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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2019-12-01 [長年日記] この日を編集

[きたく] 東西煉瓦研究者のつどい

まる二日間煉瓦のことしか考えなかったので頭が熱暴走気味である。一度は見てみたいと思っていたあの煉瓦この煉瓦の実物を見ることができただけでなく調査に関わられた先生方のナマの声を聞け直に質問をすることができたりもして、いやはやなんというかこうあれがそれしてニンニンである。知見の蓄積とその整理だけでお腹いっぱいである。困ったことである。あとnagajisはもうちょっと内容を整理したうえで空気読んでから喋ったほうがいいぞと思ったことだった。

ネカフェの床に寝転びながら考えた。短歌俳句と煉瓦は似ている。17文字あるいは31文字という字数制限、加えて季語だの何だのという制約が課せられていて、定型の最たるもの、極端に言えばいろは48文字の順列組み合わせであり詰め込める文字は有限であるはずなのに、にもかかわらず私たちはその短い詩のなかに無限大の世界を読み取って共感したり感嘆したりする。短歌俳句のリズム感が日本文化の根底をなしていたりもする。煉瓦も要は1:2:4の直方体で、ぱっと見どれも同じようなのだけれども、そこからわかることは数限りなくあり、声無き声に耳を傾け何かを聴こうという人がそんな態度で接すれば無限大の情報を与えてくれる。

「定まった形」に興味を持ち、そこに形以上の何かを詰め込もうとしたり容積以上のものを引き出そうとしたりする態度、「定まった形」の枠の中で自由を謳歌するような態度は、案外日本人の根源的な特性なんかも知れない。切手やマッチ箱を集めてみたりとか、レールを分類してみたりとか、マンホールの蓋とか。「規格化」形にはめ込むというか規格を作るとかいうところはひどく苦手だ。もし上手だったら戦前からJES規格が流行していたはずだし戦後になってネジに互換性があることに驚いたりするようなことはなかった。

んで俳句だ。575や57577という定形に無限の情報を詰め込み引き出す能力を涵養してきた私たち。7.5寸×3.6寸×2.0寸の焼き物の塊にさえ魅力を感じ雁首揃えてあーだこーだと議論したりする根っこにはそんな間隔が根ざしてるんじゃないかと思ったわけだった。

それで、57577を……まるで煉瓦のように連ね、重ねた結果「連歌」になる。構造物となった煉瓦には単体以上の含蓄がある。叙情さえ感じられる。一個一個はただの煉瓦でも、同じ構造物の他の煉瓦と協和したり不協和したりするさまが面白く思われる。煉瓦師は実は連歌師であったのだ。とうまいこと言ったつもりになった辺りで寝たと思う。


2019-12-02 [長年日記] この日を編集

[煉瓦] 草津の煉瓦

I君には「大したものがなかった」などと言ってしまったけれども、帰って整理をしてみたら、どうしてどうしてな結果であった。 画像の説明 画像の説明

例えばこれ、大野煉瓦。刈谷の授産所を源にもつ愛知県の老舗工場の製品。明らかに愛知県製という煉瓦を関西地区で見つけたのは初めてだ。今まではせいぜい三重止まりだった。

(いまは保線車両置場になっている?旧線路時敷に転がっていて、望遠で目一杯ズームして撮って、持ち帰ってシャープかけてみてやっとわかった。 ISO下げとくべきだったな。半田カブトビールで見つかっていたやつは漢数字だったけど、これは英数字で縦書きしてあるようで、そこだけ若干の不安がある) 画像の説明

これも現地ではよくわからなかった。手前にプランターが置かれてあって、暗いし近寄れないしで写真だけ撮ってきたのだ。現地では「ほっそい三日月?」とか思っていたのだけれども、 画像の説明

こうやって見た時に「なんか見覚えがあるぞ・・・」と気づいた。そうなんだ、愛岐トンネルでこれが見つかってるんだ。https://aigi-tunnel.org/09A/brick.htm の最後のやつとか、https://aigi-tunnel.org/images/renga/renga_kokuin.png の上三段目左二番目とか。使用会社は不明だけれど、愛岐辺りと草津とを関連付ける重要な刻印なわけだ。(しかしこの印、何を表しているんだろう? 保存再生委員会さんのサイトの写真を拝見しても天地があってるかさえわからん。にらめっこしているうちになんだかほっかむりをしたおっさんが突っ立っているのを俯瞰で描いた図のように見えて仕方なくなってきた。顔に見える辺りは漢数字ぽいのだけど)

刈谷市から草津まで煉瓦を運んでくることを考えた時、東海道線回りでも関西鉄道路線でも行けなくはない。東海道線に載せれば一発だが若干遠回り。関西鉄道は名古屋で載せ替えたか四日市辺りまで船で運んでからでもいいのかも知れぬ。そして多分関鉄は煉瓦輸送に割安な貨物運賃を設定してた(ココのどっかに書いたぞ)。そうして米原や長浜で愛知県産煉瓦を見てなくて、それで草津で見つかったってんなら、草津に直に着く関鉄ルートにレイズちうことになる。

しかし、関鉄沿線でも愛知のは見てないしな・・・。草津でピンポイントに見つかっているという状況なんだ。こりゃもっと範囲を広げて調べんといかんな。

(ていうか、草津まで来てるんだったら京阪神まで送ってても良さそうなんだけど。少なくとも阪神地区では見ないでござるよ>愛知産)

[道路元標] 宇治町・草津町道路元標

画像の説明

草津隧道の前の辻(東海道と中山道の分岐点)に道路元標があることを、一昨日に初めて気づいた。十何年か前の松の内に草津隧道跡を見に来た時には気づかなった私である。少しは成長したようである。 画像の説明

それで思い出したのだが宇治駐屯地のイベントに行った時にも元標が立っているのを見つけてたのだった。駐屯地のひとつ北の辻だ。

滋賀県の元標は裏に「滋賀縣」とあった。宇治のは確かなかった気がする。国道路線なんだからそりゃそうか。

[独言]ACアダプター

TF101のACアダプターを無くしたかと思って焦った。そうなんだ、これは15V出力だから普通のUSB給電アダプターじゃ充電してくれないんだ。それで壊れて慌てて書い直したのが今使っているやつだったじゃないか。

[独言]専門家と素人

考古学で煉瓦に関わっている方の多くは、法律上は?文化財になっていない煉瓦が出土して、その扱いに悩んだ結果、独自に研究を始めたという方が多い。構造物は文化財になる可能性があるが、壊れた構造物だとか遊離煉瓦とかは文化財にはなりにくい。でも捨てておくわけにはいかない。どうしたらいいだろう、という感じで始められた方が多いようだ。結果、考古学についての広範な知識に立脚して、その範囲から逸脱し気味な煉瓦を扱おうということになる。とりあえずは出土したモノの素性がわかりさえすればよい、と言ってしまうと言い過ぎになるだろうが、段階的にはそういうところで、研究が東西で蓄積されてきたのでさらにその先へ進もうとしてはるのが今回のつどい。

自分はどうだろう、と考えてみた時、まず第一に立場が違い、知識のベースも違う。ものに対する責任の軽重もある。私は煉瓦のことだけ考えておればいい気楽な立場である(無論間違ったことは言いたくないが、間違った結果恥をかいたり糾弾されたりするのは厭わない)。そのかわり?あらゆる煉瓦に興味が向いていて、むしろモノよりも背景に興味がいっている。会社の履歴とか市場とかを明らめるためにモノをみている。

同じようで違うアプローチなのかも知れない。大阪梅田から天王寺に行くのに環状線使うか御堂筋線に乗るか、環状線でも内外どっちで行くか、みたいな。あるいは電車とバス徒歩くらい違うかも知らんな。あたしゃ徒歩が好きだから。

そうして、考古学分野の研究が進めば、nagajisは要らなくなる。これは確実にそうなる。そうなってほしいと願う。 心のパンとして煉瓦を食っていられればそれでよいので、いつまでも素人が大きな顔してちゃいかんわーと思う。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ TUKA [煉瓦刻印ですが、家紋風に見えますね。4時付近が下か。植物か波か。社長が竹田さんとか三波さんとか。旧大名家が出資したので家紋が社章になったとか。]

_ nagajis [家紋ですか!考えてなかったなあ。こんな繊細な刻印は珍しいので、ぜひ追求してみたいものです。]


2019-12-03 [長年日記] この日を編集

[橋梁] 久保田敬一『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』

原典にカエレ(・∀・)! ということで府立図書館へ行ってきたのだが、元の図面からして潰れ気味で判読すること能わず。しかし本文を読み込んでいるうち、70ft桁に「平釬ヲ用ヒ」たなんていう一文を見つけてしまって祭りである。

釬という字、金偏に干って見慣れない字だが「溶接・はんだ付け」という意味があるらしいので、これこそ平頭リベットのことだ!と合点しながら帰ってきた。けれども家でもういちど読み直してみると、次のように書かれてあるのだった。

上下弦材は函形にして腹材には平釬を用い[金偏+串]を以て弦材に連結す
(原文カナをかなに変換)

函形にして、までは納得する。その次から謎。この論説でいう腹材は弦材同士をつなぐ部分のことのようで(他の箇所でもそう)、私が斜材と呼んでいるもののはずなんだが、その腹材に「平釬」を使うとなっている。れれ、リベットのことでない?

金偏に串、という字も曲者。漢和辞典にもない文字である。こういうのは旁の字で推測するほかない。串刺しにする金属、つまりはピンのことだろう。斜材を弦材にピンで留めるということで、それはそれで納得がいく。しかしそうすると平釬はますます平頭リベットでなくなる。

釬という字を調べてみると、ひじを護る防具、溶接、はんだ付け、弓の両端の弦をかけるところ、などの意味があるそうだ。中国語の漢字解説サイトでは釬は扌+日+干に通じるともある。桿−木+扌と書いたほうがいいか。桿だったらさおの意味があるので平たい鉄製のさおといって理解できる。とはいえテンションバーは平たい板だがコンプレッションバーは綾構つきだったりするし。平たい板ではないっちゃあない。

そうして、この論説の他の部分では鋲という文字を使っていたりもする。

要するに、わけわからんくなっただけだった。

それに加えて本文では「金+串間高さは八呎」と書いてあるのに図面は7ftであったりする。九鬼家文書の図面も7ftだ。確かに、長柄橋のトラスは高さが違う2種類が使われてあって、それが新旧桁の目安になるかも試練と思ってたけれど、ピン間高さが1ft=25.4cmも違ったら桁高さもそんくらい違ったりするんじゃないか(長柄橋のはそんなに段差ないんじゃないか)と思ったりもする。

それよりも問題なのは、浜中津橋のピン間高さを正確に測ることができないことだ 。浜中津橋なんか、間に中路的に床板が挟まっているので、うまいことメジャーを渡せないのだ。仮に床板がなかったとしても、相当工夫しなければ一人で高さを測ることができない。 これは困ったぞ。

[橋梁] 浜中津橋三たび

しつこく測っている。今回は斜材の厚さを全測定。そのついでに重要な発見をした。下流側桁は格子△の下弦材中央に「仕切り板」が取り付けられている。後補の桁との間に横材を渡したとしたら、ここに補強があって然るべきだし、この仕切り板に以前は横桁固定の何かがあったのかも知れぬ。しかもその取り付けは丸頭リベットだ。平頭リベットが初代桁の根拠になると考えている現状、ここだけ丸頭なのは非常に意味がある。そうして上流側桁下弦材にはそのような仕切り板がない。

長柄橋は△格子の中央に横桁が載せられていたけど、この桁は十三大橋の長柄運河部に架けられていたやつの転用なので、長柄橋用の工作は経験していない。だとすればやはり複線化時の補強と見るべきだろう。下流側桁は開業時のトラスの複線化中央桁とみて間違いないだろう。しかしそうなると上流側が謎になる。不等間隔に存在する六文銭状のリベット跡以外に痕跡はないのだった。(真ん中の格子には何もない!)

あと、下流側下弦材の横桁取り付けリベット跡と見られているやつは、内側の板材にも外側の板材にも同じようにリベット打ちされていて、外側のリベットは平頭(内側に頭)、内側は丸頭であったりするのだった。うーん、ますますわからんちん。


2019-12-04 [長年日記] この日を編集

[橋梁] 久保田敬一『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』続

件の論説で得られた貴重情報その2。初代橋をM20末~30初頭に拡幅した時に添え足したトラス桁は、鋼鉄製ではなく錬鉄製であるとのこと。拡幅の頃にはすでに鋼橋が一般的になっていたのだけれども、元の桁が錬鉄なので、それと合わせないと強度が均一にならないだろうということでわざわざイギリスに錬鉄を発注し神戸工場で製作した。この、神戸工場でトラス桁を製造したちうのも地味に貴重なエポックだった。この拡幅桁の製作が本邦におけるトラス桁製作の嚆矢だとのことだ。(よくわかっていないのだけど、橋の部材を作る=製造、穴開けたり加工したりする=製作、リベット打って形にする=建造・構築・あるいはこれも製作に入る?という各段階があって、たしか初代桁もリベット打ちは日本でやったんじゃなかったか。イギリスから組み立てた状態で運んでくるというのはちょっと考えにくい。製作からやったのは拡幅トラスが最初と。)

この論説が書かれた頃にはすでに「拡幅桁=鋼鉄製」という認識が広まっていたそうで、往時を知る人の話や部材発注の記録などを見てもそれは間違い、錬鉄製である、とわざわざ書いている。ということは転用桁のグラインダーテストをしても新旧はわからないってことだ。うむ。

あー、この論説、戦前名著100選か何かに入ってるんだ。今知った・・・。でも図面は相変わらずだな。諦めるしかないか。http://library.jsce.or.jp/Image_DB/book/pdf/02247/index.html

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/book/index.shtml この ページどこからリンクされとるんだろ・・・


2019-12-08 [長年日記] この日を編集

[独言] 自分の考え

ネット情報を鵜呑みにし信じ切っていた人が、あることをきっかけにその真偽を気にするようになり、結果何が正しいことなのかわからなくなり、終いには「自分の考え」って何やねんと悩み始めたという話を読んだ。最初はザマアなんて思ってしまったのだけれども、我が身を振り返ってみた時に、そのようなケチをつけられるほど「自分の考え」を持っているだろうかと思わされたことだった。

自分の子供の頃は確か、親や大人に反駁する若者が、そうした反駁のひとつとして「自分の言葉で話せよ」っていうような決め台詞があった気がする。勉強しなさい、いい人間になりなさい、そういう内容のことを誰もが言うような・思いつくような言葉で話し説教する大人はそう言って嫌われた。わからんでもない。同じ言葉を耳にタコができるほど聞かされると飽きてくる。あんたもそうしか言わんのかと思ったことは何度もあった。けれども今、そう思われる可能性のある立場になったとき、「誰もが言わないようなこと」とか「その人独自の思想から発せられた言葉」だとかを使っているかと問われれは、ちょっと、いやとても、自信がない。何を喋っても、過去に誰かが言ったに違いないことであったり内容であったりするだろうと思う。書くことについても同じことが言える。こういう時に自分はこう書きがちだよなあと思うような言い回しが多いことを自覚している。流麗な文章なんて望むべくもない(といったような書き方もきっとどこかで読んだ文章の真似なのである)。

自分自身の芯って何だろう、と、学生の頃から常々考えていた気がするが、だからといってコレだというものが出来上がっている今ではない。むしろ逆を行っている気もする。考えれば考えるほど芯がわからなくなってきて、結局自分はなんなんだと思うことのほうがはるかに多い。

そういう「自分の芯」と「自分が好いて止まないもの」(嗜好とか性格とかいったほうがいいか)とは違うものだと思う。煉瓦について詳しくはなったが、それが自分の価値判断を左右することはないし、様々な先行研究に学び、真似てきた結果であって、自分自身で見出したものではない。そもそも煉瓦は誰かが作ったものであって、その痕跡を読み解いてみて(あるいは読み解いた気になって)あーだこーだと想像しているだけだ。数学者が公式を発見したり物理学者が自然現象を究明したりするのとは全然違う。誰かが作った煉瓦がなければ、自分のいまの興味は持続し得ない。以上の「煉瓦」を「橋」とか「隧道」とか「廃道」とかに置き換えても同じことが言える。

微かに言えることは、そういう過去のモノに対する興味と、過去に迫ることを快感に思う性格は、自分で鍛え養ってきたことではあるだろう。ものごとを深く追求する姿勢は自分の芯なのかも知れない。そうして得られたことだけを信じている。眼前の事実を鵜呑みにするんじゃなくて、咀嚼吟味したうえで採るか採らないかを決めている。それだけは自分。だと思っていたが、その採る採らないの判断基準はどこにある?どこから得た?と考え出すと泥沼だ。フォークより箸がいいと思うのは日本文化のなかに育ったからであって、環境に影響された結果だと言えなくはない。自分自身の選択で箸を使っているわけではない。外人さんがチョップスティックスを使っていれば「ああこの人の選択なのだな」と思えるが。日本語だってそうだろう。日本に住んでいるから自然と日本語を使っていて、それを怪しむこともない。

こういうのもひっくるめて、結局は、寺田センセのいうところの「負債」なんだろうと思う。ありがたい言葉だとつくづく思う。借りたものなら返せばいいのである。違う形であって構わないから、先達から賜った言葉たち、アイデア、発想、そういうものを借りまくってきた代償として、何かを還元することができればいい。その貸借の循環が社会というものなのだろうと思う。社会を驚かす大発見とか、世の中をより良くする画期的発明とかでなくても、何かを社会に還元できれば。

その時に「自分の考え」があるといい。自分が集めたいろいろを鸚鵡返しに返していては自分の介在する意味がない。必要がない。そうじゃなく「自分の考え」というフィルターで濾過して残ったもの、あるいは濾液でもいいだろうけど、そうやって別の何かを作り出すことができたら、それが何かの役に立つかも知れない。どういう成分が濾し取れたかを「自分の言葉」で説明すれば、若人が嫌っていたような大人にはならないだろうと思う。嫌われるのは構わないが、かつて嫌っていた責任を取って、そうはなってはいけないと思う。

まあどっちにしても、気負って何かを言おうとしたり、世を驚かそうとして焦ったりする必要はないのである。それは経験でよくわかった。焦れば焦るほど失敗するからnagajisは。成果を急いだり見返りを期待したり、とかく何かのレスポンスを恋い焦がれてもs世界は私じゃないのだから。そこはむしろ禅的に、世界も自分なのだ、自他不二なのだと理解して、自分に自分をアピールしても意味ないじゃんとか思っていたほうがよい。

[独言] イベント盛り沢山

生活環境が激変したうえにイベント続きで、こういうのを泣き面に蜂というのだろう(違。嬉しい悲鳴といっとけよ)。動けるうちに動いておかなければならない。ほんとあっという間に時間は過ぎていき、それにひっついていくのが精一杯な毎日である。そのうち「嬉しい」が抜け落ちて「悲鳴」だけにならないようにしたいものだ。


2019-12-10 [長年日記] この日を編集

[橋梁] わあおう。

画像の説明

稀代の珍橋である。まさかここで、大宮橋のピン間高さ計測のために考案した秘策を使うことになろうとは。というか大宮橋のことを書けと>nagajis(終わった後足を伸ばしたらあったんよ)

[奇妙なポテンシャル]エロ自販機

画像の説明

新調したライトの具合を確かめたくもあったので、日が落ちた孝子から国道を歩いてみさき公園駅まで行こうとした。その途中でエロ自販機コーナーに出会った。今や絶滅危惧種のような存在となった彼である。妙に惹かれるものがあり、立ち寄ってみた。

画像の説明子供の頃にはその醸し出す不道徳感とエロスへの好奇心から遠巻きに眺めていた、ある意味「羨望の的」であった場所で、入る時も些かの背徳感を感じたりなどしたのだが、考えてみればもうすでに入るのを憚られるような年齢では無くなって久しい私だったのである。そういうわけで大手を振って入ってみたのだが、相変わらずの場末感というか、うらぶれ尽くしたというかな状況が何ともいえなかった。販売機械もおそらく子供の頃のから変わっていない。古いを通り越して機械遺産の範疇に片足を突っ込んだようなものばかりであった(千円札の投入口が「ほんとにそれお札取り込んでくれるん?」と思うようなただのスリットでしかなかったり。実際そんな札の入る隙間でしか無く商品を買えたりはしないのかも知れない。そうして硬貨投入口も返却レバーも使えなくなってガムテが貼られている)。

ディスプレイされている商品は一応更新されているようだったし、一つひとつに丁寧にポップがつけられていたりもしたが、要は紋切り型の売り文句?の羅列であって、どの商品に差し替えても通用するようなものであった(ま、そりゃそうか)。千円札しか使えないためか、どれも千円単位の値段設定なのがとても強気でありかえってエロ自販機の矜持の賜であるようにも思えたりする。いうまでもなく中身は微妙かそれ以下である。え、それが2,000円もするの?!とか思わずにいられなかったし最上段の玩具などは5000円もする。

さすがに買う気にはなれなくてすぐに出てきたが、店内?にはそんな自販機が5台も6台も並んでいて壮観だった。ていうか今はエロスよりコーヒーが飲みたい、孝子に自販機がなかったからこうして歩いてきたのである。そしてこの場で贖えるのは欲求の充足と失望だけであって、コーヒーは結局深日まで行って漸く手に入ったのだった。


2019-12-18 [長年日記] この日を編集

[ORJ]息継ぎしたい

何とか発行することができた。あったはずの余裕は一体何処へ行ってしまったのか。

.psdから別名保存で.pdfを作ったあと、そのファイルを閉じようとして、間違えて保存してしまいレイヤー統合された.psdを作ってしまうというミスをよくやらかす。今日もそうやって表紙をだめにした。保存する直前にレイヤー表示が多段になっているのを確認して「これならpsdで保存しておk」と思ってしまうようである。作ったpdfに問題がなければいいのだが、その時点で誤字脱字を見つけてしまうとかなり情けないことになる。実は領地と領家をよく取り違える私である。

今回の廃句は我ながら正統派だと思っている。しかしずっと中村草田男だと勘違いしていたのはいただけない。何と取り違えていたのか。


2019-12-19 [長年日記] この日を編集

[煉瓦][煉瓦工場]関東編刻印図つくる

泉×岸大会の後、東京産業考古学会のYさんから素晴らしい論文をいただいたので、関東編の刻印図を作り始め、それが中になっていた。ORJが一段落したのでその続きを仕上げる。ついでに富岡の刻印やシモレンのも入れておいた。実物を見ないと作成しないつもりでいたのだが抜けているとかえって変な感じがしそうだったので。そのくせそれ以外のは無視している。全部使ったら『集成』のまるぱくりになってしまうだろう。

けんきゅうが一段落したとはいったが休むつもりはないのである。勝手なのである。とはいえ関西以西はここからが大変だろうなと思う。あ、宇治駐屯地の知見を反映させる必要があるのか。○ー○カナは、いったいどこのなんだろうな……。破線も古かったらさらにわからなくなる。

あ。三室でもいいのか>破線。一つは確かに見ているんだしな。でもそれが大阪府下に散っているのはなんでなんだぜ?

[橋梁]何なん、泉南。

画像の説明

千石橋。昭和四年竣工のスパンドレルブレースドRCアーチ。すでに存在しない橋である。ORJ第30号(2008年10月発行)参照。

これでビビっていたら、いかんかったのだ。何なん、泉南。


2019-12-20 [長年日記] この日を編集

山中 孝文, 田中 尚人, 星野 裕司, 本田 泰寛「土木分野における工学得業士に関する研究―五高工学部・熊本高工の卒業生を対象として―」(土木学会論文集D2(土木史), 2012, 68 巻, 1 号, p. 82-95)

上床義隆。


2019-12-23 [長年日記] この日を編集

[独言] 図書館へいく

明治29年の大阪府の煉瓦製造量、あるいは生産額を知りたい。

という瑣末に過ぎるリファレンスを受けて下さり随分調べてくださったのだが答えは得られなかった。最初にこれこれこれを確認したと申したのだけれど、合力して探してくださった方が出してくれる資料ゞが既にあたっている文献ばかりで何とも申し訳那須の夜市。

明治の大阪府誌第二巻工業部には確かに生産量が載っているのだが、その値が一桁違うんじゃないかという疑惑を晴らしたかったのである。データがあるということは当時の大阪府がデータを収集していたということで、そのデータが府止まりでなく内務省とか農商務省とかにも行ってそうなのだけれども、当時のそれに相当する『農商務統計表』第13次には煉瓦の項目がないのだった。陶器はあるけれど。

結局のところ、収穫は『大日本窯業協会雑誌』がwebで見られることを思い出させてくれたこと(M29かM30あたりの雑報に乗ってないだろ―か)、宮谷慶一「明治・大正期における煉瓦産業の分析 -統計資料からみた日本近代における煉瓦生産について その1-」を教わったことは収穫であった。後者の論文は「その2」にあたる「煉瓦生産額上位府県と労働時間の分析並びに統計資料の調査対象に関する補足」で大阪府単体の分析も行なわれているけれども明治38年以降しかないのだった。ざんねんだ。

そうして例のごとく古新聞を発掘する。今回は明治40年に手をつけることにした。この時期の煉瓦構造物にやたら混用が見られるのはなんでやねんということでこの年の産業状況なり世情なりを知りたかったのである。1月分しか見れなかったが久しぶりにマジ読みしたせいか色々と発見があった。毎索を明け渡して聞蔵に移ったりしたが、その聞蔵で拾い漏らしていた重要情報も多かったのである。聞蔵は「煉瓦」と「煉化」と「レンガ」の結果が正規化されていない。「煉化」「レンガ」で検索して初見の記事にヒットすること多々。しかしなぜか明治23年頃から30年代後半までヒットが全くない。紙面データベースには大阪朝日新聞創刊号~大正15年まで収録とあるんやけどなぁ。おかしいなあ。キーワード「煉瓦」でも引っかからないのは何かおかしい気がする。

[煉瓦][] 原口亀太郎→原口仲太郎(朝日新聞M18.11.8. 2面)

そんな朝日の重要情報。原口亀太郎と原口仲太郎の関係が明らかにできた。

●勤勉の余栄 府下堺区大浜通住居鹿児島県平民原口亀太郎と云えるは同地にて数年間煉化石の製造に刻苦し鉄道を始め大建築に用る煉化石は都て同人の製造品ならざるなき程の精良に達せしが惜いかな同人は客月九日俄然急病に罹りて死去したり依て鉄道局に於ては生前の勤勉を追賞せられ別紙の通祭祀料を下賜せられたりと
  金百円   原口仲太郎
其方父亀太郎儀年来当局用煉化石製造方に付勉励の廉も不尠候処死去候段憫然の至り依て別紙目録の通祭祀料として下賜候條吊祭に可供且其方は引続勉励し家業不惰様可到もの也
 明治十八年十一月四日   鉄道局印

鉄道一瞥」では堺の鉄道寮工場を原口亀太郎に払い下げたとしていた。「大阪府誌@明治34」ではそれが原口仲太郎となっている。して後年の統計書でも原口仲太郎が所有者となってる。なので原口亀太郎は仲太郎の父なんじゃないか、そうでなくても縁故者じゃ、と思っていたけれど、それが証明された格好だ。まこと瑣末な些細事項ではあるが、こういう偶然的な情報でもない限り証明が難しい事項である。見つけるのが困難なパズルのピースがひとつ手に入ったわけで、これからは大手を振って原口亀太郎=仲太郎の父ということができるのは大変心地いいことである。

(とはいうものの、朝日の記事は信憑性に疑問がないわけじゃない。逢坂山隧道に外国産煉瓦を使うとか、その頃までは尽く外国産使ってるとか書いて憚らなかったりするので。)

[][煉瓦] 三栄組マークの謎が解決するしなかった(朝日新聞M21.8.4. 3面)

画像の説明いかん、ずいぶん寝ぼけてた。これは共栄社ではないか馬鹿者。二本線を互い違いに組み合わせて三本線風にした記号は、どこかで見つかっていそうなんだが。

[煉瓦][] 第一煉瓦広告(朝日新聞M21.6.30. 4面)

画像の説明

だったらこっちのほうが役に立つ。岸和田煉瓦の前身、第一煉瓦の広告。以前Yさんから教わっていたとおり、件の×印は第一煉瓦時代から採用されていた。

[煉瓦][] 勝部煉瓦広告(朝日新聞M21.12.24. 4面)

画像の説明勝部も広告を発見する。そうして「○」印が掲げられておる。これは解釈を難しくしてくれる発見・・・「勝」「部」「煉」「化」「製」「造」「販」「売」「末」「広」ではないのか。しかし成山第一第二の辺りで○刻印が見つかっているのは確かで、勝部の操業時期はぎりぎり、そこに引っかかる。成山は明治23年7月着工、勝部はM23末まで存在。なおこの数日後の勝部の広告には何のマークも掲げられていない。

そのほかにも馬関の砲台建設が第二方面担当の一般企業請負入札で進められていること(条件が厳しくて日本土木しか入札し得なかったが入札額にイチャモンつけられて大幅に減額のうえ再入札で日本土木が落札。結局は指名入札みたいな感じになったわけだ。しかし当初は一般入札が建前で、いつかの時期に指名入札が認められるようになったはずなのである。yes, sir.)とか岡山の玉島煉瓦が×印掲げてたりとか堺煉化石の関係者名が井上勝彦以外にも判明したりとか井上勝彦が海防費寄付してたりとか偕行社と関係がある?とか。偕行社の件はちょっとあいまい。偕行社で行われた宝物天覧に井上が所有する陶磁器が並べられたというだけで偕行社メンバーとも限らない。肝心のM40の煉瓦商況も意外に存在した。1月頃じゃ何も出てこないと思ってたんだけどな。前年9月頃から経済界が急激に活性化し始め、1月に入ってからも未曾有の伸びを示していた。煉瓦供給も本年度生産見込みの相当割合がすでに購入者が決まっていて、各社ともその生産に追われている状況、あるいは新規注文は断ることになるやも知れぬ、みたいな話になっておるのだった。なるほどそういう状況だと市場価格はバカ上がりするだろうし、まとまった量を入手するのは難しかろう。山陰本線なんかは夏に大水害を被って作り直しが発生したりしている。その頃に急に&大量に購入できなかったからああなったんではないか、ちう話。

久しぶりの新聞発掘で手抜きができなかった。マジ読み4時間で1ヶ月しか進まなかった。いつ終わることやらだ。

[大日本窯業協会雑誌] 明治30年 瓦類及煉瓦石造物の風化(英国工業協会雑誌)(1897年6巻65号彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/65/6_65_623/_pdf/-char/ja

[大日本窯業協会雑誌] 明治30年 京大使用煉瓦=堺・奈良煉瓦製(1897年6巻65号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/65/6_65_635/_pdf/-char/ja

第一期は京都大学使用煉瓦=堺、奈良両煉瓦工場が納入。163万個。

[大日本窯業協会雑誌] 明治30年 徳島県板野郡 陶磁器製造会社設立(1897年6巻61号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/61/6_61_454/_pdf/-char/ja

時期的に天羽が近いぞ。このほかにも京大使用煉瓦の件、鹿背山の山城煉瓦の出願など。掘れば掘るほど出てくるばい。

[大日本窯業協会雑誌] 明治30年岐阜県大垣市奥田氏工場、富山煉瓦工場(1897年6巻63号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/63/6_63_546/_pdf/-char/ja

[大日本窯業協会雑誌] 東京・大阪商況〔64号雑報〕

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/64/6_64_584/_pdf/-char/ja

鉄道建設に当て込んで小工場乱立するも日本煉瓦製造東京煉瓦金町煉瓦に注文が行き小工場は逼迫。

別報で大阪のも。大阪朝日の記事だから以前掲げたのは別だ。

淡路岩屋町の岩屋煉瓦、株式会社に改組。

[大日本窯業協会雑誌] 明治30年 馬関丸尾煉瓦、宮城製瓦株式会社(1897年 6巻66号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/66/6_66_682/_pdf/-char/ja

馬関丸尾煉瓦、宮城製瓦株式会社。

[大日本窯業協会雑誌] 明治30年 東西各社の純益、配当率(1897年6巻66号商況)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/66/6_66_691/_pdf/-char/ja

東西各社の純益、配当率。昨年上半期が最も好況。泉陽煉瓦は損益。

[大日本窯業協会雑誌] 明治31年 府下不況の様相(1898年6巻67号雑報)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/68/6_68_787/_pdf/-char/ja

府下不況の様。

[大日本窯業協会雑誌] 明治31年 宇和島煉瓦?(1898年6巻68号雑報)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/69/6_69_845/_pdf/-char/ja

宇和島煉瓦?

[大日本窯業協会雑誌] 明治31年 府下不況の様 その2(1898年6巻70号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/70/6_70_890/_pdf/-char/ja

府下不況の様。M29の製造高あった!と思ったら堺市のだった・・・。それでも堺市だけで32,954,829だから、大阪府誌M34の9,785,400個は明らかにおかしい。

君津郡煉瓦製造株式会社。発起人多い。

[大日本窯業協会雑誌] 明治31年 府下商況(1898年6巻71号商況)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/71/6_71_931/_pdf/-char/ja

府下商況。

[大日本窯業協会雑誌] 明治31年 元山浦煉瓦商況(1898年6巻72号商況)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/72/6_72_967/_pdf/-char/ja

長崎などから輸入。

[大日本窯業協会雑誌] 明治29年 山梨煉瓦、日本煉瓦、大阪煉瓦、讃岐・西讃(1897年5巻59号彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/49/5_49_8/_pdf/-char/ja

こっからM29.1.。発起人他。日本煉瓦や大阪煉瓦、讃岐、西讃も。

[大日本窯業協会雑誌] 明治29年 三原煉瓦(1897年5巻60号彙報)M29https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/50/5_50_30/_pdf/-char/ja

大高庄右衛門関与。

関東の煉瓦供給不平均。金町煉瓦が被災、小工場の製品代価あがる。

[大日本窯業協会雑誌] 明治29年 朝日煉瓦、中河内煉瓦、泉南煉瓦、西宮煉瓦、山梨煉瓦、平坂煉瓦(1897年5巻60号彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/51/5_51_64/_pdf/-char/ja

発起。山梨煉瓦、平坂煉瓦設立記事も。

[大日本窯業協会雑誌] 明治29年 中播煉瓦、馬関煉瓦(1897年5巻56号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/56/5_56_265/_pdf/-char/ja

[大日本窯業協会雑誌] 明治29年 大阪生産額(1897年5巻57号雑報)

あ、あった! と思ったら・・・これって以前テキスト化した東京朝日の記事やんけ! ああああああああああ答えは既に手中にあったんだぁぁぁぁぁぁ!!! ばーかばーかー>nagajis

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/57/5_57_290/_pdf/-char/ja

大会社合わせて39,806,586個。大阪府誌M34は9,785,400個だから頭の3が抜けていたと見てよい。

八王子煉瓦、津守煉瓦(林氏おらんぞー)、飯東煉瓦、住吉煉瓦、豊州煉瓦。讃岐煉瓦には大日本窯業会会員の設計の輪窯+登窯。

[大日本窯業協会雑誌] 明治29年 土佐煉瓦陶器株式会社に三重県の技術者(1897年5巻58号窯業彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/58/5_58_339/_pdf/-char/ja

他に台場が原煉瓦製造所(北海道上川郡)、中越煉瓦合資会社(西砺波郡立野村)、中央煉瓦、篠ノ井鉄道冠着隧道煉瓦工場by鹿島組、愛知煉瓦合資。

[大日本窯業協会雑誌] 明治29年 煉瓦製造所彙報(1897年5巻59号窯業彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/59/5_59_364/_pdf/-char/ja

いちいちかけんくらいにおおい。

[大日本窯業協会雑誌] 明治29年 東京商況(1897年5巻59号商況)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/59/5_59_375/_pdf/-char/ja

[大日本窯業協会雑誌] 明治29年 東京煉瓦株式会社、金町製瓦、名古屋監獄所煉瓦(1897年5巻60号商況)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/60/5_60_407/_pdf/-char/ja


2019-12-24 [長年日記] この日を編集

[大日本窯業協会雑誌] 明治31年 宮城製瓦、南海煉瓦(1898年7巻73号 雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/7/73/7_73_18/_pdf/-char/ja

[大日本窯業協会雑誌] 明治31年 東京商況・金町製瓦不振(1898年7巻76号雑報)

東京商況。金町製瓦の不振。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/7/76/7_76_143/_pdf/-char/ja

[大日本窯業協会雑誌] 明治31年 大高庄右衛門の改良窯(1898年7巻77号雑報)

大高庄右衛門の改良窯。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/7/77/7_77_176a/_pdf/-char/ja

[大日本窯業協会雑誌] 明治39年 大高・日吉の訪満韓(1906年15巻172号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/15/172/15_172_150/_pdf/-char/ja

大阪窯業大高庄右衛門と和泉煉瓦日吉の満韓視察報告。

[大日本窯業協会雑誌] 明治40年 大阪窯業、和泉煉瓦、貝塚煉瓦合併(1907年15巻173号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/15/173/15_173_187/_pdf/-char/ja

大阪窯業、和泉煉瓦、貝塚煉瓦合併。

[大日本窯業協会雑誌] 金町製瓦の談話。M39商況(1907年15巻174号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/15/174/15_174_218/_pdf/-char/ja

金町製瓦の談話。M39商況。

[大日本窯業協会雑誌] M40 商況上向き(中外商報)(1907年15巻180号)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/15/180/15_180_407/_pdf/-char/ja

商況上向き。

[大日本窯業協会雑誌] 明治40年 大阪の煉瓦製造業(1907年16巻183号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/16/183/16_183_141/_pdf/-char/ja

大阪の煉瓦製造業。すでにテキスト化済

[大日本窯業協会雑誌] 明治41年 堺・日本煉瓦の合併計画(1908年16巻186号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/16/186/16_186_300/_pdf/-char/ja 堺・日本煉瓦の合併計画など。

[大日本窯業協会雑誌] 明治41年 東京商況(小工場瓦解)(1908年16巻188号雑報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/16/188/16_188_382/_pdf/-char/ja

東京商況。三年に一度の好況。小工場の瓦解のゞ。

[大日本窯業協会雑誌] 明治28年大阪商況(1895年4巻39号 窯業彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/39/4_39_77/_pdf/-char/ja

大阪商況。

[大日本窯業協会雑誌] 明治28年 堺煉瓦輪窯増築(1895年4巻40号 窯業彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/40/4_40_107/_pdf/-char/ja

堺煉瓦に輪窯増築。

[大日本窯業協会雑誌] 明治28年 長崎の煉瓦業(1895年4巻42号 窯業彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/42/4_42_210/_pdf/-char/ja

長崎の煉瓦業。

[大日本窯業協会雑誌] 明治28年 石動の煉瓦工場(1896年4巻44号 窯業彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/44/4_44_270/_pdf/-char/ja

石動の煉瓦工場。

[大日本窯業協会雑誌] 明治28年 堺煉瓦好況、二割増(1896年4巻45号 窯業彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/45/4_45_295/_pdf/-char/ja

堺煉瓦好況、二割増し。榛原に伊和煉瓦製造合資会社。ほか。

[大日本窯業協会雑誌] 明治28年 京都煉瓦製造他(1896年4巻46号 窯業彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/46/4_46_348/_pdf/-char/ja

京都煉瓦製造。丹波馬堀に分工場、それでも足りずに愛宕郡大宮村船岡山麓内畑に第二工場。馬関煉瓦工場、広島瓦煉製造株式会社、越後刈羽郡北条村の工場、土佐郡潮江村字小石木に工場。

[大日本窯業協会雑誌] 明治28年 富士煉瓦 大阪丸三耐火煉瓦(1896年4巻47 号 雑録)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/47/4_47_385/_pdf/-char/ja

河内国富士煉瓦。大阪丸三耐火煉瓦、株式会社化。

[大日本窯業協会雑誌] 明治28年 煉瓦需要過多(大阪控訴院)(1896年4巻48号 窯業彙報)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/4/48/4_48_438/_pdf/-char/ja

大阪控訴院の新建築用の煉瓦が入手できず、先客に交渉して譲ってもらう。それだけ好況。

[][煉瓦] M40.1. 府下煉瓦業の近況(大阪毎日新聞 M40.1.19. 11面)

●府下煉瓦業の近況

府下煉瓦製造業組合の実況は好況を持続し組合一ヵ年の産額十億四千万個に達するも其半額は既に売約成り且つ新規の需要続々として起り当業者は殆んど製造に忙殺さるる程なるに気候益す寒気を加え従て製造意の如くならざるを以て動もすれば品払底を告げ充分供給する能わざる状態にて或場合には新規の需要者に対しては已を得ず供給謝絶する向もあるやにて目下東京形上等品一千個に付(大阪又は神戸渡)十四円見当を唱え居れり

というわけで明治28年にすでに現実のものとなっていたのだった。


2019-12-26 [長年日記] この日を編集

[大日本窯業協会雑誌] 1892年1巻11号 雑事その2

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/1/11/1_11_279/_pdf/-char/ja

大阪窯業の窯は小菅集治監の「れっふ窯」を模したもの。れっふ窯?

明治25年の記事なので堺に移転する前の安治川口の頃の窯の話の。

[][煉瓦] B. and B. 19世紀の手成形

アメリカやイギリスでは2連〜6連の型枠を使うのが普通だった。コンパートメントになった長い型枠だ。これを使うと熟練工で日に3000〜5000も作れたそうな。でも扱いが大変で重いので子供には向かなかった。あとコンパートメントの1個目に詰める時はいいが、2個目3個目と詰めていくうちに(n-1個目の余りを突っ込んでいくので)ややもするとクラックの入りやすいものができた。

日本でこういうのが流行らなかった理由は何だろう。体力の違い? それよりもそんなにたくさんの煉瓦を必要としてなかったのが理由かも知らん。家作る時には基本木だし。煉瓦建築なんて珍しかったのだし。一人500も作れば10人食えるわけだしさ。

ああそうか、これsoft-mudの場合なんだな。水分が20〜30%も含まれる軟い土を使った場合。それより少ないやつはstiff-mud。日本の場合はたぶんこれだと思う。

余談。英語では素地のことをgreen brickという。日本じゃ白地なんだな。一方赤子のことをみどりごというが、これは色の緑とは関係ないか。


2019-12-28 [長年日記] この日を編集

[][煉瓦] B. and B. hack

煉瓦を天日乾燥する時に斜め交互に積むのを、アメリカでは"hack"と呼んだそうである。積んだ山もそうだし積むこともhackという。なんかかっこいい。でもhackはもともと斧などでざっくり何かを作ることをいうそうで、ハッカーのhackはそこからの派生であるようだ。それからhackの一列は中指が一本入るくらいの間隔で並べたそうで、そんな狭くていいんか? と思ってしまった。乾燥している地域ではそれで充分なのかも知れない。日本だと湿度が高すぎてより日当りを良くし風通しを良くしなければならんかったんだと思う。

あと、アメリカでは野焼きで煉瓦を焼くことが多かったようだ。green brickをhackして巨大な壁のようなものをつくる---ピラミッドと表現するとちょっと合わない感じ。薪を突っ込んで焼くアーチ開口部が下端に並んでいて、それだけしかない壁というか、イスラム辺の中東の古代寺院を連想させるマッシブな構造物である---。そうしてその周囲を焼いた煉瓦で一重に取り囲む。この煉瓦壁には焼成口しか隙間がない。そうやって焚口でがんがん焚く。

日本でも野焼き製法がなかったわけではないと思うが(確か別子の最初期の煉瓦は野焼きで作られたんじゃなかったっけか)定着しなかった。昔の工学書でも野焼きのやり方を詳しく述べたものがない。それは多分、瓦製造の歴史が長く、だるま窯や登り窯がすでに存在していたので、それを流用するほうが手っ取り早かったからだろう。&、当初はそんなに煉瓦の需要がなかったからだるま窯登り窯で生産可能な数で間に合ったんだろう。明治も半ばになって数が求められるようになる頃にはホフマン窯が普及し始めるのだし。

土質も関係あるのかな……。陶土だと高温で焼く必要があったとか。高温多湿で冬凍結したりもする日本の風土に合う煉瓦を作るためにはそれなりに環境に順応した煉瓦でなければならなかったんではないか。

久慈白糖工場の焼きの甘い煉瓦はsoft-mudで野焼きだったりするのかも知れない。あれ日干し煉瓦のような質感だったもんなあ。京都歴史博物館で見せてもらった日干し煉瓦。雨降ったら溶けやせんかと思うような粗さだった。


2019-12-29 [長年日記] この日を編集

[][煉瓦] "B&B" 日本→アメリカの煉瓦輸出

意外なことに、1875年(明治8)にはアメリア宛の煉瓦輸出が行なわれていたそうである。しかも価格の安さと品質の良さが評価され「世界を席巻できる」と評されていたそうだ(p.47 出典:"Scientific America"(1875))。20%の関税がかかっていてもなお太刀打ちできるような良製品を、明治8年という最初期に作れていたというのはまったく予想外のことである。残念ながら産地や使用先はわからない。

↑はサンフランシスコ宛の輸出だったが、1889年(明治22)にもワシントン州Puget Sound(ピュージェット湾)宛に煉瓦が輸出されている。1888年4月13日に4万トン、1889年に97211トン、1890年にも99900トンの煉瓦輸入が、横浜港からPuget Sound custom distinctあてにあった(custom districtちうのがはっきりわからなかったけど、湾の商圏みたいなものだろうか?)。そうしてスポケーンからセントルイスまで鉄道で運んだ記録があり「現地の煉瓦製造者ではおそらく作れない」プレス成形煉瓦であったところが買われたようである。1889年の2月3月には兵庫から耐火煉瓦が約30万トンずつ運ばれている。以上トンはlong ton。1016.0469088 キログラム。

カナダ領事館から日本の煉瓦買いたしの照会があったのは1888年10月のことなので、春に買われたやつが好評なのを聞きつけて、という流れなのかも知れない。カナダからは木材を送り、その帰り荷に煉瓦を積んで帰るという計画。実際にどうなったかは不明。バンクーバーはピュージェット湾の北辺にある。

[][煉瓦] "B&B" アメリカの煉瓦規格

煉瓦サイズを測定することで考古学的に役立つ情報を得られないだろうか、と考えるのは古今東西に共通する発想であったらしく、かつそれがうまくいかない気味なのも同左であるらしい。B&Bには「それが科学的っぽいから」測定されるけれど・・・みたいなことまで書かれてある。

19th~20th centuryのアメリカの場合、1886年にNational Brick Manufacturers Association(NBMA)が煉瓦サイズの調査をしてcommon sizeとして8-1/4x4x2-1/4inchというのを採用した。これは普通煉瓦のサイズ。1889年にはFace Brick(表張りの化粧煉瓦)について8-3/8x4x2-3/8inchを採用、さらにRoman BrickやNorman Brick、Pave Brick(舗装用煉瓦)なんかにも規格ができ、はたまた化粧張り煉瓦の協会ができて独自規格を作ったり、其れに対してNBMAが新規格を作ったり。とにかく規格が乱立してわけわからんことになっている模様。結局のところ製造された煉瓦の大きさは、その煉瓦を製造した工場がどの協会・組合に所属しているかによって違い、なおかつ規格に拘束力がなかったものだから、規格などあって無きが如しであった感がする。例えば1922年、United States brickyardsの調査によれば、39とか36とかのサイズが存在したらしい。これではサイズを何かの指標にしようというような気が削がれるというものだ。

日本の場合は一寸違うかも知れない。煉瓦という概念がほとんどなかったところへ煉瓦製造技術が輸入され、センチとかインチとかの単位を尺寸に読み替えて作らねばならなかったので、最初に採用したサイズ、あるいはある時に規格として示されたサイズを金科玉条的に作り続けたんではないかと思う(その結果がM39の大高表の5種類)。むろん例外はあっただろうけれども、アメリカに比べたらまだ絞られておる。そんなだから、煉瓦寸法の追求が煉瓦製造技術の伝播経路を跡付けすることに繋がりそうな気がしている。


2019-12-31 [長年日記] この日を編集

[独言] おせちをつくる

画像の説明

ごまめが妙に高かったので贖いあぐねてみた一方、「たべるいりこ」なるものが目に入り---食べられないいりこがあろうはずもないのだが、それはそれとして脇に置いておく---、要するにいりこを甘く煮詰めたらごまめになる筈だという推測のもと、そちらを購入して試してみたのであった。珍しく上手く行った。

画像の説明今回は黒豆も作ったのであるが、水の量が少なかったらしく皺の多い黒豆になってしまった。味は申し分ない。大正6、7年ものの犬型犬釘で煮たのだから美味くないわけがないのである。ただ皺が多くなったという瑕疵があるために軍配はごまめに上げざるを得ない。結局のところごまめと黒豆だけで充分だったのではないかと思わないでもないのだが。ああそうだった今年は卵焼きもそれなりに上手く行ったぞ。今年は真っ黒くはならなかった。

おせちと年越しそばが年々歳々上等になっていく気がする。それを許したくなるくらいには頑張った一年だったと思っている。まことに有難いことである。

[煉瓦] 琵琶湖疏水の川島煉瓦

11〜12月の「つどい」の時にSさんが(つどいの前日に訪れた)琵琶湖疏水第一竪坑の付近で採取したという煉瓦が衝撃的だった。初めて目にした刻印で、しかも「川島煉瓦」の製品という。だってそう書いてあるんだもん。 画像の説明

いま琵琶湖疏水記念館へ行くと、パネル展示が新しくなっていて、そこにも川島煉瓦の謹納品という煉瓦刻印が掲げられている。東洋組みたような四角い判にこまごまいろいろ書かれてある。明治18年6月とか井上・井関とか重要っぽいことまで。それとも違う丸い印である。一見すると樽井の丸印に似ている。

それがずっと気になっていたものだから、思い切って再訪してみることにしたのが暮れも暮れの12/31のことであった。本当は一日おせち作りをと思っていたのだけれども、朝になって急に居た堪れなくなったのである。 画像の説明

竪坑周辺は近年整備がなされて金網囲いになっている(以前はフリーにアクセスできた気がする。ただ草がものすごく繁茂していて近寄り難かった)。囲いの中もきれいに草刈りされて見渡せるようになっている。

あてにしていたのはその囲いの中ではなく、外のほうだ。確か『琵琶湖疏水要誌』か何かだったと思うが、工事中の竪坑の写真があって、巻揚機や人夫の小屋やら火工小屋やらが谷いっぱいに作られていた。囲いの外のほうが何かあるんじゃないかと。

というわけで、上掲写真の反対側へ回ってみると、そこが小さな沢になっていて、目論見通り幾つかの煉瓦転石を検出した。割れてほかされた煉瓦が沢に洗われて露出していたのだ。さすがnagajisこういうコトだけは勘がいいぜとか何とか思いながら早速探してみたのだけれども、いずれも無刻印の煉瓦だった。1/5くらいしか欠けてないようなやつもあったんだけど。

そうしてその沢を遡ったり、対岸斜面を登ってみたり(その崖の下で青磁の?急須の蓋を見つけたりしたもんだから)、囲いに沿って一周してみたりしたのだが、それらしき煉瓦は最初に見つけたガラ以外には見つけられなかった。そうして小一時間も彷徨った末、諦めて帰ろうとし、元の場所に戻ってきた時に見つけたのだった。 画像の説明


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