nagajisの日不定記。
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煉瓦隧道や煉瓦暗渠の内側に白い粉が吹いていることがある。適当に「白化」という言葉を使い、モルタルの石灰分が遊離したんだろう位にしか思っていなかったが、実際はもっと複雑な経緯でああなるらしい。
『大日本窯業協会雑誌』No.306(T7.6.)に「煉瓦の風化物に就て」という論説報文がある。その当時、煉瓦の表面に白色の無機物が析出し、構造物の景観を損なうことが問題となっていた。析出物は湿度の高い春夏に多く、積んだその年から現れて表面を汚し、またその析出物が原因とみられる表面剥離も発生した。そこでその析出物の成分や析出のタイミングを逐年で調べたものだ。(報文ではこの析出物を煉瓦の風化物と表現している)
煉瓦を積む前や、煉瓦積みをなした直後に析出するものは硫酸ソーダ(硫化ナトリウム:Na2SO4)が優勢。水に溶ける塩なので、施工時に吸収した水分や春夏の湿度を吸収して溶け、それが煉瓦表面から蒸発していくことで表面に析出するらしい。この時に出てくる硫酸塩は煉瓦自身に含まれる硫化物が出処という。煉瓦の素材である粘土は硫黄分を含むことはまずないが、焼成に石炭を使う以上、石炭に含まれる硫黄分が硫化物ガスとなって煉瓦に吸着されるのは免れない。それが最初の段階に硫酸ソーダとなって出てくるらしい。よく焼けたように見える煉瓦でも、窯出しのタイミングを誤って硫化ガスを多量に取り込んでいたため、風化物が多量に析出して一年も立たないうちに表面剥離を起こしたという実例も紹介されている。
施工後最初の秋には炭酸ソーダ(炭酸ナトリウム Na2CO3)がおもに析出。これも煉瓦由来のものという。
施工後一両年経過すると再び硫酸ソーダが析出しだす。このときの硫酸ソーダは最初のとは出処が違い、セメントモルタルに含まれていた硫化物が徐々に溶け出て煉瓦表面で析出したものとされている。セメントの影響というのは盲点というか意外というか。実際目地に石灰モルタルや粘土を使ったものは析出が少ないらしい。
さらに経年したものや、剥離によって生じた欠け・亀裂には炭酸石灰(炭酸カルシウム:CaCO3)が析出する。これもセメントが原因で、施工時にCa(OH)2として溶け込んでいたものとされている。先に易溶性のアルカリ塩を作って流出、 Na2SO4、Na2CO3を析出させ 、それが尽きるとCa塩が溶けて出てくるという仕組みらしい。最初に出てこないのは、施工前に煉瓦を水に浸して十分吸水させてから積んでいたからでもあるようだ(そのため急には浸透しない。春夏に湿潤、秋冬に乾燥というサイクルの過程で煉瓦に移っていく?)。Ca塩は難溶性なので表面に長く留まり蓄積する。
析出する塩類は多くは水分子を取り込んで水和物結晶をなす。水和物となることで結晶の体積も大きくなり、その膨張が内側から煉瓦表面を押して剥離を生じる。CaCO3、CaSO4なんかは特にその効果が覿面。
以上の理解が正しいかどうか確かめるため、ネットで調べてみたところ、最近は近代化遺産やトンネル保全の観点から煉瓦析出塩の研究が盛んになされているらしかった。そのなかで該報文が言及されているようなことはない。マイナー雑誌の論文だから目が行き届いていないのか、それとも現代化学から見ると間違った解釈なのか。
他に吉名煉瓦と思われる○Y(たった一つだけ)、中播播州煉瓦合同のヲ、飽きるほど大量の大正煉瓦の大を見た。
先日掲げた「T」はやはり「T」でなく「山」かも知れない。山陽窯業のことをすっかり失念していた。そこそこ大きいと見られていた、と書かれているくらいだから刻印を持ってただろう。個人工場がワとかイとかを使ってたくらいなのだから。
Knシリーズにも大量遭遇した。やはり出処はこの辺りなのだろうか?
一番意外だったのは、岡町桜塚高校塀で見た松葉菱+イに遭遇したこと。これも伊藤窯業だったりするのだろうか? 一例のみだから現段階では断定できぬが、伊丹市大鹿>印南郡よりも印南郡>豊中市桜塚のほうがまだあり得るような気がする。しかし釉薬がけである。
耐火煉瓦も初見多し。「ITO」は伊藤窯業と思われ、「ニドガケ」は三石耐火煉瓦の鋳造用耐火煉瓦のグレード名としていまも使われている。無SKのMITSUISIもあった。異型の耐火煉瓦を多用した謎の壁ブロック崩しにも遭遇。
そうして大阪の煉瓦は……キシレンがたった一個。さすがは印南郡、別世界だぜ。
帰りに阪急夙川駅の車両故障ダイヤ乱れに引っかかった。電車のアナウンスは復旧したといい、駅のアナウンスは新開地ー三宮間電車なしというしでワメケワカ。結局新開地から阪急三宮まで歩くハメになった。花隈の山手を通って改つきの大阪窯業、小さなキシレンを発見。表通りからはすっかり復興したように見える神戸の街も、一歩裏通りに入ると更地にすらなっていない家跡があちこちにあることを知った。今からでも遅くはないのかも知れない。
そんなこんなで帰宅21時過ぎ。へとへとである。
ご要望があったので(小さいのしか見つからん刈田・・・)。播州はこういうの好きなんですかね?>齏藤さん
まずはこういうのから始めたほうがいいのではないか.
【地図】『工場通覧』の番地が変わってなければこの辺なのだが...と思いつつやってきた.現地には駐車場に使われている広い空き地と取り残された格好の医院.その南方には新興住宅地が広がっている.
舗装されていない駐車場の地面に煉瓦が5,6個埋まっていたのと,駐車場の隅に煉瓦の固着塊が1個あった程度で,明確に「ここが工場跡」というだけの物証に乏しかった.上記煉瓦に刻印も見られず.ハンマーと鏨を持ってきていたので固着塊を割ってみても良かったのだがその前にある家のワンコがキャンキャン喧しかったので止めておく.そもそも駐車場転石にそんなことをすることはできない.
諦めて帰ろうとし,県道を渡って西へ行ったところ,行き掛けに通った魚橋集会所の前に出た.そこから南のほうを見て,古い感じのする街並みがその方向に広がっているのを発見,誘われるようにして入っていった.路地裏でK6刻印を発見し,さらに迷いつつ南へ行くと,住宅地の端にある畑のそばに出た.その畑に面している家の庭に「イ」刻印の焼損煉瓦が敷き詰められているのも発見.おお!これは!と思ったが,しかし,探している工場は「ABC」を社章にしていた弘栄煉瓦工場だ.明らかに違う.しかし焼損煉瓦があるってことは……ううむ.
ふと視線をあげると畑のふちでおっちゃんが休んでいるのが目に入った.あの人に聞いてみよう,と話しかけてみると,たいへん気さくな方で,煉瓦工場があったという話もご存知であった.工場跡に到着する前,壁にこしかけて休んでいた別の広場がそうだという.
「すぐそこやからついてきな」といって案内して下さるおっちゃんの後を慌ててついていく.確かにさっき休んでいたところだ.整地され砂利敷になったその広場は奥でもう一つの空き地につながっている.その空き地の前がおっちゃんの家だったのだ.
そこでいろいろな話を伺った.おっちゃん家の前の広場にプレハブ小屋が建っているが,これが煉瓦会社のものだという.あれそんなに最近までやってたの?と訝しく思えたのだが,ちゃんと看板も残っていた.「中播煉瓦」とある.あれ? 弘栄煉瓦でなくて?
どうやら末期は煉瓦類の販売業になっていたようだ.おっちゃんも,製造はしておらず,耐火煉瓦を主に売っていたというようなことを仰る(看板には赤レンガセメントレンガ耐火煉瓦など取り扱い品が記されている).弘栄煉瓦としては長続きせず,その後中播煉瓦の名前を使って煉瓦小売をしていたようだ.
おっちゃんは阪神大震災後に移ってきたそうで,町のことはよく知らなかったが,地元の方にいろいろ教わって知っているという.詳しいことは町の人に聞いたほうがいいかもな,という話をしているところへ,たまたま附近のお父さんが通りかかった.その方曰く「おっちゃんが住んでいる区画一帯が煉瓦工場やったんや」.おっちゃん家は,さきほど見た広場の南側にある新興住宅地の南の端だ.やはり場所はここで良かったのだ.
おっちゃん家には,中播煉瓦の人から安くで譲ってもらったという煉瓦が山積みになっていた.その中には品川白煉瓦のほかにこんなものも.どっかで見たことがあるはずなのだが思い出せない.「煉瓦にはこういう刻印が押されてあって,作った会社がわかるんですよー」みたいな話をしたら,おっちゃんはこれを譲ってくださった.(帰って確認したら尼崎の旭硝子のだった.旭硝子の前身は朝日窯業で日ノ出刻印を使用していた会社だ).
その後,家のお母さんも参戦?して賑やかなことに・・・.近くに煉瓦の煙突が残っているとか,生石神社のこととか,様々なことを教わった.
帰りはおっちゃんの薦めで宝殿駅から乗ることになる.お母さんが地図を書いてくださり,それをもとに歩き出したが,すぐにおっちゃんがやってきて「そこまで送ってやる」と.何とも親切な方であった.煉瓦煙突の場所や生石神社,その裏の展望公園にも連れて行って下さった.ザックに煉瓦が2個半入っていて重いんですとは言い出せず,むしろ親切が身にしみて有り難かった.
おっちゃんとは生石神社の先で別れた.駅へ向かう一本道を歩きながら「イ」刻印のペーブメントを撮り損ねていることを思い出した.まあ,いいか.民家の庭だったしな.
そうして「ABC」刻印も見つからないままだった...そもそも「ABC」を刻印として使っていたという保証はないのだけど.要再調査かも知れぬ.特におっちゃんが座っていた畑の辺り.
駅へ向かう一本道を歩いている最中に「三本線刻印」の煉瓦を発見してしまった.しかも結構な数.後日中筋村に行った時も(1つだけだが)三本線刻印を発見することになる.この刻印も印南郡周辺が発祥地である可能性が出てきたわけで,ますます印南郡の煉瓦工場の全容解明が必要だと感じた.
追記:おもしろいことを発見.昭和22年『全国工場通覧』には伊藤窯業株式会社南池工場があり住所が印南郡阿弥陀村魚橋956になっている.魚橋に伊藤窯業があった時期が確かにあったのだ.なので「イ」刻印がここにあってもおかしくないのである(関野煉瓦の南池工場(素地)を引き継いだものか?だと焼損煉瓦があるのは変な話だが).昭和24年版では消滅.
春の講演をファーストスキャン.ここからまとめるんが大変そうなキガス.
近デジにS22版とS24版が含まれているのを発見し,まあそんなに大きな発見はないだろう泉南市年報でもチェックしてはるのだしと思ってへろへろ見ていたらそんなことはなかった.やはり戦後もきっちりチェックしないとだめだ.
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?&topLat=34.783435460314&bottomLat=34.775936324399&leftLon=134.76543748797&rightLon=134.77566206873¢erLat=34.779685977564¢erLon=134.77054977835&zoomLevel=17&selectedYearEraFrom=1111&selectedYearEraTo=9999&selectedEndScale=99999999&selectedStartScale=0&dataTypeArrStr=4_2_3_1_5&colorTypeArrStr=2_1&dataTypeId=0
大正煉瓦曽根工場のホフマン窯は昭和50年頃まで残ってたらしい.
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckk-74-11/c6/ckk-74-11_c6_46.jpg
そうして乗り遅れたので新システムの件には触れない.
いまさらこんなカテ作って、はいはい煉瓦刻印煉瓦刻印。
「ニドヤキ」って二度焼きのことだろうか? と思いつつ撮影.検索すると三石耐火煉瓦のこのページがヒットした.鋳造用耐火れんがのグレードの一つだそうだ.確かに蝋石っぽい白い耐火煉瓦だった.
昭和11年に耐火物部門を独立させた,大阪窯業の子会社.現ヨータイの直接の先祖.SK番号の入ったやつは「OYK」だったが,あれは「耐火」を省略した結果なのだろうな.SK番号の入っていないこちらのほうが古いように思われる。そうすると大阪窯業時代に作っていた耐火煉瓦には何て書かれてあったのだろう.そうじゃないかも.戦後の『工場通覧』には大阪窯業耐火煉瓦株式会社はなく大阪窯業株式会社貝塚工場が耐火煉瓦を作り続けていた.なので「OYT」=大阪窯業耐火煉瓦株式会社,「OYK」は大阪窯業株式会社貝塚工場が作ったやつということだと思う.
ああ,これだこれだ.これは貝塚工場の近くで撮影したもの.「OYK」でゼーゲルグレード32が表記されてる。
耐火煉瓦の社名表記ってなんで3文字なんだろうか...わかりにくいったらありゃしない(が、大阪の煉瓦会社が幾何学模様を社章にしたのと同じような「倣え右」が見えて面白くも思う)。戦前は特にそのような拘りはなかったらしいので、いつ頃からそうなったのか考えると面白いかも。
のはず.大正煉瓦曽根工場跡地にて.伊藤窯業はここから直線距離で200mも離れていないところにあった.昭和22年『全国工場通覧』にも製造種に耐火煉瓦が含まれてる.何で三文字(ry
同じ場所で.「MITSUISHI」とだけ刻印された耐火煉瓦.赤い色をしているが赤色の耐火性粘土というものも存在したのだそうだ(『日本窯業史』耐火煉瓦編).その土を何て言ったんだっけか。俗に「赤」といった.純白のものに比べれば若干劣るが充分耐火煉瓦の素材たり得た.なお蝋石は粘土に包まれた状態で産出し,その粘土の色によって蝋石の色も変わるらしい.p.71
三石の耐火煉瓦の刻印には様々なバリエーションがある.三石に限ったことじゃないかも知れないが,缶コーヒーが毎年のように新作が出るような感じで新製品をじゃんじゃん開発したんだろうなあと思う>耐火煉瓦業界.それゆえ耐火煉瓦を建造物の製造年推定に使うのは難しい.メーカーできっちり記録を残してくれていれば別だが,そんな僥倖は多分ないだろう.
追記:『旧大阪府庁舎跡』発掘調査書ではMituisihiと三石耐火を直結していない.他にも「三石」を冠した耐火煉瓦会社はあったから.慎重だなー.
泉南市鳴滝の三和煉瓦跡地にて.Sanwa Taikaの略か,会社名が三和耐火煉瓦になっていたか,どっちだっけ.「STR」もあったのだから三和耐火煉瓦なのかもしれず.
その「STR」.泉南市年報によると乾式製造もやってたみたいで,そういうのはバリが残るから区別できるのだそうだ.これと上のはバリがないし,ずいぶん歪んでいるので,手成形なのかも.
井桁で囲まれたバージョン.伊丹市大鹿にて.これにはバリがある。別の会社だったりする可能性もなきにしもあらず……佐藤耐火煉瓦とか佐野耐火煉瓦とかありそうだものな.
耐火煉瓦は赤煉瓦よりも遠くに運ばれやすかった。同じ工業製品でありマスプロダクツであるはずなのに、赤煉瓦は局地的に流通する傾向があり、耐火煉瓦はそれよりも広範囲に運ばれたという印象がある。工場数でいえば赤煉瓦<耐火煉瓦で、結構万遍なくあちこちにあったようなんだけどな。ちょっと不思議だ。
品川白煉瓦の大阪支社は月ヶ瀬だったか伊賀だったかの白土を使って製造するために作られた。難波に。現地ではないのな。耐火煉瓦は工場で使うものだったから、工場が集中していて需用があるような場所で作ったほうが輸送費が節約できたのだろう。
_ nagajis [わざわざお越しくださってありがとうございます>kousenさん.ここは自分に宛てたメモ書きのつもりで書いていますから,わかりやすい説明がなくてゴメンナサイです.三和煉瓦の跡地は今年の5月に行ってみ..]
_ kousen [今日、通りがかったので行って来ました。三和煉瓦の耐火煉瓦はS.TとSTRのみで赤煉瓦には刻印は打たなかったようです。おっしゃる通り工場跡は更地になってました^^;もう一つ○にS.Tのバージョンがあ..]
_ nagajis [情報ありがとうございます! 赤煉瓦に打たなかったということは、近辺で見られる三重丸+バッテンの刻印はよその会社のものということですね。納入先がわかっているということは会社から直接納入したということ..]
川内村の方から村内の林鉄遺構を活用して何かできないだろうかというご相談を受けている.まだアイデアの卵という段階であるようだし,今後それが雛に孵るかどうかもわからないのだが,お手伝いできることがあってもなくてもご協力いたしたく思っている.
その返事をしなきゃいけないのだが.編集部にメールを回すのが遅れて,ちと滞っている.正式なご返事はもうちょっと待ってくださいませ.
個人的には一番近いTUKAさんに窓口になってもらってはどうかと思っている.自分がノコノコ出かけていくわけにもいかないだろうし(お金ないし).ORJとしてじゃないほうが自由度高くなるんじゃないかな.
えっと,北海道のフットパスとしての活用事例・・・丸瀬布だったっけ? 魚梁瀬についてはなんといってもI先生が適任.
が出ていることを発見.拝見すると「阪府授産所」以外にも興味深い刻印がいくつも見つかっているらしかった.さすがは本式の調査報告書,微に入り細に入った記述で圧倒させられ勉強になった.今なら1部1000えんで購入できるそうだよ.
しかし・・・煉瓦の表裏ってまだコンセンサス取れてないのね.報告書では凹みがあるほうを上面(β面),平滑なほうを下面(α面)としている.表裏の違いは諸井恒平の煉瓦要説でちゃんと説明されてるんだけどなあ.やっぱり凹み筋が気になってはるんかなあ.
中筋の南の方にある旧市街地をうろうろしていて「ワ」の刻印煉瓦を発見し,これが和田煉瓦に違いないとFさんと喜んでいたら,その煉瓦があった家の方がちょうど帰ってこられて「何しよんか?」的に怪しまれた.すぐさまRDF(Reality Destortion Field・現実歪曲空間)を発生させ、煉瓦工場の話を切り出す.「この『ワ』っていうの,和田煉瓦っていう煉瓦工場のコトじゃないかと思いまして…….いま煉瓦工場の歴史を調べてるんですよ,ご存知ではないですか」とか何とか.
RDFに引きずり込まれた可哀想なお父さんは親切にもいろいろなことを教えて下さった.この北にあるマンションが立ち並んでいる一帯が工場だったこと.昔は採土のトロッコがあって,戦後にそこでトロ押しもしたことがあること.そういう話,とてもありがたいです! といってますますRDFに取り込もうとするnagajjis。
家の前にある煉瓦壁に案内していただいたりもしつつ(ここにも「ワ」刻印があった.先日UPした釘で形作ったやつだ.それが左右逆になったタイプもあった),しばし話し込んだ.和田煉瓦は個人工場であったという話,阿弥陀にも大きな工場があって,そこが土を使ったせいで阿弥陀一帯が低くなったという話(昔は阿弥陀のほうが一段高くなっていたそうだ.今じゃJR線の両側は等しい高さになっている。まるで平一面の水田地帯に築堤を築いて通したかのよう)。こういう話をして下さる方に出会いたくて歩き回っているようなものなのだが、会えるかどうかは運次第である。
満を持してそのマンションへ行ってみた.日成マンションといって,古刹・時光寺の東隣に3棟並んでいる.やつだそうだと言われなければ立ち寄る機会もないような住団地である
しかし,一歩敷地に入ればあちこちに煉瓦工場の香残り香漂っている.古煉瓦が大量に再利用されていて,大正煉瓦阿弥陀工場の跡地がマンションになり古煉瓦が使われていた のと全く同じ状況だ。そうして当時の構造物と思われるものまで残っていた.敷地の南端に再構築ではない煉瓦壁が残っている.
マンション前の舗道も古煉瓦.ここに見える煉瓦のすべてに…大正煉瓦の刻印が入っている.壮観だ.
しかし待てよ.ここ,和田煉瓦だったよね?
不思議なことに,マンション敷地の古煉瓦には和田煉瓦の刻印は見られなかった.さっきの壁も無刻印だった.やはり工場の建物には自社煉瓦を使うことがなかったのだろう.和田煉瓦は昭和2年7月創業,大正煉瓦は大正6年なので,大正煉瓦から買ってきた煉瓦で工場を作り,「ワ」刻印の煉瓦を焼いたという流れは矛盾しない.
敷地内になかったかわり,アパートに隣接する空き地に「ワ」刻印のある焼損煉瓦が転がっていた.若干恣意的かもしれないが,これが和田煉瓦工場であることの証拠といってよいのではないだろーか.またこの場所には三本線刻印の煉瓦もあった。以前見たものとはサイズが異なるが、細い線3本の配置の感覚はまるで変わらない。
おまけ.中筋の旧市街のなかに小さなお社があり,その玉垣に「原田煉瓦工場」の名前があることをFさんが発見した.原田煉瓦工場は阿弥陀村魚橋にあった工場で,T6創業,S4頃まで操業し,のちに弘栄煉瓦になった会社だ.玉垣には昭和2年建之とあり,『工場通覧』からわかる存続期間にちゃんと収まっている.ちょっとばかし面白かった.しかし工場はここから1kmも離れた場所だ.どういう経緯でこの玉垣を寄進したんだろ?
和田煉瓦工場跡マンションの敷石.シンプルに「大」.この「大」にはいくつかバリエーションがあって,やや意匠化したものや幅3cmくらいの太楷書体などがある.阿弥陀ではテトリスブロックのような「T」という刻印も見かけた(幅約1.5cm)が撮り損ねた…….これはTaishou RengaのTだと思うんだが。
中筋の旧市街で.路傍の花壇?家境界?に使われていた.「K3」というのはKousenさんが天下茶屋で見つけておられる.自分も十三の西のほうで「K9」を見たことがあった.そんなわけで,大阪にあった頭文字Kの煉瓦会社が使ってた刻印だとばかり思っていたのだが…….印南郡のあちこちで「Kn」シリーズの刻印を目撃したのだった.他にもK4,K6,K7があったはず.n=1,2,8が見つかればコンプリートだ.
候補としては弘栄煉瓦(Koei Renga)が挙げられるが確証がない.弘栄煉瓦は戦後に少し隆拡して西神吉村岸に分工場を設けたりしているから,識別符牒を1から9まで使うほどには大きかっただろうとは思う.社章は「ABC」だったはずなんだけどね.それから重要なこととして,この煉瓦の隣に「ワ」刻印煉瓦が並んでいたのは見逃せない.和田煉瓦があった頃に「Kn」を使っていた会社があったということだ.
古い地図と自分の理解が間違っていなければ,いまなんばパークスになっている一角が阪府授産所があった場所で,後に藤田伝三郎に払い下げられ,明治12年頃?まで煉瓦を焼いていたところだ.道路の手前,高架になっている場所が高津入堀川と難波新川の合流点.都計時代に浪華橋 (突桁式鋼鈑桁・いわゆる堀式桁橋)が架けられた場所でもある.
明治10年台の終わりに阪堺鉄道ができ湊町駅になった.今じゃ繁華街のまっただ中で「湊」のイメージは全くないが,かつては河川交通の要衝であり「湊」を名乗る蓋然性が確かにあった.
「どんな刻印使ってましたか?」と聞いてもわかんないだろうと思う。「ここで焼いた煉瓦、どっかに残ってないもんですかねぇ」みたいな話をきっかけに煉瓦を探し、そこに刻印がないか調べたほうがよさげだ。見つからなくても「刻印があって云々」と話を膨らませられるし、見つかったらなおさらだ。
昭和40年代までやってた煉瓦工場なら、そこで働いていた人が近くに住んではるかも知れない。もし見つかったら手成形で煉瓦を作る手順を詳細に聞き出しておきたい。でないと凹み筋の謎が解明できず、用語論争で無駄な時間を費やすことになる。煉瓦造りは女性もやったので妙齢のご婦人も聞き取り対象にしたほうがよい。
もし凹筋が関西特有のものであるなら印南郡でも同じ手順で作っていたはずで、実際凹筋のある手成形煉瓦が多かった。&、裏表に刻印があるものとそうでないものがある。推定播州煉瓦合同、推定山陽窯業は欠損があるけれども片側の模様(これは山陽窯業→山本工場→播州煉瓦合同中筋工場と作法が伝承された結果かも知れず。自分で書いといて「なある」と思った今)。
大阪兵庫京都滋賀奈良和歌山の明治大正昭和50年までの全工場を把握した。整理はしていない。
耐火煉瓦も拾っておいたので三文字略とも戦えるかも知れぬ。しかし伊藤窯業があちこちにあってITOが印南の伊藤窯業だという証拠が薄らいでしまった。そこはそれ、現地に近いからでおkにしとこうよ。でないと無理。
生き残った煉瓦工場はすべてコンクリート製品製造業だった瓦製造業になったりしている。耐火煉瓦で生き延びたのは大阪窯業>ヨータイだけだ。キシレンも昭和40年の末からプレキャストコンクリに手を出していた。 瓦もおそらくコンクリート製瓦のほうだろう。丈夫で軽いコンクリート製の瓦がこの時期に普及した。
なかでも播州煉瓦合同は典型的。廃止になった煉瓦工場を引き取り、そこでコンクリートブロックを製造しつつ、煉瓦製造ラインは最後に建てた志方の工場へ持っていった。そうしてその工場でもコンクリート製品を造るようになり、昭和47年頃に煉瓦製造から手を引く。たいへん計画的かつ着実な移行をしている。その志方工場がいまの(株)バンレン。側溝のU字ブロックとか作ってはる会社だ。この名前から逆向きに播州煉瓦合同を想起するのはまず不可能だろう。
昭和20〜30年代に興り、10年ほどで消滅した煉瓦会社が結構ある。奈良の朝日煉瓦とか斎藤煉瓦とか奈良煉瓦とか(斎藤煉瓦は大正9年創業というが「工場通覧」に出てくることはほとんどない。従業員極小の零細企業で忍んでいたのだろう。和歌山の和歌山煉瓦もそんなサブマリンを経て復活している。すぐに消えるけど)。
こういう会社がどんな煉瓦を作ったのか、手成形なのか機械なのか、刻印を使ったのか使わなかったのかは、現段階ではさっぱりわからない。予想を立てるのも難しい。大杉窯業のように昭和40年代まで手成形でやってたところもあるから。
案外辰市の斎藤煉瓦が<S>だったりするのかも知れぬ。シモレンがここまで来ていると考えるよりも妥当じゃないか。
この時期の「工場通覧」を追っていると、昭和30年代の終わりから40年代にかけてC 製品の製造が盛んになってったことがよくわかる。コンクリートブロック製造とかコンクリート間知とか土管とかPC製品とか、いろんなC製品が出現してページを埋め尽くしていく。その増長に対応して煉瓦工場が次々と姿を消していく。哀愁は感じない。それが世界の必然だったのだろうし、逆手に取って生き残った才覚ある工場もあったのだからな。
@堺市の空地.角丸の異形煉瓦に打刻された★印.★が正位置に見えるこの向きが作業時の向きであるはずで,凹み筋は手前についてる.
大阪煉瓦石だと推定しているが(推定)津守煉瓦ほど広範囲には分布していない模様.今のところ淀川以南でしか見つけられてない.
岡町住宅地に見られる大阪窯業のいちばんわかりやすいやつ.せっかく撮ったのに使うの忘れた.そして手成形である.
旧大阪府庁舎の増築部でも大阪窯業+改が見つかっているそうだ.しかも複数個見つかったそれの社印・副印・改の配置がみな同じという.ということはこの3個が一セットになった印母を使ってたということで、抑え板に刻印を作りつけていた山陽煉瓦と同じようなものを使っていたのだろうと思われる.
京都市山科区の住宅街,だったはず.ベトナムドンナイ省の煉瓦・タイル製造会社のものだそうだ.遠く海を渡ってやってきた煉瓦だと思うとちょっと感慨深い.
全部入れ込めるほどかんたんじゃねえ.
原口工場,子師工場,岩井煉化石工場,紀谷工場,石井工場,盛金商社(成金商社),若井煉化石工場,青山工場,花岡工場,井上工場,佐藤工場,大谷工場,堺附洲煉化石会社,木村工場,大阪土木株式会社分工場,旭商社,黒田土管合資会社,関西窯業株式会社,宮崎商会,共立煉化石会社,堺煉化株式会社,丹治煉化石屋根瓦工場,○丹治煉瓦合資会社 ,九里工場,南陽煉化石工場,浜寺煉化合資会社,日本煉瓦株式会社,鳳村分工場,大阪窯業株式会社堺工場,丸協耐火煉瓦株式会社,楠本煉化工場,風泉煉化白地製造所,煉瓦素地製造場,池側煉瓦製造所,池辰煉瓦工場,池側煉瓦工場,塔本煉瓦工場,堺煉瓦製造所,日本マグネシウム株式会社,堺窯業株式会社,大門煉瓦工場,朝日窯業株式会社,朝日窯業株式会社浜寺工場,中田巳之吉,○和泉煉瓦株式会社,○森分窯工所,泉州煉瓦製造所,堺煉瓦株式会社煉瓦製造場,大阪煉瓦株式会社工場,煉瓦白地製造場,南海紡績株式会社煉瓦部狭山工場,狭山煉瓦製造所,盛秀舘,日本坩堝合資会社,蘆邊煉瓦合資会社,田中坩堝製造所,正盛舘坩堝製造所,大正坩堝合名会社工場,高橋舎坩堝製造所,東洋耐火煉瓦製造工場,千体煉化製造所,三栄社,三栄組煉瓦石工場,伊藤煉瓦工場,盛秀舘,東洋煉化製造所,森下煉瓦土器製造場,元山白地煉瓦製造場 ,大阪硬化煉瓦株式会社,東洋白煉瓦株式会社 ,天王寺煉瓦株式会社,五成社,HS耐火煉瓦製造所大阪営業部,日本クローム工業株式会社,○田中坩堝耐火煉瓦製造所,大阪窯業会社,大阪窯業株式会社,大阪煉瓦石製造会社,大阪煉化石合資会社,小山善兵衛工場,住吉白地合資会社,津守煉瓦株式会社,若野総兵衛工場,尾崎煉瓦製造所,住吉煉瓦合資会社,東洋コンクリート工業株式会社大阪工場 ,日東耐火煉瓦(株),(株)末広商会大阪工場,三金興業(株),三国煉瓦株式会社,大阪耐火煉瓦会社(株式) ,広瀬倉平工場,広瀬坩堝製造所,製々舎津枝工場,澤田コークス製造所,日本煉瓦製造合資会社,阪堺煉化合資会社,網盛煉瓦製造所,住吉煉瓦製造場,正盛館坩堝製造所,奥村坩堝製造所,大正耐火工業(株),森田煉化製造所,脇田煉化石製造所,森製造所,共栄組,稲葉仁兵衛工場,成舞長左衛門工場,大阪丸三耐火煉瓦株式会社,○丸三組耐火煉瓦製造所,丸三筧耐火煉瓦合名会社,横山耐火煉瓦製造所,中村耐火煉瓦製造場 ,北村耐火煉瓦製造場,貞徳舎,貞徳舎耐火煉瓦工業(株),○矢野工場,田中坩堝製造所,品川白煉瓦大阪支店 ,製々舎,三石耐火製品株式会社工場,日本白煉瓦製造所,浪速窯業,大正窯業株式会社,長栄館耐火工業(株),稲葉組本部,明治煉化株式会社,高石煉化株式会社,佐野煉化製造会社,泉陽煉瓦株式会社,中庄煉化石会社,道古組,第一煉化石製造会社,岸和田煉化株式会社,岸和田煉瓦綿業株式会社本社工場,(株)岸煉,黒崎窯業(株)岸和田工場,桃山煉瓦株式会社,泉州煉化合資会社,大阪窯業株式会社岸和田工場,和泉煉瓦製造場,岸和田煉瓦綿業株式会社磯上分工場,貝塚煉化製造株式会社,大阪窯業株式会社貝塚工場,旭煉瓦製造所,伊藤煉瓦製造所,大阪煉瓦製造株式会社分工場,麻生郷煉化株式会社,小栗煉瓦株式会社,福山煉瓦石工場,王寺煉化石工場,橋本煉瓦工場,泉南煉瓦株式会社,明治煉瓦株式会社,樽井煉瓦製造所,市川煉瓦製造場,泉陽煉瓦株式会社,泉陽煉瓦株式会社鳴滝分工場,紀泉煉瓦株式会社,合資会社三和煉瓦製造所,黒崎窯業(株)泉佐野粘土煉瓦工場,深日煉瓦製造所,立花煉瓦製造所,工陽商会,北河内煉瓦株式会社,東亜窯業株式会社,東海工業所,大和耐火煉瓦(株),浪花煉瓦合資会社,阪本煉瓦製造場,増田煉瓦製造工場,種田煉瓦製造工場,日本坩堝(株)大阪工場,河州煉瓦株式会社,東洋白煉瓦株式会社本工場,河内赤山煉瓦株式会社,東和窯業(株)四條畷工場,河内煉瓦株式会社,三島煉瓦株式会社,(合)関西洋瓦製造所,関西煉化石会社,小曽根煉化会社,豊島煉瓦株式会社
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赤レンガは印南郡・神崎郡に,耐火煉瓦は赤穂市に集中.
伊丹煉瓦製造所,日之本窯業株式会社,摂津窯業株式会社,神港耐火工業(株),浪速窯業株式会社,尼崎窯業株式合資会社,旭硝子株式会社尼崎工場,大阪亜鉛鉱業株式会社尼崎工場,マグネシヤ工業株式会社,吉野硬化煉瓦製造所,尼崎耐火煉瓦製瓦所,富永炉材工業株式会社,東光建材工業株式会社西宮工場,○日本耐火煉瓦会社,長田煉瓦株式会社工場,石田アース煉瓦製造所,伊久留化学工業研究所,近畿産業(株),関西煉瓦会社,東播煉瓦合資会社明石窯業合資会社,明石陶管合資会社,西海製陶合資会社工場,明治窯業株式会社工場,日ノ出工業所,佐々木辰之助赤瓦工場,品川炉材(株),辰馬組,丹波煉瓦(株) 多紀郡城南村野中522,興巳工業(合資),播州煉瓦株式会社工場,東播窯業(株),北條煉瓦合資会社,大杉窯業(株),加古川煉瓦株式会社(煉瓦)土山煉瓦製造所(赤煉瓦),阿児煉瓦製造所,旭煉瓦株式会社工場,黒崎窯業株式会社高砂工場,日本炉材製造株式会社高砂工場,日本製鐵(株)広畑製鐵所高砂炉材工場,播磨耐火煉瓦(株),(有)日本製陶所,中播煉瓦株式会社,山陽窯業株式会社,山本窯業所,播州煉瓦合同株式会社中筋工場,和田窯業所,和田煉瓦(株),川崎重工業株式会社製鋼工場炉材工場,日成産業(株),三菱化成工業(株)伊保工場,旭硝子(株)伊保工場,中播煉瓦株式会社,播州煉瓦合同株式会社岸工場,弘栄煉瓦株式会社岸工場,大正煉瓦株式会社,大正煉瓦株式会社曽根工場,中播煉瓦株式会社曽根分工場,伊藤窯業株式会社,関野煉瓦製造所,播州煉瓦合同(株)ブロック工場,関野煉瓦製造南池分工場,中播煉瓦株式会社別所工場(赤煉瓦),大正煉瓦株式会社別所工場(煉瓦),別所煉瓦合名会社,別所窯業株式会社,播陽窯業株式会社,棲森煉瓦合同会社別所工,播磨煉瓦株式会社工場,合名会社原田商会工場,弘栄煉瓦製造所魚橋工場,大正煉瓦阿弥陀工場,中播煉瓦(株),(資)日本製鋼爐器製作所,坂谷商店耐火煉瓦製造所,新和窯業(株),播州煉瓦合同(株)志方工場,東山工業所,藤原耐火煉瓦部(煉瓦).加藤耐火煉瓦株式会社,山陽燃料株式会社,溝口興亜煉瓦工業所,清水煉瓦合資会社,越知耐火煉瓦株式会社,西播煉瓦株式会社,東亜耐火工業所,豊国耐火工業株式会社,兵庫耐火煉瓦(株),日本耐火原料株式会社,関西高圧煉瓦姫路工場,播磨耐火煉瓦(株)広畑工場,赤穂煉瓦製造合資会社 煉瓦製造,播陽耐火煉瓦製造所,中国窯業株式会社工場,勝光山窯業株式会社相生分工場,三石耐火煉瓦株式会社那波分工場,日新耐火工業(株)相生工場,日新窯業(株)相生工場,日本製鐵株式会社広畑製鐵所,播磨耐火煉瓦(株)赤穂製造所,日新耐火工業株式会社那波工場,三和窯業株式会社赤穂工場,亜興窯業株式会社,天和耐火煉瓦(株),日本製鐵(株)広畑製鐵所赤穂炉材工場,川崎炉材(株)赤穂工場,市辺村煉瓦製造所,但馬煉瓦製造株式会社,中江煉瓦工場森津分場,岡野城工場,東淡煉瓦合資会社,淡路煉瓦製造合資会社,旭煉瓦商会工場,番匠土管製造所,合資会社番匠製陶所,ミツワモルタル工場,○岡本煉瓦製造所,近畿窯業(株),阿万煉瓦合資会社,東洋煉瓦製造所淡路工場
あれ,案外数が多いのだな.
近江八幡の湖東組>中川煉瓦>大晋と守山の江州煉瓦のツートップ.次いでM17-42の田中煉瓦(瀬田).明治初期から小工場がいくつもあったが永続したのは少ない.
湖東組,中川煉瓦製造工場,織田煉瓦製造(株),八日市窯業特別共同作業所,中川工場,杉本煉瓦製造場,カネ文製陶所,ヤマ米工場,江州煉瓦株式会社守山工場,山本辰次郎,近江煉瓦製造所,黒川煉瓦工場,大阪窯業株式会社,江州煉瓦株式会社山田工場,田中煉瓦製造所,楠江煉瓦製造工場,江州煉瓦株式会社膳所工場,大晋煉瓦
舞鶴市の京都竹村丹後製造所>舞鶴産業(M30-S36)が最大.おもに舞鶴方面に供給(全てではない).
園部市の胡麻煉瓦(T11-S8),伏見区の竹村煉化石製造所(M20-S4)>京都煉瓦(~S34)がそこそこ長続きした.伏見区深草周辺は煉瓦工場が集中.M30の煉瓦工場パンデミックで黄檗や山城に煉瓦工場が出現?山城煉瓦と推測される刻印が奈良駅転車台で見つかっている.
京都煉瓦製造株式会社,尾崎煉瓦製造工場,高山耕山陶器合名会社五條工場,高山耕山化学陶器株式会社,京都煉瓦株式会社工場,増井瓦製造場,東洋工芸(株),竹村煉化石製造所,竹村煉瓦製造所,中島窯業株式会社,京都煉瓦工業(株),朝倉耐火煉瓦製造所,伊藤耐火器製作所,日本特殊窯業所,京都陶器煉瓦株式会社,深草煉瓦合資会社,山田煉瓦製造所,大阪窯業株式会社向日町坩堝工場,七福工業所,黄檗煉瓦合資会社,宇治煉瓦合資会社,三室煉瓦合資会社 永興産業株式会社 宇治工場,山城煉瓦株式会社,関西煉瓦株式会社,南桑煉瓦製造合資会社,胡麻煉瓦製造所,福知山セメント製工場(株),鯖田煉瓦製造工場,鉄道窯業(有)夜久野工場,山陰窯業(株)夜久野工場,山陰材木株式会社,京都竹村丹後製造所,山田宗三郎工場,舞鶴産業(株)神崎工場
堺市の廃屋の前に転がっていた断片。瓦だとこのような引っ掻き傷をつけることがよくあるが、煉瓦では稀だ。神戸市の旧居留地発掘現場だとか、西九条のB.C.△H.J.煉瓦の壁とかに使われているのが見つかっている程度。案外古いものなのかも知れない。
先日拾った煉瓦の刻印。こんな感じの見たことのない刻印が押されていたので「あーまた謎刻印が増えた……」とか何とか考えつつ回収した。
持ち帰り、泥に塗れていた側を洗ったところ、そこにも刻印があることを発見。しかも表とは違う印だ。あれー?
答えがすぐにわかったら、残念、あなたはnagajisです。
答えはきっとこういうこと。丹治煉瓦の印が重ねて押されてあるはずだ。単純作業の繰り返しに飽きたのか、よほど暇であったのか知らんが……刻印で遊ぶな!
近代デジタルライブラリー「大日本商工録」大正7年版より引用。合資会社時代の丹治煉瓦(大正元年〜)はこの社章を使っていた。大正初期には津守煉瓦より多く堺・日本煉瓦よりは少ない生産数。その比と丸丹刻印の分布比が合わないなあと思っていたのだが、少なくとも大正以降はこんな刻印を使っていたらしく、それを考えると「なるほどな」と納得される程度には普遍的である。煉瓦の皺や傷に埋もれていることも多く、見過ごしやすい刻印だ。
はいはい恨み節恨み節。
むやみにはいはい言うもんじゃないと3丁目の無人格が言っていた。
はいはい特定非営利法人特定非営利法人。
はいはい過度に傷害を与えまたは無差別に効果を及ぼすことがあると認められる特定通常兵器の使用の禁止または制限に関する条約過度に傷害を与えまたは無差別に効果があると認められる特定通常兵器の使用の禁止または制限に関する条約。
はいはいよちよち。
嘘ではないが真実とも程遠い、ただの文字集合としての廃読。これは廃読の新しい活用方法として注目すべきかも知れない。何がどうと記述することが難しいがそんなことを考えながらまとめ終えた。
ああ、 過度に傷害を与えまたは無差別に効果を及ぼすことがあると認められる特定通常兵器の使用の禁止または制限に関する条約が英訳できなくなった。Conventons of Prohibitions or Restrctions on the Use of Certain Conventional Weapons which may be Deemed to be Excessibly Injurious or to Have Indiscriminate Effects. 違う気がする。まあよい。使わなきゃ退化するのは摂理だろう。
庄内での面談の帰り道、まさかこんなところで、という遭遇。新しい公園だったのでなんという意識もせず通り過ぎるところだったが、花壇の縁石に古い煉瓦が数個混じっているのを発見し、なんという期待もせず覗きこんだらこれだった。
確かに『帯解村誌』には大阪方面に出荷したということが書いてあったが、実際に大阪府内でこれを見たのは初めて。記述は事実だったのだなあ(詠嘆
https://maps.google.co.jp/maps?q=34.7538,135.47235&hl=ja&num=1&t=k&brcurrent=3,0x6000e5122760b4a5:0x690ae8f32fade0ee,0&z=19
担当原稿が終わった気安さで大日本窯業協会雑誌のコピーを見ていたら面白いことを発見した。大阪狭山市の大阪煉瓦株式会社の取締役に林信一郎の名前がある。例えば大正12年の『日本全国諸会社役員録』。
日本全国諸会社役員録 第31回大阪煉瓦株式会社 南河内郡狭山村 設立大正6年10月、資本金15万円、一株50円、払込高60000円 取締役 中村豊雄 東、下味原 同 林十五郎 同 林要五郎 同 林信一郎 右北、中之島六佳 監査役 山田正義 西成郡津守村
ただし大正6年の設立時にはいなかったらしく大正7年版にはない。でこの林信一郎、どうも津守煉瓦の設立者の林尚五郎と関係があるらしい。大正14年『窯業銘鑑』では林信一郎が津守煉瓦を所有してたことになってる(確かこの頃林尚五郎は中之島で林商会をやってなかったけか>Yes。大正15年『大阪市商工銘鑑>』、煉瓦珪藻土珪砂セメント販売業)。上のquoteで監査役の山田正義が津守村在となっているのも意味深じゃないか。
廃読39では川南村炭屋の大阪煉化石が津守煉瓦になったんじゃ?と想像していたけれども、両者の役員には接点が見いだせなかった。そうじゃなくて大正6年に成立した大阪煉瓦のほうと関係があったわけだ。&、廃毒では明治の大阪煉瓦石=★刻印と想像していた。むしろ大正の大阪煉瓦が★印であると考えるべきかも知れぬ。地域によってはけっこう頻繁に見られる刻印だから、明治20~30年代に存在した会社のものと考えるより大正6~昭和5のこの会社のほうが相応しかろうて。もっとサンプルを集めないといけないなぁ>★。
もう少しで発行できます@PM10:00
十三で見つけていた、T刻印だと思っていた刻印。もう一度確認しに行き「山」だと確認した。下のセリフがない。廃毒書き直さなきゃいかんなあ。
鶴橋で見つけていた「山」刻印も山陽のだとすると、大正6年創業、末期には分裂という割に大阪市場を侵蝕していたことになる(といってもまだ2つしか見つかってないが)。大正2〜4頃の煉瓦不況を経て、大正6の急激な需要増加の頃(この年T8に生産量が最大値を記録する)、大阪の煉瓦会社だけでは需要を賄い切れない事態が発生したのかも知れない。
「役員録」を眺めてみても大正6に成立した新会社が多いことに気づかされる。大阪煉瓦然り、和泉煉瓦(二代目)然り、泉州泉陽煉瓦然り。それだけ煉瓦需要が急増し「旨い仕事」と考えられたということだろう。それなのになぜ堺煉瓦が脱落してしまったのだろう。新聞記事を検索したらヒントが得られるのだろうか。
十三に寄ったのはこの煉瓦を撮りに行くためでもあった。以前歩いた時に見かけていたものだが、バッテリーが切れて撮れなかったというやつだ。
会社名不明。★印が二つと「*RROSIST」と刻まれている。商標大全に「★」と「H.S.FIREBRICK」という組み合わせが登録されていて、それだとばかり思ってたのだが、記憶違いだった。要するに無駄足の記録である。
「H.S.FIREBRICK」は榊原鶴吉桜井鹿蔵が登録していて、彼は「堺煉瓦石」マークも登録していたりしているから、このへんの謎を解く鍵を握っていそうな感じがする。馬鹿の一つ覚えで「H」=「Hyougo」と読んでもいいのだが、次の「S」がわからない。
なるほど、そっちか!
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/119/8/2006_honbunP121-140.pdf
全く同じものが奄美大島で見つかっているそうだ。全体を復元すると「CORROSIST/STAR-BRICK」。H.S.耐火煉瓦製造所として大正5年に創業、昭和5年8月に三石星煉瓦製造所、昭和40年10月にホシレンガ株式会社。
『窯業銘鑑』大正14年版に大阪支所の記載あり。西区西道頓堀1-1。
T10工場通覧では櫻井猛秀氏が工場を所有。
大正煉瓦の工場が初めて記録に現れるのは『兵庫県県勢要覧』大正6年版。『工場通覧』大正8年版には印南郡曽根村、大正6年6月創業となっていて、その後あちこちにできる大正煉瓦工場のなかで最も古いから、ここが同社の創業の地であったようだ。写真は天川の左岸側から工場のあった右岸側を見渡した景(曽根村の中心は左岸側にあった)。
この工場は昭和10年代の『工場通覧』に番地が載っていて、同じ番地が現在も存在しているらしかったので、おそらくその辺りだろうと目星をつけて行ってみたところ、こんな感じの古い工場が軒を連ねていた。この北方にはノコギリ屋根の古工場を割拠して使っているところもあった。ここではとりあえず工場長屋と呼んでおく。
雰囲気からしても使われ方からしても、この辺りが煉瓦工場の跡地に違いないと思い、辺りを探しまわってみたところ、写真の広場の東側、工場と道路との境界が、石垣ならぬ煉瓦垣になっていた。焼損煉瓦や屑煉瓦を積んで高さ50cmくらいの擁壁を築いていたのだ。
煉瓦垣にはお目当てのものが使われていた。「大」刻印だ。大正煉瓦があったという場所でこの刻印が見つかり、しかも焼損煉瓦まであったのだから、これほどあからさまに直結する証拠はあるまい。大阪では工場跡地に行っても痕跡が見つからないことが多かったけれども、大阪ほど変化が激しくないこの辺りでは行けば何かが見つかる確率が高いことがわかり、探ってみて損はないという確信を深めたのだった。
現地ではそう思って手放しで喜んでいたのだけれども、帰って古い航空写真を確認してみて若干思い違いをしていたことに気づいた。大正煉瓦の工場は厳密に言えばこの広場の北にあるニッセイ曽根コーポの辺りであったらしい。
引用元:昭和49年撮影の航空写真(国土画像情報閲覧システム)。ここに堂々とホフマン釜が写ってる。中央の煙突の高いこと高いこと! そりゃ地形図に記号つけて載せたくなるわと思うような目立ちモノだ。
これとグーグルマップの航空写真と見比べるとホフマン窯の辺りにマンションが建ったことがよくわかる。工場長屋は昭和49年から同じ位置にあり続けているようなので、それを基準にして見比べるとよいかもしれない(ということはこの工場建物は大正煉瓦時代のものだったりするのだろうか?現地で人掴まえて聞いておけばよかったな)。
マンションがニッセイ曽根コーポという名前であるのもちゃんとした意味があった。戦後の『工場通覧』を追いかけて行くと、昭和31年頃に和田煉瓦の中筋工場が「日成産業(株)」の所有になっていた。いまその跡地に建っているのがニッセイマンションだから、日成産業(株)が不動産業に転身し、後に大正煉瓦跡地も買い取ったのだろうと想像される(大正煉瓦曽根工場は最後まで大正煉瓦だった)。阿弥陀の工場後のセンチュリーアニーも元はきっとニッセイグループの所有だったに違いない。マンション敷地に古煉瓦をリサイクルしてるところなんかは同じ匂いがする。そうしてこのニッセイ曽根マンションもやはり、花壇に古煉瓦を再利用していたのだった。
煉瓦工場は素地煉瓦を並べて乾燥させるための広場(乾燥場)を必要としたので、工場敷地も自ずからデカくなった。廃業してそんな広場が浮いたとき、マンションでも建てるか、となるのはよくある流れであったらしい。日本煉瓦工場跡も堺市営マンションになっていたし、奈良の齋藤煉瓦もそうらしく思える。後者はまだ訪れてないけれど。
大正煉瓦曽根工場とは300mくらいしか離れていない場所に伊藤煉瓦株式会社はあった。創業昭和7年と比較的新しいが、どうも中播煉瓦曽根分工場(大正6年創業)→播州煉瓦合同曽根工場(昭和3頃改名)を経たものらしく、工場敷地自体?は年季が入ったものだったらしい。そうして戦後も営業を続け、最後は伊藤恒業(株)という誤植じみた名前に変わって、S45版まで記載がある。赤煉瓦だけでなく耐火煉瓦なども手がけていたようだ。
昭和10年代の『工場通覧』に記載された番地は現在の曽根駅前総合市場の辺りを指していて、その南には広い空き地もある。いかにも何かが残っていそうなシチュエーションだ。そんなこんなで結構期待していたのだけれども、結果はそれほど芳しくなく。県道を挟んだ向かいにある旧宅壁に「イ」の字刻印の煉瓦が使われているのを見つけられただけ。総合市場のほうは言わずもがなだ。
近くを通りかかった方(私よりも1回り年上の女性2人)に尋ねてみたが、煉瓦工場のことはご存知でなく、空き地はナントカという鋳造工場の移転した跡だと仰っていた。もしここが煉瓦工場跡地だったとしても、その跡地を使った会社すら退転しているのだから、地面の下まで改まってしまっていることだろう。そのうえ空き地は金網で囲われているし夏草が旺盛に茂っているしで地表の様子を伺うことすら難しかった。煉瓦工場跡地の探訪は春とか冬とかのほうがいいのかも知れない。
同行のFさんと「そういうこともありますよ」的な話をしつつ南下していき、山陽電鉄の南側にあった関野煉瓦工場跡へ向かう途中、別の大きな空き地を発見し、そこで別種の「イ」刻印を発見した。最初に見つけはったのはFさんだ。「向こうにも「イ」がありましたよ」という声に、最初はなんという期待もせず見に行って・・・
大阪府豊中市岡町桜塚高校(旧豊中女学校)の煉瓦壁に使われている「松葉菱+イ」だったのだ。写真はその壁のを流用したが、刻印の大きさも、機械成形の平に押してあるのも全く同じ。唯一違うのは、長手の一方に緑の釉薬をかけて焼いた化粧煉瓦だったことくらい。
まさかここでこの刻印に遭遇するとは。だってこれ、伊丹の伊丹煉瓦のじゃね? と思っていたのだもの。&、ここまで「イ」一文字のばかりで、それが伊藤煉瓦のだと信じ込んでいたのだもの。
今のところ、印南郡ではここでしか見つかっていないから、これが即伊藤煉瓦のものだとは断言できない。しかし伊丹市にポツンとあった煉瓦会社の煉瓦が、煉瓦製造のメッカである印南郡に運び込まれたと考えるよりも、印南郡から大阪に流入したものが岡町まで流れてきたというストーリーのほうがあり得そうな気がする。だって阿弥陀や曽根には大阪の煉瓦すら入ってきていないのだもの。大正煉瓦曽根工場の北の方でキシレンを一つ見かけただけだ。
印南郡へ行くときは機械成形煉瓦にも気を配っておかなければ。いや今までも随分注意していたつもりなんだけど。
帰ってから国土地理院の地図空中閲覧サービス正式版を見ていて、この辺りの昭和30年代の国土基本図が収録されていることを知った。これに伊藤窯業の位置がばっちり記されている。やはり曽根駅前市場のある辺りであったようだ。
『大日本窯業協会雑誌』No.345、大正10年5月号。
東洋煉瓦 大阪市東区北浜二丁目東洋煉瓦株式会社(資本金五拾万円内払込拾弐万五千円)は府下伊丹所在の二三小工場に付き設備の完成に努めたるも未だ操業に至らざるが最近泉州塔本煉瓦工場買収契約の成立を告げたり同工場は施設既に完成し目下月産五十万個の能力ある外現に二百万円のストックを擁せるが差当り右の能力を以て註文に応ずる予定なる外前記伊丹工場も茲一二月後には月額六十万円の製造に着手する筈
大正中期のこの雑誌にはこんな感じの小記事がいくつか出てくる。小さな情報だがふだん人の目に触れにくい質のものなので捨て置くわけにいかないのだが、ここから確固たる事実を引き出すのが難しく、扱いに困る。伊丹は 大阪府下じゃないし、「製造に着手する筈」というのも頼りない。その後どうなったのかきちんと追わないと使えない。
仮に伊丹=兵庫の伊丹だとすると伊丹煉瓦製造所との関連が考えられる。伊丹煉瓦製造所は資料によって操業年が大正3年とか6年とか12年とか昭和9年とかまちまちだ。して『工場通覧』に載っている伊丹の煉瓦工場はここだけであったりする。一筋縄でいかない工場。
塔本煉瓦工場は明治36年創業だがその後載ったり載らなかったりしている。操業と休止を繰り返したか人数が微妙だったのだろう。初は塔本常治の所有で鳳村大字大鳥に所在、素地煉瓦専門、後に八田荘村へ移って小西可珉>塔本可珉が工場主となった。 この工場はT9頃まで操業して消えるが、 月産50万個というから個人工場としては充分に大きかったほうだろう(それでも津守煉瓦の数百万個には及ばないが・・・津守煉瓦は最初の一時期株式だったのだがすぐに個人経営になった。丹治煉瓦も明治期は個人工場だった)。
八田荘村には後に堺煉瓦製造所が興りS10〜14頃営まで操業している。戦後は日本マグネシムがその場所を使った(番地が一致)がすぐに撤退した。
当の東洋煉瓦は・・・大正時代に工場を所有した記録がない。M19―M30の東洋煉瓦は墨江村だし。商社と直属工場みたいな関係で、卸業をやっていたのかも知れぬ。
豊中女学校の「松葉菱+イ」刻印が伊丹煉瓦のものじゃないかと考えた当初、その工場跡地を探しに行っている。『工場通覧』にはその所在地が「伊丹町大鹿」とあり、今も大字大鹿(おおじか)という地名があるので、きっとそのどこかなのだろうという単純な発想に基づく行動だ。
伊丹市大鹿。西隣に陸上自衛隊の駐屯地がある。この範囲をくまなく歩き回ってみたわけである。
が、この時工場跡を特定することはできなかった。煉瓦の壁を一箇所見つけられただけで、刻印もなく、それ以外に煉瓦転石を見つけることさえできなかった。やっぱり工場跡地を探しても無駄なんかなあ……と悄気たのを覚えている。
その後『工場通覧』を虱潰しして、年度によって地番まで記されていることがあるのを発見。ただしこれも再訪ドリブンの直接の源にならなかった。版によってまちまちなのだ。住所が。
『兵庫県工場一覧 昭和4年12月末日現在』 川辺郡伊丹町大鹿
『全国工場通覧 昭和9年版』 川辺郡伊丹町三田大鹿玉田19
『全国工場通覧』昭和14年版 川辺郡伊丹町大鹿19
『全国工場通覧』昭和15年版 川辺郡伊丹町大鹿角入19
こんな感じ。『通覧』はこういうのがザラにあるから困る。大字大鹿で番地が19番、というのは確かなようだけれども……。
こういう古い住所が、今のどの場所に相当するか知りたい時は、法務局の登記窓口へ行けばよいと教わった。伊丹市域を管掌する法務局は市役所の西隣にある。たまたま大鹿とも近い。行って尋ねた足で現地へ行こう。ということで暑い中自転車で向かった。
法務局の登記窓口で「伊丹町大鹿19番地」を尋ねると、新旧住所の対応表を繰ってくれた。しかし窓口の方の手を煩わせても「伊丹町大鹿19番地」は見つからなかった。大鹿の中にないのはもちろん、伊丹市伊丹町に大鹿がある可能性も当たってくださったのだが、見つからず。窓口の方曰く「市役所の住所変更窓口で尋ねたほうがいいかもなぁ」と。
市役所では土地調査課に回された。窓口でこれこれと伝え、窓口の方が帳簿を繰って探して下さったが、やはり見つからなかった。そういうもんなんだろうか……。
しかし、係の方がこんなことを仰ったことが突破口になった。
「『伊丹町大鹿19番地』というのは不完全な表記やなあ。大鹿は大字やから、その19番地というのはあり得んのよね」。そう言われて気がついた。確かにそうだ。うちの田舎は大字+地番で郵便物が届いたが、伊丹のような大きな待じゃ小字の下に地番をつけないと整理がつかないのだ。
「そういえば「角入」とか「玉田」とか書かれた資料もありました」と伝えると……。確かに大鹿に字角入(ツイノリ、とルビられていたが本当だろうか?)、字玉田が見つかった。うち19番地まであったのは角入のほう。そうして角入19番地はいまの瑞原(みずはら)2丁目の59番地になっているという。瑞原2丁目というと……いまの大字大鹿とは飛び離れた、もっと北の方だった。そりゃ、見つからんわ。
その番地を現在にあてはめる段階で、また問題が。瑞原2丁目にはいま59番地が存在しないらしい。あるのは57番地までで、その57番地の一帯が1つのマンションになっているので、合筆された可能性が高いとのことだった。まあ、ここまで絞り込めれば充分だろう。礼を述べて役所を辞した。
瑞原は「みずはら」と云うのだけれど、「瑞ヶ池」は「ずがいけ」であるらしい。一文字くらい略さんでもいいんじゃね? 逆に格好悪くなってね? と思いつつ現地へ。該当場所はこんなマンションだが、このはす向かいに瑞ヶ池があるという、煉瓦工場としては悪くない立地だ(池の底土を採取して原料にすることができたので。奈良の大和煉瓦、西村瓦工場はそうしてた。煉瓦会社は土が採れてウマー、池の利用者は嵩下げされて貯水量が増えるのでウマー、というウマーウマな関係になる)。
ちなみにこの東側は三菱電機の工場になっている。写真はその西端にある体育館。敷地の広さからいえばそちらのほうが煉瓦工場的なのだが、逆に広すぎるかな?
マンションの周囲を歩きまわった。比較的新しい民家(一戸建ての建て売り住宅的なもの)が小奇麗に連なり、その間を畑が埋めている。そんな光景がコピー&ペーストで繰り返されている。ちょっと期待薄な環境で、諦め半分で畑に絞って見ていくことにした。畑に煉瓦。これが結構あったりするのだ。
ほら。マンション西向かいの畑のふちで煉瓦転石を発見。ずいぶん断片化しているが刻印らしきものがついていた。といっても線が2本あるだけだけど……。
あまりにシンプルなので刻印じゃないかも知れないなと思ったが、畑の別の場所でもうひとつ転石を見つけた。明らかな焼損煉瓦で、しかもさっきと同じような刻印がある。途中で欠けているため断言できないのだが……「//」形の2本の線であるらしい。工場跡地のそばで見つかった焼損煉瓦に刻印があるのだから、これが伊丹煉瓦で使われていた刻印と見るべきであるようだ。
その後工場の周囲を一周したり、三菱電機の体育館のほうに入り込んだりしてみたものの、この他には古い煉瓦を見つけることができなかった。番地まで確定しても確たる現況証拠がないこともあり得るということだ。煉瓦2つというのも少なすぎる気がする。しかし生物の新種認定には2個体以上が必要だと聞いたから、煉瓦も2つでじゅうぶんですよなのかも知れない。そんなことをぐらぐら考えつつ帰路についた。
並行する二本線の刻印は存在しないわけではない。例えば岡町住宅地の中には「||」型の刻印煉瓦がある。斜めになったものも存在したはずだ。あまり短いと大正丹治と同じ構えになってしまうが、伊丹煉瓦が興った頃にはすでに廃業していたのだから、それほど問題視する必要はないだろう。
行基さんが作ったという巨大な溜池・狭山池のほとりに大阪狭山市がある。良質の粘土が採れ、盛んに焼き物作りが行なわれていたところで、よくありがちな延長線上として煉瓦製造業も勃興した。ただし泉南地域の他の市町村に比べれば遅く、大正初年頃の話である。
大きな工場として次の2つがあった。
堺煉瓦株式会社分工場 狭山村半田 大正2年~大正7年
大阪煉瓦株式会社 狭山村池尻 大正6年~昭和8年 (以上『泉南市年報』データ)
堺煉瓦の分工場には京都陶磁器試験場長が設計したという最新式の輪窯があった。大阪窯業との合併話を寸前のところで蹴って投げた賽である。しかしその賽、あまりいい目が出なかったらしく、わずか5年で姿を消してしまう。堺煉瓦じたいも大正8年に解散した(『諸会社役員録』)。跡地は南海紡績煉瓦部が引き継いだようだがこれも長続きしなかった(『泉南市年報』)。
もう一つの大阪煉瓦はそれなりに繁盛した。一時は狭山村で最も大きな工場だったそうだ。そうして昭和8年頃、大阪煉瓦が姿を消すのと前後して狭山煉瓦製造所が成立している。『泉南市年報』では昭和5~昭和16となっている。
(めんどくさい注記。『泉南市年報』は起業年を資料のデータで、終業年は資料の発行年で見ている節があり、起業年は正しく終業年が1、2年遅くなっている可能性がある。かく云う自分もこのへん徹底できてないが……)。
狭山煉瓦製造所は『工場通覧』昭和10年代版に番地が載っている。狭山村池尻416番地という。いまこの付近で「池尻」を検索すると、狭山池の南方のほんのわずかな一区画が示されるだけだ。ほかは池尻自由が丘、池尻中、池尻東、などの字に変わっているらしい。
『諸会社役員録』を見ていて(大正期・狭山村の)大阪煉瓦が結構大きな会社であることを知った。津守煉瓦との脈絡も見えてきた。いつも口にする六大煉瓦会社―大阪窯業岸和田煉瓦日本煉瓦堺煉瓦丹治煉瓦津守煉瓦ーは大正初期の生産額で見た六大会社であって、それ以降のことというのは、実はよくわかっていない。津守や丹治、堺亡き後の大型煉瓦工場として、大阪煉瓦が大阪煉瓦界の一角を占めていたはずなのだが……。廃毒では見逃していたこの会社が、実は重要なキーカンパニーだったんぢゃないか。そんなことを考えるようになり、俄然興味が湧いてきた。行ってみた。
大阪狭山市の教育委員会さんに煉瓦工場のことをお尋ねすると、市史編纂所のIさんを紹介してくれた(大阪狭山市もいま通史近代編を絶賛編集中という)。Iさん曰く、
・堺煉瓦はいまのSAYAKAホールがある辺りと推定されている(終戦直前、ここに蹄鉄工場があり、それが堺煉瓦跡地を流用してたんじゃないかと推定されているとのこと)
・大阪煉瓦はいまの狭山駅の西方。直近には軍需車両を製造する工場・富士車両があり、狭山駅にはその頃の名残である貨物引き込み線が残っている。現地はいま「さやまハーモニータウン」なる名前の住宅街
とのことだった。跡が残ってないことは承知之助だったけれども、工場所在地が絞りこ込れているとは思っていなかったので、とても有り難かった。そこを集中的に探せばいいわけだからな。しかしそれだけだと情報忠則(37)になってしまうから、番地のわかっている狭山煉瓦を自力で探してみることにした。
まずは役場へ行き、80年前の「池尻416番地」を探した。勝手がわからないので受付の方に尋ねてみたのだが、その結果紹介されたのは財務課だった。確かに地番=土地=税金と関係があるからなあ、役所によって違うんだなあと感心しつつ、これこれこういう訳で、を説明したのだが、しかしここには古い地番と現在の地番の対応表のようなものはなかった。そりゃそうだ。過去に課税するわけじゃないもんな。
とはいえ、自分の望みはここで十二分に達成された。もと池尻だった地域では地番がそのまま残されている(字をまたいで連番の地番が振られている)ので、416番地というと一箇所しか該当する場所がないという。それは狭山駅の西側、いま「ふくなが歯科クリニック」があるブロックの一角だった。例のハーモニータウンの端っこだ。ということは! 大阪煉瓦の工場=狭山煉瓦の工場ということになる!!
(と思ったのだが『泉南市年報』では併存していた時期があることになってるのよね……。それでさっきのめんどくさい注記の続き。『泉南市年報』が大阪煉瓦の尻を昭和8年としているということは、実際には昭和7年まで操業だと思われ、なおかつ『工場通覧』昭和15、6年版では狭山煉瓦の操業年が昭和7年になっていたりする。自分は昭和元年〜8年頃のデータを『泉南市年報』に頼ったのでこの年代が厳密に追えていない)
市役所を辞し、狭山駅まで歩くついでに煉瓦探し。大阪狭山駅の周辺はつい最近建ちましたどうです綺麗でしょえっへんというような建売住宅が99%を占めていた。空振りに終わるかと思われたがしかし、残り1%の古区画で手成形煉瓦を発見。六稜星だった。狭山池の東畔の奥まったところにある民家でも、花壇に使われている古煉瓦がほぼ全部六稜星(一部無刻印)だった。あとで歩いた駅東にも六稜星を発見した。どうやら大阪狭山駅周辺では六稜星が優勢らしい。考えてみれば津守と狭山は南海鉄道でつがってたわけだから、例えば堺や岸和田のを運んでくるより早かったのだろうなあ。(とこの時は考えたのだった)
府道198号が南海線を潜るところでは、南海の変電所の敷地?道路の法面?に屑煉瓦が散乱していた。自由に触れる煉瓦をようやく見つけた嬉しさのあまり、2、30分ほどかけて徹底的にひっくり返した。結果、堺煉瓦が2つ(1つは太い五本線、1つは廃毒でクリーニングしたやつとそっくりの細五本線)、そして六稜星が1つ。これはモルタルを割ったら綺麗に出てきた。さらには太短線2本による「ハ」の字の刻印もあり、これは初見だったのだが、たった1つだけなので新種認定に至らずじまい。堺煉瓦の押し損ねかも知れぬ。
堺煉瓦は件の分工場由来! と考えたいところなのだが、目の前の南海線から来たものである可能性も捨て切れない。すぐそばにある高架はコンクリート橋台になっているが、路線の開通は明治31年で、狭山駅~大阪狭山駅間には開業当時の煉瓦アーチが残っていたりする。もとは煉瓦橋台か煉瓦アーチだったのを取り壊した結果の屑煉瓦であるかも知れない。六稜星=津守煉瓦なら明治30年創業のこの会社が煉瓦を供給してたとしても矛盾しないし。太「ハ」はとりあえず置いておく。
その煉瓦アーチを観察したりしつつ北上すること10数分(この間手成形煉瓦に遭遇せず)。狭山駅に到着した。写真はその西側にある貨物引き込み線を北方から撮影したもの。クロスレールの一本に1958と刻印されてたから、その頃まではちゃんと役を果たしていたのだろう。今は住宅街の最寄り駅でしかなく、載せる貨物もないのはもちろん、引込線のホームすらなくなっていた。完全なる盲腸だ。
もう少し引いて、416番地の北方から撮影。これだけだと鉄道写真ですらない意味不明な写真である。
んで、目当ての工場跡についたわけだが……。真新しい住宅が立ち並んでいるばかりで、昔日の面影は微塵も残っていない。煉瓦のかけらすら落ちていない。あるのはいかにも平和な日常が繰り広げられていそうな建売住宅と、その軒先を飾る機械成形のオシャレ煉瓦だけだ。煉瓦工場時代と現代との間に富士車輌が挟まっているのだからなおさらモノが残っていないだろう。それは覚悟していたことだった。
自分の狙いはそこじゃない。住宅街の西側に西除川という川が流れている。その川のほとりに何かがあるんじゃないかと踏んでいた。工場敷地を更地にし、住宅街にした時の残土が捨てられているんじゃないかと。日本煉瓦製造だって、そばを流れる川にたくさん煉瓦を捨てていたというじゃないか。
だんだん面倒くさくなってきた。結果をいうとJust the God hand、あるはずと思って探した場所に望み通りものが落ちていた。煉瓦工場跡にありがちな焼損煉瓦だ。しかも。
六稜星の焼損煉瓦だった。
焼け過ぎて紫変した肌に六つの角をもつ星の刻印。煉瓦が歪み、潰れてしまったため刻印までひしゃげている。どう見ても焼損煉瓦です本(略)。これが意味するところは甚だ大だ。六稜星の煉瓦がここで焼かれていたということだから。ネットには六稜星=津守煉瓦という説があり(勝手に)その説を支持していたのだが、その反証が出てきたということだ。
しかも発見はこれだけじゃない。六稜星の焼損煉瓦は都合4個発見したが、それを上回る数の、別の刻印煉瓦が見つかったのだった。
自分以外で実物を見た人はおそらくいないんじゃないだろうか。南海汐見橋線木津川駅の駅舎の脇に数個落ちているのを見たきり、他所では一切見たことがなかった、会社不明の煉瓦刻印だ。「∀」の記号に似ているが下三角に小さな切れ込みが入っている(ことは採取煉瓦の拓本を取っていて気づいた)。この煉瓦の刻印にも同じ切れ込みがあったのでそういう刻印だというのは間違いない。あの木津川駅転石の生まれ出づったところがここだったとは。
焼損煉瓦だということはこっちの写真のほうがわかりやすいかも。2つの煉瓦が長手で固着し、割れたものだ。
結果は驚くべきものだったが(驚いているのはお前だけだろ、というツッコミは謝絶する)、解釈が難しい。整理すると
・池尻には大阪煉瓦と狭山煉瓦があった(『泉南市年報』では併存した別会社とされているが、所在地はおそらく同一で、大阪煉瓦→狭山煉瓦と変遷した筈)
・その工場跡地で六稜星刻印と「∀」刻印の焼損煉瓦が見つかった
・市街には六稜星が主に分布している
・津守煉瓦(木津川駅)と大阪煉瓦・狭山煉瓦(狭山駅)は同じ鉄道会社の路線上に存在する
・津守煉瓦の関係者が大阪煉瓦の役員に就いている(大正10頃だったっけ?)
六稜星=津守煉瓦とする従来説に則れば、大阪煉瓦の工場を作るために津守から運ばれてきたものという解釈になる。焼損煉瓦が焼損した状態でここまで運ばれてきたという解釈。窯を築くくらいなら焼損煉瓦であっても使い手はあっただろう(見つかった焼損煉瓦にはモルタルが付着していて、何かの構造物に使われていたことが明らか)し、最初の窯を築くのに自社生産の煉瓦を使うことはできなかった。津守煉瓦関係者が大阪煉瓦の役員になっているのも両社の間に深い関係があったことを匂わせる。
六稜星=大阪煉瓦という新説はこれから構築しないといけない段階だが、一を聞いて十を知る的な詭弁でもないんじゃ中廊下。津守煉瓦の操業期間は明治30~大正13(『泉南市年報』。 廃毒でT14尻としたのは『窯業銘鑑』によったものだが、データはT13現在のものであるかも知れぬ )だが、明治年間に築かれたことが明らかな建造物で六稜星が見つかったことはあったかな? と考えてみると、これがない。新庄第二水路橋の橋台(不明)、吹田駅構内発掘現場(T12開業)、岡町住宅地(M45以降)、桜井住宅地(T初年以降)、阪大医学部跡地(T4~)。kousenさんが南海高野線九度山駅で見つけてはるのだけれども、九度山駅が大正14年築だとしたら非常にギリギリということになる。凍豆腐関係の遺構はどうだろう?千早洞がT6だからそれより前かも知れない。
「∀」=大阪煉瓦説でもよいのだが、分布量と継続期間が一致しないカンジ。むしろS7~S14の狭山煉瓦のものと考えるのが妥当げだ。何を意図してあの意匠なのかはさっぱりわからんが。解決しますた
行けば行くほど新たな発見があることは嬉しことだが、その都度自説が揺らぐのはちょっとどうかと思わないでもない。まあいつものことだろう。今はまだけんきゅーの端緒についたばかりであって、自分で立てた仮説を追試しているようなものだ。当たっていたらオメデトウ、間違ってたら軌道修正すりゃいい。
そういや津守で見た焼損煉瓦は何だったのだろう。あれには刻印がなかったような。
上の煉瓦刻印の拓本を取ってみた。やはり単純な∀じゃねえなあ、と再認識したところで閃くものが。
図を描くとこんな感じ。オブデータ集を作った時には三角形の切れ込みだと思っていたんだが、上記煉瓦のはこんなに見える。とすると、
こういうことなんじゃね?
こんなんわかるかーッ!!!
刻印はわかりやすく打刻しやすいものにしましょう>各位。
中播煉瓦株式会社
印南郡曽根村
設立大正5年5月、資本金10万円、1株50円、払込高8万円
取締役 入江光蔵
印南郡伊保村
同 中谷與八【→播州煉瓦合同監査役@S4】
同、曽根町
同 梶原貞一
同、大塩村
同 岡田卯市
同、的形村
同 小田千代蔵【→播州煉瓦合同社長@S4→播州煉瓦合同取締役@S7】
同、北浜町
監査役 森本玄良【→播州煉瓦合同取締役@S4】
同、別所村
同 上田與三太【→播州煉瓦合同取締役@S4】
同、的形村
〔日本全国諸会社役員録. 第31回(大正12)〕
もと明治29年設立の老舗。大正5に株式会社化? 曽根。後にバンレン曽根工場。
播磨煉瓦株式会社
印南郡阿弥陀村
設立大正6年3月、資本金10万円、1株50円、払込高5万円
取締役 原田四郎作
同 原田貞作【→合名会社原田商会@S3頃→弘栄煉瓦@S6】
同 原田栄吉
右印南郡阿弥陀村
同 細尾藤太郎
加古郡加古川町
同 米澤久次郎
監査役 原田四郎吉
同 原田広吉
右印南郡阿弥陀村
支配人 中筋拙蔵
同、曽根町
〔日本全国諸会社役員録. 第31回(大正12)〕
阿弥陀に興った最初の煉瓦工場。原田商会となり弘栄煉瓦(魚橋)に。
山陽窯業株式会社
印南郡伊保村
設立大正6年3月、資本金25万円、1株50円、払込高17万5千円
取締役(代表) 浜本八治郎
姫路、福中
同 山本市次郎
大阪府東成郡天王寺村
同 山本栄太郎【→山本窯業所@T14-S2→播州煉瓦合同@S7】
加古郡高砂町
同 福永宇吉
同 赤藤松二【→東山工業所@T14-S22】
監査役 赤藤勇太郎
右飾磨郡四郷村
同 吉中猪之吉
姫路、龍野7
同 池田弥七
同、小利木
〔日本全国諸会社役員録. 第31回(大正12)〕
創業時は姫路工場・見野工場を所有。その後中筋にも工場。分裂後、中筋工場は山本窯業所となり播州煉瓦合同中筋工場に。
大正煉瓦株式会社
印南郡曽根町1777
●設立大正6年4月 満期20ヶ年 総株数1千株
●資本金 50,000
内払込高 17,500
●取締役 伊藤政次郎
関野與平【←関野煉瓦製造所】
鹿間松蔵
田中卯之松
服部種吉
八木孫次郎
監査役 岸野松太郎
中谷與七郎
名島友吉
〔帝国銀行会社要録 : 附・職員録(第7版)(大正7年)〕
なぜか『役員録』には収録されていない。関野煉瓦製造所の関野与平が取締役として関与(関野煉瓦は大正5年5月設立)。伊藤とか中谷とかどっかで見たような苗字が・・・。
別所村には中播煉瓦の別所工場(大正5年5月)、大正煉瓦別所工場(大正6年6月)があったが、最も古いのは別所窯業株式会社工場(別所煉瓦合名会社。明治44年5月?)。たぶんこれが2工場を吸収して?播陽窯業株式会社になった。後に中播煉瓦と合一して播州煉瓦合同に。播陽窯業株式会社
印南郡別所村
設立大正8年10月、資本金50万円、1株50円、払込高12万5千円
取締役 金川栄治
神崎郡香呂村
同 渡邊市太郎【→播州煉瓦合同@S7】
同 高谷耕司【→播州煉瓦合同社長@S7】
右印南郡別所村
同 高橋市蔵
大阪、西淀川、大和田
同 堀田孫次郎
姫路、高尾
同 黒田房次【→播州煉瓦合同@S7】
加古郡加古川町
同 桂三代次
監査役 白井観光
右飾磨郡花田村
同 金井利一
神崎郡香呂村
〔日本全国諸会社役員録. 第34回(大正15)〕
播州煉瓦合同株式会社(中播煉瓦株式会社改称)
印南郡曽根町
電話30
設立大正5年5月、資本金15万円(払込済)、1株20円
社長 小田千代蔵
印南郡北浜村
取締役 上田與三太
同 森本玄良
同、別所村
監査役 中谷與八
同、曽根町
西神吉分工場 印南郡西神吉村 電話30
〔日本全国諸会社役員録. 第37回(昭和4年)〕
この時点では播窯のメンバーが入っていない。
播州煉瓦合同株式会社(昭和7)
印南郡曽根町
電話17・30
設立大正5年5月、資本金15万円(払込済)、1株20円、法定積立金200円
社長 高谷耕司【←播陽窯業】
印南郡別所村
常務取締役 小田千代蔵【←中播煉瓦】
同、北浜村
同 山本定三
加古郡高砂町
取締役 植田與三太【←中播煉瓦】
印南郡的形村
同 植田藤次郎
姫路、高尾
同 山本栄太郎【←山本工場】
加古郡高砂町
同 渡邊市太郎【←播陽窯業】
印南郡別所村
監査役 西沢武男
同 伊藤重吉【←伊藤窯業】
右同、曽根町
同 黒田房次【←播陽窯業】
加古郡加古川町
分工場 印南郡伊保村
分工場 印南郡西神吉村
分工場 印南郡別所村
〔日本全国諸会社役員録. 第40回(昭和7年)〕
この頃に播陽メンバーが入る(たぶんもっと早い)。伊藤窯業の伊藤重吉が監査役で加入。なるほど確かに播州煉瓦「合同」。
西播煉瓦株式会社
神崎郡香呂村
設立大正6年10月、資本金10万円、1株50円、払込高8万円
取締役 伊賀徳三郎
同 岩田虎治
同 岩田清治
同 高田幾太郎
右神崎郡香呂村
同 尾田徳次
同、船津村
同 藤本栄太郎
監査役 山口大治郎
右同、山田村
同 鯉田熊太郎
同、船津村
同 藤尾丈次郎
同、香呂村
〔日本全国諸会社役員録. 第31回(大正12)〕
神崎郡は蚊帳の外か・・・香呂の人が関わってるから何かあったのかと思ったのに。
ずいぶん前に桜井住宅地で撮影していたもの。機械成形の煉瓦に岸和田煉瓦の×印がついている。大阪の煉瓦会社で機械成形煉瓦に刻印を押したところは数少ない。&、キシレンの成形機械は裁断まで機械力で行なう連続整形機(米国チャンバースブラザーズ社製)で、見学者の目を見張らせたという。
岸和田煉瓦二十周年記念誌(明治40年発行)より引用。背後にある巨大な車輪が切断機で、スポークに相当するところが切断ワイヤーになっていると思われる。同じものが30周年記念誌にも載っていて「弐号機」と記されている。柱の配置なんかで見比べると同じ会社から購入した2号機であるらしい。
一方、大阪窯業の機械成形煉瓦製造の光景。このような器械を人が操作して行なっていた。
同じ機械成形だが断面にできる擦り傷の形は変わってくる。大阪窯業の機械成形煉瓦は長手に近づくにつれて垂直になる円弧状。岸和田のは小口から小口へ渡る円弧状。
最初は30周年記念誌の写真を見てて、煉瓦が通過する場所が裁断機の真下でないように見えたので(その場合は小口に向かうほど垂直になる円弧状になり、上写真のような傷が付くはず)、この機械で作られたにちまいないと思ったのだ。しかしより鮮明な20周年誌を見て真下にあることがわかりショボンてる。
兵庫県の煉瓦工場はなぜか『帝国銀行会社要録』のほうがよく載ってるうえに住所地番まである。大正年間の分しか収録されていないのが残念だが全部あったらさらに壺だろう。
印南郡でたくさん刻印を見つけられたのは昭和~戦後に営業していた会社の分だったのがよくわかる。大正期のは「ハ」1個と「山」2個、あとは大正煉瓦だけだものな。
播陽窯業>伊藤煉瓦。
なんだよ!昭和のもあるのかよ! しかしなぜか大正煉瓦とか弘栄煉瓦とか伊藤窯業とか和田煉瓦とか載ってねえ。使えねえ。
印南郡阿弥陀村の内魚橋村
●設立 大正6年3月
満期20ヶ年
総株数2000株
●資本金 100,000
内払込額 25,000
●取締役 原田四郎作
米澤久次郎
山本正
濱本挺治
渡邊壹次郎
監査役 大西米太郎
加古儀平
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
●取締役 原田四郎作
米澤久次郎
山本正
濱本挺吉
渡邊豊次郎
監査役 大西米太郎
加古儀平
支配人 中筋拙蔵
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
濱本挺吉
→ 濱本弥七
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
内払込額 50,000
‐取締役 渡邊豊次郎
+取締役 鎌谷二郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
●(締)原田貞作 原田四郎作 原田栄吉 細尾藤太郎
原田四郎吉 (監)原田広吉 細尾克巳 (配)中筋拙蔵
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
加東郡来住村黍田
●設立 大正6年5月
満期20ヶ年
総株数4000株
●資本金 200,000
内払込額 50,000
●取締役 稲岡猪之助
近藤常三郎
近藤源吉
蓬莱市松
黒田辛五【←播州鉄道大株主】
監査役 山本千賀治【→加古川煉瓦取締役】
堀増治
小西吉五郎
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
同
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
内払込額 80,000
‐取締役 蓬莱市松
+取締役 蓬莱安太郎
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
内払込額 80,000
‐取締役 近藤常三郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
‐取締役 蓬莱市松、黒田辛五
+取締役 野喜治良
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
印南郡曽根町2554
●設立 大正5年5月
満期20ヶ年
総株数2000株
株主人員18名
●資本金 100,000
内払込額 50,000
●取締役社長 入江光蔵
取締役 梶原貞一
中谷与八
小田千代蔵
角谷勝次
監査役 岡田卯市
森本玄良
●別所分工場 印南郡別府村内北宿村
開設大正5年5月 主任田中卯之松
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
内払込額 60,000
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
+株主人員24名
●決算 大正8年5月31日〔第6期〕
資本金 100,000
内払込額 60,000
諸積立金 9,200
借入金 47,000
当座借越及仮受金 8,616
買掛払金 1,005
動不動産 82,126
諸立替金及仮払金 34,299
売掛未払金 13,889
預け金現金 1,801
常期総収入金 59,980
当期総支出金 56,100
当期純益及前記繰越金 7,296
内配当 3,000
●(長)入江光蔵
(締)梶原貞一 中谷與八 岡田卯市 山田千代蔵
(監)伊達由太郎 森本玄良
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
印南郡曽根町1777
●設立 大正6年4月
満期20ヶ年
総株数1000株
●資本金 50,000
内払込額 12,500
●取締役 伊藤政太郎
関野與平
鹿間松蔵
田中卯之松
服部種吉
八木孫次郎
監査役 岸野松太郎
中谷與七郎
名島友吉
池上栄吉
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
‐監査役 池上栄吉
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
内払込額 30,000
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
内払込額 40,000
‐取締役 服部種吉
+取締役 吉野大三郎
監査役 原川慶作
糟谷集次
門川棄三郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
同(岡野?八十?)
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
資本金(払込済)50,000
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
同
〔帝国銀行会社要録第十四版(大正15)〕
姫路市南町25
●設立 大正6年3月
満期20ヶ年
総株数5000株
●資本金 250,000
内払込額 62,500
●取締役(代表)濱本八治郎
取締役 田口久吉
山本栄太郎
竹田柳吉
赤藤松二
監査役 吉中猪之吉
赤藤勇太郎
福永宇吉
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
内払込額 75,000
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
印南郡伊保村中筋
内払込額 100,000
‐取締役 竹田柳吉
‐監査役 福永宇吉
+監査役 池田彌七
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
内払込額 175,000
●(長)濱本八治郎
(常)赤藤松二
(締)山本栄太郎
山本市次郎
福永宇吉
(監)吉中猪之吉
赤藤勇太郎
池田彌七
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
内払込額 200,000
‐締 山本栄太郎
‐監 吉中猪之吉
+監 弓岡栄次郎
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
揖保郡神岡村ノ内東觜崎村689
●設立 大正5年12月
満期20ヶ年
●資本金 10,000
●出資社員(代表、無)
清水覚治(4,000)
清水修治(3,000)
清水ことゑ(1,500)
清水まさ(500)
広瀬慶治(1,000)
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
●資本金 6,100
●出資社員 清水覚治(100)
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
同
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
同
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
同
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
●(代無)清水覚治(1,000)
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
●(代無)清水覚治(100)
〔帝国銀行会社要録第十四版(大正14)〕
飾磨郡余部村ノ内飾西村66
●目的 煉瓦製造販売
●設立 大正5年12月
満期30ヶ年
出資人員4名
●資本金 5,000
●代表社員 内海角治(出資等分)
〔帝国銀行会社要録第六版(大正6)〕
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
印南郡別所村北宿860
●目的 煉瓦石の製造売買
●設立 大正7年3月
満期二十ヶ年
総株数2000株
●資本金 100,000
内払込額 25,000
●取締役 金川栄治
高谷耕司
渡邊市太郎
佐野濱吉
白井観光
中野長太郎
監査役 池上栄吉
黒田房次
〔帝国銀行会社要録第七版(大正7)〕
内払込額 60,000
+取締役 金井利一
‐監査役 池上栄吉
+監査役 岩田虎治
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
●決算 大正10年5月31日
〔第四期〕
資本金 500,000
内払込額 125,000
諸積立金 11,250
借入金 31,610
当期総収入金 121,665
当期総支出金 136,708
当期純損金 15,033
前記繰越金 3,378
後期繰越損金 11,656
‐取締役 渡邊市太郎
+(専) 渡邊市太郎
‐監査役 岩田虎治
+取締役 岩田虎治
+監査役 堀田孫次郎
+監査役 藤尾丈次郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
決算期 5月、11月
●(長)金川栄治、(専)渡邊市太郎、(締)高谷耕司 岩田虎治 高橋市蔵 白井観光 金井利一 (監)黒田房次 堀田孫次郎 藤尾丈太郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
内払込額 125,000
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
‐(締)白井観光 金井利一
+(締)堀田孫次郎 黒田房次 桂三代次
‐(監)黒田房次 堀田孫次郎
+(監)白井観光 金井利一
〔帝国銀行会社要録第十四版(大正15)〕
川辺郡伊丹町大鹿
●設立 大正8年4月
●資本金 13,000
●(代、無) 井原馬之助(2,600)
(無)榊原勇一(1,950)
湯原正太郎(1,950)
大串彦五郎(2,600)
法西宇之助(2,600)
久間佐吉(1,300)
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
加古郡天満村六分一
●設立 大正7年12月
●資本金 8,000
●(代、無) 植田正(1,000)
(無)藤本周治(1,000)
(無)橘亀吉(750)
(無)植田武治(1,800)
伊勢藤吉(2,000)
梶原淀吉(750)
植田芳太郎(500)
植田健一郎(200)
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
(植田正のみ)
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
加古郡八幡村上西條306-32
●設立 大正7年8月
総株数 1000
●資本金 50,000
内払込額 12,500
●(締)馬場岩吉 清水延二 山本市五郎 松尾淳次 松尾勇吉 (監)林栄一 藤原松蔵 三枝浅太郎 (配)末沢豊太郎
〔帝国銀行会社要録第八版(大正8)〕
内払込額 27,500
●(締)馬田岩吉
‐締 藤原松蔵
+締 松尾熊蔵
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
内払込済 37,500(10から?)
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
内払込済 43,500
‐締 松尾熊蔵
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
神崎郡香呂村
●設立 大正7年10月
総株数 1000株
●資本金 100,000
内払込額 80,000
●(締)伊賀徳三郎
岩田虎治【←播陽煉瓦取締役】
岩田清治
播戸林之助
尾田徳次
藤本栄太郎
(監)山口大治郎
高田幾太郎
鯉田熊太郎
〔帝国銀行会社要録第十版(大正10)〕
同
〔帝国銀行会社要録第十一版(大正11)〕
●設立 大正6年10月
〔帝国銀行会社要録第十二版(大正13)〕
総株数 2000株
+(締)尾田徳次
〔帝国銀行会社要録第十四版(大正15)〕
やりたいこととやらねばならぬことが不一致してる。人はそれを頭皮坑道もとい逃避行動という。うん、そろそろ慌てなければならぬ。やりたいことは十二分にやったしな〜。
Wordで作成しなきゃいけないのに写真はぜんぶMacのほうだ。まずその写真をピックアップして移すところから始めなければならぬ。図ぅなんかどうしよ。
近遺調の打ち合わせのついでに行こうと思っていたのだが、いくら待っても日程が決まらないので、諦めて単独用件で行ってみる。昭和24〜35年頃あったという戦後の煉瓦工場。
住所が地番までわかっているのでその場所に行くだけでよいのだが、美濃庄ってすごく中間な場所にあり、アプローチに悩む。JR奈良線と桜井線のちょうど中間だ。結局近鉄郡山駅で降りて東へ歩くことにした。ついでに郡山の市街も歩いてみたが、ここでは刻印煉瓦を発見できず。JIS規格で手成形の煉瓦が多かったような気がする。大和煉瓦の本社は大和郡山にあったのだから、大和煉瓦くらいはあるんじゃねえかと思っていたのだが……。
歩いて歩いて美濃庄。地番の辺りは水田になっている。それは航空写真でわかってたのだけれど( すぐ近くに近畿タイルという会社があったが、関係あるのかな?) 、長20数cmの物体までは見せてくれないからな。行ってみるしかない来てみるしかない。そういうわけで来てみたわけだが、畑のふちにいくつか煉瓦が転がっているのを見つけ、しかしやはり無刻印JIS規格手成形であった。
美濃庄の中も歩き回った。人が出ていれば捕まえて話を聞こうと思っていたのだが、みんな昼寝をしているのか、さっぱり人気がない。歩き回って何かを見つけるしかない状況。これは空振りかなあ……と気弱になったところで……
焼損煉瓦を塗り込めにした土塀を発見! 廃屋の納屋の腰壁だ。残念ながら平を確認できるところがなかったが、手成形であることは間違いない。たぶんこれが朝日煉瓦の遺児ならん。
そのほかにも結構な数の手成形煉瓦を発見した。家の裏手にあって立ち入れない畑でもシートの重石に使われていた。手成形煉瓦の出現頻度は間違いなく市街より高い。しかし相変わらず刻印はなし。この煉瓦には「へ」に見える凹みがあるのだけれど偶然ついたものであるだろう。
ワケワカラン♪
別所村の煉瓦工場の変遷がはっきりしない。中播煉瓦別所工場の支配人・田中卯之松は大正煉瓦の取締役もやっているので、それだけだと中播別所工場→大正煉瓦別所工場と想像されるのだが、2つの工場が並んで載っている資料があるため別モノだと捉えなければならぬ。その後起こる播陽窯業の役員とは共通項が見いだせない。そのうえ別所窯業とかいう工場がT9頃に出現する(諸会社銀行一覧には出てこない)。最後の1つは播陽窯業の誤記だと見れないこともないのだが。
中播、播陽は播煉合同と関係が深いが、大正煉瓦は播煉合同と接点を持たない。上記の田中が唯一の接点。この2大会社+個人工場群という構図か。もうちょっと細かく切れば
(大)播州煉瓦合同(中播+山陽中筋工場+播陽)+伊藤窯業 (大) 大正煉瓦+関野工場 (中)播磨煉瓦→原田工場→弘栄煉瓦 (中)和田煉瓦
てな感じか。とはいっても印南郡も煉瓦業組合を結成したらしいから啀み合う感じではなかったろうと思う。地域で分かれていたわけでもないようだし。
堺煉瓦社長・太田貞雄は南海紡織の専務取締役に。堺煉瓦本工場の跡地は長崎紡績になっているが、長崎紡績の社長は肥塚源治郎で、肥塚が南海紡織の社長だった。長続きしなかったみたいだけど>南海紡織。よって狭山村の堺煉瓦分工場>南海紡織煉瓦部ちうことらしい。
同じ頃百舌鳥村に南海鉄道の煉瓦工場が存在。南海鉄道と南海紡織はたぶん無関係。
帯解の広大池のほとり(東岸)には大和煉瓦の工場があって、以前見に行ったことがあるのだが、池の対岸(西岸)にも煉瓦工場があったという。西村氏の個人工場で本業は瓦製造業だったらしい。ただし煉瓦造りも年期は古く、明治44年頃から行なってたことになっている(恐らく大和煉瓦の影響だろう)。そうして○に末という屋号を持っていた(大日本商工録昭和6年版)。煉瓦にもその刻印を押したりしたのだろうか。
広大池の西側に広がる住宅街を北から撮影。この住宅地、結構こまごまと歩き回り、 納屋の前に角丸の異形煉瓦や手成形煉瓦が10個ほど積み上げられているのを目撃したりしたものの、刻印煉瓦は未検出に終わった。大和煉瓦も出てこなかった。まあ……大和煉瓦だってずっと「^ト」を使ってたわけじゃないみたいたしな(工場跡地で無刻印の焼損煉瓦を発見している)。
在所が果てるところの畑で、やっと痕跡に遭遇した。見事に(?)爆裂した焼損煉瓦だ。さすがにこれは重石以外に使い道がないだろう。その昔、鐘が坂隧道の北口でこんな煉瓦を拾ったことがあったので、ちょっと懐かしく思えたりもした (今は手元にない。然るべきところに然るべき資料として差し上げている)。
念のため裏表確認してみたが、刻印は押されていない模様。同じような爆裂煉瓦がもう一個あって、それも確認してみたが、ないものはないのだ。しかしどちらも爆裂面の反対側が同じように凹んでいた。これほどあからさまに炸裂すると反対側が凹むものなのだなあ、と感心したことだった。なおこの煉瓦は東京型。たぶん。
大正9年から戦後少々まで操業した煉瓦工場。県下では大和煉瓦、西村工場、小島煉瓦、吉野煉瓦に次いで古い。大正期からやってたということは刻印を使用してたんじゃないか。そう思って奈良歩きの最後に足を運んだ。
戦後の『工場通覧』にある地番を尋ねていくと、現在県営住宅になっている一角が該当する場所らしかった。広い敷地、跡地が住宅街、なんていうのは印南郡や狭山の例を連想させて期待させられたのだが……。うん、さっぱり。住宅地の中には機械成形の新しい煉瓦しかなく、その周囲の住宅街にも古煉瓦は存在せず。北を流れる地蔵院川の川辺もコンクリート護岸になっていては……。
周囲の住宅街は昭和50〜60年頃に一新されたような印象。もう1、2回り古い宅地、長屋の前に地道の通路があって、緑がわっさわっさ生えていて、古自転車やら粗大ごみやらが蔦に絡まれているようなところじゃないと、無理なようだ。
強いて成果を引き出すなら……。斎藤煉瓦では比較的早い頃に成形機械を導入してたかも知れないという仮定が立ったことくらい。手成形煉瓦が一欠片も見つからなかったというのは、機械成形が優勢だったからではないか。案外周囲で見た機械成形が斎藤煉瓦製だったかも知れない。
http://www.asahi.com/national/update/0721/TKY201307210027.html
はいはい愚者愚者。敢えて云うが愚者。愚者以外の何者でもない愚者。なんであんなのが心霊スポットなの? どうやったら道に迷えるの? おこなの? ( )?
いかにも好奇心を煽るような書き方で芝山トンネルやら廃物件やらをいている連中も同罪だ。生き様を恥じて腹を切って火に投げ込まれるべきである。排水口から流されて浄化槽にて発酵すべきである。その興味なり労力なりは劫も人の役に立ってない。便所に吊るしたハエ取り紙でしかない。いやそれは役に立ってるか。
そういう愚者を無くすためにORJでいろいろやっているつもりでいる。顕名で鞭打って非難するくらいはマジでやっている。そうして世の中の大半はそんなものに興味がない。心霊スッポトとして消費するか一時のプギャーに満足するために読んでいる。ますます無力感。まあもともとそんな影響力なんてあるとは思っていないがな、自分は自分の正しいと思うことを貫き通すだけだ。
いつだったか、東灘区の市街地を歩いていて、こんなプレートを見かけた。自宅の近くでも「豊中市指定道路」というのを見たことがある。
プレートがあったのはこの道路。住宅地に入っていく行き止まりの道だ。これってなんだろう? と思って撮影しておいたものがヒョイと出てきたので片付けておく。これは建築基準法によって規定された道路、「5号道路」と通称されるものであるそうだ。建築基準法では建物を建てる時には道路に面して建てなければならないという規定があって(これを「接道要件」という)、そういう建築のために作った私道を地方自治体が道路と認めたもの、という。道路の一種ではあるけれども道路法や道路交通法の制限を受けないので、極端な話路駐しても法律違反にならない。また道路と認定されているので誰でも自由に入ることができる。新興住宅地などで似たような盲腸道路をよく見かけるけれども、そういうのはたいてい5号道路なのだそうだ。
津守煉瓦の工場跡には何度か行ったことがあるのだが、大阪市街に出る用があったので、ついでに足を伸ばしてみた。再訪の理由はいくつかある。先日大阪煉瓦の跡地で六稜星の焼損煉瓦を発見したことで津守煉瓦=六稜星という仮説が揺らいだこと、以前撮ったはずの工場近くの刻印煉瓦の写真を紛失してしまい焼損煉瓦だったか否かが確認できなくなったこと、等々。
地図は右写真を参照されたし。明治30年に創業し、少なくとも大正12年まではここで営業を続けていた。西に流れる大きな川が大阪の工業河川の代表格たる木津川。工場の北には七瀬川という枝流があり、さらにそこから分かれて大和川のほうへ流れていく十三間堀川もあった。そのような堀川と南海鉄道高野線(旧高野鉄道)とに挟まれた立地で、工場敷地としてはこれ以上ないという位に恵まれていた。ちなみに木津川駅の西には駅に隣る格好で堀があり貯木場になっていた。
『工場通覧』における工場主は一貫して林尚五郎という人物だが、津守煉瓦が最後に現れる資料『窯業銘鑑』大正13年版では林信一郎が代表者となっている(この頃尚五郎は中之島で林商店という土木材料卸業を営んでいた)。また末期には土管も製造していたようで『京阪神商工録』大正7年版には「林土管煉瓦製造所」という名前で掲載されている。代表者は林清重である(余談だがこの工場の商標は大阪窯業と非常に紛らわしい。煉瓦に押したら見分けつかないんじゃなかろうか)。このほか林トメという名前で登録されていることもあった。それに加えて大阪煉瓦の役員に林信一郎他がいて、大阪煉瓦の後に興った狭山煉瓦製造所は林静枝が所有となってたりするわけだから、どうやら林一族が経営する同族工場?であり、よほど煉瓦と縁がある人々であったらしく見える。
大正初期には大阪窯業、岸和田煉瓦などとタメを張るような大工場で、ここの他にも泉南地方にいくつもの分工場を有していた。大阪狭山にも素地工場があった。そういう会社だった割によくわかっていない。津守村の村史に相当する本でも郷土史家の本でも「煉瓦工場があった」と記されている程度だ。
工場跡には大きな駐車場と工場長屋があり、いくつかの工場が入っている(大半は倉庫として使っている模様)。この敷地の周囲には一切の煉瓦を認められない。工場敷地として何度も入れ替わりがあったためだろう。七瀬川の跡地(右写真)も道路として使われていて昔の面影を留めていない。木津川駅の方面から入っていた引込線跡も不分明。
煉瓦が見られるのは南海線の東側だ。山口たばこ店(だったっけ)の向かいにある菜園に推定津守煉瓦の六稜星が多数使われている。春に来た時は植生が薄く、縁石に使われている煉瓦を確認できたんだけど、畑はその所有者の家ともども廃れてしまったようで、金網に囲まれた状態で草むし切っていた。
写真は金網の外にまろび出ていたもの。焼損ではなく製品の破損物だ。山口さんちの隣の区画に煉瓦基礎の一部が残っていたので、そのへんから出てきたものである可能性も高い。なにより煉瓦工場とは線路を隔てた位置だからな。
大阪市街で煉瓦を探すようになってから、この六稜星の刻印を飽きるほど見た。大正末期に廃れた会社のものと想像するには多すぎるんじゃないかと思うほどだ。煉瓦建築や橋台では大阪窯業・岸和田煉瓦などの大御所の刻印をよく見るけれども、市街地に転がっているものはたいていがこれだ。
この違いは流通ルートの違いを反映したものかも知れぬ。大きな会社は大口注文を受けてドカッと作りドカッと納入した節がある(その結果一度に多量の煉瓦を使う構造物によく見られると。以前はそういう構造物しか見てなかったものな)。小売を中心としていた会社のは一般市場に出回り民家の基礎だとか水回りだとかに使われ、解体・整地されて転石になりやすい。のではないか。日本煉瓦もどちらかといえばそんな傾向があるように思う。
刻印の大きさに大小があることも知った。写真の小型刻印のが圧倒的に多い。東海道線吹田駅近くの架道橋に見られるものは中くらいの大きさ。
肝心なことを書き忘れた。そういうわけで非常に大量に広範囲に分布しているため、工場周辺で見つけたとて、それが即津守煉瓦のものと結びつけるのがためらわれる。せめて焼損煉瓦の1つ2つは見つけなければ……。
それにこんなのも落ちてたし。和泉煉瓦(二代目)の刻印煉瓦の断片。これは線路脇の空き地の袖に転がっていた。この区画の一部で工事をしていて、その関係で草刈りされていたお陰で気づくことができた。
大阪で井桁刻印というと貝塚煉瓦と結び付けられがちだが、大正中期に創業し大阪窯業に買収された和泉煉瓦も井桁を社章に使っていた。そうして同じ刻印煉瓦が明治45年から分譲開始した阪急岡町住宅地の一角に使われている。貝塚煉瓦は明治39年に大阪窯業に買収されているので、岡町住宅地で使われる筋合いはないのだ。
念のため注記:貝塚煉瓦と同時に買収された和泉煉瓦とは別の会社。南海堺東駅の西方にあり、大阪窯業の堺東工場になった。そういえばここも南海沿線なのだな。以前この刻印を見かけたのも南海の線路沿いだった。
おまけ的に。JR芦原駅の東側、かつて鼬川が流れていた辺りには、かつて耐火物製造工場が蝟集していた。品川白煉瓦の大阪工場もここにあった。マックスバリューの西側で工事が絶賛進行中の一角などもそうだったろうと思う。以前訪れた時には道路脇まで瓦礫が転がり出ていて、そんな瓦礫の中に焼けただれた耐火煉瓦が混じっていた。
そんな耐火物銀座も今は昔……と思っていたのだが、たった一件、丸三耐火煉瓦だけは残っている。丸三は明治22年に中臣吉郎兵衛が興した会社で、筧工場に合併吸収されたが丸三の表記と商標は引き継がれた(丸三筧耐火煉瓦)。その後再び丸三に戻ったのか、新たに興ったものなのかまでは調べられていない。
林土管煉瓦のことをすっかり忘れていた。あの刻印のある煉瓦が存在する可能性もあるということだ。今日見たあのひしゃげた大阪窯業が林土管煉瓦ェ…だったりしたのかも知れぬ。また今度、KINIASの幹事会の時にでも行ってみるか。大正区はもうちょっと念入りに調べたほうがいい。んなことはなかった。大阪窯業だった。けど大正区三軒家や泉尾一丁目の辺りにはそこそこ高頻度に戦前煉瓦がある。ここは昔からの居住地だし(南に行けば行くほど新田・埋立地が増え新しい住宅街になる)。TALUI.GO.や明治丹治も見られたから、西九条並かそれ以上に煉瓦刻印が豊富な一帯であるようだ。そういや松本煉瓦も大正区だったよなー。
しかし『工場通覧』T9には津守煉瓦で載ってるのな。やはり正式な名前ではないのだろう。林氏がやってた土管・煉瓦の工場、津守にあった煉瓦工場というだけで。他所の個人工場もきっと同じ。株式とか合資とかじゃない限りそれほど名前には拘らなかったカンジがする。
昨日の最大の収穫は朝日窯業。大正6〜9の3年間しか存在しなかった会社。豊中市の紀要に載ってた拓本、『大日本商工録』の社章とも一致する。
大阪パンションに使われていた「ヲ」の刻印は大阪窯業ではなくバンレンのに違いない。とすると大阪窯業マークにヲとあるものもバンレンカンレンなのかもシレン。OEM。
我が国最初の近代的な紡績工場として産声たあげた大阪紡績。いまの大正区三軒家浜にあった。大阪工業界でもいち早く発電機を導入し、煌々と灯る電灯のもと24時間体制で操業したという。回り回っていまの東洋紡が所有し、太平洋戦争で空襲を受け焼失した。跡地は三軒家浜公園になり、その一角にその歴史を伝える小さな石碑があるだけになっている。
この工場には関西煉瓦会社の煉瓦が使われていたらしい。東洋紡社史編纂室に「大阪紡績使用煉瓦」として所蔵されているものがあるとか。しかし大阪紡績の操業開始は明治19年で、明治21年に明石郡垂水村ノ内山田村に興った関西煉瓦会社が煉瓦を供給したとは考えにくい。とはいえ大阪紡績は数度に渡って増改築を繰り返したというから、その時に持ち込まれた可能性はあるし、明治19年に一瞬だけ存在した小曽根の関西煉瓦会社が関わっていた可能性もなきにしもあらず。
現地で刻印煉瓦が見つかれば、そのへんのことを考える資料になるんだが……そんな僥倖はないだろうな。戦後68年、煉瓦工場廃業からも116年が経過した。縦横無尽に伸びていた堀川がすっかり埋め立てられ高潮対策で一面数m嵩上げされたという大正区に、戦後間もなくの屑煉瓦が残っているわけがねえ。
などと思っていたら、あった。三軒家公園から約200m離れたところにある民家のプランターに敷かれていた。公園向かいの空き地の屑煉瓦のなかにもなかったH.J.△B.C.だ。驚かないわけがない。
家の方にこれこれこういうを説明すると、快く譲って下さったうえに「ご苦労様やねえ」と労っていただけたりもした。nagajisがこういう時に発生させるRDFは結構な効果があるらしい。大切に使おうと思う&研究用にと言ったからには研究に使おうと思う。
転石なので小口や長手が観察できるのが有難い。側面は今日の機械成形煉瓦にそっくりなつるつるさを呈している。プレス成形であることの証左だ。しかし西九条で見たものより明らかに薄い。測ってみると220mm×115mm×60mmで、70mmを裕に超えていた西九条煉瓦とはロットが異なるらしい(これくらいの厚さじゃないと焼けないんじゃないか?)。おもに裏面の凹みの深さが違うようだ。この煉瓦にも凹みはあるがごく浅い。
煉瓦の焼き色も若干違う印象がある。西九条や十三のは黄土色に橙を2割ほど混ぜたような明るい色だった。これはいかにも赤煉瓦という焼き色をしている。
左上が焦げているのは空襲の被害によるものだろうか。件の家の方も「空襲ではこの辺一帯が焼けた」と言っておられた。そんな歴史を乗り越えて116年間ずっと煉瓦をやってる煉瓦である。それだけでも偉いと思う。
イゲタ醤油の煉瓦蔵、元はなんだろう? というところを探ろうとした軌跡。ちゃんと「製氷会社」って書いとるやんけ。節穴め>nagajis。それにしてもわざわざnagajisと書いてあるのにいちいちカナに直す人って何を考えてるんだろう。嫌がらせ? 名前を入力するのも汚らわしい? アルファベットの入力方法わからない? いずれにしてもnagajis並みに哀れな人だなあ。
工場通覧 大正10年11月
織物業
株式会社勝村商店 京終工場
蚊帳生地、白木綿、厚木綿
奈良市南京終町
株式会社勝村商店
大正8年2月
職工男11/女47
動力 他1/20馬力
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/931905/185
この巻には大日本製氷の記載がない。もちろん他の製氷会社もなし。井上本店は北京終なので住所も違う。
奈良染織株式会社
奈良県南京終町
明治44年1月
綿蚊帳生地
藤井代重郎
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1027282/124
藤村商店京終工場
奈良県奈良市京終町
大正7年2月
蚊帳生地
藤村直治郎
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1027282/125
ここかから奈良市京終町とだけ記載されるようになる。そうして創業年が違うというお約束。もうちょっときっちり校正してほしかった>日刊工業新聞社
@染色精錬漂白及整理業
勝村商店京終工場
奈良県奈良市京終町
大正7年2月
蚊帳生地
勝村直治郎
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1027282/208
染色の項目にも出現。
大日本製氷奈良京終工場
奈良県奈良市北京終町
昭和3年9月
武久良造
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1027282/565
京終で製氷工場というとこれしかないのだけど……昭和3年9月創業ということになっている。製氷工場以前は別の工場だった?
そもそもあれか、紡績関係の工場だったとは限らないのだよな。通覧全部見通さないと。しかし倉庫業だったりしたら載ってねえな。
★刻印の出処では?と推測している明治大阪煉化石@炭屋新田。史料上では明治20年に創業し明治30年頃まで存在していたことになっている。
創業時の役員の一人・岡島嘉平次は、江戸時代の末期にこの辺りに新田を築いた岡島嘉平次であるのかも知れない。といっても岡島家の当主が代々この名前を継承していたようなので、何代目かの岡島嘉平次が煉瓦製造業を始めたということなのだろう。しかしその何代目かがはっきりさせられなかったので廃毒では省略した。いずれにせよ地元資本による起業であったことは確かだ。
炭屋新田の現在。千島公園の南方から南方を向いて撮影。この辺り一帯がそのはず……と思って歩きまわってみたけれども、H.J.△B.C.のような僥倖には恵まれなかった。手成形煉瓦すら見つからなかった。予想はしていたが、そう予想するのと予想が的中するのとではオクラとピーマンくらいの違いがある。
こういう状況(無刻印だったと推定することもできない)は困る。下手に推測してもその証明が不可能なわけで、邪馬台国は韓国だった説なみに扱いが困るものになるだろう。混乱の種を蒔くだけで終わってしまうかも知れない。そんな確固とした根拠があるわけでもないしなぁ。
そもそも★刻印と推定津守の六僚星の分布状況は一致していない。六僚星は大阪市を中心に淀川の北、泉南、果ては和歌山県九度山駅まで広がっている。似たような位置にあった大阪煉化石が★刻印を使っていたなら、六僚星ほど広くはないにしても、せめて淀川を越えていてもおかしくないはず。しかし現段階では淀川以北で見つけられていない。自分が歩いたエリアが限られているのもあるんだろうけど……。
写真は以前に掲げたことがあるかも。堺市柳之町西の廃屋前の転石。用途不明の異形煉瓦で、通常の2/3くらいの大きさ、かつ平-長手の稜線に凹みがある(同じ凹みが裏側にある)。 永代町では★刻印入りの角丸の異形煉瓦を見たことがあるし、その向かいの側溝にずらっと並んでいたし、綾之町で建物基礎に★刻印煉瓦ばかり使われているのを見たこともある。他にはkousenさんが和泉市の旧府神社で見つけてはるし、柏原駅のそばにあるという極秘情報も頂いている。現状ではむしろ、大阪市の南半分から府下南方にかけて分布している印象。なのでむしろ、堺の煉瓦工場の刻印・・・旭商社とかの刻印である可能性のほうが高いのかも知れない。柳之町西といったらずばり旭商社の所在地だし、その2つ北のブロックが綾之町だしなぁ。
大阪煉瓦石の工場はもっと北の方だったかも知れない。落合の辺りという記述がどこかにあったことを今頃思い出した。勘助島で二つに分かれた木津川の合流する辺り(三軒家川と七瀬川の出合)だ。その場所はいま打ち放しゴルフ場+住宅街+大正湯+王将になっている。工場地帯でないのならまだ何か見つかる可能性は残っているか。
大正区小林のなかを歩いていて銭湯に遭遇した。裏手や脇に薪にするものと思われる古材が山積みになっていた。いまどき薪の銭湯なんて珍しいんじゃね? と思ったのだけれども、府下にはそれなりの数あるのだそうだ。Oh,エコロジー。
建物を建てるのに使った木材が、最後は燃料になって消費される。灰も以前は田畑の肥料に使われていただろう。重油じゃ資源をターミネートするばかりだから、なんかもったいないな。
大阪梅田、阪急と阪神とJRを結んでいる歩道橋。松下幸之助の寄付で1973年11月に完成した。大阪一の目抜き通りにかかる大阪一の歩道橋である(誇らしくてそう言っているわけではない。客観的に見てそう思うだけだ。交通量とか所在地とか便利さとか。あとCD#1路上販売した恩もあるし)。
昨年だったか一昨年だったか、財政難の大阪市が「歩道橋ネーミングライツ制度」なるものを思いつき、募集した。要するに福岡ヤホードームの「ヤホー」みたいなのを歩道橋につける権利を売ろうとしたのだ。しかし告知が不十分だったのか、それとも効果薄と判断されたのか、入札があったのはたった一件で、それがこの歩道橋だった。落札したのは鳩がドバーでおなじみのロート製薬。そうして同社のキャッチフレーズである「よろこビックリ」を橋の名前につけた。自社名だけにしなかったところが面白い(確か会社も「それじゃ面白くないから」みたいなことを言ってた気がする)。ライツ料は年間610万円だそうだ。
橋名表示のアップ。名前はともかく・・・(そりゃ権利者が好きにつけるべきものだからな)、せっかくやるんだったらもうちょっとしっかりした作りにしてあげればいいのに、と思った。鋳鉄銘板とは言わない。せめて立体看板とか電飾とかにして、もっと目立つようにしてあげたほうがいいんじゃないだろーか。これじゃまるで横断幕だ。誰も気がつかないだろう。
ちなみに本来の橋梁銘板は最北方の面のJR大阪駅方に貼ってある。歩道橋指針(1965)なんてあるんだ。
歩道橋のネーミングライツという発想は面白いと思うし、対象はたくさんあるんだから、どんどんやってほしいと思う。勝手宣伝のつもりで書いてみる。
まかり間違ってもORJが購入したりすることはない(できるわけがない)。「日本の廃道歩道橋」とか誰が喜んで渡るものか/潜るものか。いやそこは別のフレーズにすりゃいいのか。ORJでんがなまんがな歩道橋、とか結構ゴロが良くないか、ベタでわかりやすいし。
せっかくなら宣伝になるようなのがいいな。「ORJは毎月15日発行1号400円!歩道橋」とか。んでその歩道橋で事故があったりして浮き目立ちすることになるわけだ。花火大会の日に将棋倒しが発生したりしたら後々まで汚名を残すことになる……。あんまり良くないな。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130724-00000047-rps-bus_all
以前から決まってたことだっけか。車両はともかく所蔵資料は生かしてやってほしい。南和鉄道社史とか国立国会図書館にもないんだから。貨物時刻表のバックナンバーとか。自分はもういいけど。
閉館後の敷地はどうなるんだろう。車両を展示するために相当厚い基礎を敷いてあると、以前KINIASの研究発表会で使った時に聞かされた覚えがある。再利用できるものなのかしらん。
大正区でこんな看板を見かけた。毎月15日は公衆電話の日だという。公衆電話がめっきり少なくなった昨今でも公衆電話の日は残ってるんだろか……という素朴な疑問から検索してみたところ、公衆電話の日は9月11日なのだという答えが返ってきた。ええええー。
明治33年9月11日、新橋駅-上野駅前間に日本初の自動公衆電話が設置されたことに因むという。そんな雑学を解説するサイトはネズミ講的に存在する。しかし誰がいつこの日を公衆電話の日と定めたのか教えてくれはしない。困ったインターネッツである。
この看板の提唱者?提携者?である日本公衆電話会はいまでも存在している様子。「会について」のページに昭和47年8月15日設立とあった。なるほど、だから15日が公衆電話の日なのか!
どんな協会? 定款があったので覗いてみる。
(目 的) 第3条 この法人は、地域社会における安全と安心に関する情報提供活動および 啓発活動、並びに地域環境整備などの諸活動を推進することにより、地域社会の 安全と安心の向上と健全な地域社会生活の充実に寄与することを目的とする。 (公益目的事業) 第4条 この法人は、前条の目的を達成するため、日本全国において次の事業を 行う。 (1)「清潔・快適・便利な」公衆電話を基本とした利便向上に向けた事業 (2)「安全で安心できる地域社会」の実現に向けた事業 (3)社会生活に有用な情報を提供するための調査研究に関する事業 (4)地域活動、ボランティア活動その他の社会貢献に向けた事業 (5)その他、公益目的を達成するに必要な事業 (その他の事業) 第5条 この法人は、その公益目的事業の推進に資するため、必要に応じて日本 全国において次の事業を行う。 (1)公衆電話受託者の啓発に関する事業 (2)会員の福利厚生及び相互共済に関する事業 (3)その他、前号に定める事業に関連する事業
べ、別に公衆電話の普及をするとかじゃあないのね。その役目はもう終わったってことかしらん。上記だけ読むと正体不明なボランティア組織だ。
ちなみに件の看板の附近に公衆電話はなかった。
しつこいのとはやいのはきらわれるよ、と先輩が言っていた気がする。以前大正区に行った時も指定道路の写真を撮っていたのを今さら気づいた。なるほどそういう繋がりか、と自分の中だけで通っている脈絡がある。
毎月25日は写真供養の日であると今決めた。吉野町宮滝の商店前に貼ってあった看板。適当なカテがないので標識とする。ああいかにも頭悪そうな文章構成万歳。
この頃の瓶ファンタはリアルタイムで馴染みがあるのだけれども「大きな大きな」なんていうキャッチフレーズだったっけ?と思わないでもなかった。並んでいる2本の瓶のイラストを見て、右のファンタは確かに大きいなあ、などとも思った。たったそれだけの接点を記録するために撮った写真である。
わざわざ新カテ作ってまでして掲げるべきものではないかも知らんが、適当なカテがなかった。
今年四月に貞徳舎のあたりをうろついた時の写真。 堀に囲まれた大阪城の北面にこんな石アーチの門があるのを発見した。帰ってネットで調べると、大阪砲兵工廠時代の荷揚場で、明治4年に作られたことになっているのだそうだ。
確かにアーチの天井に滑車がついている。昔はもう少し水かさがあって、この真下まで船が入れて、そこから滑車経由で荷を揚げていたのだろう。向こう側がぐさぐさになっているのも、当時はもうちょっと整地されてたはずだ。
もしホントに明治4年に作られたものだとしたら、技術史的に面白いものなんじゃないかと思った。このアーチはたぶん西洋技術で積んである。盾状迫石に切石の胸壁で、両者一体で緻密な組石造をなしている。石橋のアーチは基本的に迫石と胸壁が独立の構造だ。そうじゃない西洋風のアーチが明治4年にはもう作られていて、今でも現存しているわけだから。
もうちょっと時代が下って、明治10年代以降の築だったとしたら、ふつうに納得するんだけどなあ。
_ kousen [いつも詳しい資料と解説、楽しみ拝見させていただいてますm(__)m 良いお写真ですね!この石門の上下の川岸は私も一度行きましたが少ないですが幾つかの遺構が確認できました。煉瓦も少し有ったと思います..]
_ おろろん [ なんでも樹で焚くのと重油で焚くのとではお湯の肌触りが違うらしく、重油焚きだと棘棘しくなるらしいと藤森照信さんが建築探偵で書いておられました。 ネーミングライツですがせっかくの関西センスを行政..]
_ nagajis [荷揚げ場は対岸から眺めただけで過ぎてしまいました・・・近くに煉瓦があるというのも存じ上げず。今度ぜひ行ってみます! 重油と薪の違い・・・温泉とガス湯沸かし器の湯の違いみたいなものでしょうか。たま..]
大正6年創業、同9年頃に姿を消した朝日窯業株式会社の刻印。と思われる。だって『大日本商工録第二版』に全く同じマークが掲げられてるもん。普通煉瓦を製造したのは大阪府下鳳村大字大鳥の浜寺工場。Made in Osakaな煉瓦である(ちなみに尼崎には耐火物工場があった。ずっと旭硝子と関係があると思ってた。随分な思い込みだ)。
豊中市教育委員会報の岡町分譲地の煉瓦刻印を調べた記事で紹介されているものと多分一緒。七光りだし松林松之助の登録商標は五光だし。住宅地の中に1つだけ存在していたそうだが、実物は再開発で失われてしまった。同書に掲げられている拓本から察するにこれと同じもの・同じくらいの大きさだったろうと思う。
ただし関西地方でここだけが「アサヒ」を名乗っていたわけではない。堺の老舗・旭商社(M20-34)とか洲本の旭煉瓦商会工場(T5-9)とか稲美町の旭煉瓦(株)(T7-13)とか奈良市東九条の朝日煉瓦製造所(S24-38)とか。そういう会社が旭日章を使ってなかったという保証はない。
新しいほうの橋台に使われている日本煉瓦の煉瓦の刻印。深く考えずに廃毒で使ってしまったが、よう考えたら「壹」って何やねん。社章の印のなかにある「3ナ(?)」がすでに識別符牒なはずなんだ。
第一工場、第二工場とかの別だったら面白いのにな。日本煉瓦は創業時から2工場体制だった。鳳村の分工場に登り窯を築いて煉瓦を焼きつつ舳松村の本工場を建設したことが『堺市史類纂』収録調書にある。そちらには輪窯が築かれたそうだ。
この写真を撮るために橋台に登っていた時、通りがかりのおばちゃんsに「酔っぱらいかねえ、春やからねえ」と言われたことを忘れはしない。
新・三匹のこぶた。
あらすじ こぶたの三兄弟。家を作ろうと言い出す。三男は藁で、次男は木で、長男は煉瓦で自分の家を作ってご満悦。なかでも煉瓦マニアな長男はせっせこ集めた刻印煉瓦を使って「刻印煉瓦の殿堂」を創りあげてしまう。次男三男「やーい、お前んち、刻印やーしきー」。糸井重里とかまっくろくろすけとかはいない。
腹を空かせた狼がやってくる。三男の家→「こんな藁の家なんか一息で吹き飛ばしちゃうぞー」。次男の家へ逃げ込む三男こぶた。次男の家「こんな木の家なんか一息で吹き飛ばしちゃうぞー」→長男の家へ逃げ込む。
ナレーション:しかし……実はこの狼、長男を上回る煉瓦マニア、狼少年ケンだったのです!!!
狼:「うわー煉瓦刻印だーH.J.△B.C.だー朝日窯業だーワーオワーオワオー」
鏨とハンマーでばばんぼばんぼんばんぼぼんと割り出す狼少年ケン。こぶたには目もくれずに煉瓦を持って帰ってしまう。こぶたたち「助かったー!」
それ以来、狼に煉瓦を持って行かれないため、煉瓦に刻印を打たなくなったんだそうです。
どっとはらい。
というような話をセミナーの最中に思いついてしまい、笑いと困惑を堪えるのに必死だった。今日そんな変な人がセミナーに来とってん【拡散希望】
いかにもそれらしい、わざとらしい書き方を試してみる。
うん、気持ち悪い。
伊丹煉瓦跡を探しに行った時、瑞ヶ池の西側にある公園をうろついていて、前掲のレールを見かけた。なんの脈絡もなしに歩道を横切っていた。(普通はあり得ない並べ方だが)ちゃんと軽レールを使ってある。
なんぞこれ? と思って周りを見渡せば、公園のこの一角全体が妙な雰囲気…。なんか普通の公園と作りが違う。横断歩道が描かれていたり、ロータリーがあったり。まるで自動車教習所のミニチュアだ。
どうもこれ、子供が交通ルールを学べるようにと作られたものらしい。踏切前では一旦停止とか、横断歩道の渡り方とかをここで実習できるわけだ(以前は交通標識もあったらしい)。なかなかよい配慮だと思う。子供じぶんに近くにこんな公園があったらいろんな遊びができたことだろう。
定形外の煉瓦を見つけると、その場限りの嬉しさに浮かれて写真に撮ってしまう。たいていは使い道のない写真が残るだけで、撮ったことすら忘れていることも多い。何かの拍子に出てきたり、思い出したりした時にここに載っけて消化するしかない。
2つの煉瓦を小口で繋げたサイズの長尺物。こういうのはあらかじめ使う場面を想定して作ったのだろうか?それとも何かに使えるかも?で作ったんだ ろうか。長手積みとか。(確かkousenさんが似たのを載せてはったなぁ…あれは格子戸の格子のような使い方をしてたような気がする)
スケール感がわかるようにと10円玉を並べて撮影してみたのだが……。やっぱりわかんないな(汗。ともかくでかかったのだ。枕にしたらちょうど良さそうだが実際にやると頭痛くて眠れんだろうな、とか、割れたり生焼けになったりせずによく焼けたものだ、とか思った。
左のコンクリートブロックが普通の煉瓦の大きさ、といっても実感が沸かない。自分でも。困った写真だ。そばで交通整理をしていた人に怪しまれながら撮った苦労が水の泡じゃないか。
やはり手を載せて撮るべきだったかも知れない。しかし自分の手は無闇にでかいので比較対象としては相応しくない。缶コーヒーとかのほうがいいかも知れぬ。
A4サイズでかろうじて読めるQ数+姑息な手法で妥協したけれども、表だけで9ページになることが判明した。研究ノートにすると頁数規定に引っかかるかも知れない。かといって論文るほどの新知見が得られたわけじゃないし。調査報告とも若干違うし。うーん。仮にそうしたとしても残り3ページで何を書くのという問題も。表題一枚と9ページ表という鬼畜仕様でいいのか。出典は表の空きスペースに枠載せすればいいものな。
もうちょっとかっこいいわかりやすい名前がほしい。あれ、さっき思いついたのなんだっけ。煉瓦工場消長年表だっけ。単に煉瓦工場年表でもいいか。消長表とか。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20130723-OYT1T00978.htm?from=ylist
思ったほど書けるものである。質は問わない。なにしろnagajisだからな。それは事務局も了解済みだろう。
本文の文字数が結構あるので関連情報を豊富に入れ込むことができそうな塩梅。1ページで足りなければ他物件ページに誘導する姑息手段で対応できるだろう。 「ゆく」でやったような。
できる限り、物件記述だけで終わらせないようにしたい。個々物件が独立して存在しているのではなく、(幽かであっても)互いに連綿をもって作られ存在しているのだということを表現したい。それが近代史であるのだから。
頁数確認しとかんといかんなあ。
見野でこんな刻印を見つけた。漢字の「日」に見える。裏側にも全く同じような刻印がある。しかし。
nagajisの目を節穴と思うなよ。
刻印で遊ぶな!>山陽窯業
しかも、そこから数km離れた北池交差点のそばで同じものを見つけた。こいつは押し損ねがあるのでそれとわかる。
見野で見かけた刻印その2。「山」の字を変形したものと思わる。同じ刻印は在所の中で複数個見つけた。また御着へ向かう道すがらでは楷書の「山」も発見された(これは採拓してある)。
見野には山陽窯業見野工場があったが、同社は大正末頃に分裂、見野工場は赤松氏の個人所有となり東山工業所と名を変えた。そうなる以前に作られたものと思わる。東山工業所時代は刻印を使わなかったか、イロハの作業符丁だけを押したらしく、無刻印手成形煉瓦の山に混じって釘製大ぶりの「ロ」「ホ」を発見しただけであった。
それよりも、周辺でK2を複数個発見したのが気になっている。間違えて足を運んだ明田にもあった。そのうえ本拠の住所の場所にあった煉瓦壁にもK2が使われていた。なんか工場跡とされる場所では必ず見るような・・・。しかも数字に分布傾向があるような。大正煉瓦の阿弥陀工場跡ではK6とか、中播の中筋工場附近ではK9とか。
凄まじい憶説。印南郡の煉瓦製造業も昭和4年頃から共同販売を行なっていたというが、それ用に各工場が「Kn」刻印煉瓦を作ってたりしたのではないか。n=工場の識別符丁で。しかし機械成形+Kと云う刻印も見つかっている(弘栄の岸工場附近とか明田とか)。比較的後までやっていた弘栄の煉瓦が分布しているだけかも知らぬ。
狙い澄ましたかのようなタイミングで「のーぱんで公園待機中で恥ずかしいよぅ」とか何とかゆうSubject:のSPAMが届いたが、敢えて言っておく。甘えんな。こちとらノーパンで街中うろついた挙句に便意強襲で翻筋斗打つて苦しんできたのだ。烏滸なの?死ぬの?と自問自答の末にそれをXXXXXX(禁則事項)で解決してきたのだ。なめんな。
大正中期に別所村に興った播陽窯業株式会社は、所在地が別所村北宿860ということになっている。しかし現在北宿には860番地が存在しないらしい。最も近いのは859-1の播州倉庫(株)。敷地も広いので、ここがかつての廉価工場なんじゃ?と思い、出かけてみた。のだが……。
現地には天川中学校跡の碑が建っていた。昭和25年にここに阿弥陀村・別所村共用の中学校が作られた由。その前が煉瓦工場だった可能性はなきにしもあらずだが、中学校になり工場になりしていたらますます跡が残ってないわな。周囲を一周してみたけれどもやはり収穫はなかった。
念のためにと思って国道2号の南側も歩いてみた(こちらはいま別所町小林という地名になっている)。いかにも新興らしい住宅地があるばかりで、煉瓦がありそうな雰囲気ではなかったのだが、区画割の一角に空き地があり、古煉瓦の屑がいっぱい落ちているのを発見した。煉瓦だけでなく赤褐色の土も散乱していたのが意味深だ。煉瓦の一つにはモルタル目地ではなく粘土(おそらく煉瓦の素材になるやつ)を塗って積んだ痕跡もあった。
煉瓦で窯を築く時には、モルタルでなく粘土を目地にして積んだ節がある(by堺市の住宅街を歩いた時の経験。もと関西窯業という土管製造会社があった辺りに溶けた煉瓦=窯に使ってたやつと思われる煉瓦が落ちていて、それには赤土が塗られていた。モルタル目地だと火に弱いだろうし、赤土目地で積んどいて焼けば窯全体が一体構造になるにちまいない)。そういうわけでこちらが工場跡であったのかも知れない。厳密に追求するなら法務局だな。
そうしてこの屑煉瓦の中に、楷書の「ハ」の字の刻印を発見したのだった。
「ハ」。セオリー通り会社の頭文字だとすると、播磨煉瓦>原田煉瓦工場(>弘栄煉瓦)になるのだが、その跡地や周辺では「ハ」刻印は見つからなかった。以前「ハ」を見かけたのは阿弥陀一丁目の付近。播磨倉庫の東方だ。して後で北宿の旧市街地を歩き回り、見つけた煉瓦壁にも「ハ」があった。
この壁に使われていたのは直線的な棒二本による「ハ」。さきほど見た楷書の「ハ」 も畑のシートの重石に使われているのを目撃した。北宿周辺では「ハ」が優勢で、なおかつ幾つかのバリエーションが存在していたけである。
となると、「バンヨウ」の「バ」の濁点抜きであると考えたほうがよいだろう。推測を弾ませれば中播のバでもよいかも知らぬが、他所の中播の工場跡地では見つかっていない。もし中播=「ハ」なら印南郡のそこここで見かけているはずだ。あと、中播が興った時には他に煉瓦工場がなかった。刻印のレゾンデートルは自社製品を他社のと区別するためというのが先ずあるわけだから、競合他社がいなければ刻印の必要もなかろう。実際印南郡では無刻印の手成形煉瓦も結構な量分布している。全てがそうだとは言わないが中播のがずいぶん混じっていることだろうと想像する。
北宿を歩き回った足で見野へ向かった。北宿から見野へは中国自動車道に沿って山越えするのが早い。国道2号を通って行くと三角形の二辺を歩いて行くことになってしまう。それは無駄だ。
高速道路脇の細道---いつも自動車道から横目に見て「どこから来てどこに繋がってるんだろう」と不思議に思っていた例の道---をてくてく歩いて行った。播但道とのジャンクションの西側、山をでっかく切り通した峠から姫路の賑わいを見渡せた。この眺めは結構面白い。昔ここには道がなかっただろうし、あってももっと高い所で、木々に遮られたりもしただろうから、今だからこそ得られる峠の見晴らしと言える。
そんなのを見つつ、思いつつ歩いていたせいか、平野に降り立った途端に左折してしまった。見野は右(高速道の北側)だ。気づいた時には南の集落(四郷町明田)の中をひとしきり歩いた後だった。
明田の在所では「K2」を発見。別の通りでも土埃に塗れた「K2」を見た。「K2」自体は尼崎市街で見かけていたのだが、集中的に転がっているのは初めてだ。
間違いに気づき、北上。東山工業所も番地が判明しているので、そこを中心に歩き回るつもりだったのだが、そこに辿り着く前に「山」を発見した。昨日のエントリに掲げてある下辺の丸い「山」だ(写真は角丸の異形煉瓦だが同じ並びに普通煉瓦の同刻印あり。集落の路地裏でも1つ見つけた)。なんだか推定山城煉瓦に似てるなと思ったけれども、あちらはもっと篆書チック。下辺と中央縦棒の間に三角形の空間がある。
東山工業所なのだから「東」とか「ヒ」とかを期待していたのだが、先に山陽窯業が見つかって、ちょっと意外ではあった。しかしこの工場は山陽窯業が分裂してできた個人工場だから、山陽窯業の「山」刻印があっても不思議ではないのだった。
先に集落の路地裏を歩き回ってみたが、出てきたのは無刻印か「山」刻印ばかり。他には作業者符丁と思われる素朴な作りの「ロ」「ホ」刻印を見つけられただけった。このうち「ロ」刻印は明田でも同じものを見かけている。
結局、東山工業所製と断言できるものには遭遇しなかった。先述の「山」が東「山」である可能性も無きにしもあらずだが。。。これが現地調査の限界だろう。
んで、最後に該当番地へ行ってみる。マップにも載っている「教岸寺」の裏手だ。こんな住宅街のど真ん中にあったんだろうか?と思わないでもないが、現在の番地はそこを指し示しているのだから仕方ない。しかも、そこには……
こんな煉瓦塀があったりした。予想外も甚だしい邂逅である。
煉瓦壁の中央には焼損煉瓦が使われている。最近はわざと焼損させてこういう煉瓦を作ることがあるけれども、こいつは非意図的な、偶発的にできた焼損煉瓦を使っている。あまりにも汚過ぎるのが混じっているから。
そのうえこの壁には「K2」が使われていた。いかにもデンティルの隙間から覗いて見つけてねという位置に押されたK2。さっき明田で見たのと全く同じ打刻位置だ。
言い忘れたが、この壁は民家の壁である。煉瓦工場の周囲を囲っていたものというわけでもなさげだった。しかし工場所在地とされる場所にあるのだから、何らかの関わりがあるに違いない。余りに立派な家のため、怖気づいてピンポンできなかったのが悔やまれる。
そんなこんなで明田・見野では「K2」が集中的に分布していることに気付かされた。「Kn」刻印は印南郡の他の場所でたくさん見ているのだけれども、n=2は初めてだったりする。そんなこんなで「Kn=共同販売用に各社が作った煉瓦」説を思いついたのだった。
傍証がないではない。まずKnは構造物に見られる場合は必ずnが揃っている。2だけとか8だけとか。大正煉瓦阿弥陀工場跡のマンションもK6で統一されていた。工場内のラインを区別するためならnが複数混じっていてもおかしくないだろう。しかし(自分が見た限りでは)そうなっていない。
そうして郡内ではnの数字に明確な地域割拠がある。旧四郷村ではK2のように。この日しでかしたポカのため、日を措かずにまた姫路へ行かねばならなくなったのだが、その時にも同じような分布傾向を発見することになる。
見野から北上中に発見した煉瓦製排水桝で。場所はここ。こういう公共施設だと気軽に採拓できていい。後日同じパターンのを曽根で見かけた。掠れているとますます「T」に見えてあやうい。
曽根から西神吉へ歩いているとき、魚橋の旧街道筋を抜け、西神吉村域に入らんとするところに橋が架かっていた。名前を控え忘れたが1車線幅しかない小さなRC橋だった。写真はその橋から西神吉村方面を見たところ。正面の防音壁は国道2号のバイパス(姫路バイパス)だ。
渡った所に国道2号の看板が建っているのに気づいた。ああそうか、魚橋の旧街道筋ということは国道2号の旧道筋でもあるんだな。国道指定がまだ残ってるんだろうな。
と思いつつマップを確認すると、そんなことはなかった。↓の位置なので県道ですらない。撤去し忘れたおにぎりなのだろう。早くなんとかしたほうがいいよ。腐っちゃうよ。納豆のような口当たりのかつおおにぎりになっちゃうよ。
長くなったので未来にトバす。弘栄煉瓦が岸に進出するのは播煉よりも遅く、昭和16年頃のことらしい。そうして39年頃まで操業した。従業員Gということなので49人以下の小規模工場だったのだろう。
該当番地の辺りはすっかり住宅地に生まれ変わっている。そのど真ん中の1ブロック、もし今ここに煉瓦工場があったら煙害で大問題になっているだろうという場所だ。それゆえ痕跡は全く見られず、煉瓦すらも落ちていなかったが、ブロックの東橋に写真のような空き地が残っていた。現所有者は不明だが「立ち入り禁止」「ここで遊ぶな」という手書き看板がこれでもかと建っていた。工場の番地が判明してもモノが残っているとは限らない。そういう当たり前のことを確認した。
とは言い条、住宅街の端にある大歳神社の片隅で煉瓦を目撃した。1つは明らかな焼損煉瓦。無刻印。もう1グループは機械成形のJIS煉瓦で、但しずいぶん歪んでしまっている。これも焼損の類かも知れぬ。
この神社の東側に古い長屋が残っている。奥までは立ち入らなかったが、入口の路地の脇に写真の刻印煉瓦が落ちていた。機械成形の肌に「K」を打刻したものだ。刻印というよりも釘か何かで作ったような素朴さがある。機械成形の煉瓦なのに。
あやうく忘れるところだった。同じものを四郷町明田でも見つけている。これが弘栄煉瓦の刻印なのだろうか? それとも「Kn」シリーズの流れを汲むもの---共同販売刻印の名残りなのか?Kn=弘栄で、その名残り? なのだろうか。これがあるせいで仮説が仮説の域を脱せない。
昭和3年から操業開始したバンレン岸工場。これは国土地理院で公開している国土基本図@S30年代に記載されているので間違いない。ただしその発行からも約半世紀が経過し、住宅街が立ち並んだり姫路バイパスが開通したりしたことで、辺りはすっかり様変わりしている。工場跡地もローレルコート加古川という最新式の?マンションになっていて、見るべきところすら見つからなかった。周囲の住宅も新しいものばかり……。
もっと心に余裕があったら、大字神爪だとか山陽本線の南側だとかを歩き回っていただろうが。。。ぱんつはいてないと気合が入らぬ。気になってならぬ。早々と諦めて宝殿駅へ向かった。
以前この駅から乗った時には鉄道南側で三本線刻印を見かけている。集中的に。ここに工場があったという記録はないが、何かヒントになることが見つかるかも知れぬ。次回の課題だ。
播州合同煉瓦岸工場では操業末期に道路用コンクリート製品(排水渠や排水桝等)を作っていた。やがてそれが本業となり今日のバンレン(株)になっている。
今日の成果はまた日を改めて。曽根天満宮の石垣のことだけ書いとこ。
高砂市曽根にある天満宮はかなり有名な社だそうだが、そのことよりも石垣が面白かった。境内西側を限っている石垣が見事。合場の合わせが寸分の狂いもないのはもちろん、毛抜き合場四ツ目になりそうな場面を巧みに交わして崩してある。相当な上手の作である。
などと思いつつ見ていくと、こんな遊び積みも。よっぽどの名人でなければこんなことする余裕はない!
参道を挟んで北側にも石垣が続いているが、こちらはちょっと見栄えが劣る。合端の隙間が目立つし、水平が崩せてないっぽいし、写真の場所には重箱気味な積みも一箇所ある。(とかなんとか評しているが自分がこんなにうまく積めるとは思っていない。さっきのが上手すぎるのだ)
そうはいうが、この区画にも遊び積みがあった。恐らく杯なのだろう。赤っぽい石を選んで作ってあるところにセンスを感じる。先の瓢箪(酒瓢箪)と対になるようこの形を選んだのだろう。師匠と弟子の作品、といったところか。
_ 齏藤 [おぉ阿弥陀のモアイ。切窓峠の彼もぷりーず]