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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2011-05-02 春のあじかわまつり [長年日記] この日を編集

[] 追撮

なぜかごっそり抜けていた簿冊を回収してきた。これにて了。

請負請求の時点から契約通知までの間に13万も増えてて諏訪と思ったが潜函掘削費の単価が二倍になっていた。どういうことだ>橋梁課

[独言] 空腹と市議選

肉ェ…画像の説明

[独言] 刑法第155条 公文書偽造等の罪

1. 行使の目的で、公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造した者は、1年以上10年以下の懲役に処する。

2. 公務所又は公務員が押印し又は署名した文書又は図画を変造した者も、前項と同様とする。

3. 前2項に規定するもののほか、公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は公務所若しくは公務員が作成した文書若しくは図画を変造した者は、3年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ マフラー巻き [おどろおどろしい文面ですね。 まぁ、そうじゃないと国家の行政として困るわな。]


2011-05-03 誰か買ってくだしあ [長年日記] この日を編集

[] 昭和12年青森営林局管内図、昭和12年秋田営林局管内図×2

画像の説明古本市で売られていたので回収しておいた。青森営林署のものは青森、岩手、宮城が一枚に収められている。秋田営林署管内図は秋田県の×1、山形県の×1。計3部ある。どちらも元の図を丈夫な布紙に切り張りしてあって、輪郭線から図葉外にかけてちと千切れてたり2、3書き込みがある以外はそんなに悪くない状態。

サイトでは15000〜20000円で売られてるブツだが、合わせて5000円で入手できたのでこれが回収できればいい。必要な方はnagajisあっとまーくthe-orj.orgまでご一報を。


2011-05-06 橋梁三題 [長年日記] この日を編集

[橋梁] 二ノ俣橋

画像の説明

masaさんに尾鷲に連れてっていただいた。写真は二ノ俣国有林軌道二ノ俣橋。昭和26年9月架設。ASTIAシミュで撮ったらトロピカルな感じになってグー。

二ノ俣橋にはバラスが敷いてある。枕木も残っている。軌道用に架けられた純林鉄橋で、大阪営林局管内の林鉄遺構の白眉橋といえる。戦後のだけどね。

[橋梁] 船木橋

画像の説明帰りに寄っていただいた船木橋。南岸の崖に初代の橋の親柱と思われる石柱が転がっている。起こしたらそのまま転げ落ちてしまいそうだったので触らなかった。ちと惜しいことをしたような気もする。

[橋梁] ねじりまんぽ橋

画像の説明5月の夕方に行くと面白い画が撮れることを発見した。夏場になってもう少し日が高くなればより綺麗になると思われるが真横に落ちるだろうか?


2011-05-07 なんだかなあ [長年日記] この日を編集

[] あじかわまつれない

「廃道をゆく3」の時も思ったが、改めて書く用の文章(思ったことを適当に書き散らして気分転換するためのぶんしょーではなく人に説明するための文章)を書くのは難しいと思い、そうして難渋をしている。あれとこれとを書こうとは思っていて、その部分だけパーツとして書き出してみたりしつつあるものの、それが一つモノに組み上がるようには思えなくてならない。無理矢理やったらザクレロに足がついたりガンガルになったりしそうだ。概説がいちばん難しい。「廃3」でさんざ呻吟してまとめた直後なものだから、頭に浮かんでくるフレーズがみな廃3そのままという。どんだけ脳足りんだよ。

[橋梁] 二ノ俣橋

画像の説明
逃避行動的に写真をのっけて何か書く。二ノ俣橋は超絶峡谷地帯に架かっていてアプローチが難しい。接続していた部分は新規に付けられた車道林道によって削られ、もしくは埋もれてしまっている。車道林道の脇の崖下に橋だけがあるという状態。

はじめは離れた場所から川伝いにアクセスしたが、対岸に渡ることはできても橋の上に上がることはできそうになかった。対岸側(写真左)の橋台が崩落していて上がれない。そもそも車道側(写真右)の橋たもとにも近付けない。全部垂直の崖に囲まれているのだ。

3mほどの梯子があれば林道から真上へ降りていけそうだったのだが、もちろんそんな準備はなかった。仕方なく降下地点を探して右往左往した。上流側にルートを見い出そうとした私は5mほど降下して上の写真を撮るのが精一杯。あと1m川側に寄ったら川底という崖の上で木に足をかけながら撮っている。

結局masaさんが一点突破の秘孔的ルートを発見し、残存軌道へ降りることができたのだった。たった一つだけ残っていた親柱に橋の名と竣工年月が刻まれていた。

本線を探索してれば立派に記事にできたと思うが、病み上がりの治癒し切ってない足ではmasaさんが探索済みの支線に案内してもらうのが精一杯で、本線には足を踏み入れてない。また続きが歩けたら書くことにする。


2011-05-11 [長年日記] この日を編集

[] あじかわまつったった

やっとできた……究極の誰得記事完成。あとでKINIASに使うつもりで書いているのがばればれである。

[] 尾鷲の穴

こんなところにあるとは思ってもいなかった軌道の隧道。この間の旅でやのこ小僧さんに教えていただいた。へぇ〜へぇ〜へぇ〜。

これも半分だけしか歩いてないので、詳細はやのこ小僧さんによる全容解明に期待!


2011-05-12 [長年日記] この日を編集

[独言][] あじk(ry

誰得度が0.1%さがった.

[ORJ][廃道本] 廃道をゆく3広告

いつも中四九州の方々が白黒になってしまうのが申し訳ないこともあってカラー写真で広告しようという魂胆である.

[独言][] あj(ry

円型スロープも作図したので誰得度が5%あがった!


2011-05-13 [長年日記] この日を編集

[][] あ(ry

実現しなかった設計の実現しなかった理由まで書いたところで誰得度がさらに増すだけなのはわかっちょるけん。毒を食らわばサラエボだ。サラエボプエブロ電気風呂。露天の風呂は吹き曝し。確か二度目。

[独言] 何の金具だろう

画像の説明隧道で見つけた例の金属物。犬釘の頭だろうかと思っていたが、どうも違うようだ。

画像の説明釘の柄だと思っていたところが、何というかこう、寄木細工のようになっている。十字ボタンを中心を通るように斜めに切断してくっつけたような断面。釘がこのような寄木である必要はないはずだ。

あんまり綺麗で軌道の隧道とは思えないようだったけれど、砂利は敷いてあったっけ。ということはやはりmasaさんがいうようにきれいに枕木を撤去してしまったのだろう。

[独言] まめちしき

画像の説明画像の説明

脈絡などあるわけがないじゃないか。コーヒーの空き缶の直径は55mmなので煉瓦の簡易判別をするのに使える。左は54mm厚の並形、右は60mm厚の東京並形。

[] 東紀州煉瓦隧道

長島321x4.6M42.2.22.M44.12.-
海野208x3.2M43.3.4T3.-.-
道瀬308x3.2T3.2.上旬T4.7.上旬
三浦315x4.6T4.6.-T6.2.-
相賀81x4.6T2.9.-T5.7.-
尾鷲483x4.2M44.10.-T5.4.8.
木本509x4.2T14.1.6.T15.7.26
坂下332x4.6M-.-.-.M44.8.-
旧坂下61x3.8M-.-.-M33.3.

[三重県の近代化遺産P125]

こう見ると長島だけ仲間はずれだな。本当に4.6mもあるんだろうか。写真ではもっと小さいように見えるし現地の感覚でも海野や道瀬に近かった気がする。tdbの数値はあてにならないし・・・

3年前に計った気もするがメモを残していない。あってもジャンク箱の山の中だろう。何のために行ったんだか。

坂下道路のは別格か。

登録有形文化財のプレートの大きさ=横30cm×縦21cm×厚さ1.5cm。

画像の説明道瀬隧道の登録有形文化財のプレート。

画像の説明 3a+3b+0.45a=21
3.45a=21-3b
b=0.5とすると
b=(21-3*0.5)/3.45
 =5.69
b=0.6とすると
 =5.56
b=0.4とすると
 =5.73

最下段を0.5aと考えても60mmになることはないようだ。一つゲットウ。プレートがどれも同じ大きさであれば、だが。

舟木橋も書いとかないと忘れるな・・・ってさっそくどっか行った(泣

[独言] 矢の川昭和道・南谷の景

画像の説明この記事3ページ目などで紹介されている昭和の矢ノ川峠道のコンクリート桟橋.どこにあるんだろうとずっと謎に思っていた.なんのことはない,旧道に入ってしばらく行ったところだ.足のわるさと雑木のせいで全体を見通すことができなかったが,もう少し崖を下れば見得ると思う.

画像の説明上からみるとこんなかんじ.紅葉橋の少し手前.

うむすごい脱力感だ。

[煉瓦] 船木橋

55.0 x 108.4 x 229

54.4 x 106.0 x 223.5

56.9 x 107.9 x 223.5

57.0 x 106.5 x 220

56.0 x 106.8 x 221.3


2011-05-14 [長年日記] この日を編集

[] 安治川河底隧道概説書[4297/8454-]

安治川河底隧道

世界最初の河底隧道はテームス河を横断する「ブルネルトンネル」と称せられるものである、河底下六十尺延長一千二百尺で一七九八年計画以来四十五年間、幾度か落胆すべき事故を繰返して遂に一八四三年完成し「マルク・アイザンバード・ブルネル」氏の不屈の努力が酬いられた、即ち当時世をして

<傍点>規模の雄大設計の大胆構法</傍点>の困難比類なしと感嘆せしめたものである、惜しいことに位置の選定宜敷を得なかった故にか経済的の成功を見ず現在では地下鉄専用と変っている、大阪では地下鉄工事に伴って、大江橋淀屋橋の下に施工したのが初めであるが工法は普通の橋梁基礎工事と同様に仮堰の内で水を干して構築したものである、街路の連絡用としての、また沈埋式工法を採る河底隧道は、安治川源兵衛渡に於て最初の試みである一般計画は勿論

<傍点>その構成とその工法の</傍点>一つ一つに就てあらゆる関連条件を吟味して、凡そ考うべきを考え、較ぶべきを較べて最善を期された心算りのものであっても論議は動もすれば鼎沸する、もとより本隧道の実施詳細に就ては未だ今後の調査研究に俟つべき幾多の問題を残してはいるが、今日迄の計画の経過と本隧道の持つ特異性とに就いて理解する事は興味あることである、併し乍ら「何の故に」を懇切に伝えるためには与えられた字数が不足する、今回は先ず以て本隧道の概念を得る程度に輪郭を叙しておき度いと思う

◎連絡計画

本隧道の計画は大阪市第二次都市計画事業街路安治川市岡線の新設に伴って源兵衛渡の渡船連絡を廃止して新に河底横断隧道を築造しようとするものである、淀川の派川安治川、尻無川並に木津川が由来水運の便を以て

<傍点>本市産業の発展に資する所</傍点>の甚だ大きかったのは周知の通りであるが一方是等の河川によって分割せられている市西部の相関的交通連絡は今尚簡易な渡船を利用している状態で不都合極まるものである、昭和二年頃源兵衛渡地点に「トランスポーテーション・ブリッヂ」を計画した人もあり、越えて昭和三年と昭和五年とには大阪市会でも架橋意見書が出て居るし、市の土木部内でもその頃から松ヶ鼻地点、源兵衛渡地点の連絡計画を考案しつつあったのである、連絡方法に就て注意すべきことは安治川は船津橋下流、尻無川は臨港鉄道橋の下流木津川は都市計画街路難波泉尾線附属木津川新橋下流は何れも

<傍点>無橋区域として指定せ</傍点>られているため原則としては橋梁を架設することは許されぬということである
河川によって交通連絡を妨害せられている陸側から考えると橋梁連絡が最も簡単であるが河川を利用して大船巨船を運用しつつある水側から見ると橋梁は殆んど致命的妨害物と成る虞れがある、仍で昭和五年六月故関市長は淀川分派河川の内連絡設備の急施を要するものとしては安治川筋を第一とし「安治川連絡設備計画」に就て最も遺憾なき方法を以て善処すべく土木学会関西支部に之れが研究を依頼せられたものである、斯くて工学博士坂本助太郎氏を委員長として岩田成実、岡部三郎、高橋逸夫、瀧山與、直木倫太郎、近藤博夫、島重治、渋江武、平野正雄、内山新之助諸氏の専門的審議の結果出来上がった案が即ち今日具体化せんとしている設計の素を成したものである

同委員会に於ては恒久的連絡設備を為すべき地形的に適当な位置としては、松ヶ鼻附近を指摘し得るが、現在の交通量及両岸発展の状況より案じて源兵衛渡附近を以て最も緊急とし当面の問題として取扱うべき、安治川連絡設備は結局源兵衛渡地点に選定せられたものである、連絡施設に就ても改良渡船高架橋可動橋隧道等を経済的方面からも利用的方面からも夫々の利害得失を比較した結果沈埋式工法による河底隧道を最も適切なものと決定せられたのである要を云えば渡船は如何に改良しても川筋の船航を妨害し危険を免れ難く、高架橋は航行船舶の檣高に多少の制限を加えても少くともo・p以上三十米に保つを要し延長一千二百米に亘る取付高架道路が必要と成り不経済なばかりでなく、附近道路との連絡

<傍点>沿道町村との関係に</傍点>於て複雑な地形的困難を伴って殆ど不可能に近い、可動橋は建設費は安くても維持費は嵩むし、それに原則として水陸交通の双方共か又はその内の何れか一方が定時的で非常に閑散な場合でないと不適当である、本地点に於て跳上橋を用い一時間四回の開閉操作をなすものとすれば陸上交通は毎時二十四分間水上交通は毎時四十八分間遮断せられ到底水陸共交通上満足な結果を得難い、隧道連絡とせば地形的不都合を伴うことも比較的少ないし舟運上の障害は全然解消せられるし殊に工法に沈埋式を採用すれば工事中と雖も余程航行の妨害は減ぜられる、隧道の築造は先ず両岸昇降機室と河底隧道部とを施工し、取付勾配隧道は将来の交通情勢観測の結果その施工時期を計画する想定と成っている

◎隧道の構造

本隧道は河底部と両岸昇降機室と取付勾配隧道との三つの部分から成っている、河底部は延長八〇・六米で中央部四九・二米を所謂沈埋管として、この両側に長一五・七米宛の昇降室前の広場の部分が接続している、有効幅員は沈埋管部分では、二・四米の歩道を西側(下流)に一本と、その東に四・五米の車道を二本設け夫々の間には沈埋管の両端支台間を橋桁として取扱うために必要なトラスを置き歩道は往復利用とし、車道は何れも一方通行として利用する

<傍点>沈埋管内法は</傍点> 前記トラスを含んで一二・四米である、昇降機室前の広場は車の待避等のため有効幅員一二・四米乃至一五・三米としその間には、柱も、壁もないものとする、路面から天井迄の高さは車道では四・五米(但し照明設備等のため有効高は四・〇米に保つ)歩道では二・八七米以上とする

<傍点>沈埋管部分の</傍点> 車道路面はo・p以下一三・一米で縦断勾配は水平とし其の両端から三十分の一勾配で昇降機床に接続せしめ昇降機室前でo・p以下一二・七四米と成る、そうすると両岸地盤高を(昨年の風水害に省みて)o・p以下四・二米迄嵩上することとしたから車用昇降機の行程は一六・九四米(約五十六尺)と成る歩行者用昇降機はこれより一・六三米だけ少い

<傍点>両岸昇降機室</傍点>は二〇・四米×一〇・〇米の内法でその内に西側から順々に歩行者用昇降機二台と車輌用昇降機二台とを設備し得る様に前者の周囲には幅一・四米の階段を置く、尚中央部分(車輌用昇降機と歩行者用昇降機との中間)に幅三・一米の空室を設けておいて、将来取付勾配隧道の出来た時にはこの空室と上流側の車輌用昇降機一台を撤去した跡とを取付勾配隧道への連絡車道として利用する予定である

<傍点>取付勾配隧道</傍点>は有効幅員六・〇米として高速車専用の予定であるがそのルートは一案として北は朝日橋通(第二次都計野田西九条線)を経て市電西野田桜島線の朝日橋停留所付近に、南は市電安治川築港線を西に玉船橋停留所付近に出る計画もあるが、西成線の高架化問題もあり、地形、交通情勢の変移と、予算経理の都合とを併せ考え、施工の時期と 計画、内容の決定とは今後の研究に拠るべきものである

<傍点>基礎工は沈埋</傍点>管部は浚渫した河底を単に地均しをして沈設する関係上、管底の地盤には信頼せずに、管の両端に位する部分に支台を設けてこの上に管を据え付けて管自体を一つの河底橋梁として取扱うことにし、此の支台を昇降機室の基礎と一体の潜函工とする、沈埋管は高さ七・〇米幅一四・〇米長四九・二米で天端をop以下七・九米とし、その上に厚さ三十糎の砂を敷き更にその上に三十糎のコンクリート塊を敷き並べてこれを防護工とする

<傍点>防護工の上に</傍点>は一・三米の厚さに玉石又は土砂を以て川床を形成する即ち川床をo・p以下六・〇米とし平均満潮時に於ける水深約七・七米と成る、管は平常時の耐力は勿論であるが万一事故の場合この内に浸水する様な事があっても破懐[ママ]せられぬ程度に用意しておかねばならぬが、沈埋管の断面形状、歩車道の有効幅員とその位置、昇降機の大きさとその位置等取付勾配隧道への連絡方法等に就ては種々の案が比較せられたものである

◎付帯設備

付帯設備の主要なものは昇降機である、歩行者用昇降機は一・八米×二・三米の大いさで毎分一・六米の速度で定員を二〇人とする、輸送能力は乗込、閉扉、運転、開扉、外出の時間を加算して往復所要時間最小九六秒を見込み毎時三七・五回の往復をするから輸送人員を毎時一五〇〇人と予定し得るのである

現在渡船のラッシュアワーに於ける最大交通量は一時間一一五〇人で一日の内に一二四七〇人を数えているがこの割合で推定するとこの昇降機によれば毎時一五〇〇人一日一六三〇〇人の通交者を楽に輸送し得る、即ちラッシュアワー以外では昇降機は周期にも定員にも余裕あるものと予想される、万一ラッシュアワーに於て一五〇〇人を超えた場合には階段も利用せられるであろう、一丁目渡と三丁目渡とを利用する人々の一部がこの隧道に廻って来るとしても三割の余裕を持っているのだから、歩行者用昇降機は差し当り一台だけを据え付けておいても凌ぎ得るであろう、将来輸送能力に不足を来した場合は更に一台を増設するということにしても差支ないのである

<傍点>の車輌用昇降機</傍点>のは三・〇米×九・五米の大いさで毎分四五・五米の速度とし、乗用自動車二台を収容し得る、昇降機の往復所要時間を最小二〇〇秒と見込んで毎時一八回の往復をするから、一台の昇降機で毎時七二台の自動車を輸送する能力を持っている、故に二台の昇降機を全部自動車に利用せると毎時一四四台を輸送することが出来る、併し乍ら現在ラッシュ・アワーに於て一丁目源兵衛渡、二丁目で渡船を利用している自転車の数は合計三八〇台であり、これ等は殆ど総てがこの河底隧道を利用するであろうし其他の諸車は四〇台あるが、これも一・五倍即ち六〇台位には増えると推定すると二台の昇降機が輸送し得る最大交通量は毎時自動車三八〇台、諸車六〇台、自動車九〇台と云う様な状態を想定し得るであろう、勿論時刻によって夫々の交通種類に繁閑がありトラック等も通るから前記はラッシュ・アワーに於ける輸送能力の一状況を数示したものに過ぎぬ、この割で時刻的繁閑を現状に鑑みて一日の輸送量を自転車五二〇〇台、諸車七八〇台、自動車(之れは全く将来のものである)一三八〇台と数えることが出来る

<傍点>今日自動車が</傍点>対岸に渡るのに船津橋を迂回して□□、三六〇〇米を約一〇分を要するものが本隧道の完成後は昇降機を利用するとして距離八〇米で約五分間に短縮し得る、例えば自動車で千鳥橋−玉藻橋間を行く場合に就て考えると現在距離四四五〇米で約一三・五分間を要するものが昇降機を利用して本隧道を通れば距離二七〇〇米で約一二分と成る、取付隧道が出来た暁にはこの時間は更に短縮せられて七・三分位と成るであろう 又例えば千鳥橋−千舟橋間をドライヴすると境川を経て七九五〇米で二〇分かかるが、安治川築港線を経て本隧道を利用すると五〇六〇米と成り、昇降機で渡っても一六分若し玉船橋から取付勾配隧道でも出来れば更に一一・三分に短縮出来るだろう

茲で本計画の経済的考察が興味ある問題と成るが筆者の領域を出る嫌いもあるし今日では一切金額に触れることは差控え度い

<傍点>証明排水換気</傍点>等も適当に設備することに成っている、昇降室の入口路面の高さは昨年九月二十一日の高潮位がこの付近で三・八〇−三・九〇米であったので更に余裕を見て之れを四・二米とし現在地盤より約一・二〇米高上する、之以上高くするときは取付道路の関係上地形的困難があるから、同o・p以上五・〇〇米迄八〇糎の高さで適当な浸水遮断扉を設けて万一に備えることとした遮断扉の詳細並に其の運用方法に就ては考究中である

◎隧道の工法

工事は先ず南詰から初めて次いで北詰に移し後中央部の沈埋管を沈設する、南詰工事の着手以前に在来の渡船場を約九〇米下流に移転してから、北岸寄りを浚渫する、これは南詰工事のため

<傍点>の仮締切をして</傍点>川幅を縮小するから北岸よりに、航路を移すに当り船舶航行の不便を軽減する目的で施工するものである、この浚渫の結果は仮締切が出来てから四・五米以上の深吃水の船舶に対する航路幅は従来より多少広くなるが三・〇米程度の浅吃水の船舶に対しては約二七パーセントの縮小は免れぬのみならず、航路はこの

<傍点>前後で湾曲し</傍点>且つ流速は従来に比し約二七パーセントを増加するであろう、故に工事中航行上或程度の混雑は到底免れぬから適時適当の方法に依って航行の整理をする予定である、その方法に就ては昨年十一月末に関係監督官庁、安治川を利用する船舶業者、並市当局の間に座談会を開いて意見の交換せらるる処があったが結局工事着手後の状態を観測して具体的処置を採らねばならぬということに成っている、南詰工事は鋼矢板で

<傍点>仮締切をして<・傍点>o・p以下六・〇米程度に掘削地均しをしてから、潜函の沈下作業をなし漸次上部を構築するのである、南詰の工事が終ると今度は航路を南岸寄りに移すための浚渫を行って北詰を同様に施工する、沈埋管との継手の処は予め木造仮蓋をしておく、次に沈埋管沈設箇所の浚渫をする、この浚渫は自然に埋まって来ることを予想せねばならぬが

<傍点>流速と土質に</傍点>関して其の程度を推測することは甚だ困難であるので稍急勾配に施行して自然に崩落するものは時々取除く心算である、浚渫深は水深約七・〇米乃至一七米に達し土量約二〇〇〇〇立米に及ぶので能率のよいバケット式浚渫船を用い度いのであるが航行の妨害と成って悪いから已むを得ず掴揚式浚渫船に幾分の改造を加えて昼夜兼行で作業を進める予定である

<傍点>浚渫が終って</傍点>川床均しをすませた後愈よ沈埋管の沈設をするのであるが沈埋管は予め船渠内で製作したものを現場に曳航することに成っている、管の容積は約五〇〇〇立米、重量約四五〇〇噸である、沈埋管の沈設は、極めて敏速と確実を要し、本水道工事中最も慎重な準備と細心の注意を尽さねばならぬ難作業である沈設作業時間以外は成るべく航行を妨げぬ様に工夫した

<傍点>堅固な導材を</傍点>以て管を所定の位置に正しく導き管内に設けた室に平等に注水して管体を水平に保って徐々に沈下する沈下作業は流速の最小の時間を撰んで約四時間位の内に終了せしめる、この間は勿論船舶の航行は全然禁止しなければならぬ、沈埋管と既設両詰工事との継手の箇所並一時管体に設けた各種の孔等は総て適当な材料を以て内外から工作して完全な水止工を造る、継手は管の周囲外面に沿う重ね合せを考案し

<傍点>水密に施工す</傍点>るのであるが尚種々の方法に就て詳細に研究中である、引き継いで隧道内道路工、上屋の築造昇降機の取付附属工事一切を施工する、工事は昭和九年九月から護岸の保護、北岸寄り航路の浚渫、地質の再調査流速、流量、水位の観測等準備作業を行って来た、其間風水害による浚渫作業の支障や、高潮結果に鑑みての計画変更、取付勾配隧道に関する計画方針の

<傍点>審議等を経て</傍点>来たが最近愈よ本格的工事に着手するのであろう、竣功は昭和十三年の春と予定している、終りに本隧道の設計に関しては工学博士岡部三郎氏の御指導に拠る処甚だ多いことを付記して謝意を表するものである

2011.6.20.補完。表紙のノドに「昭和十年十一月」という書き込みがあるのを発見した。

この概説書からわかることは多い。

  • ・大阪市から土木学会関西支部へ検討依頼したのが昭和5年6月であること
  • ・検討委員会のメンバー名

いちばんの意外は瀧山與の参与。常磐書房の高等土木工学シリーズ・隧道工学でお世話に?なった人。

[] 昭和9年7月15日発行 土木部報第二十五号[4297/8565-8574]

あまりに切ないので土木部報のを書く。

第二次都計事業 天のかけはし 河底のとんねる

木津川を一跨ぎ… …木津川新橋

(略)

前代未聞の工法… …安治川河底隧道

川の底に長さ五十米余の橋が架かる……と云った方が判り易いのがこの河底道路である

第二次都市計画事業路線安治川市岡線の附属施設として現在の安治川源兵衛渡しの位置に新設せられんとする河底横断隧道工事の準備のために近く川底の浚渫がはじめられるが、これが了って航路の変更が実施されると河底道路の工事が着手せられる

その構造は、大体南北両岸に潜函工法による鉄骨鉄筋コンクリートの基礎が設けられ、此の上に昇降機室、沈埋管(河底を通るトンネル部分)取付用の車輌待避所部分が施工せられる、これが完成すると、両岸の此の基礎工の上に跨がる長さ四十九米二の鉄筋コンクリート既製管が曳航されて来て埋められるのである、本管に起る総ての荷重は両岸基礎工によって支持され、川底の土砂には伝達されず、河底土砂に移動があっても隧道には何等の影響も及ぼさぬ、丁度川底の土砂の中に橋が架かっているようなもので、この沈埋管の上にはコンクリート防護工が施され、その上に一米余の厚さで土砂が覆い河底を為しているわけである

此の既成管が本河底道路の主体でその延長四十九米二、総幅十四米、総高七米、内部には二支柱があって断面は四型を為している、外壁の厚さ約八十糎、内部の有効高は四米である、此の中に、東側に有効幅員三米の北行高速車道を設け、中央に五米四の南行高速車道並に往復緩車道を設ける、全て鉄骨鉄筋コンクリート構造を施すものである

此の沈埋管の乗る潜函橋台の内部沈埋管と昇降機室との間は車輌の待避所に充てる関係上支柱を無くし幅員は特に拡げて十二米四乃至十五米三とする、この潜函橋台と中央沈埋管とを通じて総長八十米の河底隧道が完成するのである

路面から隧道内への連絡は南北両岸ともに昇降機を使用する、これが為に二十人乗歩行者用昇降機各二台乗用自動車二輛積(トラックならば一輛)昇降機各二台を具えることとなっている、なお歩行者用としては有効幅員一米四の螺旋状階段も併設されることとなっている

工事予算額約百万円、七月末頃起工し、約三年にして竣工の見込

本隧道が完成の上は従来渡船以外には連路の方法の無かった此花区西九条方面工業地帯と、港区九条の中心地帯とを結ぶこととなり、一日尠くも三万の人、二千数百台の車を輸送する重要な交通機関となるので其の完成は待望せられている

(河川橋梁課)

 

これ読んで「あれっ」と思えたらnagajis。

[] 昭和11年安治川河底隧道工事概説書[4297/8433-8438]

誰得上等、第三の概説書。手書きをガリ版刷してるので掠れて読みにくいったらありゃしない.

[手書きで昭和十一年九月廿七日]

 [一行不明]治川市岡線の新設に伴って従来の源兵衛渡の渡船連絡を廃止して新に河底横断隧道を築造しようとするものである。 計画に当りて尤も注意す可きことは安治川は船津橋より下流が無橋区域として指定せられているため原則としては橋梁を架設することは許されぬということである。[イ+乃]で昭和五年六月安治川連絡設備計画に就て最も遺憾なき方法を以て善処すべく土木学会関西支部に之が研究を依頼したのである、同委員会に於ける審議の結果出来上がった案が即ち今日具体化せんとしている設計の素を成したものであり連絡施設として改良渡船高架橋可動橋隧道等を経済的方面から亦利用的方面からも夫々利害得失を比較研究した結果沈埋式工法による河底隧道を最も適切なものと決定せられたのである。

隧道の築造は先ず両岸昇降機室と河底隧道部とを施工し取付(勾配)隧道は将来の交通情勢観測の結果その施工時期を計画する予定となっている。

この位置に於ける川幅は七七・二米水深は中央部に於てO.P,下六米であり航路としては約四米位を使用している状態である。 本隧道は河底部の延長八〇・六米で之に接して両側に奥行一〇宛の昇降機室がある河底隧道部は中央四九・二米を所謂沈埋管としてこの両側に長一五・七米宛の昇降機室前の広場の部分が接続している有効幅員は沈埋管部分では二・四米の歩道を下流に一本とその上流に四・五米の車道を二本設け夫々の間には沈埋管の両端支承間を橋桁として取扱うために必要な「トラス」を置き歩道は往復利用とし車道は何れも[二行不明]とする。路面口の天井迄の高さは車道では四・五米歩道では二・八七米以上とする。

沈埋管部分の車道路面はO.P,下一三・一米で縦断勾配は水平とし其の両端から三十分ノ一の勾配で昇降機床に接続せしめ昇降機室前でO.P,下一二・七四米となるそうすると両岸地盤高をO.P,上四・二米としたから諸車用昇降機の行程は一六・九四米(約五十六尺)と成る歩行者用昇降機はこれより一・六三米だけ少い。

両岸昇降機室は二〇・四米×一〇・〇米の内法でその内に西側から順々に歩行者用昇降機二台と諸車用昇降機二台とを設備し得る様にし前者の周囲には幅一・四米の階段を置く尚中央部分(諸車用昇降機と歩行者用昇降機との中間)に幅三・一米の空室を設けておいて将来取付勾配隧道の出来た時には此の空室と上流側の諸車用昇降機一台を撤去した跡とを取付勾配隧道への連絡車道として利用する予定である。取付勾配隧道は有効幅員六・〇米として高速車専用の予定である。

基礎工は沈埋管部に於ては浚渫した河底を単に地均をして沈設する関係上管底の地盤には信頼せずに管の両端に位する部分に支台を設けてこの上に管を据え付けて管自体を一つの河底橋梁として取扱うことにし此の支台を昇降機室の基礎と一帯の潜函工とする。

沈埋管の大きさは高さ七・〇米幅一四・〇米長四九・二米で天端をO.P,下七・九米とし其の上に厚さ二十糎の砂を敷き更に其の上に厚さ三十糎のコンクリート塊を敷いて河底防護工とする防護工の上には 三米厚に玉石又は土砂を以て川床を形成するのである。

[一行不明]て毎時一五〇〇人(交通量を示す)を輸送し得るものである現在渡船のラッシュアワーに於ける最大交通量は一時間一一五〇人で一日に一二・四七〇人を運んでいる。

諸車用昇降機は三・〇米×九・五米の大さで毎分四五・五米の速度とし乗用自動車二台を収容し得るもので二台の昇降機を全部自動車に利用するものと考えると毎時一四四台を輸送する事が出来る。然し現在渡船を利用している自転車や諸車をも輸送せねばならぬから二台の昇降機が輸送し得る最大交通量を推定すれば毎時自転車三八〇台諸車六〇台自動車九〇台と云う様な状態になるだろう。

其他照明排水換気等も適当に設備することに成っている。尚昇降機室の入口には高潮の場合を考えてO.P,上五・〇米迄浸水を遮断する様遮断扉を設けることになっている。

工事の工法

工事は先ず南詰から初めて次で北詰に移し後中央部の沈埋管を沈設する。南詰工事の着手以前に在来の渡船 を約九〇米下流に移転してから北岸寄を浚渫する。これは南詰工事のため仮締切をして川幅を縮少するから北岸寄に航路を移すに当り船舶航行の不便を軽減する目的で施工するものである。仮締切実施後流速は約二十七パーセント増加する予定であったが実施の結果は予想より少く一〇パーセント程度であった。これがため工事中の航行上の混雑も少く航行の監督も都合よくいっている。

両詰工事は鉄矢板で一重の仮締切をしてO.P.下一・〇米程度に掘鑿地均等しをしてから潜函の据付沈下作業[一行不明]く。

沈埋管沈設のために浚渫をするがこれは自然に埋まって来ることを予想せねばならぬ流速と土質によりどの程度に埋まるかを推測することは甚だ困難であるが崩落を防止する設備をするは勿論昼夜兼行で作業を進めてなるべく自然に埋まることを少くする考である。

浚渫が終って川床均しをすませた後愈よ沈埋管の沈設をするのである沈埋管は予め本市港湾部船渠内で製作したものを現場に曳航することになっている。管の容積は約五〇〇〇立米重量約四五〇〇噸である、沈埋管の沈設は極めて敏速と確実とを要し本工事中尤も慎重な準備と細心の注意を尽さねばならぬ難作業である。沈設作業時間以外は成るべく航行を妨げぬ様に工夫した堅固な導材を以て所定の位置に正しく導き予め管内に設けた室に注水して管体を水平に保って徐々に沈下する予定である。沈下作業は流速の最小の時間を撰んで約四時間位の内に終了せしめる。此の間は勿論船舶の航行は全然禁止しなければならぬ。沈埋管と既設隧道との継手は管の周面外面に沿って設けたる丁型突出部を利用し各突出部間に鉄板を用いて仮水止をい水密に施工し内部を水を抽出後内部より完全なる継手を施工するのである、突出部と鉄板は潜水夫により「ボールト」にて緊定するのである。

最後に隧道内道路工、上屋の築造、昇降機の取付、附属工事等を行いて工事を完成する予定である。

工事は昭和九年九月から護岸の保護北岸寄の航路の浚渫地質の再調査、流速、潮位の観測等準備作業[半行不明]竣功は昭和十三年の春の予定である。

綴じの喉に隠れてて見えぬ.

寝る前に沈埋管が沈埋函になっているのに気付いて欝である。ぜんぶペーストし直しかえ。。。

15日にあるというシクロジャンブルーに行きたかったのだが、ちょっと厳しい状況だ。ORJ出来てないからな!

61号が終わったら2泊3日くらいでどこかに行ってみたい。福知山か御杖村か・・・後者のほうが喫緊なのだが最近は南方ばかり行っているので気分を変えてみたい。原点に帰ってお気楽サイクリングがいいな。

うーん、なんでこんなに蒸留が遅いのだろう・・・何か設定変えたっけか?

画像もそんなに大きくないはずだし。一巡するのに数十分も待ってられねえ。

そして途中で落ちると数十分が無駄になるという..orz

[独言] 61号

うーん、広告がちと大きすぎたな・・・うまいこと第一部に入らぬ。第二部に押し込んで35MB超にするか・・・


2011-05-15 [長年日記] この日を編集

なんか私がトリさんを嫌ってわざとトリミングしたみたいな話になっている(汗 画像収めるのに72%縮小し忘れただけなのに。基準が左上にあるから右上が見えなかった.

いや待てよ、そういうことにして世界を渾沌に陥れるというのもありだな。うん。<カオスのseed

[ORJ] 61号

意図したわけではないが今号はすべてのページが横書きだ。タイトルも見出しもデザ処理も縦書きが一切無い。画像の中の文章だけだ。たぶん61号目にして初めての出来事だと思う。11号はTRDBあったからな。

横書きだと文章がアレでもアラが見えないというのは秘密事項で、本当は画像と文章とかっちり対比させながら書きたい時とか比率が1:1のときは横書きのほうがやりやすいから横書きにしたのである。文章を計り易いというのもある。

で,安治川については存分に書いたので満足した.文章ではなくとりあげた量と内容に満足である.探索ルポを書いていると「だろう」「かも知れない」ばかりになってムラムラする.町史や村史などですでに書かれている情報の寄せ集めになりやすい.他人の褌じゃんとか思う.かといって村田の時のようなのは正直手に余る.ちゃんと把握して咀嚼して書けたとは言いがたいしな.今回はそのどちらでもない.そのせいで他人には伝わらないかも知れんことは書く前から覚悟した.でもまあ毎回こんなんだったら氏ぬるよな.そんなネタもねえし.

で,徹夜して修正したわけだがこのまま寝ると間違い無く夕方を回るのである。サドル買いたかった。

[独言] 長年日記

ふと昨日の長年日記を読んで毎年こうなんかと気づき愕然としている.そりゃ同じこと3年もやってたら不感症になるわな.今年は未だ自分のためになつことをしたらしいが.

[煉瓦] 金ヶ崎,春日野,鐘ヶ坂

金ヶ崎:225x53x?,223x52.3x?

春日野:220x54x?,225x53x?

鐘ヶ坂 坑道:222x(60〜63)x110,215x59x?,218x60〜59x?,222x60〜61x?

鐘ヶ坂 坑口:238x68x115,235x68x112〜3

鐘ヶ坂 天井:220x54x?

[] IMF専務理事、NYで拘束 性的暴行容疑で訴追

http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381959FE3E7E2E2E68DE3E7E2E7E0E2E3E39494EAE2E2E2

というニュースのヘッダを見て

IMF=ヤーン ざけないで

だという説を中学時代の友人が唱えていたことを思い出した。中身は見ていない。


2011-05-16 [長年日記] この日を編集

[ORJ] 発行した。

t/o

[独言] メモ

現在はあとで貪り喰うべくカレーを製作中である。机周りを整頓していたらメモが出てきた。CD#1を路上販売するのにも使ったやつで「どれでも1つ五〇〇えん」と書いてある。それが言いたいんではなくて、それが鐘ヶ坂の寸法計ったり金ヶ崎と春日野行ったりした時のもので、そこに煉瓦のサイズがメモってあった。忘れないうちにここへ転記しといた。こういう埋もれたメモが山のようにあるはずだ。2008年に東紀州へ行った時のは出てくるだろうか。

[独言] 攫われた

皿を洗っていたら割れた。切った。大したこと無いと思って放置してたら流血の惨事になっててビビッ。「た」が抜けた。

[独言] 典型

最寄りのコンビニはローソン一号店なのだが、そこで典型的なおばちゃんに遭遇した。何百何十何円の買い物を小銭を並べつつひいふうみよう数えて支払っていた。あと2円が足りなくて結局5円玉を出したり、レシート受け取ってから「あれこれ2やん、2やないほうの○○はないのん?」と言って手戻りさせたり。本人はそんなつもりはないだろうが好き放題である。

レジの人も手慣れたものだ。レジを打ながらおばちゃんの世間話に応えている。相槌打つ程度じゃないのがプロ。「そういう時は体を動かして云々」と体をくねらせつつ言っている。

後ろに並んでいた2人は隣に行ってしまったが、自分は面白かったので待ち続けてみた。別に急いでいるわけでもないのだし、イライラしたからといっておばちゃんの動きが2倍速になったりするわけでもないのだから、こういう時は状況を楽しむに限る。それよりも、手提げからあめちゃんを取り出して子供に与えるおばちゃんを見た時のようなニヤニヤを噛み殺すのに苦労した。

どだいコンビニは殺伐としすぎだ。機械がやってるんじゃないんだし、たまにはこういう人らしいやりとりがあっても宜しかろう。そんなことを考えていると、レジについていたもう一人の店員さんが見かねてこっちを処理してくれた。そのさりげなさも随分慣れているように感じた。そこで千円札で支払ってしまったのは失敗だったかも知れない。私もおばちゃんを真似てひいふうみいようしなければならなかったはずだ。

[ORJ] バックヤード整理

DLページ作成ツールを修正。アンケ自動製作の一ケ所が上手く動いていなかったのを直した。先にarray()しとかなかったから変数扱いになってarray_shiftして空になると。そりゃそうだわな。

CD-R購入ページの問題も修正。送料が正しくならないことがあって、どうせCD-Rは変動するのだからと放置していたが、切羽詰まったときに大変なのでということで直す。要するに$が抜けていた。ばーかばーか>jis

そして復旧支援号作成中。


2011-05-17 [長年日記] この日を編集

[ORJ] 支援号

うん、なんとかできそうな感じ。編集部MLに回してみる。

兵庫県立図書館は遠い……


2011-05-18 [長年日記] この日を編集

[] 地図をかく

書きながらいろいろ足りないよなぁと思い始める。両郡橋の煉瓦サイズ。姉妹水の件。舟木橋の親柱。深瀬橋(だったっけ)の橋脚も調べられたらいい。そういや大宮町史はほとんど読んでいない。完全解明に至らないことは着手前からわかっていたことなのだが、一度書いてしまうと追加が面倒。ではある。

一旦提出して意見を求める・・・という想定はアンケが返って来ないだろうからあんまし意味がない気もしてきた。要するに次号担当分で適度なものがないから持ってこようと思い付いたまでで、なんだ。

今から追調に行ったら尾鷲迄行きそうな勢いだしな。それはちょっときつい。


2011-05-19 [長年日記] この日を編集

[ORJ] 支援号

とりあえず公開した。1号価格=募金額を指定できるようにしてはという意見もあったがバックヤードがこん柄勝手炒るので弄るのが恐い。額の設定はたぶん「購入しますか?(y/n)」の画面でしてもらえばよいのだろうが・・・その後の処理がややこしげだ。クレカで1号購入の場合はどうするの?(手数料は?)とか。

基本的に過去記事の寄せ集めなので長くORJを読まれている方には魅力がないかも知れない。仕方ない。むしろ最近読み始めて過去記事のことをよくわかってない方にいいかも知れぬ。追加で新しい記事を書こうにも私にはネタがないしな。

今後何か関連するような記事が出てきた時に追加するつもりにしている。TUKAさんと受付に頑張ってもらおう。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ TUKA [そんなネガティブなことばっかり言わないで、 「新規の写真をいっぱい追加しましたよ!」みたいなポジティブなことも書いて宣伝してよ(苦笑)]

_ nagajis [いやいやいや、トップとダウンロードページでは一生懸命宣伝しましたよ!(汗 ミスがあったんでもう少してこ入れしましょう・・・]


2011-05-20 [長年日記] この日を編集

[ORJ] スパむ

テコ入れっても本来しなきゃいけないことをしたというまでだな・・・

[絵葉書] 他:英国海軍保有戦力一覧

第2回の服部古本市で滅法安く絵葉書を入手することができた。新たなネタ:青の洞門を発見したし、念のためと思って改修しておいたものも当たりだった。コレクションが一気に充実したCandida。いつもこれくらいの値段だったらいいんだがな。

画像の説明

それもあって新カテゴリを用意する。これは今日の戦果ではなく以前入手していたもの。右側の注意書きが興味深い。「撃滅」の下に「次々お消しください」と書いてある。「戦績に依ってお消しください」ではない。消すこと即ち勝つことが前提なのである。

プリンス・オブ・ウェールズとレパスルルスはマレー沖海戦の時のもの。この葉書が作られた数ヵ月後にはミッドウェー海戦に大敗し海軍力が激低下する。この後どれだけ増えたのだろう。

本日のツッコミ(全7件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ マフラー巻き [読みが面白いなぁ。艦船模型マニアとして、貴重な物を見せていただきました。]

_ マフラー巻き [あ、まだハーミズが沈んでない!ちょっとニヤリとした。]

_ TUKA [飛行機のシルエットを描いた「敵機の見分け方」バージョンもあったはず。]


2011-05-22 [長年日記] この日を編集

[絵葉書] 道:鉾持桟道

画像の説明
画像の説明

盛り上がってるところを失礼だが次。なにげなく購入した2枚組で今後利用する予定もなさそうだ。検索すると伊那のほうらしい。

道の絵葉書というのは案外少ない。新道ができた記念に作ったとか、風光明媚な観光地だとかの道はないでもないが。そういや矢の川明治道の絵葉書もあったはずなんだが…08年のツアーの後辺りで紛失してしまった。惜しいことをした。

[奇妙なポテンシャル] #234

画像の説明とある図書館の構内で。正面玄関の前の道路に建っていた。初見は「うんうんそうだよねこんなとこスピード出したら超危ないよね最も徐行しなきゃね」とか何とか思って納得したが、やがて気付いて、すごく騙された気分になった。この奥に本物が建っていたりするもんだからなおさらたちが悪い。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ tyaffic [R361ですね。一枚目左奥が桜で有名な高遠城跡で、二枚目は中央アルプス木曽駒ヶ岳。当初ここは電気鉄道を通す予定で用地買収も済んでいましたが、当の推進者が病死してオジャンになってしまいました。てか良..]

_ nagajis [2枚で200まんえんでした(大阪の商人風]


2011-05-23 [長年日記] この日を編集

[] 大分県会史

大分県は明治初期の県会史がNDLにあって有り難い。

宇佐郡長洲港より玖珠郡に通する道路改修の件建議、大分より高田港道改築の議
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784862/271

大野郡宇目郷より佐伯港道の中国道第三十六号線南海部郡上野村字番匠より分岐して佐伯に通する道路の改築建議
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784862/269

下毛郡柿坂より中津町に至る道路改築の議
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784862/268

etc.etc.建議一覧はこのへんから。

http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784862/246

中津道路(仮称)については明治33年通常会の議事にて可決。建議者は梅木芳太郎、谷直義。

建議案

茲に本県会の決議を以て建議仕候要領は下毛郡柿坂より中津町に至る道路は玖珠下毛日田三郡交通の枢路にして人馬往来の頻繁なる県下多く其比を見ざる要道たり然るに幅面狭隘にして車軌を並べず屈折崎[山+区]にして運輸便を欠けり殊に霖雨数日に亘るか又は窃陰々湿ノ候に及びては路面忽ち小[邸-一]を築き車馬の転覆前後相接し行路壮絶の惨状は実に人をして慄然たらしむるものあり此故に宜敷速に該道路を改築し交通の便を計るは頗る急務の業たるを信ず依て精査の上三十五年度より改築起工相成度此段及建議候也

明治三十三年十二月 日  大分県会議長 水野江文二郎

大分県知事 鈴木定直殿

理由

本建議の旨意は現在の道路は物資運搬の度と其権衡を得ず以て交通の便に供するに足らざるなり之が為め年々幾多の修繕を加うるも常に破壊に属し更に其功を奏するなく地方の交通発達を[サンズイ+且]喪する事鮮少ならず故に相当の改築を加え路幅の拡張をなし交通の便益を達せしめんと欲するに在り

同意多数により可決。

http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784862/209

新シリーズ。アジ歴で興味深い文献を発見した。解説はまた今度。

[] 明治9年6月8日 国県里道制

松波さんのところにもあると思うが自分でも。

(第五章 道路/第十三 総則)

〔達〕<九年六月八日 第六十号>

明治六年八月大蔵省より相達候道路の等級を廃し更に別紙の通相定候条右分類等級各管内限詳細取調内務省へ伺出べし

但費用の儀は追て一般布告候迄従前の通心得べし

別紙

国道
 一等 東京より各開港場に達するもの
 二等 東京より伊勢の宗廟及各府各鎮台に達するもの
 三等 東京より各県庁に達するもの及各府各鎮台を拘連するもの

県道
 一等 各県を接続し及各鎮台より各分営に達するもの
 二等 各府県庁より各支庁に達するもの
 三等 著名の区より都府に達し或は其区に往還すべき便宜の海港等に達するもの

里道
 一等 彼是の数区を貫通し或は甲区より乙区に達するもの
 二等 用水堤防牧畜坑山製造所等のため該区人民の協議に依て別段に設くるもの
 三等 神社仏閣及耕耘の為に設くるもの

右の内一道にして各種を兼るものは其類の重きものに従う国道並県道の道幅其土地の景況に拠て各地各殊なるものなれば今遽に之を一定し実地に施行すべからずと言えども予め一般の法則なき時は道路より生ずる百般の事件其準拠を失うの患あり仍て左の定を以て一般の法則と為し且将来新設する所の道路は其土地の便宜により此道幅を保たしむるべし

国道
 一等 道幅七間
 二等 同 六間
 三等 同 五間

県道
 同 四間乃至五間

里道に至ては要するに該区の利便を達するに在て其関係する所随て小なれば必ず之を一定するを要せず橋梁は即ち路線を互続するものなるを以て道路の種類に随うを至当とす然れども其幅の如きは必ずしも道幅に従うを要せず

単行書・例規類纂・第一巻

[] 明治9年6月15日 図面調整概則

〔達〕内務省<九年六月十五日 乙第七十三号>

今般第六十号御達之通道路等級被相達候に付各管内限別紙調整概則及雛形に標準し来る十二月二十五日限図面調整当省へ差出すべし

別紙

図面調整概則

第一則
此雛形は国道県道の等級に従い其路線の分類を明示せんが為めに仮に府県鎮台其他此分等に関する者を携書する者にて要するに道路分類区画を明瞭ならしむるに在り故に各管内に於ては其路線の断続分合に従い之が分類等級を詳明表記して遺漏なきを要す
 但し国道県道を掲るに限り里道に至ては登記するに及ばざる者とす
第二則
凡そ一道にして数種を兼る者は[遼?]く其路線の亘及する所を審にして其類の重き者に従て符号を施す可し
第三則
東京より路線を起す者の外各鎮台を拘連する者は固より国道第三等部類に属すと雖も鎮台を設置せざる(甲)県より(乙)県なる鎮台に達するに乙県に於て県庁と鎮台と多少の間隔ありて従て其路線を殊にする者は其鎮台に達する線路の部分も斉しく県道第一等の部類たるべし
第四則
県道第三等著名の区は県庁支庁及鎮台分営を設置する者を除くの外其地たる多量の物産を生ずるか又は否らざるも物産を交通す可き枢要の地位を占むるか其他一般公益に属する製造所等の設けありて従て戸口稠密人民輻輳の地又は船舶の出入多き港等は此部類たる可し
 但し右分類に属すべき者は図中に掲げたる符号に従い之を登記す可し且其区の著名を徴す可き実際の景況を別紙に調整し一同差出す可し
第五則
府と県とは接続する線路も県道第一等たる可し
第六則
国道県道に沿う郡村に限り路線の側に其名を記載す可し
第七則
宿駅は図中に掲げたる符号に従い登録し併て其名を記載す可し
第八則
市街は府(県)庁或は支庁の設けある所にして路線の国道若しくは県道に属する者に限り其名を登記す可し
第九則
橋梁及渡船場は図中の符号に従い登記す可し
第十則
山河は其位置の概略を模写す可し
第十一則
里程は宿駅毎に取調路線の傍に記載す可し
第十二則
各管内限路線の始る所と其終る所には隣県に亘続する路線の方向を指示する為め管内の郡村名を記め従是何県下何郡何町村に接続と記載すべし
第十三則
伊勢宗廟の線路は僅に一二管内に止まるを以て別に雛形図中には掲示せずと雖も国道第二等の符号を用う可し
第十四則
図の大小は管内実測図ある者は大凡十万○八千分一の縮図を雛形に準め製す可し但実測図なき府県は成丈取縮めたる見取図を調整し其大なるも美濃紙六枚継以上に登る可からず
但図中市街は実測図の分に限り第八則に準じて一万八千分一の縮図を別紙に調整し一同差出す可し

単行書・例規類纂・第一巻

第14則の縮尺はなんかおかしい気がする。とりあえずママイキ。


2011-05-24 [長年日記] この日を編集

[] 内務省地理局 例規類纂

興味の焦点はそこではなく、むしろそれ以降の回答集なのである。内務省が出した布告や達について、どう解釈したらいいのかわからない他庁や府県庁からあった問い合わせの事例と、その回答をまとめてある。要するに当時の法令の解釈なり適用範囲なりが知れる本である。各県や市町村等のものは近デジにいくつかあるが、省側のは見たことがなかった。実際この書は部外秘だったらしい(第前加巻 巻頭に「官吏にあらざる者をして放観せしむるを禁ず」とある)。

例えばこんな感じ。

[] 例規類纂第一巻・道路 道幅回復の例規

〔回答〕地理寮<八年八月七日 東京上等裁判所聞合>

今茲に一条の公路あり両境は各人民の私用地にして其広さ六尺に過ぎず然るに県庁又は邑会の簿記に此道幅九尺と記載す因て三尺の不足は両境の私有地に混同せるを知ると雖何れの地内にあるや其憑拠を得る能わず而して復旧追回以前の道幅に為さんとする時は其処分如何定て貴寮には例規あるべし委細示しあり度

回答<九年一月十五日> 道幅回復の儀に付照会の趣領承右は地押に因て其の質を得る慣例なり

〔明治十七年第一巻/第五章 道路/第十三 総則〕

帳簿に九尺と記録されてる道が実際は六尺だった。両脇の民有地のどっちかに紛れてるらしい。これ、九尺に拡幅したい場合は何に拠ったらいいの?という質問。内務省の返事は「地押見れ」。

内務省の返事はいつもそっけない。無意識にツン属性をつけてしまう。

[] 例規類纂第一巻・道路 国県道幅について

大分県
去年の6月に国県道幅の基準できたち聞いたけど、うち貧乏なんよ。西の隅っこの僻地なんよ。山険しいんよ。集落なんか山ん中にちょぼちょぼしかねえき。ほんのちょこっとある平らんとこも人家がいっぺえ集まっちょるし往来が輻輳しちょるしで道広げる余裕がないんよ。国道なんか東京に達する1本しかねえし、県道やって熊本に行くんにちょっと往来があるだけちゃ。鹿児島に行くんなんかは名ばかり県道やけん。そりゃ殖産興業の為ん道ん必要なんはわかっちょるけん。一所懸命改修しようとしよるけん。やけんど山険しいけん大変なんよ。たとえ道幅広くしても真剣金かかるし、耕地潰したり岩削ったりして作っても貧乏やき維持できんですぐに草生ゆるけん。とりあえずは路線調書書いて出すし、道幅広くするつもりやけんど、一旦は指定の道幅より狭く作るけん許してちゃ。あとで需要に応じて再改修して広げるけん。
内務省
おk

〔指令〕内務省<十年一月十二日大分県伺>

客年六月第六拾号公布国県道幅員御定相成り随て将来新設の向きは土地の便宜に因り右幅員を保たしむべき御趣旨に有之候所当管内の如きは西隅の僻地にて山[月+永]連亘村落其間に散在し平坦人家稠密車馬輻輳する等著名の区甚稀なり随て路線の国道に入るが如きは当県下より東京へ達する一路線のみ其他県道熊本へ達するは僅に人馬の往復するも鹿児島へ通ずる如きは徒に県道の名称あるのみにして往来尤稀[練?]爾余総て右に類似し地形頗る険悪なり然れども漸次修築の業を起さざれば又開通の時無之依て置県以来百方尽力するも前述の如き地勢なれば莫大の失費を要し労功相償わず况や一時御定則の幅員を保たしめんとせば容易に修治を奏する能わず僅に其業を竣えしむるも旅客車駕の往復稀少にして折角耕地を損潰し巌石を鑿開したる功も無之のみならず過般草を生じ其掃除にだも民力に堪ざる路線も有之旁今般先ず国県道の路線図式を製定し之を以て将来修治の準拠とし差向行客の繁閑を許量し物産交通の多寡を斟酌し仮に適宜の幅員に修鋪し多年物産繁殖運輸興隆の期を俟て御定則の幅員に改修候様施行致度右は兼て御制定の儀有之候得共管内実際の景況に依り相伺候

指令<二月六日>申立の通取計うべし

明治十七年第一巻/第五章 道路/第十三 総則

念のためにいっておくが大分弁は出鱈目である。DjVuはページ指定でリンクができないのか・・・

そうなんよね・・・場当たり的にCSS設定したから複数日表示させると崩れるんよ。忘れてた。


2011-05-25 [長年日記] この日を編集

[絵葉書] 雑:王子製紙苫小牧工場 142インチ抄紙機

画像の説明

何か狙いがあったわけではなく、いつか林業の話をする時に使えるかも知れないという程度の理由で捕獲したもの。後になって意外と面白いものであることを知った。

王子製紙は三井系の製紙会社。明治20年代に天竜川流域の山林を購入し、気田工場、中部工場を建設したが、度重なる水害で思うように利益があげられなかったので北海道へ進出した。いろいろな難局を経て明治43年に苫小牧工場が完成。この時置かれたのが絵葉書にある142インチ幅の抄紙機だった。

142インチ機はアメリカからの輸入物で、当時最大・最新鋭のマシーン。このサイズの抄紙機としては日本で初めて導入されたものだという(従来の輸入機は100インチ幅。苫小牧工場には142インチ機と100インチ機が2台ずつ設置された)。以降苫小牧工場は砕木パルプを原料とする新聞用紙製造が行なわれ、新聞用紙の国産供給を可能にしたのだった。それまで新聞用紙は輸入に頼っていたのだ。

絵葉書の宛名面には王子製紙苫小牧工場のスタンプが押してある。12.3.8という日付があって、おそらく昭和のものと思われる(葉書のフォーマットも昭和系だ)。それからすると後年リプレースされたものである可能性もなきにしもあらず。詳しくはツッコまない。


2011-05-26 [長年日記] この日を編集

[絵葉書][橋梁] 橋:岡山県浅口市 神影橋

画像の説明
画像の説明

この2枚も狙って揃えたものではない。異なる場所で道路橋の絵葉書を探していて購入し、偶然揃ったものだ。上の葉書を先に見ていて、2枚目を見つけたときに「このボーストリングトラスかっこええなあ、そういえば神影橋って見た事あるなあ、あれ買っとけば良かったなあ」と思って購入したところ、実は1枚目も購入していたという。そんな感じの適当な捕獲である。

金光教の総本山の前に架けられた橋。上が初代?の橋で鉄管柱橋脚の木桁橋。下が2代目?のものでピン接合のボーストリングトラスだ。ピンでボーストリングというと「廃3」でtaiheiさんが書いてくださった木谷原橋(ドイツ製輸入プレファブ)を思い出すが、これがその系統なのかはわからない。斜材が棒鋼になっているから多分違うのだろう。

JSCE-Lib.の橋梁年表によれば初代橋?は1893年(明治26)もしくは1907(明治40)架設。二代目?は1921(大正10)。いまは1969(昭和44)架設の新橋になっているそうだ。

橋の絵葉書については土木学会図書館のデジタルアーカイブスに大量収録されているから、そこにないものをと思って上記2枚を購入したつもりだったのだが、同じ葉書がしっかり収録されているうえに撮影角度が異なるものが4種類くらいある。さすがだ。。。対抗しようとかコレクションとかのつもりで買い始めるときりがないので、安くで売っている時にピンと来たものをてきとうに入手するスタンスでいこう。特に橋なんかはJSCE-Lib.の充実度にかなわない。

[独言] うーむ

寝るタイミングを逃した・・・徹夜して今頃眠い。

[絵葉書][] 隧:大阪 大日嶽隧道

画像の説明彩色絵葉書は綺麗に仕上がると味があっていいのだが、これはむしろ着色とでも評すべき雑さで、美的価値は低い。100円でなければ買っていなかっただろう。しかし貴重な明治隧道(改修あり)の写真である。

箕面の滝の上にあるやつ。当初は素掘りだったがいつの頃からか欠円アーチがついて「大日嶽隧道」と呼ばれるようになった。その頃の絵葉書。南口だ。正面からの写真は以前明治隧道@大阪府をやったときに使った資料にある(実はその構図の絵葉書も存在する。持ってないけど)。

今は歩行者専用のボックスカルバートトンネルだが、その上に「箕面隧道」の扁額がついたCポータルと、擁壁の裏に高さ制限の旧標識が残っていることを、たぶん誰も知らないはずだ。どうでもいいが旧標識の最もよく撮れた写真は上書きして消してしまった。残念。再撮に行くほどでもないし、またあの恥ずかしい思いをしなければならないのはちょっと考えもの。

いま気づいたが「TheMinomo‐Park」になってるな。間違いなのか、そういうものだったのか。

[独言] 嗚呼

増田淳の橋梁図面が見れなくなってる。。。これは困ったぞ。早く十三大橋書いとくべきだった。

http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2006/draw/sample/ZumenSample4.htm


2011-05-27 [長年日記] この日を編集

[ふむ] 大正三重県史

大正三重県史に県議会史が結講詳しく載っていることにさっき気づいた。浩瀚な県会史を圧縮してあるので理解しやすい。大正4年通常会熊野街道改修費(5年度から3ヶ年継続)3万余円が可決。翌5年通常会熊野街道と信楽街道の改修費の残金9万余円を流用する形で船津村相賀村間熊野街道改修川添村熊野街道改修、森村波瀬村間和歌山街道改修(6年度、7年度)が可決。馬鹿曲りの改修@三重県会史第2巻はT4の時の予算説明で、一旦参事会で疑問符がついたらしいが可決してる。T5の金額はP220を参照の事(熊野街道継続費の償還方法の変更とか)。そして残工事はT7通常会(P283)。T4、T5の対象が煉瓦隧道群でないことは確かなんだが、T4がT5につながってるのかはよくわからん。金額を考えるとT4の決議に上乗せしたのがT5っぽい。

新道路法の話題が出てくるのはT8。

あと、二郷峠=荷坂峠改修は明治28年通常会で1年延期のうえで可決(第一巻P962)。県会史だと最後に原案通り可決とあって紛らわしい。この時に現国道のルートになったようだがその改修は不完全だったらしくT4の議論で馬鹿曲り直しても二郷峠があるよどうすんのみたいな討議がされてる。いわゆる第二期改修と(自分が勝手に)理解していた工事は長島〜尾鷲間の山岳部の改修のみであって、それ以外(平坦部とか荷坂峠とか船津−相賀間とか)は後回しにされ、工期は近いが別物として取り扱われた感じ。すげぇややこしい。

あと緑橋も忘れんなァ

[独言][宣伝] 修正

廃道ぼんの宣伝バナーの気になり度がMaxになったので修正した。しかし1024px幅だと(旧)に埋もれて見えないのだった。愚だ。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ TUKA [修正の余波でしょうか。 IEで見ると大変なことになってます。]

_ nagajis [酷すぎワロタ]


2011-05-28 [長年日記] この日を編集

[絵葉書][橋梁] 橋:香川県相引川・高橋

画像の説明

行くあてもないのに他所の地方の絵葉書を購入している。記事を書くときにフト引用したくなるかも知れないというただその一点だけで。この橋は桁の石梁の薄いことと多径間なことにひかれて購入した。名前が書いてなかったが香川の高橋という橋らしい。現存せず。

香川といえば小豆島や黒髪島といった石材産地を抱えた本場。よってこんな贅沢でハイレベルなことができたのだろう。惜しむらくは橋台の石積みがまずい。随分クタッていて(DAにも高橋の絵葉書があるが、桁が弧を描いていない真っ直ぐな姿のがある。石積みが沈下してしまったのだと思われる)、それで今は残っていないのだと思う。

[企画] イベントガイド

要は近代化遺産・産業遺産・土木遺産関係のイベントの情報をとりまとめたい。個々に出ているのを通覧したい。気づいたときには終わっていることが多く、もったいない気がする。ふだんからアンテナ貼っておけという話ではあるんだが、ニュースにならないと知られないのではもったいない気がする。

[] 例規類纂第一巻・道路 堤塘上の道路

〔指令〕内務省<十三年十二月廿三日 福岡県伺>

第一条 国県里道の別なく新に堤塘上に開通したる道路地目は其棄地なる堤防の儘据置可然哉

第二条 前条官有堤塘上を道路に変換せんと欲するときは県限り処分し不苦哉

指令<十四年二月一日>

第一条 堤塘兼何道と記載すべし

第二条 堤塘上を道路に兼用候儀に候はば伺の通

〔明治十七年第一巻/第五章 道路/第十三 総則〕

堤防上に新設した道路の扱いをどうするかという話。「堤防兼道路としとけ」ってのは適当なようだがそれしかないだろう。現行の道路法では「兼用工作物」としてその扱いを道路管理者と河川管理者が協議して決めることになっている(第20条)。その根源が明治14年まで遡るようだ、というお話。

[] 明治十二年三重県 河港道路橋梁建築修繕法(案)

大三重県発足後の最初の土木費支出法。大正三重県史に全文があったので県史の記述も含めて引用しとく。

この年初めて三重県会が開催され(第一回通常会:明治十二年四月)、その五番目の議題として提出されたもの。旧三重県域と旧度会県域で土木費の支弁法が異なっていて、それを調整する暇がなかったから、とりあえず旧県での支出法を踏襲することにした(そういうふうにしろというお達しもあったし。明治十二年府県会決議)。予めそれ用に¥を徴収するのかしないのか、旧二等道路まで面倒を見るか否かといった違いがあって、ちょっと面白い。

(前略)次に(五)の河港道路橋梁建築修繕法案は、当時の土木費支出方法案と見るべきもの、未だ県下四州の旧法慣習ありて、之が調査を完了せず、又従って一定の方法立たず、依て暫らく府県会の決議を以て旧慣により施行するの簡法に従うべく提案せられたるものに属せり。即ち其全文を掲げて参考に供す

河港道路橋梁建築修繕法案

河港道路堤防橋梁の義は、昨十一年十九号公布地方税支弁費目並施行順序公達の主意に拠れば、其工事は官費地方税費協議費を以て方法を設くべきは勿論とす、然れども該事業の如き各府県種々其方法を異にし又旧規慣例等ありて、容易に改正し難き事情あるべきにより、政府に於ても深く顧慮せられ、本年二月廿七日付府県会決議を以て暫く旧慣に因り施行不苦旨を達せられ、目今に在りては、改正に従うも旧慣に依るも、適宜処置するの便宜を与えられたり、然るに本県の如き其改正に着手せんとするに、河港以下費途の区別より事業施為の方法等取調容易に行届くべき業にあらず、故に十二年度は先ず南北部共各其旧慣に従い其事業を継続せんとす、而して其旧慣に従わんとするに、管内一般地方税に係る工事は旧二等以上道路に於て県税に道路掃除費を以て支出せし分に止め(大破は従前県税より支出し小破は掃除費より支出の筈)其他の工事北部は官費及土木賦課金を以て作場路を除くの外工事を県庁にて管理し、南部は非常水災の破壊を除くの外旧二等以上は歩合官民費とし、旧三等以下は皆其地元町村の自弁費とす、及安濃以北各郡一志以南各郡旧慣法を左に示す

一志郡以南各郡旧慣法

一志以南各郡は河港道路橋梁等の工事旧二等以上の分人足一人米一升七合を給し、不足賃金は地元町村の自弁とし、工費総計の八分を官費二分を民費とす、旧三等以下の内樋管長十間若くは内法三尺以上の分は人足賃米前道断を約し、工業総計の三分四厘を官費、六分六厘を地元町村の自弁とし、其他要悪水路並井堰小樋管等都て利害関係は町村自費を以て修繕し別に地価千円に付金弐拾弐銭五厘九毛九弱を非常の工費として予備に供す

安濃以北各郡旧慣法

安濃以北各郡は土木賦課金として、地価千円に付伊勢国は金九拾銭伊賀国は金六拾八銭の割を以て徴収し、工事あれば地元町村より地価千円に付、無賃人夫六人五分を出さしむるを定規とす、旧二等以上の分地価千円に付六人五分を出さしめ、其人夫一人に付米七合五勺を約し、其余皆米一升七合を約す、旧三等以下は人数を不限皆一人米一升宛を約し、其不足の賃金は地元町村の自弁とす

大正三重県史 上 P609


2011-05-29 [長年日記] この日を編集

[独言] 鋼材統制の背景とその後

安治川隧道の記事で戦時中の鋼材統制について書いたわけだが、参考のために何か体系的な本を読んだわけではなく、神戸大学図書館の新聞記事文庫から関連する記事を拾い読みして書いただけなので、自分でも稍々不安なところがあった。高校日本史じゃ近現代はすっ飛ばすしね。あとになって日本経済新聞社「日本産業百年史(上・下)」を手に入れ、鉄鋼生産の下りを読んでみたが、大きな誤認はなさそうな感じ。ただ「日本製鉄」の成立や鋼材不足の根本原因について理解し損なっているところがあるようなので、その辺りを自分のためにまとめ直してみる。

話は官営八幡製鐵所の設立あたりから始める必要がある。八幡製鐵所は日本で初めて銑鉄鋼鉄を一貫で製造できる製鉄所として設立された(銑鉄=鉄鉱石から取り出した鉄。高炉を用いる。炭素を多く含み鋼鉄の原材料や鋳鉄原料になる。鋼鉄=銑鉄を精錬して炭素の含有率を下げた鉄。平炉を利用)。建設は明治30年(1897)から始まって、34年にはとりあえず完成。しかしコークスの質が悪くて操業はうまくいかなかった。これは質の高いコークスの利用を前提としたドイツ式の設計であったことが原因だという。なお原料の鉄鉱石は清国の官営製鉄所に属していた大冶鉄山からの輸入が中心で、日本には大規模な鉄鉱山は皆無に等しい状況だった。豊富に利用できたのはせいぜい石炭くらいで、それで筑豊の炭田地帯に八幡製鐵所が設けられたことは皆さんも御存知だろう。

明治37年に日露戦争が勃発、鉄鋼需要の増大を期に抜本的な改善が加えられ、同年7月に正常操業に漕ぎ着けた。これによって国内需要の一部を国産鋼で賄えるようになり(黒字経営は43年から)、大正3年には総供給高に対する国内生産量の比は銑鉄で64%、鋼鉄で44%に上昇した。第一次大戦前には八幡製鐵所の生産量だけで国内生産量の7割前後(銑鉄)、8割前後(鋼鉄)を占めるまでになった。大戦期には民間の製鉄所でも近代化が進み、生産量が増加したことで八幡製鐵所のシェアが下がる場面もあった(47%、51%)が、民間製鉄所は砂鉄を原料とする平炉が乱立した結果であって、本質的には八幡製鐵所の優位に変わりはなかったようだ。

大戦景気とその反動の不景気の時代を経て、昭和4年には国産銑鉄の63%、粗鋼の58%、鋼材の46%を八幡製鐵所製が占めるようになっていた。国産鉄の国内受給率も徐々に増加して、鋼材に関しては昭和7年に初めて供給が需要を上回り海外輸出をも行なっている。しかし銑鉄については昭和15年に自給率80%に達したのがピークで、それ以外はずっと60〜70%のラインで推移した。銑鉄は慢性的に不足気味だったのだ。これは民間製鉄所の多くが平炉しか持たない小規模なものだったからで(昭和7年で平炉20に対し高炉4)、自前で銑鉄から作るより、銑鉄や鉄くずを輸入して、それを原料に鋼鉄を作るほうが安上がりだったし、国内需要もそれで充分賄えていたのだ。

銑鉄の輸入先としてはインドや満州があった。特に満州には明治44年設立の大倉組本渓湖煤鉄公司、大正7年設立の満鉄鞍山製鉄所があり安定的な銑鉄供給元になっていた。くず鉄はアメリカからの輸入が大半を占め、他にインドからの輸入も多かった。こうした安価な鉄を原料に鋼鉄を製造し、需要を上回る生産が可能になっていたのだ。

ただし、原材料を海外に依存しなければならない状況は依然として不可避なもので、それが海外と価格競争をするうえでネックになっていた。海外にもひけをとらない製鋼能力をもち、充分に近代化がなされていた銑鋼一貫操業の八幡製鐵所はともかくとして、それより1桁も小さな生産力しか持たず、くず鉄輸入に頼っていた中小製鉄所が林立している状況は、日本全体の鉱工業にとって不安定要素だった。競争原理だけに任せていては弱小製鉄所の共倒れになる危険性もある。そこで国内の鉄鋼生産を一本化し「官民製鉄業を調和」することが考えられ、それは大正5年(1916)頃から検討されている。だから戦争激化による鋼材統制の一環として突如日本製鉄が出現したのではなく、その素形は第一次大戦前から考えられていたことになる。

大戦後の反動不況の頃、大正10年には「臨時財政経済調査会」が設けられ、製鉄所の合同、経営委託といった案が政府に答申されている。大正13年12月には鉄鋼業の国際競争力を高めるため「鉄鋼調査会」が設けられ、渋沢栄一団琢磨(三井財閥)、木村久寿弥太(三菱財閥)といった面々によって議論され、同様の趣旨の答申があった。これらは直ちに実現しはしなかったものの、後の「日本製鉄」設立に結びつくものとなった。

昭和に入ると、金解禁と世界恐慌の波及で製鉄会社は不況の底に落とされた。自力更生が難しいと見た各社の間で官民合同によって資本を守ろうとする気運が高まり、銀行もこれを支持。そして官民合同論者であった高橋是清が昭和7年に蔵相に就任すると話は急速に進展し、それで昭和8年3月の「日本製鉄株式会社法」の設立を見、翌年1月には資本金3億4000万円の「日本製鉄」創立になるのだ。

ただし、この新会社は当初の構想とは大きく異なる性質のものになった。日鐵に参加したのは釜石、輸西、三菱、東洋製鉄の4高炉会社と、富士製鋼、九州製鋼、大阪製鐵の3平炉メーカーの7社だけ。平炉メーカーのほとんどは景気好転を理由に参加しなかった。これら不参加メーカーは一種の「アウトサイダー」となって、政府が推し進めた「日鐵中心主義」政策と対立していく。

といった具合で書いてたらだだ長くなった・・・要するにだね、戦前の製鋼能力は平炉中心だったけれども、昭和9〜11年頃に高炉建築で一貫製鉄への転換が図られ、戦時中にピークを迎えるくらいに増強された。しかし製鋼能力に対して銑鉄生産が追いつかなくて、それが鋼材不足を決定づけた、ということを書かなければならない。

昭和14年に使用が許可制になって沈埋管の築造に影響が出だすころは、鋼生産量はまだまだ伸びつつあって、銑鉄は昭和17年に、粗鋼は昭和18年に最大となっている。けれども、これは軍需向けの高規格鋼が増えた結果であって、一般鋼材は昭和13年くらいから下降線をたどったとか。インド銑の輸入は金解禁の頃から下がり始め、15年にアメリカくず鉄が輸出禁止になるわけだが、(昭和12年の「製鉄事業法高」によって民間資本の高炉の建設を政府が後押ししていたものだから)それが必ずしも直接的な影響とはならなかったらしい。むしろ高炉用の原料が不足し、かつ急ごしらえで民間が扱いに慣れていなかったために、大陸産の低品位鉄鉱石から良質の銑鉄を取り出すのに苦労したことがつまづきになった。慢性的な銑鉄不足+高炉技術の不足+くず鉄不足→とても鋼不足という流れだ。

もう少し早くから高炉が普及していればまた違った流れになっていたかも知れない。しかし八幡以外は絶対的な生産量が小さく、終戦直前には休止状態だったところばかりだったから空襲の対象から外され、無傷で残った施設も多かった(高炉は徹底的に破壊されたが平炉や圧延工場などは残った)。そうした製鉄所が戦後の復興期にいち早く再稼働し、石炭・製鋼への傾斜生産方式の基礎になって、その後の鉄鋼業の飛躍に繋がっていくのだから、何が幸いするかわかったものでない。これは歴史の不思議とか綾とかいうよりも、その時の最善策にとことん注力して難局を乗り切り、剰え好転へ持っていった先人の偉さに敬服すべきところなのかも知れぬ。そのへんの、今に直結する歴史をすっ飛ばして教えられたことは色々と不幸なんじゃないか。

戦時中の鋼材統制については再度学ぶ必要があると思う。終戦直前の辺りがちょっとあいまいだ。まとめた本があるみたいなので今度読んでみたい。

[独言] 足の具合

G.W.で随分冒険をしたせいかしばらく痛みがひどかった。帰ってきてから1週間ほど足に響いていた感じ。どうもすっきりとは治らんな・・・としょげていた。

足の甲を裏表に捻るような動きに弱い。特に外側へ回す時に、小指の付け根とくるぶしの間の辺りに痛みが走る。なので不整地で土踏まずでものを踏むような動き(特に意図せず踏んでしまったとき)に痛む。びっくりして崩折れるくらいに痛む。

そうやって無理して動かしたせいか、最近は少し良くなってきた。以前は足首の関節(外側)に何かが挟まっているような違和感があって、普通に歩いている時でもそこが痛むことがあったが、最近はそれも意識しなくなって、以前と同じスピードで歩けてる気がする。前回の役員会で家をギリギリの時間に出てしまい、梅地下でいつのまにか早歩きで歩いていた。「Hall in One」に乗って歩けるのはよくなってきた証拠だと思う。思いたい。

あとはつま先立ちできるようになれば。と思ったら第2の困難が発生中。まったくnagajisの体は使い物にならない。さっさとポイしてしまいたい。

[独言] ホットケーキもどきを食う

夜中に目が覚め、とある動画を見ていて、無性にホットケーキが食べたくなった。考えて見れば昨日買った卵がある。小麦粉もある。これで適当につくっちゃろうと思ったら、棚にお好み焼き粉が残っているのを発見した。同じ粉もんやろということでこれでホットケーキを作ってみることにした。さすがにはちみつはなかったので買ってきたが(ローソンにあるとは!)。もしかしたらホットケーキミックスも置いていたかも知れぬ。まあいい。

卵を多めに入れたら膨らむじゃろと思って2個いれたんだが、一枚目はぺったんこのモチモチしたクレープのようになった。2枚目、小麦粉を足してやや多めに生地を入れて焼いてみた。こっちは上手くいったようだ。山芋出汁入りで少々奇異な風味になったが不味くはなかった。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ おろろん [ 本当に何が幸するかわかりません。戦前・戦中と質・量ともに不満足だった日本の高炉一貫製鉄が飛躍するその時期が技術革新による高炉・生産設備の大型化・自動化が進む時期と、それによる高品質製品の実用化に..]

_ 高橋ま [ホットケーキを意図したものが膨らまないのは、ベーキングパウダー(熱すると二酸化炭素を出し、気泡ができる)が入っていないせいではないでしょうか。クレープだと思えば、膨らまなくてもよいかも。 お菓子作..]

_ nagajis [以前なら単に戦争で鉄が足りなくなったとしか考えてませんでした。根っこがどうなってるか考えるのは楽しいですよね。>おろろんさん ベーキングパウダー、お好み焼き粉に入ってそうなのでおkと思いましたが..]


2011-05-30 [長年日記] この日を編集

[] 例規類纂第一巻・道路 民有の道路

すこし勘違いしていたところがあって、明治初期には官有でない道路という区分が確かにあった。すべての道が官有地だったわけではない。原文は後回しにして区分を表にするとこんなかんじ。

地券 地租 地方税
(区入費)
摘要
官有地 第一種
皇宮地(皇居離宮等)
神地(伊勢神宮山陵官国幣社府県社及び民有にあらざる社地)
但此地にある官舎を貸渡すときは借地料を賦すべし<八年七月二日第百十四号布告にて改正>
第二種
皇族賜邸
官用地(官院省使寮司府藩県(本支)裁判所警視庁陸海軍(本分)管其他政府の許可を得たる所用の地)

(府県所用地は×)
× × 但此地にある官舎を貸渡すときは借地料を賦すべし<八年七月二日第百十四号布告にて改正>
第三種
山岳給料林藪原野河海湖沼地沢溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有地にあらざるもの
鉄道線路敷地
電信架線柱敷地
照明台敷地
各所の旧跡名区及び公園等民有地にあらざるもの
人民所有の権理を失せし土地
民有地にあらざる堂宇敷地及び墳墓地
行刑場
× × × 但人民の願により右地所を貸渡すときは其間借地料を納しむべし
第四種
寺院大中小学校説教場病院貴院等民有地にあらざるもの
× × × 十二年九月十一日第三十四号布告にて改正。それまでは区入費を賦課する
民有地 第一種
人民各自所有の確証ある耕地宅地山林等
九年六月十三日第八十八号布告にて民有地第二種を第一種に合せ第三種を第二種と改正
第二種
(明治13年以降第一種に包含)
人民数人或は一村或は数村所有の確証ある学校病院郷倉牧場秣場社寺等官有地にあらざる土地 一人民数人或は一村或は数村所有の確証ある学校病院郷倉牧場秣場社寺等官有地にあらざる土地を云う
但此地売買は其所有者一般の自由に任すといえども潰地或は開墾等の如き大に地形を変換するは官の許可を乞うを法とす
第三種
(明治13年以降第二種に繰上)
官有にあらざる郷村社地及び墳墓地等
民有の用悪水路溜池敷堤敷及井溝敷地
公衆の用に供する道路
× × 「公衆の用に供する道路」は十三年十月五日第四十三号にて追加

ということで官有地の道路(官有地第三類)と民有地の道路(民有地第二類)とがある。ややこしい。しかも「民有地である公共の道路」という定義。地籍調査が始まった頃に所有者が不明確で官有地となったものや、民有地に新道を作り上地して、その対価として旧道敷を下げ渡された場合は官有地、下げ渡しがなかったり持ち主が民有地としておきたかった場合は民有地ということらしい。どのみち地租がかからないので、官有地か民有地かで異なる扱いが何か関係しているのだろう。官有地は官が勝手に弄る可能性があったとかなんとか。いや違うか、所有者が売買譲渡できるか否か、か。

つまり何が言いたいかというと、国道県道里道の他に「官有地の道路」「民有地の道路」という区分があって、後者は国県里道ではない「第四の道」として法的に存在したということで、意味的には私有道路に近い物だったということだ。在所の家々をつなぐ道とかがこれに相当するようだが、明治13年に改正された時にデフォルトでそうなった以外はその指定(民有地第二種への指定)に内務省伺を要したようだ。

こう書いてみると「何当たり前の事言ってんだksg」という気もするけれども、国県里道制の里道は解釈によってすべての道が含まれるように読めてしまう。この道はその後どういう扱いになったのだろう。明治22年3月22日に土地台帳規則ができて地券制度が廃止されたのでその頃に何か変化があったかも知れない。ちなみに現行法では「私道」は定義されていない。そういうのはみな民有地として扱われるのだったっけ。

〔指令〕内務省<十四年三月廿四日 新潟県伺>

明治十三年十月第四十三号公布地所名称区別中民有地第二種へ追加相成候公衆の用に供する道路の義区別上疑團を生じ候に付左に相伺候

第一条
町村内小路<仮令ば東西に二種の道あり其道より南北に通ずる横道或は甲乙二種の宅地あり丙の畑地を経ざれば通行するを得ざるに付畑地の幾分を道路潰地となすの類を云う>の如きもの元民地を潰し道路敷に変換するものを公衆の用に供する道路と定め民有地第二種へ編入可致ものに候哉
第二条
明治九年六月第六十号公達国県里道の三種とも民有地を潰し道路に変換するものを却て公衆の用に供する道路と定め民有地第二種へ編入可致ものに候哉
第三条
右の如く民地より道路に変換すると雖も旧道敷地を代他として無代下げ渡候ものは之を仮りに買上地と做し潰地は官有地第三種へ編入可致ものに候哉

指令<四月十一日>

人民に於ては官有地に入るるを欲せず県庁に於ては公衆の為めに欠くべからずと認むる道路に限り民有地第二種に編入すべし

但該道路は布告当日既設の道路にして地種未決定の分を専ら指したる〔一字不明〕に付将来止むを得ずして民有地第二種に編入せんとするものあるときは事情を具し伺出べし

〔指令〕内務省<十四年五月廿七日 新潟県伺>

地所名称区別の義に付本年三月廿四日相伺候所四月十一日付を以て御指令尚義團の廉左に相伺候

第一条
本年四月十一日御指令文に於ては官有地に入るるを欲せず県庁に於ては公衆の為めに欠く可らずと認むる道路に限り民有地第二種に編入候義と心得べし但該道路は布告当日既設の道路にして地種未決定の分を専ら指したる云々と有之国県里道等渾て公衆の用に供する潰地の類明治十三年第四十三号公布以前のものにして地種未決定の分は仮令[蕨−草冠]初民地を潰し地代金不下渡と雖も民有地編入の義請願無之分は無論官有地第三種へ編入するものと可相心得義に候哉
第二条
明治十三年第四十三号公布有之上は従来の民地を潰したる分地代金下付せざる国県里道其他耕路の如きは公衆の用に供するものに付右公布照準民有第二種へ編入当然の様被考候然るに本年四月十一日付御指令但書中将来止むを得ずして民有地第二種へ編入せんとするものあるときは事情を具し伺出可くと有之然るときは其精神のある所御明示相成度

指令<十二月二十七日>

第一条
伺の通
第二条
従来の民有地を潰し地代金を下付せずして公道に供したる者有之候わば其事実を具し地種区別の変更に伺出べし

〔単行書・例規類纂・第一巻 民有の道路〕

[] 例規類纂第一巻:地所名称区別

第二欵 地所名称区別

〔達〕<六年六月八日 第百九十四号>

田畑石高の称を廃し総て反別を以て換用すべし

〔布告〕<七年十一月七日第百二十号>

明治六年<三月>第百十四号布告地所名称区別左の通改定す

官有地

第一種
地券を発せず地租を課せず(区入費)を賦せざるを法とす<十二年九月十一日第三十四号布告にて(区入費)の三字を(地方税)と改正以下区入費の三字倣之>
一皇宮地
皇居離宮等を云
一神地
<伊勢神宮山陵官国幣社府県社及び民有にあらざる社地を云>
〔改〕第二種
地券を発し地租を課せず地方税を賦せざるを法とす尤も府県所用の地は地券を発せず唯帳簿に記入す<十二年九月十一日第三十四号布告にて改正>
〔改〕但此地にある官舎を貸渡すときは借地料を賦すべし<八年七月二日第百十四号布告にて改正>
一皇族賜邸 
一官用地
官院省使寮司府藩県(本支)裁判所警視庁陸海軍(本分)管其他政府の許可を得たる所用の地を云う
〔廃〕第二種
地券を発し地租を課せず区入費を賦するを法とす
〔廃〕但府県所用の地は地券を発せず唯帳簿に記入す
第三種
地券を発せず地租を課せず(区入費)を附せざるを法とす
〔改〕但人民の願により右地所を貸渡すときは其間借地料を納しむべし<十二年九月十一日第三十四号布告にて改正>
〔廃〕但人民の願いにより右地所を貸渡すときは其間借地料及び区入費を賦すべし
一山岳給料林藪原野河海湖沼地沢溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有地にあらざるもの
一鉄道線路敷地
一電信架線柱敷地
一照明台敷地
一各所の旧跡名区及び公園等民有地にあらざるもの
一人民所有の権理を失せし土地
一民有地にあらざる堂宇敷地及び墳墓地
一行刑場
〔改〕第四種
地券を発せず地租を課せず地方税を賦せざるを法とす<十二年九月十一日第三十四号布告にて改正>
一寺院大中小学校説教場病院貴院等民有地にあらざるもの
〔廃〕第四種
地形を発せず地租を課せず区入費を賦するを法とす

民有地

第一種
地券を発し地租を課し(区入費)を賦するを法とす
一人民各自所有の確証ある耕地宅地山林等を云う
但此地売買は人民各自の自由に任すといえども潰地開墾等の如き大に地形を変換するは官の許可を乞うを法とす
〔改〕第二種<九年六月十三日第八十八号布告にて民有地第二種を第一種に合せ第三種を第二種と改正>
一人民数人或は一村或は数村所有の確証ある学校病院郷倉牧場秣場社寺等官有地にあらざる土地を云う
但此地売買は其所有者一般の自由に任すといえども潰地或は開墾等の如き大に地形を変換するは官の許可を乞うを法とす
〔改正〕第三種
地券を発して地租区入費を賦せざるを法とす
〔改〕一官有にあらざる郷村社地及び墳墓地等を云う<八年七月二日第百十四号布告にて改正>
〔増〕一民有の用悪水路溜池敷堤敷及井溝敷地<八年十月九日第百五十四号布告にて追加>
〔増〕一公衆の用に供する道路
但其地形を変換するときは管轄庁の許可を請うべし<十三年十月五日第四十三号追加>
〔廃〕第三種
地券を発して地租区入費を賦せざるを法とす
一官有にあらざる墳墓地等を云う

〔単行書・例規類纂・第一巻〕

[] 明治11年地方税規則改正

特に言及することのないメモ。13年11月第48号は土木費下渡金の廃止。のはず。

〔布告〕<十三年四月八日第十六号>

明治十一年<七月>第十九号布告地方税規則左ノ通改正す

第一条
地方税は左の目に従い徴収す
〔改〕一地租三分ノ一以内<十三年十一月五日第四十八号布告にて改正
〔廃〕一地租五分一以内
一営業税並雑種税
一戸数割
第二条
営業税雑種税の種類(及制限)は別段の布告を以て之を定む<十五年一月廿日第二号布告にて及制限の三字を削る
〔改〕第三条
地方税を以て支弁すべき費目左の如し
一警察比
一警察庁舎建築修繕費
一土木費
一区町村土木補助費
一府県会議諸費
一衛生及病院費
一教育費
一区町村教育補助費
一郡区庁舎建築修繕費
一郡区吏員給料旅費及び庁中費
一救育費
一浦役場及難破船諸費
一諸達書及び掲示諸費
一勧業費
一戸長以下給料及戸長職務取扱諸費
一地方税取扱費<府県著うに属する為換方給料為換手数料現金輸送等の費用>
〔増〕一府県庁建築修繕費<以下三項十三年十一月五日第四十八号布告にて増加>
〔増〕一府県監獄費
〔増〕一府県監獄建築修繕費

以上費目互に流用することを許す

〔改〕一予備費<予算外に生れたる事件の費途及予算の臨時不足に充つる者(十五年十二月廿八日第六十九号布告にて改正)>
〔廃〕一予備費<予算外に生れたる事件の費途に充つるべきもの>
右の外特に費目の増加を要するときは府県会の決議を経て府知事県令より内務大蔵両卿に具状し政府の裁可を受くべし<十五年一月十日第二号布告にて第三条改正
〔廃〕第三条
地方税を以て支弁すべき費目左の如し
一警察費
一河港道路堤防橋梁建築修繕費
一土木費<府県に属する河港道路堤防修繕等の費用及区町村に関する同上の補助費(十四年二月十四日第五号布告にて改正)>
一府県会議諸費
一衛生及病院費
一府県立学校費及小学校補助費
一教育費<府県に属する教育の費用及び区町村立学校の補助費(十四年二月十四日第五号布告にて改正)>
一郡区庁舎建築修繕費
一郡区吏員給料旅費及庁中諸費
一救育費
一浦役場及難破船諸費
一管内限り諸達書及掲示諸費
一勧業費
一戸長以下給料及び戸長職務取扱諸費
一地方税取扱諸費<為替方給料為替手数料現金輸送等の費用(十四年二月十四日第五号布告にて追加>)
一府県庁舎建築修繕費<以下三項十三年十一月五日第四十八号布告にて増加>
一府県監獄費
一府県監獄建築修繕費

以上費目互に流用することを許さず

一予備費<予算外に生れたる事件の費途に充つべきもの(十四年二月十四日第五号布告にて改正)>
一予備費<予算外に生れたる不足に充つべきものを云う

各町村限及区限りの入費は其区内村内人民の協議に任せ地方税を以て支弁するの限にあらず

〔布告〕<十三年四月八日第十七号>

明治十一年<十二月>第三十九号布告地方税中営業税雑種税の種類及制限左の通改正す

〔改〕第一条
営業税を課すべき種類左の如し
 商業 工業

但国税あるものは課税の限にあらず<十五年一月廿日第三号布告にて改正>

〔廃〕第一条
営業税目左の如し其制限金十五円以内とす但国税あるものを除く
 会社 卸売商 仲買商 小売商 雑商
〔改〕第二条
雑種税を課すべき種類左の如し
料理屋待合茶屋遊船宿芝居茶屋飲食店の類
湯屋
理髪人
傭人受宿
遊芸師匠遊芸稼人相撲俳優幇間芸妓の類
市場
演劇其他興行遊覧所
遊技場<玉突大弓揚弓射的吹矢の類>
人寄席
船<艀船川船及五十石未満海船>車<馬車人力車荷積馬車荷積大七大八車荷積中小車荷積牛車の類>

 但国税の額を超過すべからず

水車
乗馬
屠畜
漁業採藻の類

但漁業税採藻税は各地従来の慣例により之を徴収すべし若し其慣例を改正し又は新税を賦課せんとするものは府県会の決議を経て府知事県令より内務大蔵両卿に具状し政府の裁可を受くべし<十五年一月二十日第三号布告にて改正>

(〔廃〕第二条省略)

〔単行書・例規類纂・第三巻/明治17年〕

[独言] 続:ホットケーキ

よく考えたらソースかけて食ったほうがエスニックな感じでいいんじゃね?という助言をいただき試してみたところ具のないお好み焼きそのものだった本当にあり(ry。というかそういう時に限ってふっくら膨らむのはどうしたわけか。砂糖をけちったからか。

次は刻みキャベツと天かすを入れ青のりをふったうえでハチミツをかけ食してみたい。

[独言] ああ

不忘是難有哉。しかし眠い。ddclientが動いてねえ。うえに蕁麻疹が悪化している。すこしまってください。

[独言] 自重

自重するという言葉は自らの身のこなしの重く軽やかならざりしことを覚って静かにすることから来ている。自重で身動き取れない状況に我が身を置くということである。大嘘である。どうにかしたい。

製麺業界は「スープを開けておいて湯を注ぐ」か「食べる直前にスープを入れる」かどっちかに統一してほしい。いつも悩む。浸透圧の関係でうまくふやけないとかそういう理由があるのか。液状スープならまだわからんでもないが粉スープでも先入れ派と後入れ派があるのはどういうわけか。きっとぐぐれば答えのあるはずの問いだがそうする気力もないのである。ドカッ。バキッ。アタシは死んだ。ホットケーキ(笑

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_ TUKA [旧街道が徐々に痩せ細って畦道状になり、ついには消えてしまった理由は私道だったからなのかなあ。 官有地に区分された部分は利用され続けるなり、放置されるなりして現代にも残った、と。 でも旧街道>畦道>..]

_ おろろん [ 家の前の道が江戸より前の参宮街道なのですが南の集落の中で街道が消失して家と家の間の水路(猫サイズ)になってしまった場所があります。そんな理由があるんですかね?]


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