしてもすんなり行かない状況で、そのなかで唯一の突破口だと思っていたものが進まないと、挫けそうになる。
順不同
播煉(大正)「ヲ」 | 播煉(戦後) | 播陽「ハ」 | 別所「ヘ」 | 山陽窯業「山」 |
大正 | 西播「セ」 | 新和窯業 | 東播 | 清水 |
B.C.△H.J. | K2 | 和田「ワ」 | ○十 | |
桂川B | 蹴上23 | ソ二九 | □へ | 分銅 |
大和 | 小島 | 吉野 | 中国 | 吉名 |
松本 | 東亜 | 伊藤「イ」 | 日成「日」 | 江州 |
微レ存
というスラングが
微粒子レベルで存在する
の略だと知ったのはつい最近のことである。それまで「レ」を返り点だと思っていた。漢文の知識を要求する高度なスラングだと思っていたのだ。
微カニ存スル
しかしよく考えてみると返り点で読み下したところで微カニ存スルにはならない。存レ微でもおかしい。副詞を返り点するわけないじゃないか。
以前JR三石駅長さんが三石高級耐火工業(株)(現(株)三石ハイセラム)のだと教えてくれたもの.写真は山陽道沿いの駐車場の脇で見つけた耐火煉瓦.ちょっと欠けているらしく長手が短め.
以前書いてたように旧大阪府庁跡から見つかったやつには「三石高級」「耐火度試験」と書かれていた.三石高級耐火煉瓦(株)は昭和2年4月創業,昭和10年の工場通覧まで掲載されている.戦後のには出てこない.同じ番地も創業年同なのもない.昭和10年以降移転&再創業した可能性が高い.
S10工場通覧では和気郡三石町字三石345に所在となっている.現在345番地はないらしく,かわりに344が見つかって,それは現・後藤テックの事務所だ.その隣の広い駐車場のあたりにあったんだろう.三石ハイセラムは旧三石町のはずれの山の中にある.
耐火煉瓦にしては妙に赤いが,通称「アカ」と呼ばれた耐火度の低い土を使ったものなんじゃないかと思う.耐火物に最適なのは白いろう石だが,その鉱床の周囲にあらわれる粘土質の鉱物があって,それが「アカ」.垢ではない.
いつのまにかバッテリーが切れていて兢々としたがかかってきてはいなかった模様.運がいいのか悪いのか.
最後のQ&Aを処理し,.docに落としこむまで.画像をいただかなければならぬ.しんどい.
SNSで何か書くのとここに書くのとは根本的に違う.もとより明るい話題など書きたくない.蔑まれるためにここを書いているのだ.ざまあみろ、と虚空に向かって叫ぶために書いているのだ。
確か玉造で見かけたのだと記憶する「三」.こんな感じの,作業者識別印なのか社印なのか区別がつけられない刻印ほど面倒くさいものはない.こじつけようと思えば三島煉瓦の刻印とか何とか主張し彼が工場が確かに創業していた証拠ッ!!と息巻いて見せることだってできるのだ.たしか香呂でも「三」を見た.ただし写真のとは違い小さなものだった.
うん,これこれ.
香呂では他にも「一」があった.「一」は六分一でも見なかったか?
違った,あれは縦一線だった.土山窯業の所在地に行くつもりで間違えて行った六分一在所にて.これも扱いに困る刻印.
土山窯業は「加古郡天満村六分一山」にあった.いまのJR土山駅の北東辺.付近には「六分一」という在所と「六分一山」というバス停が,全然離れた場所に所在している.うろ覚えのまま現地に降り立って,六分一山ではなく六分一在所を目指して行ったものだから,たぶん工場跡地を歩いていないだろう.確かに六分一在所には古煉瓦が散見されたが目立って多かったわけでもなく,そもそも煉瓦作りに適した場所のようには思われなかった.敷地はいくらでもあるが水がない.それだったらむしろ大きな溜池がそばにある「六分一山」のほうがふさわしいだろう.それか,その東のほうの大きな工場が建ってる辺り.バス停は六分一在所に行く途中に通っている.いかにも印南台地らしいだだっ広い土地に住宅が寄り集まっていた.
これは六分一在所のほう.雨の中傘をさして歩いたので寂しい印象しかない.
再び三石駅長さんにコメントをいただいた.せっかくなので毎度毎度言及している報告書の図をスキャンして掲げておく.最初からやれと>nagajis
これが三石高級耐火煉瓦のであれば大阪府庁の建設時期・改修時期と合わないよな,と思ったら,報告書のほうにはそのことがちゃんと書かれてあった.表層で採取されたものであって,府庁跡地に建てられていた府立産業技術総合研究所に由来するものだろうとされている.そもそも「三石高級」との書き込みは油性ペン(いわゆるマジックインキ)で書かれたものとみられ,その発売が昭和28年以降であった.
ついでにこの図も引用.大正時代に増築された南翼の一室(56暖炉周辺)で見つかったもので「Mitsuishi.」とだけある.同じものを大正煉瓦曽根工場跡付近で採取済み.
…と思ったら若干違うなあ.大正煉瓦跡地に埋まっていたのはupper-caseな「MITSUISHI」だ.ふむ.
報告書では三石耐火煉瓦(株)を想定するものの断定はしていない.両翼が増築された頃,三石には三石耐火加藤合資会社,三石白煉瓦合資会社,三石耐火煉瓦製造所,三石窯業株式会社など「三石」を冠する会社が多数あったからだ.
上記の会社のうち,三石耐火煉瓦加藤合資会社は三石耐火煉瓦の縦書のと似たフォーマットのが堺市で見つかっている.加藤は兵庫で耐火煉瓦製造をしていた会社.そことの合弁企業のハズ.三石窯業は大正五年に取得した商標がある.
こちらが正真正銘の三石窯業の耐火煉瓦.二山に三.なぜか南海線の線路脇に転がっていたので回収しておいた.耐火煉瓦は基本的に撮影だけのことが多いが(だってキリがないし重いもの),これは特別だ.
同じ頃三石耐火煉瓦(株)は一山にローマ数字の3(Ⅲ)のような商標を取得した.その刻印が入った耐火煉瓦がどこかで見つかっていたはず.そして大正11年には飛行船マークを出願&取得し,実物が舞鶴の煉瓦博物館に展示されている.
こういう情報は一箇所にまとめて書いておくべきだな…あとで探すのが面倒だ.
夢の内容を珍しく憶えていて、メモしておかなければと思いつつそのままになっていたことを今更思い出した。間が空いたせいで一部忘れるというていたらく。
キリンのような馬のような、正確にいえばそのような動物の四肢と胴体だけのような四足のロボットに乗って放浪の旅に出ることにした私。なぜそのようなものを入手したのか、それで旅しようと思い立った理由も思い出せたはずなのだが、その肝心な部分を忘却してしまったのが惜しまれる。ともかくそんな旅に出る決意をした。
けれども誰も構ってくれない。
周囲に人がいて、その集団の隣でうんとこうんとこ乗ろうとしているのだが誰も私に気づかない。敢えて無視しているようでもある。そういう放置には現実で慣れているつもりでいる自分にも拘らず、やはり心のどこかでは寂しがっているようで、どうやって周囲の気を引こうかと考えつつ、惜しまれない旅立ちのほうが自分には相応しい気もして、どっちつかずにうんとこすんとこやっている。幸いなことに四足ロボットは非効率的で操作が難しい。なかなか出発することができない。意図して、と意図せず、の中間点にいてやきもきしている辺りまではよく覚えている。その後どうなったか(続きを見たのか忘れてしまったのか)はっきりしない。
あまりに現実に即していてワロタ。
本当は福知山へ探索にゆくつもりだったのだが,天気が芳しくないらしかったので,急遽南へゆくことにした.和歌山県の煉瓦工場跡巡りである.そう.また煉瓦である.もうホント煉瓦部録”とか何とか改名すればいいのにと思う.
和歌山県にも数少ないながら煉瓦工場が存在した.例えば大正5年から昭和13年まで存在したらしい和歌山煉瓦製造所(和歌山県和歌山市太田61、『工場通覧』への記載は昭和7年版から),昭和11年12月創業という記録の残る岩橋煉瓦製造所(草郡西和佐村1280,昭和36年頃CB製造に転換?),などが比較的長期間操業していた工場だ.そして和歌山市やその周辺で集中的に見つかる刻印ってものがある.以前橋本で見つけた分銅マークだ.橋本は紀の川を遡ったところ.友ヶ島や岬町でも分銅刻印は見つかっている.そんなわけだから、和歌山市あたりから滲出してきたと考えるといろいろと辻褄が合うのだ.それが和歌山煉瓦か岩橋煉瓦のどっちかのではないかと踏んでいて、今回はそれを見極めるために現地訪問を敢行したのだった.
和歌山煉瓦も岩橋煉瓦もともに和歌山市内にあるものの、歩いて回るにはちょっとばかし離れている。調べてみると和歌山駅でレンタサイクルが借りられるとのことだったので、有り難くそれを使わせてもらうことにした。んで日がな一日チャリンコをリンリン漕いで回ったわけなのだけれども、結論からいえばリーチのみの安上がりと思っていたのが一発自摸の上に裏ドラが乗ってしまったような好成績を収めた。やはり行かなければ何も始まらない。
和歌山煉瓦製造所は貴志川線田中口駅のほど近く。駅を出た線路が東にぐっと曲がってゆく辺りに現在の61番地がある。線路の北側だ。JR和歌山駅からへろへろ南下していって、その辺りに着いてみたとき、線路の北側には真新しい住宅街が広がっている雰囲気だったので、敢えて線路を渡って南へ入ってみた。そちらにもヴァーチェ寿なる新しいアパートがあり、状況はさほど変わらないようにも見えたのだけれども、自慢の煉瓦センサーに何やらピピッとくるものがあったので南行を続行した。いや最近マジでnagajisには煉瓦に反応するセンサーがついてるんじゃないかと思う。東西南北を新アパートに囲まれた中に
こんな感じの、時代に取り残されたかのような古い家屋の並ぶブロックがあったりしたのだから。そうそう、こういう古民家の軒下に煉瓦が転がってるんだよね。
道端に自転車を停めて路地を歩き回ってみると… … 速攻で分銅刻印が見つかった。ひとつはやや細めのやつで、フンドーキンの分銅マークをイメージしていただけばよいと思う(後掲)。もう一つは橋本で見たのとほぼ同じ、真円からその直径の1/3の真円を2つくりぬいたような真ん丸なやつだ。あるんじゃないかと考えていたものがあるんじゃないかという場所にあったものだから、え、もう見つかったの?と拍子抜けしたのが正直なところだ。
すぐそばで見つけたこの煉瓦が象徴的。泡ブクができるほどに焼けただれた煉瓦だ。麻雀牌をめくるごとくにひっくり返すと…
はい、ロンです。これだけ焼損している焼損煉瓦に分銅刻印があるってことは、ここにあった工場が使っていた刻印であって和歌山煉瓦=分銅としか考えられないではないか。
でもまあまだ数個だし、せっかくここまで来たのだから、もうちょっとじっくり探し回ってみようじゃないか。そう思い、民家の並びに沿って歩くいていくと、建物の間の小径を通って裏手に出られるのを知った。その勝手道に沿って作られた花壇にも焼損煉瓦が使われていた。刻印が判明しないものも多かったが、刻印があれば必ず分銅マークという状況だ。うん、ますます分銅=和歌山連額祭。
家の裏手は畑になっていて、そこにはこんなあからさまな焼損煉瓦もあった。やはり分銅刻印入りだ。
ここまで確認したら充分かな。と思いつつ、畑の向こう側に回ってみたくなったので(今いる小径は畑の端で行き止まりになっていて向こうへは出られない)、来た道を引き返してヴァーチェ寿の側から近づいてみた。この南にも似たような新アパートがありプロヴァンスIVという。その プロヴァンスIVの駐車場から畑を見ようとした時に、さっき前を通ったばかりの旧民家のお父さんが庭に出ているのを発見。これを逃してなるものかとばかりに声をかけ、駆け寄って話を伺った。望みどおりの方だった。
・工場は民家の西側のプロヴァンス他号棟が集まっている辺りにあった。プロヴァンスIVは工場所有者の吉村氏の居宅があった場所で、氏が亡くなったあと売却されマンションが建った。お父さん宅を含む旧民家の辺りも吉村氏所有の土地で、そこを借りて家を立てている(ご子息が京都にお住いで今でも土地を管理しているとか)
・ここに住むようになったのはつい7、8年前のことだが、近くの生まれなので工場があったことはよく覚えている。貴志川線の電車の窓から大きな煙突が1本見えていた。いつまでやっていたかは不明。越してきた時にはもうすでになかった。
煉瓦に刻印があることは私がお見せするまで気づかなかったようだ。分銅マークと和歌山煉瓦の関係も。まあいい、線路の北だと思っていた工場が南側にあったことがわかったこと、煉瓦一本=窯一つだったことがわかっただけでも大きな収穫だす。
その後、花山温泉の前を通る府道で田井ノ瀬駅方面へ向かい、同じ道を通ってまた帰ってきたのだけれども、道すがらのあちこちで分銅マークを見ることになった。さすが工場のお膝元という感じだ。そもそも和歌山県下で煉瓦探しをした経験が少なく、どんな刻印がどれくらい分布しているかわからなかったので、ほとんど白紙状態なところへ多数の分銅刻印がプロットされた結果、分銅=和歌山という印象がすごく強くなった。実際には泉南から入ってきたもののほうが多数なのだろうと思うのだが(和歌山県には大正期に紡績業が流行し、紡績工場や染色・化学薬品の製造所がたくさん建った。それが今でも残っている。そういう大工場の煉瓦建築に使われたものはやはりキシレンとか大阪窯業とかの大企業が納入したんじゃないかと思う。中小工場では一度に大量の煉瓦を納入できなかったからね。そういうところではなく小さな工場や一般家庭で使う分には和歌山煉瓦の煉瓦が使われたんじゃなかろうか)。
分銅マークには細いのと丸いのと2種類あると書いたけれども、細いほうが煉瓦が古い感じがする。工場跡地にあったコレなどはいかにも東京並型な赤い煉瓦だった。
丸こいのも無論旧規格のものが多かったけれども、花山の鳴神団地に使われていたものはJIS規格だった。そして焼き色があまりよくない。一般的には焼きが甘い=火力が弱い=古い煉瓦の証拠みたいに言われるけれども、和歌山煉瓦に限っていえば逆らしい。
鳴神団地はちょっと不思議な雰囲気の場所。ずいぶん昔に作られた団地であるらしく、特に花山の峠に近い所ほど古くて空室も目立つ。一部廃墟かゴミ溜めのごとくになってしまったところもある。そうしてその長屋の表側に、隣との間仕切りとして小さな煉瓦壁が作られている。腰よりちょっと高いくらいの壁だ。この作りは団地の建物の共通フォーマットみたくなっている。してその壁にJIS規格の和歌山煉瓦が使われているのだった。
いくら古そうな住宅といっても戦前まで遡ることはないはずで、とすると戦後も和歌山煉瓦が操業していたことになり、戦後の通覧には出てこないことと辻褄が合わない。従業員数10人以下でホソボソとやっていたのだろうか。ナルダンの建設時期が和歌山煉瓦のオシリを左右する重要なタイムラインマークになるやも知れぬ。この壁で見つけたもう一つの刻印にとってもだ。
実をいうと、ナルダンで最初に見つけた刻印はこれだった。貝塚煉瓦ライクな井桁にKの文字が入っている。遙か昔、徳島の猪の鼻峠の旧道にぽつんと残っていた小屋の中で目撃したことがある刻印だ。あれ以来一度も見たことがなく、またKaidukaのKでもあるので、貝塚煉瓦のバリエーションかも知れない位にしか考えていなかった。その刻印にここで再会した。しかもJIS規格サイズだ 。ということは、明治年間のうちに消滅してしまった貝塚煉瓦のものではあり得ないことになる。井桁にKをトレードマークにした会社が存在したということだ。
大正期に湯浅町に川口煉瓦合資会社ってのがあったり、窯業名鑑にのみ出てくる紀州煉瓦なる煉瓦販売会社?もあるけれども、それが戦後まで続いたという記録はない。大阪の工場ではないだろうと思う。府下では見いひんもん。あるいは徳島・香川あたりの工場であったのかも。そんなこんなでナルダンの建設時期を知らねばならないと思うのだった。
井桁Kの煉瓦が使われていたのは団地の最上段の道路に面した長屋だった。現県道の対岸を通っている旧幹線道と思われる道。分銅刻印はその道と府道に挟まれた、谷底に位置する建物群で多数目撃した。建物のつくりはどちらも同じで建設年に違いはないものと思う。
現和歌山市街のエリア内(旧西和佐村)に所在し、和歌山煉瓦に次いで長い期間操業していたらしい工場。昭和11年12月に興り、戦後の工場通覧でも1度だけ出てくる。ただしその出現のしかたが奇妙。昭和22、3年のものには載っていなくて、昭和26年の版に「(休)」つきで載り、その後また載らなくなる。して昭和30年代のにほぼ同じ住所で「岩橋ブロック工業」が現れる。再開したのかしなかったのか、再開したものの従業人数がFランクだったために載らなかっただけなのか、そのへんはよくわからない。さらにいうと大正時代に 同じ村内に2年ほど「和歌山窯業」という煉瓦工場が存在したことになっている。それとの関連もあるようなないようなで、要するに謎ばっかりな工場だ。
番地まで判明しているが「西和佐村」というのが存在しなくなっているためせっかくの情報が役に立たない。字西和佐というのもない様子。しかし旧西和佐村エリアに岩橋という大字が見つかったので、とりあえずそこまで行って、あとは現地でなりゆきに任せることにした。
花山温泉の前を通り、小さな峠越えをして岩橋へ下る。県道沿いには 花山(ナルダン)から引き続いて民家が並んでいて、ここから岩橋という区別がつきにくいのだが、県道から少し引っ込んだところに家々が並び始めたことで別字に入ったことを知った。そのまま下っていけば岩橋の中心に出る。そんな場面で再度煉瓦センサーが作動した。左の小径に入ってけという。ま、センサーのせいにするのはちと大げさか。2車線県道の脇より在所の中のほうが煉瓦が在りやすいってのは自明の理だろう。
車じゃ登れないだろうという細く急なコンクリ道で在所の中を駆け上がっていくと、在所の最上段を形作る車道に出た。古そげな民家もその道に沿って連なっている。これがこの在所の旧幹線だろう(県道の峠のあたりから水平にくればこの道に出る)。
この車道からふと下の民家を見ると、駐車スペースの脇に花壇があり、古煉瓦が使われているのが見えた。しかもなんか焼損煉瓦くさい。こいつらにセンサーが反応したんだとしたら大したものだな、と思いつつ、ちょっと失敬してそこまで降りていった。
最初の一個は和歌山煉瓦。陰影がすごく薄くてそうだと気づくのに時間がかかった。その隣のにも刻印があって同様に薄い。目を凝らして眺めた末、井桁の記号を読み取った。貝塚煉瓦? にしては菱形でなく方形だ。長手小口に対して平行でもある。んー。んー。ン?
温めなレベルで推移していた記憶がピキーンとかシャキーンとかいう擬音を伴って鮮明になった。これ、どっかで見たことがあるぞ。あれだ。五條新町の東のほうで不躾に転がってたやつだ。正方形の井桁だ。
民家前に一つだけ転がっていた転石で、他で見たこともなかったから、貝塚煉瓦のバリエーションの可能性ありとラベルして放置していたもの。その同型が出てきたわけだ。 和歌山−紀の川−五條という繋がりもある。だったらこれが岩橋煉瓦の刻印だったりするのかも知れないぞ? 工場跡地を探し出すのが関の山で「何もない」を確認して帰るだけだろうと思っていたのだが、それが意外な方向へ転回しだした瞬間だった。 まあ、これ一個じゃ憶断即断段田男でしかないけどな。
さきほどの旧幹線道に戻り、先へ進む。道路脇の旧家や畑をチェックしつつーーー まったく違う刻印を発見したりしたーーーそれはまた後ほど書くーーー、少なくとも煉瓦に遭遇しやすい地帯に入っていることを認識した。探せばどこかに煉瓦がある、道端に不意に転がっていたりするはず、という直感がビンビンするし、実際そんな煉瓦がいくつもあった。新興の在所だとこうはいかない。
こういう時こそ煉瓦センサーに稼働してもらわねばならないのだが、すぐにそれが不要になった。あからさまなやつがあったのだ。
これは本格的な煉瓦壁。囲われている民家も古く、和風ながら洒脱な感じが漂っていた。これはふつうの家じゃないなーーーお金持ちとかそういうのじゃなく、煉瓦製造に関係のあったお宅に違いないーーー煉瓦工場の関係者宅にふんだんに煉瓦が使われているのをあちこちで見たーーーと確信し、またこの壁のどこかに井桁印があるような気もした。自転車を停めてじっくり調べて回ることにした。幸いお宅は留守の様子。県道に面した壁だとか、写真手前のやつとかはまあ許容される範囲だろう。
煉瓦壁に刻印を見出すのは難しい。平が表に露出することが少ないから。その少ない露出を探して歩き回った。壁の上端とか迫り持ちの裏側で見られる場合があるものの、この壁の上端はモルタル塗りだし、そもそも天辺の煉瓦は小端立てで積まれてあった。モルタルが塗られていなかったとしても刻印は露出しない。
結局、その小端立ての末端で刻印を見つけることになる。上の写真の矢印の位置、壁の高さが変わっているところで壁に亀裂が入っているのだが、
その亀裂の隙間に見つけたのだった。いやはや執念とは恐ろしいものである。
ていうか、そのあと正門前でわかりやすいやつを見つけたんだけどね。誰もが納得してくれる井桁印だろうと思う。
字岩橋の旧幹線沿いの畑で目撃。この間「始末に困る」といったばかりの単純記号がまた出てきた。今度は縦棒2本だ。
しかもその後、称名寺近くの瓦礫のなかに全く同じのを見つけてしまった。
ソフトバンクの〓もそのうち同じような道を辿るだろうと予言しておく。あと100年もしたら携帯もスマホも必要のない世の中になって、産業考古学者の頭を悩ませるobsolete markになるのだ。
最寄りの工場としては岩橋以外に南出煉瓦製造所と和歌山窯業があるわけだが、南出は今回行きそびれたので推定を加えることさえできぬ。
上の写真を撮っている時、民家の敷地の南東端に煉瓦造りの離れ棟があるのを発見した。大きな煙突がついていたので始めは焼却炉か何かかと思ったのだが(それほど小さな別棟だ)、サッシ窓がついてるし、階上に胸壁の如きものがあったりもするしで、居住空間として使われている様子。規模は小さいけれども見逃せない建物であるように思った。煉瓦壁に煉瓦小屋まであるからには、岩橋煉瓦と何か関係のあるお宅であるに違いない。
この家自体が高い石垣の上に作られているので、下から離れの別面が見えるんじゃないかと思った。それに、こんな煉瓦構造物があるなら在所の中にも煉瓦が多数あるんじゃないか。と、いうわけで在所の下手のほうへ行ってみることに。
旧幹線に戻り、自転車を回収して先へ進む。道はすぐに下り坂となり、現県道と同じ高さにある下の在所に降り着いた。そこから逆向きに伸びる枝道へを見つけ、入っていけば、さっきの煉瓦棟の真下に出る。
下から見るとこんなかんじ。窓があり胸壁がありで陸屋根の小部屋であることがわかる。胸壁には長尺の異形煉瓦が使われていて、また端物を使った飾り積みも見える。結構こだわった作りだ。斜めに突き出した細いパイプは浄化槽の排気用? だとするとこの一室で生活が完結するような離れか、もしくは風呂+トイレの別棟なのかも知れない。煉瓦製の風呂かあ。いいなあ。贅沢だなあ。とか何とか思いながら眺めたことだった。
それを見て帰っている途中、行きしに通った道を老夫婦が歩いてくるのを捕捉した。怪しまれたのだろうか? と焦ったものの、こういう時こそ逆にものを訪ねて現実歪曲空間を張るほうが上策と心得ている私である。さっそく件の煉瓦小屋をタネにして話を聞いてみた。
・この辺でむかし煉瓦造りをしていたそうですね。>然り。いまはもうやってないが代わりにコンクリートブロックを作っている。岩橋ブロック工業ゆうてな。
・へえ、今でもあるんですか!>いや今はつくっとらんのやがな。
・あ、すみません、後を継いだ会社が営業してるってことですね。いやー、あそこに立派な煉瓦小屋のあるお宅があったものだから、煉瓦工場と何か関係があるんじゃないかと思いまして。>いやいやあれは関係あらへんお宅や。工場主の家は向こうにあったけど、取り壊して、いまは中古車販売屋が営業しとる。んで工場は別のところや。
・へえへえ。その工場に行ってみたいのですけれども。どう行ったらいいんでしょう?>うーん、ちょっと引っ込んだところにあるけえ説明しにくいな。あっちのほうなんやが(と南東のほうを指す)。わからんかったら高橋神社を探していけばええ。
・なるほど、高橋神社。ありがとうございます、探してみます。
とまあこんあ感じの問答をし、次の目的地を得ることができた。次は高橋神社か・・・。
自転車に戻り、とりあえず南東方向へ向かうために県道に出ようとしたところ、お誂え向きに住居表示の看板に遭遇した。ものすごくご都合主義的だがこれも紛うことなき現実なのだ。たまにはこんな都合のいい探索があってもいいだろう。
ほうほう、確かにあるぞ岩橋ブロック工業が。風土記の丘の麓、現在地のすぐそばの川を遡ったところ?にあるようだ。その川向かいをまっすぐ行ったところに高橋神社もある。ならば県道で川を渡って、川伝いに走っていけばいいわけだな。その途中で高橋神社の案内看板もあるだろう。
自転車をへこへこ漕いで橋を渡る。右手に空き地。県道を渡って、その空き地の脇を入ってゆく。ずっと川伝いに行くこともできるようだったが左手に古い家並みが見えたので敢えてそちらへ入っていった。軽自動車が一台入れば逼塞するだろうという細道だ。複雑に折れ曲がっていく道に沿って準和風な民家が軒を連ねていて、奈良の旧街道沿いの在所か、発展から取り残された環濠集落の密集を抜けているような感じがしてちょっと懐かしかった。
ところどころで煉瓦の断片を見、確かに近づいているという確信を感じ始める頃、煉瓦ではなく犬に遭遇した。民家の格子門の前で丸まっていた。首輪をしているが繋がれてはいない。放し飼いの飼い犬のようだ。 こういう「所属不明」な飼い犬を昔はよく見かけたものだが、いろいろ喧しくなった昨今でもやっているのは珍しいんじゃないだろうか。
自転車を降りて近づいてみた。実におとなしい柴犬で、吠えかかったりすることも警戒しているようすもない。よーしよしよし、おとなしいねえ、賢いねえとかなんとかいいながらワシャワシャ撫でてやった。どちらかといえば猫派な自分ではあるけれども犬を嫌うほどの原理主義者ではない。かわいくておとなしければ何だって良いのだ。特に今のように、見知らぬ土地で一人さまよって、不安な気持ちを持て余している時には。
ひとしきり遊んでやると、犬は拮然として立ち上がり、そして駆け出した。嫌がって逃げたわけでもないらしい。ちょっと走っては振り向き、走っては振り向きしている。まるで「こっちにこい」といっているかのよう。まさかな、と思って後をついていくと、数十mも行かないうちにこじんまりした神社がありーーーそれが高橋神社だったーーー、その鳥居前を折れて右へ行く。あ、おれその神社探してたんだけど。待ってくれよ。
犬が駆け去っていった先には橋が架かっていた。その橋の向こうにはうず高く積まれたコンクリートブロック。それを見て、目的地である岩橋ブロック工場に導かれたことを悟った。犬すげえ! おれは何も言ってないぞ! 連れてってとも煉瓦のはなしもしてないぞ!
そうして彼女はそちらへ向かわなかった。橋を渡る直前で左の団地へ入っていってしまったのだ。あ、待って、そっちじゃなくてだね……と言いかけたところで真意を悟る私。そっちのほうが正しい答えだったのだ。
そこは「岩橋ブロック工業K.K」と大書されたアパートメントだった。岩ブロの社宅なのだろう。そうしてその大書の頭に、件の#マークが! CB製造に移行しても同じマークを使い続けていたのだ!
そのうえ、社宅の庭に煉瓦がたくさん。角丸や長尺物など異形煉瓦ばかりだ。余った煉瓦の遣り場に困り、社宅の庭に使っているのだろう。もちろんその煉瓦にも「#」が刻まれていた。岩橋煉瓦=#が確定した瞬間だった。
改めて、犬って賢いと思った。犬に導かれて刻印確定するとは思わなんだ。 どう贔屓目に考えても猫はここまでしてくれない。煉瓦工場の場所を問うたつもりはないのだけれどもなあ。手についていた煉瓦の匂いを嗅ぎ取ったのかな。それとも心を読まれたか?
せっかく同定に成功したのだし、記念に岩橋煉瓦の刻印をゲットしようと思ったのだけれども、まさか社宅にあるものを拾って帰るわけにはいかない。あちこち歩き回った末、工場の東の畑のなかに瓦礫で埋め立てられた一角があるのを見つけ、そこで#刻印を入手することができたのだった。
岩橋煉瓦工場跡に到達するきっかけとなった煉瓦塀の家の隣は畑であった。道路から4、5mほど下がったところに広がる10m四方ほどの耕作地は煉瓦塀の家の所有物と思われたのだが、そのように推定した理由はただ隣り合っているからというだけでなく畑のあちこちに煉瓦が転がっていたからでもあった。畑の隅には煉瓦が小山をなしていたりもした。
そんな畑に転がる煉瓦を道路の高さから眺め下ろして幾つかの煉瓦刻印を確認した。最初に判別できたのは日本煉瓦の花印。ただし副印が添えられているのかどうかまでは確認できなかった。もう一つ気になった刻印が写真のもの。 35mm換算105mmの中望遠で撮影したものだが、細い○の中に数本の線が入っているように見えるのは4m強の距離を挟んで肉眼で捉えた印象と何等変わるものでなかった。要するに写真に撮っても撮らなくても同じ結果であったわけで、いささかもどかしい。間近に寄って目にも見たかった。しかしこの畑に立ち入るためには民家の脇を降りてゆくか畑の一角にある駐車スペースの背後の梯子階段を降りていかなければならず、またその駐車場にはロープが張り渡されて無断進入禁止の態が漂っていたため見送らざるを得なかった。
和歌山煉瓦跡地から花山へ向かう途中でも初見の煉瓦刻印を1つ採取している。三本線が一点で交差した幾何学図形はアスタリスクを連想させずにいないのだが中央線上端が他端より長いのに対し下端は一列に揃っているという変則的なものであるため厳密にはアスタリスクと言うことができない。仮にアスタリスクだったとしても類似例を見たことがなく他に目撃情報もないようである。
この刻印を発見したのは貴志川線日前宮駅の西手の住宅地の中だった。軽車道以下の細い舗装道で線路を渡った先に袋小路になった住宅街があり、その入口付近に2軒並んで建っている民家の線路に近い方の庭先で上がり框の如き役割を担わされている敷石に用いられていた。長年踏まれたせいて摩耗が進んでいるものばかりだった中に一つだけ刻印を見ることのできる煉瓦が混じっていて、それが写真の刻印であった。
岩橋ブロック工業KKに至ったあと「和歌山窯業」の痕跡を探して北方在所を走り回った。それに直結するものは見つからなかったかわりに初見の刻印を一つ発見した。称名寺というお寺の家の角にあったもので漢字の「日」と読める。漢字圏に暮らす人間として宿命的反射的に「日」と読んでしまったけれども必ずしも「日」である保証はないことは予断の必要もないだろう。
印南郡やうちの近くにある藤井寺というお寺で「日」刻印を見つけていて、日成産業の刻印だろうと推定しているけれども、写真の刻印はそれと異なる新系統のように思われる。前者は長手を前にした時に正対する向きに打刻されているが後者は小口を前にした時に正対する。線の太さも異なる。一つの会社の中で長手前と小口前とが混在することはあまりない(それは作業の流れや作業位置に関係するものであるからで、「他人のやりかたを真似る」ことを通して社内で継承されていった、さらにその作業に従事した者が新会社を興すなり他社に移るなりして各所に広がっていたものと想像している)。
だからといってこの刻印の使用会社のアテがあるわけではない。泉南の旧深日村に深日煉瓦工場というものがあったが明治30年の資料に一度出現するだけの工場だ。なおかつこの30年という年は府下各地に煉瓦工場が筍立するものの操業非創業不明のまま消えていくという年でもある(そのようなパンデミックが起こった理由は不明。日清戦争の終結により産業が復調し設備投資が増えた結果煉瓦の需要が増したとは考えられるがそれにしても明治30年という1年にだけ煉瓦工場設立が相次いだことを説明するものにはならない)。そもそも深日であって日深ではない。さらにルートを否定すれば「日」かどうかも断言できないのだった。横長長方形を二分割した記号である可能性を否定し猿もとい否定し去ることはできない。
府下工場の刻印は後年になるほど長手前が一般的になる。和歌山煉瓦も長手前であった。小口前なのはYEGAWAや丹治煉瓦など初期に|初期から稼働していた工場のものに多い(ただしすべてが小口前というわけではない。阪府授産所のように小口前長手前が混在しているうえ小口に押されたものさえある始末な製造所もある<これは煉瓦製造の揺籃期に製造手順を試行錯誤しながら作っていたことを意味する不統一ではなかろうか)。明治後期には製造手順が洗練され「このように作るのがよい」というのが確立してどの工場も似たような手順で煉瓦を製造していたーーーそのためどの煉瓦も斉しく裏溝を有するようになったと考えられるのだ。
なおこの煉瓦があった場所には和歌山煉瓦や無刻印の角丸異形煉瓦も転がっていた。称名寺は近年3つに分割相続されたとかで区画の一隅を真新しい民家が占めていたりする。煉瓦は旧称名寺の名残なのかも知れない。
付近の在所ではやはり岩橋煉瓦の井桁印をよく目撃した。大字栗栖の浄土寺の西方では焼損の岩橋煉瓦を数十個使った小花壇を見つけたし、民家の煙突の付け根にある空気穴というか掃除穴というかな穴の蓋に井桁刻印を見たりもした。煉瓦工場のあった地域に特定の刻印が分布する傾向は跡地訪問を重ねるごとに明白になっている。
そうはいうもののもちろん地産煉瓦以外も見られるわけで、例えば称名寺の東数軒隣の家跡(コンクリート敷の空間に車庫らしき倉庫と小さな地蔵堂が建っている)に岸和田煉瓦刻印を多数見た。家屋の基礎であったのか家の周りの敷石であったのかは不明だが今でも地面の一部を占有している。このキシレン煉瓦にはイロハの添印があり写真の「井」のほかに「ウ」や「ホ」などもあったと記憶する。添え印が付いている場合は小口前が多いのは注意しなければならない(それが古いものであると断言するためにではなくキシレン添印付にそのような傾向があることを忘れないために)。
以前に一度書いたはずだがキシレンのイロハ添印は一筋縄ではいかない。同じイロハでも「イ」であったり「井」であったりする。
ようやく終わりが見えてきた。田井ノ瀬駅まで足を伸ばし何もない駅ホームでカメラ6台で電車の離合やら何やらを撮影しているマニアを他所目に古い駅舎の痕跡が全くといっていいほど残っていない現状を確認し嘆息したあと大字岩橋に戻ってきた。行きしに通らなかった北方の在所を自転車で走っている最中、空き地の奥まったところにある民家壁がそこけ煉瓦製であるのを発見。濫觴の煉瓦屋塀宅はまた別の民家だが壁の作りには共通するものが感じられた。特に頭が勾配付きであるところなど。
成程煉瓦工場のあった町だけはあると一人合点し写真を撮っている私に向かって「何かいいもんでもあるかいね」と声をかけてくられた方があった。「あはは、すみません、あそこだけ煉瓦壁なのが面白くて。この上にも立派な煉瓦壁がありましたね」そんなこんなでまたRDF発動である。
煉瓦工場の話を切り出すとそれに応じて様々なことを語って下さった。以下重要事項を箇条書き。
・岩橋煉瓦のあたりにはよく遊びに行った。田んぼの底土を取ってきて足で踏んでこねたり、型枠に詰めてワイヤーで小引いているのを見たことがある。 煙突の数や窯の規模などは憶えてへんなあ。
・岩橋ブロックKKの社長は3代目。煉瓦製造していた頃のことは知らんかもしらん。
・上の屋敷は岩橋煉瓦の親戚の家 。(ということは全くの無関係というわけでもないのだな)
煉瓦作りを目にしておられると聞いて裏溝のことを聞こうかと思ったけれども逡巡の末に諦めた。説明がどうにも難しいし作業に携わった方でないのだからそこまでご存知ではないだろうと判断したからだ。それはそれで正解だったと思う。かわりに工場付近で採取した刻印入り煉瓦をお見せし多少の歓心を得ることができた。この煉瓦の裏側がもう少し綺麗で溝がはっきりしていたらごにょごにょお話できたかも知れないな、惜しいことをしたなと今更勿体なく思ったりしている。
「そんなことを調べて雑誌に載せるんかい?」と聞かれたのが妙に印象に残っている。そうかそういう言い繕い方もあるのだなと思うと同時に観光案内刊行物の刊行が盛んな和歌山であればこその問いかけだと思ったりもした。地地に来てあれこれ調べ回っているような人間はるるぶまっぷるじゃらんその他の旅行雑誌の取材者くらいなのではないか。特に和歌山県という土地では。観光地観光物に乏しく大局交通からも隔離された位置にある和歌山県のかえって観光客誘致に熱心なさまは傍から見ていてハラハラするほどだ。そのくせ観光客は相変わらず和歌山のごく一部をチラ見して帰りがけに和歌山ラーメンでも食べて納得行くような行かないような顔をして去っていくのが関の山である。ここはそんなうすっぺらい県ではないのだが。うすっぺらでないが故に全体把握も掘り下げも容易でない。それを何とかしようとして様々な観光政策が取られているにも関わらず空回りして苦労している県という印象がある。
かくいう私も和歌山県のことを知り尽くしている訳では決してないし帰りに井出商店で食って帰ったクチなんだけどね。とんこつしょうゆベースのラーメンは良くも悪くも地元の普段食という感じがした。遠方からわざわざ食べに行くほど美味いものではなく、むしろそういう食を普段食としている和歌山市民の気分に浸る楽しさのほうが忘れがたい印象になった。これも考えてみれば不思議なことだ。札幌でラーメンを食べても札幌市民になった気はしなかった。喜多方ラーメンも同様だ。観光客向けに作られた観光用のラーメンであるという先入観があるせいだろうか。和歌山ラーメンだってこれという定番はなく素因数分解して得られる最大公約数がとんこつしょうゆ味というばかりであって「観光用に作られたブランド」という点においては他と変わるところがないはずどころか他を凌ぐ急拵え度であるのにだ。
地元のソウルフードを楽しんだ感が得られたという点では中津の唐揚げに近い。あそこも急拵えなブランドではあるけれども食自体は地域に深く根差している。各地区に一つは唐揚げ屋があり(というより肉屋が副業的にやっているところが多くいわゆる唐揚げ専門店はそう多くない)ずいぶん昔から親しまれている食べ物であるのは間違いない。我が家の近くにも中津で修行したという唐揚げ屋があって小さい頃から馴染みの店だった。冠婚葬祭帰省お盆正月クリスマスとイベントのごとにkg単位で唐揚げを買っていた気がする。そこから逆算すれば30年以上前から中津唐揚げという文化が存在したことになる。そうして確かに地元唐揚げ屋と同じ味を中津でも味わったのだった。ああまたふじやの唐揚げが食いてえなあ、と気がつけばずいぶん遠い地点に着地している。
井出商店の駐車場にいた猫である。首輪をしていたので近くの家の飼い猫だろうと思う。久しぶりに猫を触った。それを嫌がって首を回しているのではない。
250円の文庫を買わずに300円の単行本を買ってしまった辺りに重症度が現れている。耐えて読んでいると一定時間経過後急に理解速度があがってそれ以降頭が宇宙ゴマになってしまう。感染源はやはりここだったのだなと再認識。昭和56年初版。
余談だが中公文庫の刷り数表記は間違いやすい。中央公論社時代の肌色背表紙のものは「○版」表記、新社になってからは同じ体裁を取りつつ刷数表記になっている。初版のみ「印刷/初版」、増刷すると「○版/○刷」。
そういう会話をする夫婦が現在はもちろん過去にも存在しただろうかという疑問が発端である。現にこれが存在する以上、そして店の顔たる看板に宣伝文句として書かれている以上観た者の共感を誘いこの会話の通りに行動してもらいたいからこそこのような掛け合いを書いたのだろうとは想像できる。それがダサいだの有り得へんなどというのは過去への感情移入が不足している証拠だ。まずそれは脇においておく必要がある。
昔はこういう態の謳い文句を掲げた店が多かった。「飲んで歌って踊れる店(踊れるはなかったかも知らぬ)」「皆様のスーパーマーケット」「いい品をより安く」「いつもニコニコ現金払い」等々。今の店の表面からはそれが欠落している。マ キャッチフレーズとして存在してはいるがわざわざ看板に掲げる店は少なくなった。 クドナルドがそのMマークの下に「ビーフ100%のおいしさ」とか「アメリカンテイストのお店」とか添えていたら逆に違和感だろう。
という感じに反例を考えていたら逆に今でもそういうものを掲げている店が結構な数あることに思い至った。能書きの多いラーメン屋とか焼肉屋とかあるじゃないか。いかに心をこめて作っているか上等な食材を使っているか炭は最高級の国産炭だの何だの真か嘘か確認しようのない能書きを長々とでかでかと書いてあるあの店だ。すでに背景画像の一部に成り下がっていて誰にも読まれることがないであろうそんな能書きに比べればまだ読む気にもなり一度読んだら忘れられない寿し仁のこの看板は優れていると思う。
現今の能書き看板とこの看板とで決定的に違うのは主張のベクトルである。矢印の尖り具合いとその向きである。いかに美味い料理を提供しているかをストレートに延々と主張するだけの能書き看板に対しこの看板は「うちは美味い」と断言することがない。街角で起こり得る夫婦の会話に託して「寄ってみいひん?」と誘っているだけである。柔和な主張である。商業主義全盛時代に生き購買意欲をのべつ幕無く刺激され続けて辟易している私たちにとってはかえって後者のような優しい主張のほうが受け入れやすいように思う。「そんな会話があるもんかいな」と思いつつ含む苦笑に親しみや共感の成分が混入していたりしないだろうか。
そうはいうものの、これが創業当時にいま私が感じるほどのインパクトがあったかと問われれば答えに窮する。現今の能書き看板が主張を全面に押し出しているせいでかえって読まれないでいるのと同様、当時はただの書き物としか思われていず気に留める人もいなかったという可能性は捨て切れない。他がやっていることを真似ただけであってこの店独自のスタイルではなかったかも知れずいわゆる「一周回って新しい」段階に過ぎないことも考えられる。
いずれにしてもこのポテンシャルは差異から生じるものである。現在の能書き看板との差異、それに対して時代々々の人々が感じる感情の差異。普段見過ごしているものの中に奇妙なポテンシャルを拾う行為は畢竟そんな差異を探し出しどこに差異を感じたかを記録して周回遅れを是認する行為であるといえる。そして差異とは比較対象があって初めて生じるものであり絶対的に優れた主張やそれ単独で効果が期待され100年色褪せない主張というのは有り得ない。もし世の中が再びこのような看板を求める頃になったとして、再び私がこの看板を目にした時、もはやそこには奇妙なポテンシャルのかけらすら存在していないだろう。
どうでもよいことだが、小さい頃「テナント」という言葉をこの庇を指していう言葉だと思っていた。だってテントに使いそうな丈夫なシートじゃないか。
水戸黄門が人工呼吸を施される夢を見た.テレビドラマ水戸黄門で水戸黄門の役を演じた誰かが人工呼吸を施されるのではなく歴史上の人物としての水戸のご老公が目の前で人工呼吸を施されるという夢である.当然時代は江戸時代なわけでありマウストゥマウスの人工呼吸ではなかった.横たわるご老公の口に指を突っ込み外側に向けてパホンと弾いたり逆向きに押し込んだりすることによって肺に空気を送るというものであった.小さいころ口に指を入れて弾いてポフンポフンと音鳴らす遊びをした経験が誰にも有るのではないだろうか.それを人工呼吸に応用したもののようである.素面の今思えばそんなわずかな空気量で呼吸の代わりになるものかとか筋肉が弛緩した状態で口と指との間の気密性を保てるものなのかなどと思ってしまうのだが夢の中に登場した医者(いかにも徳庵とか慈庵とか名乗りそうな総髪の人物)は事も無げにその人工呼吸を施していた.そのしぐさがあまりにもリズミカルで丁々発止な感じさえもし思わず見とれてしまう私だった.
ただし光圀公が息を吹き返したかどうかは覚えていない.
ここ10年分の記憶を残したまま10年若返るという夢を見た。そうなるに至るストーリィも妙。ある日突然悪魔が出現し「最初に私とコンタクトを取った者にあるものを与える」と言い出した。悪魔であるうえその何かが知らされなかったため誰もが怖気づいて近寄らなかったのだが、慢性的に厭世・絶望している私がそのコンタクト役を買って出た。生きていても何もいいことがない。生活も苦しいし体もガタがきている。どうにでもなれよかしと。人生最後の経験として悪魔とやらと会ってみようと。しかしそんな挙手を見た何人かが「俺も俺も」といい始め、結局複数人と競争のようになってしまう。
ロードランナーかスペランカーみたいな擬似三次元平面のダンジョンを走り回り、一人また一人と出し抜いて最後の梯子のところまで到達した。その梯子にはすでにいがぐり頭の男(彼が最後の競争相手だった)がいて、今まさに登らんとしていたのだが、私の姿を見た途端に梯子を譲って寄越した。梯子を登れば悪魔がいる。登ればタダで帰って来れないだろうことは誰もがうすうすわかっている。そんな最後の転回可能地点を前にして彼は怖れをなしてしまったらしい。怯える気持ちはわかる。自分だって怖い。悪魔なんだからきっと死ぬんだろうと思う。それを正直に怯えて辞退するいがぐり頭氏に敬意に近い感情を抱きつつ梯子を登った。
梯子を登り切ると細長い通路状のフロア。床だけで手すりのようなものはない。進んでいくと下から悪魔の声がして筒状の布を渡された。直径が50cmくらいありそうな白い筒で、その中を通して何かを渡してくるらしい。筒布に腕を突っ込むと、何やら ゴツゴツした 書籍の束のごときものの感触。サイズが異なる単行本を3、4冊束にしたような感じだった。これが「あるもの」なのか、と思ったのが、この場面で覚えている最後の事象である。
k気がつくと私は10年前の世界にいた。ORJを始める前の、まだ会社勤めしていた頃の世界。体の調子もその頃の元気さ。あ、時間が巻き戻された、 これが悪魔の「あるもの」の効果なのか、と思うと同時にそれまでの経緯を覚えていることに気づく。単に巻き戻されただけなら悪魔云々なんて憶えていないだろう。ORJが失敗に終わったことも思い出せないはずだ。
ああなるほど、ORJすらなかったことにして、自分のやってきたことを一切無に帰すという罰なのだな。しかも失敗したという記憶はそのままで。失敗したことすら誰も知らないのだ。
それでもまたやるのかい? と自分に問うてみて、もういいやと思ったところ、気分がすっきりした。晴ればれとした。やったという記憶はあってもモノは何一つ残らなかった。黒歴史が未来永劫残るより、嫌な思いをしたことを抱えて生きるほうがまだましだろう。さあて、巻き戻された10年間を何に使おうか。どんな有意義なことに使おうか。しかし結局は同じようなことをして無駄にするのだろうな。そこも含めて悪魔との契約なんだろうな。
というところで目が覚めた。
覚めた直後は結構ユニークなストーリーだと思っていたのだが文章にしてみると何とも陳腐である。ラジオ体操第一の2番目の体操程度のひねりすらない。ていうかこれが夢だったということ自体が悪夢なのかも知れぬ。
_ やいとちゃん [雲中小学校のレンガ塀を上がった4本目の道は、私が小学生の頃一面にレンガを敷き詰めた道で、近所のものはレンガ道と言っていました。 今は残念ながらアスファルト舗装になっていますが、屈曲した風情のある道..]
_ nagajis [これはよい情報をありがとうございました。神戸市外にはそんな煉瓦小道がいくつもあったみたいですね。下山手8丁目とか。。。]