nagajisの日不定記。
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前回水を被って修理してShift-Yが効かない謎故障を生じ再修理したキーボードだが今度はctrlの効きが悪くなって鬱憤が溜まっていた。コピーペーストしたつもりがvとか出てさ。んでとうとうctrl押し下げっぱなしな感じになったりし始めてついにキレた。またネジ何十個も外して清掃し直し。接点フィルムの間にシリコンスプレーが入り込んで張り付いてしまいがちになっていたようだ。この清掃をしてから多少はましになった。一体何年使うつもりなのか。アクリルボデーのネジ穴なんかほとんど全部阿呆になっているのに。
こんなに苦労するなら中古一台買えっての。あるいは白キーボードのガワと中だけ流用して修理したらいいのに。前者は以前より高いのでという理由で、後者はまだちゃんと使えてるから勿体無いという理由で躊躇っている。そのくせ白キーボードに乗り換えるのは毎度断念する。白キーボードの硬さはどうしても慣れない。キーを打つだけの力のないnagajisである。
第十四条 穹窿
一 「べトン」穹窿
(略・型枠使用の場合)
「ベトン」の下層に平二枚煉瓦積を施し枠の厚紙に代用するも妨げなし但し其端末を前面壁の表面に露出せしめざるを要す
『現代本邦築城史』が国デジコレにあるのを発見し、鵜喜鵜喜しながらM27改正「砲台建築仕法通則」を読んでいたら、興味深い記述を発見した。この示方書のなかで平巻きが言及されている。型枠にセメントが付着しないよう厚紙を敷いてから巻立てるのが通則だが、その厚紙の代わりに「平二枚」煉瓦積みを施して巻いても良いとしておる。なるほど、深山砲台の砲側庫や通路隧道部のあの巻きはその意図で行われたものだったのだ。
そうして「前面壁の表面に露出せしめざるを要す」というのが地味に重要だ。第一砲台の砲側庫や通路隧道部のアーチは確かにアーチ端にモルタルを盛って煉瓦を隠している。外から見るとベトンのアーチに見えてしまう。けれども内部は平をこちらに向けた煉瓦巻なのだ。この状況は第一砲台の付属砲台でも同様。
その一方で、第二砲台で唯一残っている砲側庫にはモルタルが塗られていない。そうして確かに内側2枚が平巻になっている。
第2砲台はM25.1.着工、M26.7.竣工で、「砲台建築仕法通則」の改定前に竣工している。第1砲台もM25着工だが6月に始めてM30.8までかかっている(これは確か付属砲台のほうに時間がかかったんじゃなかったけか・・・)。厚紙代わりの平巻が第2砲台で試されて、それ自体はOKとわかったが、表に目地が現れることに不都合が見つかったかして「砲台建築仕法通則」改正の時に付け足されたのだろう。そうして第一砲台の仕上げに前面の塗りが採用されたと。目地が表にあるとその目地を伝って内部に水が染み込むはずだから、それを避けてモルタルで平らにしたのではないか。その延長線上にアーチ裏の溝があるはず。
由良要塞の建設は築城部にとっても施工テストの意味があったように見える。由良要塞にやたらいろいろなアーチがあるのも「砲台建築実験場」としての意図が読み取れる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223513/42
ほぼ同じ頃に関西煉化石が晩克坡へ輸出を企ててたっていう記事とも関連がありそうな気がする。
米国博覧会報告書. 第5巻 列品部
現時点で最も古い規格呼称の初出。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846211/75
第二節 煉瓦積の大意
石工は寸法の同じからざる品物を用うれども煉瓦職は何時も寸法の定りたる品物を用ゆる便利ある故煉瓦積は何れも段積に仕上るものにして一段の厚は通例のものでは煉瓦石一枚の厚み丈けへ又小端立にしたるものは横幅一枚丈けへ横の接手一本の厚を加えたるものなれば東京形と唱ゆる煉瓦石を用ゆる時は一段を厚二寸二分五厘とすれば四段の高さが九寸になりて目積りをする時に都合宜ろしきものとす
今日諸所にて製する煉瓦石の寸法は左の通り大凡そ定り居るを以て成る丈け出来合のものにて間に合う様に計画するを良しとすれども若し止むを得ず寸法の変りたるものを用ゆる節は厚は何程にても宜りすけれども長さは二タ幅と竪の接手一本丈けにすべきものにして長さ八寸の煉瓦なれば之より竪の接手三分を引きたる残り七寸七分を二つに割りたる三寸八分五厘の幅となるものとす
長七寸五分
三寸六分
厚二寸三分} 山陽鉄道会社にて始めて注文して造りたる品にして横の接手を入れ一段の高三吋(二寸五分)になる様にしたるものなり俗に山陽形と云う 長七寸五分
幅三寸六分
厚二寸} 東京にて造り初めたる品故上方にては東京形と唱え居り当時一番に広く用いられ居るものなり厚は二吋半(二寸一分)の詰りたるものなり 長七寸五分
幅三寸六分
厚一寸八分} 上方にて造り初めたる品故上方にては並形と申し居れども前の者に対しては大坂形とでも申したら宜ろしかるべし厚は二吋(一寸七分)の延びたる物なり 右は一通りの寸法にして製造場に由りては一二分位は大きなものも又寸詰りのものもあり亦同じ製造所にて造りたる品にても火の利きたる品と焼けの足らぬ品とでは同じく寸法に相異を生ずるものにして七寸五分の筈のものが七寸二三分位に出来たるものあれば七寸七分位の大きなものもあるものなれば此辺は能くご承知ありたし
M23頃瀧大吉によって大阪に興された「工業夜学校」の講義録。M24まで小冊子で発行され、滝が東京に移ってからも「建築学講義録」として発行が続けられた。一時休止を挟んでM27まで発行が続き、最終的にその合本が明治29年に刊行された(書名『建築学講義録』第一~第三)。実地の建築術を説く本としてベストセラーになったものだそうである。
煉瓦積みに関する該部分(第3章以降)は「建築学講義録」時代のものらしい。ゆえに内容はM23~M24頃の知見に基づいて書かれているものと思われる。
この中で山陽型が目地込み3インチであること、東京形を「上方では」東京形と呼んでいること&2インチ半を2寸に寄せたものであること(2-1/2インチはStaffordshire形の厚に一致)、並形を2インチに寄せて縮めたものだと書いてある。その他膨張や収縮の避けられないことなど実際的な記述が多く、確かにこれは初学者にとって親切極まりない入門書だと思われた。
目地について述べたところでは職工の手抜きや意図的な粗相のことが書いてある(わざと傷みやすく作ってその補修で金を儲けようとするとか、裏込めを適当にするとか、上等で高価な表積み煉瓦を羊羹に割って表積みにし空隙にモルタルを詰めるとか)。そんな悪事に注意するべきことが結構頻繁に出てくる。最初期の煉瓦職人が寡占を笠に着て横暴を働いたが故に阪府授産所で煉瓦造りを教授するようになったという『大阪府史』の記述を彷彿とさせる。ともかくそんな感じの技術一辺倒でない記述が多くて面白く読める。イギリス積みフランス積みの強弱も、一つ一つ丁寧に実例を挙げて示してくれているので理解しやすい。
以下も合わせて読むこと。瀧大吉は滝廉太郎の叔父にあたる。造家学会の設立にも関与し、大阪で最初の民間設計事務所を開いたりもした。明治工業会社、は確か住友鉱山鉄道の建設を請け負った会社ではなかったかちがうちがう、山陽鉄道船坂トンネルや。それか由良要塞建設に絡んで聞いたような…‥あと呉鎮守府のドック建設に入札してる(指名入札)。でもこれは受注せず。それ以外のに関わってる。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/83/752/83_1999/_pdf/-char/ja
二寸二分五分×4段で9寸というのは、目測には便利だろうがインチにもセンチにも尺寸にも寄せにくい気がする。一間四方=6尺四方=60寸に9寸を詰め込むのはどうしても半端じゃないか。
マシンがやけに重くなってフォルダ開くのもコピーするのもできんくなった。再起動しても同様。何の予兆もなかったというのに。
これがSSDの吹っ飛び方なのかと戦々恐々しつつできる限りのバックアップを採取しようとしてHDD繋いで2度めの再起動したら元に戻った。
やめてくれ…これ飛んだら何もかもなくなっちまうんだよ。
イギリス積み。長手の段と小口の段を重ねる。小口段の末端は、一つ内側に煉瓦を縦半分に割った役物(“羊羹”)を挟むのが本式とされる。
末端の処理に羊羹を使わず、7:3くらいに割った煉瓦(“七五”)を使うこともある。七五で処理した場合は特にオランダ積みと呼ぶこともある。
どちらも煉瓦を割る手間が必要だが、『建築学講義録』曰く、羊羹のほうが作りやすい利点があるという。煉瓦は運搬中に欠けてしまうことが多かったので、そういう欠け煉瓦を加工して役物を作るのが経済的だが、羊羹は元の小口の1/2が表に出る=その面に傷がなければ羊羹に作ることができた。小口1/2さえ綺麗であればよい。他面が欠けていても壁の中に隠れるので問題ないわけである。いっぽう七五は小口全面と長手の七割の面積が無傷である必要がある。羊羹よりも広い面積が無傷でなければならない。
また、羊羹をうまく割ることができたら、一個の煉瓦から二個の羊羹が得られ、それで小口2段を仕上げることができる。七五で処理しようとすると八個の煉瓦を割った上に1/4サイズの屑煉瓦が八個出来てしまう。無駄である。
表積みに化粧煉瓦を使う場合はこれが結構効いてくる。羊羹で積んだほうが化粧煉瓦を無駄使いしない。
後年になるほどオランダ積みが増えるような印象がある(この印象が正しいかどうかは証拠はない)。煉瓦価格が低下して無駄に使っても気にならないようになったのだろうか。あるいは七五の割り方を微調整して煉瓦サイズのばらつきを吸収するようになったものか、と考えてみたりもしたが、煉瓦を積む時はたぶん角から積んでいくだろうからそういう吸収を予測して積み得るとは思えぬ。
「建築学講義録」を下敷きにして書いているようで、妙に似た記述が散見される。掲載図もずいぶん似ている。
諸所に誤謬があってにんともかんともである(それを訂正した書き込みもある)。p.91 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846021/54 第78図の下段の煉瓦積みは左端の処理指示がおかしい。七五を二枚継いで積まないとそうはならない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846021/59 にはモルタルに砂糖を加えると強固になると書いてある。本当だろうか。現在の常識では生コンに砂糖入れると偉いことになるハズなんだが。ただし上記述では「石灰モルタルは二倍近い強度になる」「膠泥モルタルはさほど影響しない」とある。この本のいう石灰モルタルは生石灰に砂と水を混ぜただけのものなので、その場合はたぶん影響ない。「建築学講義録」では生石灰+セメント+砂+水だったはず。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846206/49
煉瓦は長手方向の異同が大きいため、小口積みにすると必ず裏面に凹凸を生じる。これは先の「土木学」なんかでも書かれてある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847597/181
英国煉瓦石の模型(注:型枠)は通常長九吋半乃至十吋幅四吋四分三乃至五吋厚三吋四分一とし窯焼せば十五分一乃至八分一を収縮するを以て市場売品は長八吋四分三幅四吋四分一厚二吋四分三とす壁の外面に用うるものは長さ九吋四分一幅四吋二分一厚二吋四分三とす
英数字にすると、
型枠:9-1/2~10×4-3/4~5×3-1/4 inch
製品:8-3/4×4-1/4~2-3/4 inch
となる。こういうのもっとほしいなあ、日本のでさ。んでこの数値はA history of English brickworkにもThe architectural dictionary(1853)にも『分析試験報文 第1号』(M28)にもない。困ったことである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845801/25
手成形 一日約450個 熟練で600個超。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845801/27
諸外国の煉瓦のサイズ。
英国 8-3/4"×4-3/8"×2-3/4"
蘇格蘭 9-1/2×4-1/2×3-1/2
独逸 9-7/8×4-3/4×2-8/5
墺地利 11-1/2×5-1/2×2-5/8
キュバ 11×5-1/2×2-5/8
南米 12-3/4×6-1/4×2-1/2
蘇格蘭=スコットランド、なんやね。一つ賢くなった。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845819/39
上の絡みで過去にURLだけ掲げていたのをテキスト化。
英 8-3/4×4-3/8×2-3/4
蘇 9-1/2×4-1/2×3-1/2
独 9-7/8×4-3/4×2-8/5
墺 11-1/2×5-1/2×2-5/8
米 8-1/4×4×8-1/4
英~墺は金井彦三郎編「材料編」と一致する。キューバ、南米がなくなったかわりにアメリカが入る。発行年からゆうたら逆なんだけど。んでこの数値も分析試験報文の値と違う。
http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20190912&
野呂長四郎『近世建築用材料 上巻』(大正4-5)には煉瓦税の結果8-3/4×4-1/4×2-1/2になったとある。これはThe architectural dictionaryの19th London Stockの数値に一致。結局、日本に入ってきた頃には1/4刻みだったちゅうことでしかないのかも知らん。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846202/40
我国の煉瓦は大抵7.5×3.5×1.9寸。ってどれにも一致せえへんやん。
器械製の乾法と申すは原土を能く乾して粉となしたる上型に入れ器械にて強く押し固める法にして湿法と申す方は手製の様に湿りある粘土を器械に入れ上より強く押せば器械の縁にある孔より帯の様になりて外へ押出さるるを待ち機械仕掛の刃物にて此帯を入用丈に切るものにして帯の大きさは通例煉瓦石の小口の寸法に出来居る故右様にして切りさるものは取りも直さず素地の煉瓦石なり(『建築学講義録』p.257)
ということで、この頃日本には小口方向に押し出すタイプの成形機械が存在したようである。はて、日本煉瓦製造ではどこのを採用したのだろう。もしかしたら堺煉化石が高田商会経由で買い求めたやつだったりするのだろうか。
小口方向に押し出すタイプだとすれば平と長手が平滑になるわけで、これは表面を見れば確実に判断ができる。断面を見てもよい。しかし小口がザラザラになるとアレだな……と思ったら「刃物にて」切断なんだな。ワイヤーよりかは綺麗に切れるのかも知れぬ。
そしてこの文には続きがある。
其他尚お湿法には種々の仕方ありて摂州舞子の浜なる関西煉瓦会社にて用い居る器械などは至極面白く見る丈の価は十分ある故近所迄参られたらば御一覧あれ
行きたくても行けねえんだよ! 説明してくれよ!!
二 素地成形機 独逸国しりっく、あいぜん氏の発明にして千八百五十七年に特許を受く、爾来数回改良を経て今日に至れり、最初は螺旋羽根の軸心を錘直にせしが今は多く水準と成せり、但し我国に渡来せるは重にしゅめるつ江る氏及ぐろっかー氏の製造に係るものなり(『煉瓦要説』p.3)
シュメルツェル氏のが日本煉瓦製造のやつ。ぐろっかーはグローケ Grokeで大阪窯業のやつ。
明治二十年日本煉瓦製造会社の起るや、始めて独逸しゅめるつ江る氏の製造に係る完全なる「シリック、アイゼン」式素地成形機械を輸入し来り驚くべき速力を以て日々数万個の素地を成形する実例を示せしかば爾来各地の有力なる工場は之に倣うて該機械を装置するもの多く(同 p.9)
p.17にはその機械の写真。口金のところはよくわからないが大、切断機のワイヤーの間隔と見比べるとを押し出すやつと思われる。平にギザギザがついて粘着力upっていうのは日本煉瓦製造が言い出しっぺなんだし、やはり平押し出し式なんだろうと思う。 とすると小口押し出し方式は堺煉化石くささが増すわけだ。
Archive.orgで一生懸命ZiegelとかEizenとかSylikとか検索してみたけどヒットしねえんだな。収録は1898年頃のが最も古いらしくち、ょっと届かない。いや、煉瓦要説が出たのが1902なんだからそれでも良かったんか。 んでもやっぱり見つからない。
「建築学講義録 巻1」に型枠サイズと焼成品サイズの具体例が書かれている。大変ありがたいのだが、一寸理解に苦しむところがある。
素地の煉瓦石を焼けば長さ十二分の一より十分の一縮むものゆえ煉瓦石の型を造る時には右の割合にて型を大きくなし置くべきものとし譬えば東京形の煉瓦石を造る時素地の寸法は
長七寸五分
幅三寸六分
厚二寸}は縮み方を十分一とすれば{ 凡八寸三分
凡四寸
凡二寸二分なり諸君のうちに或は七寸五分の一割増しは八寸二分五厘にして八寸三分にあらずと云われる方もあるべけれども八寸二分五厘が一割減れば七寸四分二厘五毛になる故矢張り八寸三分にする方が正しきものとす其仕方は八分の一引けば九割残る勘定なれば之にて望みの寸法を割りて素地の寸法を知るものなり
諸君のうちに云々のところはわかる。一割縮むからといって所望のサイズの一割増しにするとおかしなことになるって話。しかしボールドにしたところがよくわからぬ。どういう計算なんだろう。単純にx=(所望サイズ)/0.9ではいかんのか。
https://www.aij.or.jp/da1/zumenshasin/pdf/J6000648.pdf
「現存する明治洋風建築-近畿編-」(日本建築学会近畿支部建築史分科会 明治建築研究会)。1961年作成。これを見ると造幣局鍛工室(M18)に22.5×10.5×5.3cmの煉瓦が使われていたと記録されてる。鋳工室(M18)にも22.5×10.7×5.5、その前の倉庫に22.4~22.7×10.5×5.2~5.5。当時三菱の所有だったタングステン工場(造幣局曹達製造所)(M13)にも22.5×10.6×5.3。こいつらは並形なのだ。
しかし泉布観の煉瓦は23×12×6という。謎である。
日本建築学会図書館のデジタルアーカイブスは来年3月に有料化するらしいぞ。せちがれえよ。
否、逆に考えるんだ。並形サイズは過去に存在しなかった。鍛工室、曹達製造所あたりが後年の改築だったとすれば辻褄が合う。あくまで帳簿上の話だろ>着竣工年。
帰ってやろうと思っていたことを何一つせず、かわりに煉瓦の生産量グラフを弄ったりなどする。全国の煉瓦生産量は『日本土木史』掲載データを使っていたが明治40年、大正元年、のような飛び飛びのデータだったのが気になり調べていくと『農商務省統計』にデータを発見。これで明治38〜大正12まで抑えることができた。さらに調べていくと官房統計課作成の統計『工場統計表』(のち『工業統計書』)もあって、どうやら『日本土木史』はこちらを使っているようだった。これは経済産業省のサイトからpdfをダウンロードできる。
双方で数値が違うのがちょっと気になる。同じ大正12年の赤煉瓦製造量が千万の位で違ったり。どうなっておるのか。とりあえず『農商務省統計』はその範囲で使うことにする。一番気になる明治〜大正の変動を見れるわけだし。
そうして大阪府の煉瓦製造量。改めて見るとM29で急激に減少しているのがおかしい。数値はM36『大阪府誌』から取ったがこの時点で一ケタちがうのだ。そのくせ価格は前年より一ケタ多く、確か4倍くらいにもなってる。卸売価格はM29頃にピークがあり、それからすると製造量が激減したせいで単価があがったと見れなくもないが。せいぜい1.5倍くらいにしかならんかったんじゃなかったっけか。
生産個数の数字がひとつ生産額のほうに行っちゃってるようにも見える。そうすると生産個数は前年+600万個の9700万個、価格は61万→35万と下落してしまうことになり、単価は下がらねばならず、それもおかしいわけで。おやおや。
(単に製造個数の数字が一ケタ間違っているだけなのだろう。29年初頭には5.3円/千個だったのが12月までリニアに増加し10.2円/千個に達している。ピークは30年1月の10.7円/千個。そんなかんじの状況で生産数が前年度よりちょっと多ければ2倍強になるやも知れぬ)。
このへんを埋められるデータがあるといいのだが府統計書M29には煉瓦生産量載ってねえんだよな。乗り始めるのはM34くらいから。のはず。そこには確かにある。ただ何故かM36は個数がなくて販売額だけだ。あ、これは卸売価格で販売額を割れば出ないことはないのか。
ふーん。だとすると明治30年の工場パンデミックは単に築港計画だけでないことになるな。その前年から煉瓦価格の高騰があって、それが築港計画の影響だとしても、実現するかどうかという段階の29年中に慌てて買わずとも良かろうとは思う。ただ29年の煉瓦高騰を見て儲かる仕事と考え、かつ築港もあるので、悩んだ末会社設立→尻馬に乗れずに廃業と見るのが素直だろうか。
じゃあなぜM29に煉瓦価格が高騰したのかしらん。1896年かあ。あんまりピンとこないな。阪鶴は30年からだし南海はさらに後出し。東海道線の複線化ももうちょっと遅いような。
ポスター画像をいただいたので宣伝目的で貼り付ける。岸和田煉瓦創業パンフを彷彿とさせるデザインである。
「永冨コレクション」は自分から言い出したものではないのでそこのところどうかご了承いただきたく。んな大げさな収集のつもりでないし。
それよりもこの期に及んで展示煉瓦を追加したく思い始めたりしてドツボもいいところである。せんだっての別子銅山の成果を入れ込んだほうがよいのではないかと思い始めている。少なくとも東延の掻き目煉瓦は意味がある、松葉菱サレもレアケースとして面白かろうと思う。けれどももう、差し替えのできる煉瓦が存在しない。絞りに絞って119個+1個にしたのだ。これ以上絞り込みようがない。
うんうん唸って諦めて、パンフ写真載せておこうと思ってこれを書き始めたら、そうかアレって愛媛で採取したものであって関西地方のじゃねえんだと思ったりもした。じゃあなくてもいいか。とりあえず持って行くだけ持ってくか。。
http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20190929#p01
大高表があてにならないとわかっていても、そこに立ち戻って考えてしまうことが止められない。並形が7.4×3.5寸というのは実際を表していないんだ。でも厚1.75寸=2-1/8 inch の切りの良さに近寄りたくなってしまう。実物をインチメジャーで測った時などは特に。かといってそれを幅や長に押し広げるとますますドツボにはまる。7.2~7.7寸も変化するって滝さんゆうてるやん。
建築で実際に重視されたのは長幅厚のどれなのか。やはり厚だろか(それで東京形並形山陽形としているし)。
いや、もし『建築学講義録』が間違っていたら…? ベストセラーになったというこの記述を延々引用した結果だったりしたら?
すっかり忘れていたのだが、堺紡績って煉瓦使っていたんだろうか。錦絵では煉瓦とも切石積みとも見得るてれこ格子の壁なんだけどさ。あれが当初からのもんかどうか。
幕末の頃に鹿児島藩が堺の土地を買って、そこに紡績所をつくった。国内で2番めに古い紡績所。機械は明治初年に購入され、その年の暮れまでに据え付けられたそうである。だとすると建屋もその頃にはできていて良さげなもんだ。だとするとすでにその頃から煉瓦があったことになる。操業開始はM3年らしい。
鹿児島藩は奄美大島に製糖工場を作って、そこでウォートルスが煉瓦製造を指導した。そうして堺に紡績工場by鹿児島藩ができる。明治2-3年頃函館会所跡に作られた工場は後に鹿児島県人原口某に払い下げられて。この時期妙に鹿児島県人の色が濃いのである>堺。あーでも堺の瓦屋・原口仲太郎だったりするからなあ。
堺紡績所の技術はイギリス経由。機械もイギリス製。んなら煉瓦のリファレンスもイギリス製であってよい。ていうかウォートルス指導の流れを汲んでStuffordshire製で構わない。ではなくて、フランス形類似の並形が流行するのは何故なのか。
1尺=10寸=正確に100/33cmと決まったのは明治24年。それ以前に違う換算してたりしたら目も当てられないな。水母の骨で睫毛の長さを測るような掴みどころのなさ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2627880/41
「全国銀行会社統計要覧」大正元年発行。この中では×印が否定的な意味で使われている。問い合わせして折り返し資料が送られてきたがその内容に疑義があるため掲載しなかった、というやつに×印がつけてある。とはいえ同書では、問い合わせしたけど梨の礫だった会社に*印をつけていたりもする。ともかくいま自分が見つけられている最も古い×印はこのへんだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780104/41
「日本紳士録. 第16版」M44版。これにも×印が使われているが特に悪いイメージはない(その人が支払った営業税のヘッダー記号に使われておる)。直感ではこういう統計書とか紳士録とか会社名鑑なんかで×が出てきそうなヨカンがある。統計書はずいぶん見たけれど×印は見かけなかった気がする。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760893/37
オマケで気づいたことが一点。暦に「伐日」というものがある。「ばつにち」「ばつじつ」というらしい。下のものが上のものを覆す良くない日だそうだ(干支の巡りでいえば「きのえ」とか「きのと」とか)。「ばつ」という言葉自体には悪いイメージはあったのかも知れず、それと×記号とが結びつくのがいつだろう? というところに最も興味がある。上記リンクはM12発行の暦の本。
そういや「バツが悪い」というけれど、あのバツは跋のこととか場都合の略だとからしい。「×=悪い」じゃねえんだな。
。眼前の光景をまるでストビュー画像でも見ているような感じにしか思えなかったのは末期なのだろうと思う。
1日目のナイトランの感覚。吉坂本堡塁。たぶん、数日後には平板な記憶になってしまう。雨に降り込められた葦谷砲台のほうがまだ。
だったと思う。久しぶりによく思い出せる夢。といっても内容は悪夢系。
何か重要な試験を受けている場面。答案回収となり後ろから答案の束が回ってくるが、それと一緒に何か紙片が束になって入った封筒も集められてくる。それを見て「しまった」と思う。解答用紙とともに提出せねばならない写真ーーー内容は忘れてしまったが何だったかの写真を解答とともに提出せねばならなかったらしいのだ。そんなことをすっかり忘れて、問題の解答だけして慢心していたのだ。
封筒を手にした瞬間にそのことを一気に悟って大焦りするnagajis。ああ、どうしよう。提出しなければ解答が無駄になる。そう思ってもじもじしているうちに、そうだった、その写真のコピーは持ってきているのだ、と思い出す。テスト勉強?のつもりでプリントアウトしたものを持ってきていたのだ。ただしそれは持ち歩いていたためにヨレヨレになっているうえ赤ボールペンの書き込みもある。提出して効くかどうかもわからない。けれども他にしようもなく、そのプリントアウトを伸して封筒に突っ込む。
これで何とかなるだろうか、と思ったのもつかの間、もっと大変なことに気づく。問題の答えを問題用紙の方に書き込んだはいいが、それを解答用紙に転記するのを忘れていたのだ。何でそれを忘れていたのかわからないし実際にそんなポカミスをやったこともないのだが。それに対してはどう対処したのか思い出せない。観念して白紙解答用紙を前に送ったような気もする。
教室に帰ると高校時代の同級生。そうだった、期末試験か何か重要な試験だったのだ。そうして一連のポカミスを零し、さんざんっぱらに馬鹿にされる私。慰めてくれるような仲間はいないし、慰められたところでどうにもならない。取り返しはつかないのである。
というところで目が覚めて、夢で良かったと心底から思う一方、未だに「テストで失敗する」系の悪夢を見るのは何故だろうと思う。もう何十年も試験なんて受けていないのに、悪夢というと決まって試験の夢か、新聞配達で新聞が余ってしまう夢を見る。後者は現実によく経験した。きちんと配ったつもりでいたのに1部余ってしまった=どこかに投函し忘れてたとかいうことがしょっちゅうあった。繰り返し単純作業を過つことなく無難に繰り返すことができない無能なのである。
一昨晩のテントでは、起きた瞬間、今何時や、会社行かなと思ってしまい、そういう身でないことに気づいて憮然とした。本末転倒というか何というか。やる気が削がれたような一日だったのは半分くらいはそのせいであったかも知れないと思う。
ここに書きたくなるような楽しいこと・楽しい発見・役立つかも知れない情報、といったようなことがない、と思う一方、そういうのを書くための場所ではなかったなココ、とも思う。だらくさ書くだけのためにあるのであって、誰かのお役立ち情報を書く場所でもなかったのだ。自分の記憶を補助するための情報置き場というのは多少正しいが、どうだろうね、最近お役立ち情報欄を意識しすぎてないか? 虚空の仮想人格に語りかけておらんか?
愚痴を放り込んで埋める場所にはしたくないし、以前にもましてそうなりそうな危機感も感じてはいるが、そうしたことにより「昔に戻る」とも思えんな。そのつもりでは昔からないのだ。
あと一つ、北吸隧道のポータルの化粧煉瓦と内巻き煉瓦とで厚さが違う。これは北口が顕著。機械成形の無難煉瓦がピタスターなんかには使われている。南口や巻き立てには表面を削って整えたらしいのが使われている。以前のモルタルを剥がしただけかも知らぬが。
ダメすぎる、このプロフィール・・・
自分のやってきたこと、おもっていること、を客観的に記述するのはとてもむずかしい。主観的に書くのだったら幾らでも好き放題に有る事無い事書けるのかも知れぬ。面の皮が厚ければ何も感じずに書き散らせるに違いない。そういうふうな皮になっていないnagajisだからただ気苦労するばかりなのである。
何で煉瓦集めてるんだろうね……。コレクションのつもりではないと言いつつ、始まりにその気がなかったわけではないのだし、蓄積中にそれを意識しなかったわけでもない。だがコレクションという言葉にまつわるヤなイメージとは距離を置きたい。集めたものを披瀝して自慢したりするようなことはしたくない。誰かの役には立って欲しい、特定人物でなくても、そうさね、集合知の構成要素的な。そんなことを思う意識の根底には条件付きで翼が欲しいというのと似たような虫の良さがある。
記憶に残る夢を立て続けに。ひとつは女性の尻を触ってアフンと言わせる夢。前後が欠落しているため何でそんなことになったのか及びその後どうなったのかさっぱり解らぬ。一つだけ覚えているのは、濡れた手で不意に尻の割れ目を撫でてしまった時のゾクッとする感触を相手に味わわせようとしたものらしく、何とも禁則事項な話である。
もう一つは古本屋の夢。初めて訪れた店で妙に店主と意気投合してしまい、何も買わずに出るのもアレだなあと思って、本やらCDやらをいくつか購入することにした。そうしたら「これは絶版だから値札の二倍増しね」とサラッと言われてしまう。思っていた価格の三倍だということだ。焦って丼暗算してみると数万円の出費になりそうな塩梅。しかし抗議することもできず、その額をニコニコ顔のままで承諾するnagajis(だが払ったかどうかは覚えていない。そのへんで目が覚めた気がする)。
以上の夢をミーティングで(かなりソフトに翻訳して)話したのだが、話してみた結果、夢の中でもnagajisは気弱だということに改めて気付かされ、さらに落ち込んだ。なんでそこで強く出れないのか。夢の中くらい、腹を立てたり怒鳴ったりしてみてもいいじゃないか。
ま、過去に一度そんな夢を見て、夢の中で自己嫌悪になったりしたくらいだから、土台無理な話なのだけれども。いやなやつをぶん殴って蹴り飛ばして腹の底からすっきりするような夢を、一度くらいは見てみたいものである。
をうまく説明するための練習書き。文献調査?の結果、大高表が現実に即していない可能性が高いとわかりーーーこの現実というのは煉瓦規格に固定の寸法が付随していなかったこと、言い換えれば並型は何寸何分というようなコンセンサスがあったわけではなく多少の誤差が許容されて実用されていたということである。それを敢えて並型7寸4分みたいに限定してしまったところに若干の罪がある。そのサイズ自体は変動の範囲内にあるけれど、その寸法が平均値あるいは中央値のようなものであったかどうかについては疑義が残る。作業局形の厚さなんかは達の寸法とも違うけれど、それはインチ規格を尺寸で表そうとしたことに伴う避けられない変換誤差ではあっただろうーーー、現物の測定結果を大高表に寄せて規格を推定するのはあまり意味がないということになった( 東京形以外はね。あれだけはかなり初期からサイズが固まっていて大高表でもその数値が掲げられている) 。そうすると問題は現物の測定結果をどう活用したらいいのかという話になる。けれどもそれも、焼成時の寸法変動が大きすぎて、結果から素地の寸法を推定するのも難しい。長7寸2、3分〜長7寸7分も変わられたらどうしようもないのではないか。
焼けば焼くほど縮小したものらしく、焼過煉瓦を赤煉瓦より小さな寸法で購買した例もある。葦谷砲台の煉瓦なんかは好例。焼過煉瓦は並型くらいまで縮んでいる。そこまで行かない比較的赤い奴も小さいのが集中している一角があったりした。
もし、建築や土木工事の仕方書で購入煉瓦の規格が定められていて、その規格が厳密に護られていたとすれば、現物の測定結果は仕方書の規格になっているはず。 仕方書規格で濾した結果を見ていることになりそのフィルターの目の寸法を知れるわけである。けれども葦谷砲台や北吸隧道のように異なるサイズの煉瓦がにべもなく使われている場合は(うんこれは全くの誤用である)どう考えたらいいのか。
役立つデータにするための策。ひとつは、煉瓦各個の長幅厚をセットで測定し、その比率を見ること。長手列で長手を10箇所計測し、小口列で小口を測り、その平均値を出すんじゃなくて、一個の煉瓦の長手幅小口の測定結果を10個集める必要がありはしないか。煉瓦が等方的に縮むのであれば結果は似たような比率になるはず。とはいえ、そんな測定ができる状況は非常に限られてくる。生石山砲台くらいに破壊された構造物でないと個々測定なんて無理な話だ。
あるいは、厚さに だけ 注目して規格に寄せていくほうが現実的か。どの文献でも並形<作業局形<東京形<山陽形という関係になっている。長手や幅は文献によってまちまちだ。だから例えば1,8寸より小さいなら並形、その前後なら作業局形と推定していくほうが現実に即しているかも知れない。ただそのやり方では並形と作業局形の区別がつかないかも知れない。そもそも規格がわかったところでそれ以上議論を発展させにくいところがある(鉄道構造物に作業局形が使われていたとして、それが新旧の指標にできるかと言われれば、現時点ではたぶん無理。達がM24にできていたとしてもそれ以前に作業局形がなかったということにはならんからな)。
よほど限定的な、特異な状況下では、役に立つことがあるかも知れんのだが。
そうじゃなくて「規格」そのものから情報を読み取るようにしてみてはどうか。なぜその規格が生まれ、定着したのか。どこから縁って来たるものなのか。 民俗学の昔話や方言に対する態度と同じような心持ちで煉瓦規格に対峙してみたほうが(測定結果ではなく規格に対してだ)、有益な情報が引き出せそうな気がするのだ。 煉瓦寸法にではなく、規格の存在それ自体に意味を見出そうと言う訳。
うん、全然すっきりしねえ。
_ TAKATAKATAKA [すごい探究力だ!学問とも違うんだな!頭の中はどうなってるのだろうか?]
_ nagajis [煉瓦屑しか詰まっていないんじゃないでしょうか・・・ 最近、「並形」「東京形」のような呼称やその寸法のことを追求しておりまして、その資料メモが上記です。]